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ミレーのはなし ⑥(終)

ファニアスが死罪覚悟でヴァルヴルガとの結婚を国王に願い出た日から数ヶ月後。

ミレーは王宮の下女を辞め、ファニアスと結婚したヴァルヴルガに従ってマルセリオ家の侍女になった。

馬車から降りて見上げたマルセリオ家の屋敷は、大国の宰相の一族のものとしては控えめだと聞いていたのに息を飲むほど立派な屋敷で、ミレーは急に不安になった。

読み書きも出来ないし礼儀作法も分からない。そんな自分が侍女。下女ではなく、侍女。

「あのう……本当にいいんですか?」

ヴァルヴルガに一緒に来ないかと誘われた時は嬉しくて『行きます!』と即答してしまったのだが、もっとよく考えるべきだった。もしミレーが客人の前で失敗でもすれば、主人であるファニアスやヴァルヴルガに迷惑をかけてしまうのではないか。

ヴァルヴルガは歴史ある屋敷の少し重厚な空気に委縮することなく、朗らかに答えた。

「ええ!ミレーあなたに傍にいて欲しいの。それにね…」

奥からヴァルブルガを迎えるために出てきた新婚の夫を、ヴァルヴルガは眇めて見やった。

「あの冷血漢は本当に信用できる人間しか雇わないんですって。だからこのお屋敷は万年人手不足。あなたには本来なら侍女がやらないようなお(はした)仕事を頼むこともあると思うの。その分お給金は上乗せするけれど……ごめんなさいね」

ミレーは首を振った。

「それはいいんですが……」

床磨きも洗濯も煮炊きも、そういうことは自信がある。けれど、自分に学がないことがミレーは後ろめたかった。

ミレーの不安を見抜いたように、ヴァルヴルガは優しく微笑んだ。

「礼儀作法や読み書きが出来なくても、あなたは自分を誇るべきよ。それだけのものをあなたはちゃんと持ってるわ。でも、あなたが望むなら作法も勉強も私が全部叩き込むわ。覚悟してね」

ヴァルヴルガの言葉に、ようやくミレーは心が軽くなって、にっこり微笑んだ




その年の冬の始め。リーナ妃がそれは美しい王子を生んだ。

アルバカーキ王は飛び上がらんばかりに喜んで、『ルトヴィアス』と名付けられた王子が泣いた眠ったといちいち大騒ぎだったそうだ。

「とんでもない美形だったわ!」

宰相夫人として、そして王太后の名代として、リーナ妃とルトヴィアス王子を見舞ったヴァルヴルガは、興奮気味にそう話していた。

「宝石の子は宝石って本当ね!」

「……もしかして蛙のことですか?」

ミレーの指摘を、ヴァルヴルガは華麗に無視して尚も叫んだ。

「赤ん坊って猿みたいじゃない!?違ったのよ!生まれて幾らも立たないのに、完璧に美形だったわ!!」

それから1年ほど遅れて、ヴァルヴルガは身籠った。

『赤ん坊が女なら、ルトヴィアスに嫁がせよ』と何とも気の早いことを言ってファニアスを困らせたアルバカーキ王の願いどおり、ヴァルヴルガが生んだのは、丸々とした元気な女の子だった。

「なんてかわいいんでしょう」

ミレーはヴァルヴルガが抱く赤ん坊のつぶらな瞳に一目で魅了された。

赤ん坊は猿、なんて言っていたヴァルヴルガも、小さな娘を愛おしそうに見つめて微笑んだ。

「アデラインと名付けたわ。乳母は一応おくけれど、基本的に私が自分の手で育てるつもりよ。あなたも手伝ってくれる?ミレー」

「私がお嬢様のお世話を!?いいんですか!?」

ヴァルヴルガは大きく頷いた。

「あなたがこの子の傍にいてくれるなら、安心できるもの」

ミレーは飛び上って喜んだが、ヴァルヴルガは少し複雑そうな顔をしていた。

後から知ったことなのだが、この頃、ヴァルヴルガがつかえていた王太后の具合が少し悪くなってきていたらしい。時折、老人特有の記憶障害を起こす王太后は、お気に入りのヴァルヴルガが傍にいないことで癇癪をおこし周囲を困らせていた。彼女を離宮にうつすという話が出ていて、そこにヴァルヴルガも同行して欲しいという話が出ていたのだ。『婆さん』とヴァルヴルガは王太后を少し邪険に呼んでいたが、ヴァルヴルガにとって、王太后は母親に近い存在だったようだ。

やがて、散々迷った末に、ヴァルヴルガは王太后にまた仕えることになった。行け、とファニアスが言ったのだという。心配いらないから、と。

「……お母様は、今度はいつお帰りになるの?」

離宮に向かう母親の馬車を見送るアデラインに、ミレーは寄り添った。

「お嬢様のお誕生日にはお帰りになりますよ。いい子にしてお待ちしましょうね」

「……うん」

「……お寂しいですか?」

「……ううん。ミレーがいるもの」

そう言って、アデラインはミレーの腰に手を回した。

まだ幼い少女が忙しい両親を困らせないようにと気丈に寂しさに耐える姿が、ミレーはいじらしくてたまらなかった。

待ちに待った8歳の誕生日。

けれどヴァルヴルガは王都に帰って来れなかった。王太后がひどい癇癪を起したのだという。

がっかりするアデラインのもとに、王宮から使者が訪れた。

アデラインは首を傾げていたが、ファニアスもミレーも、使者の訪れを事前に知っていた。

恭しく、ファニアスが使者を出迎える。

使者はアデラインの前に、羽毛がつまった豪華な四角い絹を差し出した。

その上には、クリスタルのビーズで刺繍された若葉色の小さな靴が置いてあった。




「ねぇ、ミレー。ルトヴィアス殿下は私とお人形遊びをしてくれるかしら?」

いよいよ明日はルトヴィアス王子との婚約式という夜。

なかなか寝付かないアデラインに、ミレーは手こずっていた。

「殿下は男の子ですから、お人形遊びはお好みにならないかもしれませんね」

「でも、お優しい方なんでしょう?」

キラキラと、アデラインの目は期待に輝いていた。

その瞳は、恋や結婚どころか、男女の区別も明確に分かってはいない。

勿論、婚約に付随する大きな責任など、自覚出来ているはずもない。

(大丈夫なのかしら……)

アデラインはいい子だ。

賢くて、素直で、まっすぐで。

けれど、少し気弱なところがある。そんなアデラインに『王妃』という立場は重すぎるのではないか。

アデラインが婚約するルトヴィアス王子は、『宝石の子は宝石』と言ったヴァルヴルガの言葉に違わず、その美しさを国中から讃えられていた。

10歳だというのに皇国の言葉の読み書きを習得し、その他の勉学も出来がいいらしい。馬術、弓術も得意で、彼を『神童』『聖サクシードの再来』と呼ぶ人も多かった。

「じゃあ、何をして遊ぶのが殿下はお好きなの?」

アデラインは困った顔をして首を傾げた。

その可愛い顔に、ミレーはつい吹き出してしまう。

「ミレー?」

「失礼いたしました。お嬢様があんまりかわいいものですから、つい」

アデラインにとって『婚約者』は、遊び友達と大差ないらしい。

「天馬を、見せて頂いたらどうですか?」

「天馬!?」

アデラインが、寝台の上に飛び起きた。

「ええ。お嬢様は天馬がお好きでしょう?頼んで、会わせて頂いたらどうですか?」

「そうするわ!ねぇ、天馬に乗れるかしら!?」

「どうでしょう?殿下の天馬は、まだ翼の生えそろわない仔馬だそうですから」

「きっと可愛いでしょうね!」

にこにこと、嬉しそうなアデラインにミレーは目を細めた。

幼く純粋な黒い瞳が、やがて淡い恋の色に染まることなど、ミレーは思ってもみなかった。






ルトヴィアス王子に恋をしたアデラインは、それまでにも増して努力を重ねるようになった。

礼儀作法はもとより、帝王学、経済学、歴史。ありとあらゆる努力を、アデラインは怠らなかった。

ところが、戦後、皇国に留学したルトヴィアス王子がアデラインとの婚約を解消すると言い出したことで、事態は一変。周囲はアデラインを嘲笑し、アデラインは自らの殻に閉じこもってしまったのだ。

(婚約なんて、いっそ解消してしまえばいい)

俯いて背中を丸めるアデラインを見て、ミレーはそう思った。

一族の中から婿を取った方がアデラインは幸せになれる。死んだオーレイの息子でありアデラインの従兄であるオーリオが、彼女に想いを寄せていることを、ミレーは知っていた。オーリオなら、アデラインを幸せにしてくれる。アデラインがまだルトヴィアス王子を想っていることは分かっていたが、その想いが報われないものなら、早く捨ててしまったほうがいい。

それとなくミレーはヴァルヴルガに相談した。アデラインをオーリオと娶せてはどうか、と。

ミレー以上にアデラインのことを心配していたヴァルヴルガは、ミレーに賛成して何度も夫に相談した。だが、ファニアスは譲らなかった。アデラインを王妃にする。それだけが亡き主君への償いなのだと、ファニアスは思っているようだった。

萎れた花のように部屋に閉じこもるアデラインを、ミレーは胸がつぶれる思いで世話をし続けた。

アデラインが可哀そうで、哀れで、愛しかった。

けれど、事態はそれからまた意外な方向へ転がり始めたのだ。

「オーリオがルトと仲が悪いのは……叔父様のことがあるからかしら?」

鏡台の前に座ったアデラインが、困ったように肩を落とす。

父親から知性的な黒い目と思慮深さを、母親からは栗色の髪と教養を与えられたアデラインは、もうすぐ18才。

忙しいファニアスとヴァルヴルガに代わって、ミレーは彼女を娘のように、妹のように世話してきた。それに応えるように、アデラインは素直に優しく育ってくれた。

ミレーはアデラインの艶めく栗色の髪を丁寧に櫛ですきながら、曖昧に微笑む。

「それは……どうしてそう思われるのですか?」

「叔父様は前王陛下に……ルトのお祖父様に殺されておしまいになったでしょう?だから、オーリオはルトを……というより王族を憎んでいるんじゃないかしら?どう思う?ミレー」

「さあ……どうでしょう」

ミレーは目を伏せ、アデラインの髪に軽く香油を揉みこんだ。すると部屋には甘い香りが漂い始める。

家族が大事だ、と柔らかく笑っていたオーレイは、もうこの世にいない。彼の息子のオーリオは、どちらかと言えば父親よりは伯父によく似た青年に成長した。オーリオの中で、王族に対するわだかまりがまったくないわけではないだろう。だが、ルトヴィアス王子とオーリオの関係が険悪な理由は、他にあるだろう。

鏡の中のアデラインを、ミレーは見つめる。アデラインはその視線に気付いて小首を傾げた。

「ミレー?何?」

「……いいえ。何でもございません」

ミレーは密かにため息をついた。

アデラインは、物事を少し複雑に考える傾向がある。だが、世の中の物事は、彼女が考えるより案外単純であったりする。

(原因は……間違いなくアデラインお嬢様でしょうね)

ルトヴィアス王子とオーリオの仲が険悪である理由、である。

アデラインの話によると、ルトヴィアス王子と彼の秘書官になったオーリオは、度々衝突しているらしい。あの優しく穏やかな王子様が秘書官と口論する図は思い浮かべるのが難しいが、本当にルトヴィアス王子とオーリオがいがみ合っているのなら、それはアデラインを巡る男同士の意地の張り合いに違いない。

数ヶ月前に、皇国に留学していたルトヴィアス王子が帰国した。

一度破談になりかけたアデラインとルトヴィアス王子がうまくいくはずがないと人々は噂しあったが、噂を裏切って、アデラインとルトヴィアス王子は二人で微笑ましい時間を過ごしている。

はたから見ていれば、政略的に結ばれる夫婦にはとても思えない。アデラインは気づいていないようだが、ルトヴィアス王子は間違いなくアデラインに恋をしている。

そんなルトヴィアス王子にとっては、アデラインに信頼され、ずっと彼女のそばにいたオーリオの存在は面白くないだろう。オーリオにしても、従兄として家庭教師として、守り大切にしてきたアデラインを、ルトヴィアス王子に横取りされる気分に違いない。

ルトヴィアス王子とオーリオがいがみ合うのは必然で、むしろ仲良くなるなんてありえないのだが、そこらへんがアデラインは全くわかっていないようだ。

アデラインは、ルトヴィアス王子から向けられる好意は婚約者としての義務的なものだと思い込み、オーリオからの好意は兄の妹への親愛だと勘違いしている。謙虚な彼女は、まさか自分がルトヴィアス王子とオーリオの双方から想われているなんて思いもしないのだろう。

ミレーは窓辺に飾った花をちらりと見た。赤橙色の花は、ルトヴィアス王子がアデラインに贈ってくれたものである。

(……困ったこと)

あの花がルトヴィアス王子から届いた朝。アデラインはとんでもないことを言い出した。ルトヴィアス王子のかつての恋人を探して欲しいと言うのである。

どうやら、アデラインはルトヴィアス王子がまだかつての恋人を想っていると考えているようだ。そして、その恋人をルトヴィアス王子のために探したいーーーつまりルトヴィアス王子とかつての恋人をまた引き合わせようとしている。

(本当に……お嬢様は色々と複雑に考えすぎなのだわ)

ルトヴィアスが皇国にいた頃に誰かに恋をしていたとしても、今彼が愛しているのはアデラインだ。アデラインを見つめるルトヴィアス王子の瞳のあの熱量。あれを恋と呼ばずして何と呼ぶ。誰よりルトヴィアス王子を見ているはずのアデラインが、何故分からないのだろう。

「だからね、ミレー。やっぱりオーリオは叔父様のことでルトを……」

アデラインはまだルトヴィアス王子とオーリオの関係について、真剣に悩んでいる。

「……大丈夫ですわ、お嬢様。仲が悪く見えるのは互いに遠慮せずに言い合えるからです」

「そうかしら……」

思案顔のアデラインに、ミレーは明るく笑って見せた。

「ええ、そうですとも。さあ、今日は髪はどうしましょう?天馬に乗るのなら、纏めた方が良いでしょうか?」

今日、アデラインはルトヴィアス王子に天馬に乗せて貰う約束をしているらしい。

内気なアデラインだが意外にも活発な面もあり、小さい頃から天馬に乗ることを夢見ていた。その夢が今日ようやく叶う。

でも、アデラインはますます困った顔をした。

「……迷惑じゃないかしら?」

「え?」

「議会はお休みだけど……ルトが忙しいことにかわりはないし、私との約束のために無理してたら……やっぱり次の機会にした方が……」

本当に、アデラインは色々考えすぎだ。そういうところは、アデラインの悪いところであり、良いところでもある。

ミレーは苦笑しながら、ため息をついた。

「殿下は乗せてくれるとお約束してくれたのでしょう?」

「うん。でも……」

「もし殿下が無理をなさっていたとしても、それはお嬢様のためではなく、ご自分のためだと思いますよ」

アデラインが考えるように、ルトヴィアス王子が今日の約束の為に多少の無理をしていたのだとしても、けれどそれは必ずしもアデラインの為ではない。ルトヴィアス王子自身がアデラインとの時間を持ちたかったからだろう。

だが、アデラインはミレーの言葉の意味が分からないようで、父親譲りの黒い瞳をぱちくりさせた。

「どういうこと?」

「とにかく、髪は邪魔にならない程度に纏めておきますね」

ミレーはにっこり微笑むと、アデラインの髪を結い始めた。






遠く、アデラインの歓声が聞こえる。

アデラインとルトヴィアス王子を乗せて高く舞い上がった天馬を見上げ、ミレーは目を細めた。遠目だが、アデラインだけではなくルトヴィアス王子も楽しそうに笑っていることが見てとれた。

「仲がよろしいこと」

「政略結婚には見えませんよねぇ」

ミレーの隣で、同じ様に天馬を見上げながらデオが呟いた。

アデライン専従の騎士である彼との出会いはあまりいいものではなかったが、ミレーは今では彼を弟のように思っている。彼の方もミレーを姉のように思っているのか、ちょくちょく話しかけてくるし、外出に誘われたりすることもある。先日、王都で流行っているお菓子を差し入れてくれたりもした。

そういえば、とデオがミレーに向き直る。

「お嬢様、最近殿下を愛称で呼び始めたじゃないですか」

「ああ、そうね」

「あれ、殿下が呼べと言ったみたいですよ」

「そうなの!?」

アデラインの性格を考えれば、婚約者とはいえ王子であるルトヴィアス王子を愛称で呼ぶなんて、おかしいとは思っていたのだ。だが、ルトヴィアス王子から促されたのなら納得だ。

デオは人指し指で、自らの鼻の頭をつついた。

「お嬢様が間違えて『殿下』て言うと、殿下はお嬢様の鼻を引っ張るんだそうです」

「殿下がそんなことを!?」

「ライルが見たみたいです」

「まああ……」

意外だ。そんな子供じみたことを、ルトヴィアス王子がするのか。

最近アデラインやデオから聞くルトヴィアス王子の言動が、どうもミレーが思い描いていた『完璧な王子様』像から、かけ離れている気がする。

いや、だからどうという身分ではミレーはないのだが……。

デオは、また空を仰ぐ。

「すんげー完璧な王子様だと思ってたんですが……何か可愛いですよね。あんたどんだけお嬢様のこと好きなんだって感じで」

「そうねぇ」

『あんた』など不敬にあたるが、ミレーは聞き流してやることにした。このデオは色々失言が多く、いちいち指摘していたら常に説教していなければならない。

「……ミレーさんは?」

ミレーはデオを見た。

彼は目を伏せて、少し頬を赤らめていた。風邪だろうか。

「私?私が何?」

「ミレーさんはこ、ここ恋人とかいないんですか?」

何故どもる。ミレーは笑った。

「私に恋人がいるかどうかなんて聞いてどうするの?」

「い、いや……いないのかなあ、て」

ボソボソと、デオは言う。

「恋人ねえ……」

ミレーは腕組みをして考え込んだ。

ミレーも、気づけば32才。10代後半が適齢期とされる世間から見れば、完全にいきおくれだ。

弟達はとっくの昔に全員結婚し、ミレーが捻出したお金で仕立て屋に弟子入りした妹は、そこの跡取り息子と結婚した。両親はまだ娼館で働いているが、子供たちも独立し、夫婦でのんびりやっているようだ。もうミレーが家族の為に働く必要もない。

探せばこの年でも嫁に貰ってくれるという人はいるだろう。だがミレーはそこまで結婚したいとも思っていなかった。恋物語を聞くのは好きだし、花嫁衣装にも憧れがある。誰かの妻になる人生も素敵だ。だが、ミレーの一番はアデラインで、それ以外のことは考えられない。一つのことしか考えられないのは、昔から変わらないのだ。

それに、努力の甲斐があってアデラインの結婚とともに、ミレーも王宮で女官として働けることになった。今はそれがとにかく楽しみなのだ。

「恋人よりアデライン様が大事だわ。結婚したら女官を辞めなきゃならないし」

ミレーが言うと、何故かデオは必死な形相でミレーに食らいついてきた。

「け、結婚しても続ける人もいるじゃないですか!」

「そんなの実家が裕福な人だけよ。子供を見てくれる人がいなきゃ」

大抵の女官は、王宮で働いているうちに結婚相手を見つけて、適齢期後半で結婚し、王宮から去る。結婚したら辞めなければいけないわけではないのだが、続ける女官は少数派だ。

「で、でも!夫婦で協力すれば大丈夫だと思うんです!子守りは雇わなきゃいけないかもしれませんが共働きなら経済的に余裕は少しあるし……っ!」

「そうねえ……」

確かに、夫の協力があれば、結婚しても女官を続けることは可能だ。だが、女性が外で働くのが当たり前の皇国ならともかく、このルードサクシードで妻の仕事に理解を示すような男がいるだろうか。

ミレーは、ふと我に返る。自分は一体何を真剣に考えているのだろう。

「デオ。女官に気になる人でもいるの?」

「え?」

デオは目を真ん丸にさせて、固まった。

ミレーは母親の気分でデオに詰め寄る。

「確かに貴方は女の子の扱いに慣れているみたいだけど、真面目に女官をしている()はちょとやそっとじゃなびきませんからね。丁寧に誠実に、粘り強く。わかった?」

「……は、はあ」

デオがおずおずと頷くのを見て、ミレーは満足して身を引いた。

「じゃあ、何かあったら呼んでちょうだい」

ミレーの頭の中は、アデラインとルトヴィアス王子が空から降りてきた時のことでいっぱいだ。

きっと喉が渇いているだろうから、お茶を用意しよう。天気がいいから庭に円卓を出して、そこでお茶にするのもいいかもしれない。アデラインが陽に焼けないように、大傘を用意しなければ。

あれこれ考えながら、デオを置き去りにしてミレーはスタスタ歩き始めた。

しばらく後、離れた場所にいたライルがデオに近付いて来て、ぽん、と、肩を叩く。

「ハッキリ言って……デオ、お前ミレーさんの眼中にすら入ってないぞ」

わなわなと手を震わせたデオは、相方の手を乱暴に振り払い、睨み付ける。

「いいや!諦めねえぞ!!8才差なんてひっくり返してやる!」

「お前年上好きだったんだな……」

「ミレーさんのいいところは年上(そこ)だけじゃないぞ!あの顔!性格!完璧だ!」

デオはミレーが去っていった建物を、勢いよく振り返った。

「『丁寧に誠実に、粘り強く』……」

呪文のように唱えて、拳をぐっと握り締める。

若い騎士が決意を新たにしているとも知らず、ミレーは鼻唄を歌いながら茶葉の選別をしていた。








それから数日後。

マルセリオ家に、ある人がミレーを訪ねて来た。客だと呼ばれ、ミレーが裏口に行くとその人はにっこりと笑った。

「久し振りねミレー」

髪には白いものがまじり、口元にも目元にも誤魔化しようがない皺がよっていたが、明るい笑顔と声は昔のままだ。

「……ダリアさん!!」

ミレーは思わずダリアに飛び付いた。

「探したんですよ!!今までどこにいたんですか!?」

ミレーがマルセリオ家の侍女になった後に、ダリアはある商人に身請けされた。例の、ミレーが王宮で働けるように口をきいてくれた人だ。ダリアがその人と結婚し、小さな商店の女主人になったらしいとミレーは両親から聞いていた。会いに行きたいと思っているうちに皇国との戦争がおこり、そのうちダリアの消息は分からなくなってしまったのだ。

「ほら、戦争があっただろ?あれで旦那の取引先がやられちゃって売掛金が回収できなくてさぁ。まあ、そんなこんなで旦那の田舎に帰ってたんだ」

「なら……なら手紙くらいくれても」

「私に字が読めるわけないだろう?」

怒ったようにそう言って、持っていた袋からダリアが取り出したのは、幼い日にミレーがダリアに送った手紙の束だった。

「返事書けなくて悪かったね。でも、あんたから手紙が来るの楽しみにしてたんだよ。読めないけれど、元気にしてるんだなってわかって。でも、娘がね」

ダリアは後ろを振り返った。

かつて、ミレーが王宮で下女として働いていた頃と同じ年頃の少女が、行き交う使用人達を珍しげに眺めている。

ダリアによく似た、賢そうな子だった。再婚した商人との間に生まれたのだろう。

その子を見て、ダリアは目を細める。

「末の娘さ。上に2人男がいるんだけど…とにかくあの子は出来が良くてね。字が読めるんだ。それでこの手紙を読んで、あんたに会いに行こうって」

「それで来てくれたんですね!」

「いや、悪いけどついでさ。また旦那が王都に店を出したからね。はい!チラシ!」

ダリアの差し出したチラシには、酒の種類と値段が並んでいる。どうやら酒屋らしい。

ミレーは笑いながらチラシを受け取った。

「安くしてくれますか?」

「この家のお嬢様が王子様のお妃になるんだろ?けち臭いことお言いじゃないよ!」

ダリアは肩を揺らして笑った。

「どうぞご贔屓に!」




終わりでーす。

2018.12.26 誤字を訂正しました。ご指摘ありがとうございました。

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