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ミレーのはなし ②


雨が降った翌日の床磨きは最悪だ。

泥がついた靴で誰もが歩き回った廊下は足跡だらけで、磨いても磨いてもきりがない。

「貴族様はいいよね。靴が泥だらけでも犬の糞を踏んでても、床を磨くのは私達なんだもん」

膝をつき、両手で持った刷毛で力一杯床を磨きながらメルサが言う。ミレーも同様に床を磨きながら、メルサの文句に頷いた。

「一度でいいからさあ『いつも床を磨いてくれてありがとう』て言われてみたいよ」

「貴族様が言うわけないよ」

「そうだよねえ」

にやりと笑いあう二人に、下女頭の厳しい叱責が飛ぶ。

「喋ってないで早くしな!ミレー!水を変えといで!」

「はぁい!」

首を竦めて返事をすると、メルサに悪戯っぽく目配せして、ミレーは汚れた水が入った桶を抱えた。水が入った桶は重くて、重いものを持つことに馴れているミレーでも、気を抜くとよろけてしまいそうだ。

早朝とあって廊下の人通りは殆どないが、あと一刻もすれば御前会議に出席する国王に挨拶をしようと貴族の面々が押し掛けてくる。それまでに仕事を終えなければと、ミレーは少し焦って曲がり角を曲がった。

「きゃあ!?」

曲がってすぐ、何かにぶつかりミレーは尻餅をつく。

桶が床に転がり、汚れた水があたりに飛び散った。

「やだ!汚れてしまったじゃない!」

その声にミレーが顔をあげると、若い女官が、濡れた自らの着衣を見下ろして顔をしかめていた。

どうやら彼女にぶつかってしまったらしい。

ミレーは真っ青になった。

(ど、どうしよう!)

女官が頭にかぶった花帽には背中にかかる長い垂布がついている。濃緑の制服も刺繍が細かく袖も長い。普通の女官ではない。王族や貴人の側近くに仕える身分の高い女官だ。

女官は、ミレーを上から睨みつける。

「どこを見て歩いていたの!?何てことするのよ!」

「ご、ごめ、じゃなくて……すいませんでしたっ」

ミレーは立ち上がり、頭を下げる。だが、女官の怒りは収まらないようだ。

「王太子妃殿下のお部屋に上がる時間に遅れちゃうじゃない!どうしてくれるのよ!」

「す、すいませ……」

廊下は徐々に人通りが増えてきた。人々はチラチラと横目でミレーと女官のやりとりを見て、通り過ぎていく。女官を加勢する人がいないかわりに、ミレーを庇ってくれる人もいなかった。

一緒に床を磨いていた仲間達やメルサが、少し離れたところで気の毒そうに此方を窺っているのが見える。下手にミレーを庇って、とばっちりを受けるのが怖いのだ。薄情だとは、ミレーは思わなかった。高位の女官の中には貴族の中でも指折りの名家の令嬢もいて、彼女達の多くは王族の妃や側室の候補者であることが多い。彼女達にかかれば、床磨きの下女に罰をあたえるどころか王宮から追い出すことだって簡単なのだ。

「ほ、本当に、す、すいませ……」

「この愚図!」

女官が手を振り上げる。

叩かれると、ミレーは目をかたく瞑った。


パン、とこぎみよい音が廊下に響く。


「……え?」

痛くない。

ミレーは目を開け、驚いた。

一人の女官が身を屈ませ、ミレーを抱き締めていた。

濃緑の制服。

ミレーの代わりに叩かれたらしい女官の花帽が、コロリと廊下に転がった。

その花帽にも、垂れ布が縫い付けられている。

彼女も高位の女官であるらしい。

「……相手は子供よ?」

低い声でそう言うと、ミレーを庇ってくれた女官は立ち上がり、踵を返す。

たっぷりとした栗色の髪が、彼女の動きにあわせて艶めいた。

顔は見えない。

この状況で彼女の顔を覗き込むほどの勇気は、さすがにミレーにはなかった。

「あ、あなた……」

ミレーを叩こうとした女官も、驚いて目を見開いている。

「じ、邪魔しないで!その下女は私の制服を汚したのよ!」

「子供相手に手をあげるの?」

「粗相をした者に仕置きをするのは当然よ!」

「なら貴女は、将来自分の子供が粗相をしても頬を叩くのね?」

「ええ!勿論よ!」

「その子が王位継承権を持つ王子でも?」

ミレーを叩こうとした女官が、びくりと肩を揺らす。

「そ、それは……」

「貴女、私が王宮に上がった日に言ったわね。『国王陛下の新しい側室になるのは私よ。貴女はお呼びじゃないの』て。ご丁寧に水までかけてくれたから、しっかり覚えていてよ」

ミレーに背を向けたままのその女官は、堂々と胸を張っていた。

(騎士みたい……)

仕事の合間に一度だけ騎士の馬上試合を覗いたことがある。

銀に煌めく甲冑は身に付けてはいないけれど、恐れるものはないと顔を上げる女官の姿は、槍を構えた騎士にそっくりだった。

「貴女が側室になるのなら、その子は王太子殿下に次ぐ王位継承権を持つ王子ではなくて?それとも可愛らしい姫君かしら?いずれにしても、王家の血を継ぐ大切な御子よ。その御子を叩くなんて……国王陛下が聞かれたらどう思うかしら?」

「……った、大した美人でもないくせに!」

負け惜しみのようなその言葉を、ミレーを庇ってくれた女官は一笑に伏した。

「補ってあまりある教養を誉めてくれたのならお礼を言うわ。ありがとう」

「……っ」

泥水に濡れた制服を引きずり、女官は小走りに行ってしまった。

ミレーを庇ってくれた女官は、自らの花帽を拾い、叩いて汚れを払っている。

その背中に、ミレーは恐る恐る話しかけた。

「……あ、あの……」

「こんなところにいた!ヴァルヴルガ様!」

女官が声を振り向き、ミレーはようやく彼女の顔を正面から見ることが出来た。

絶世の美女……ではなかった。

『大した美人でもないくせに』と罵られたように、その顔の造形は平凡の域を出ない。

けれど目元は悪戯小僧のように勝ち気そうで、夏の空のように青い瞳はキラキラ輝き自信に満ちている。

美人ではない、が目がはなせない。

「もう!探しましたよ!」

ミレーの遥か後方から走ってきたらしい女官は、ゼエゼエ言いながら自らの膝に手をつく。この女官は花帽に垂れ布をつけていなかった。同じ濃緑でも動きやすさを重視した簡素な形の制服は、下級の女官のものだ。

ミレーを庇ってくれた女官ーーーヴァルヴルガは、花帽をかぶりながら言った。

「なぁに?申し送りは終わったじゃない。夜番明けの私は晴れて自由時間のはずよ?寝ようが散歩しようが、私の自由」

「お気の毒ですが王太后陛下がお呼びです。ヴァルヴルガ様の入れた紅茶でなければ飲まないと」

「あの我が儘婆さんにも困ったものね」

「ヴァルヴルガ様!」

咎められてもヴァルヴルガは反省した様子はない。

輝く青い目が、同僚から逸れてミレーを捉えた。

「あなた、大丈夫だった?」

「あ、あ、ありがとうございました!」

ミレーは急いで頭を深く下げる。

すると、頓着しない声が降ってきた。

「ああ、いいのいいの。頭を上げて?あの女には水をかけられた仕返しがずっとしたかったの。私のかわりに泥水をかけてくれてありがとう。でも次からは気を付けて」

ヴァルヴルガはそう明るく早口で言うと、颯爽と歩き始める。

「それから、床磨きご苦労様。いつも綺麗で気持ちがいいわ」

ヴァルヴルガは、軽い調子だった。あまりに軽くて気負わない感謝の言葉は、ミレーの心に羽毛のようにふわりと降り立ち、そこを暖めた。

去っていくヴァルヴルガの姿に、ミレーは見いる。

背筋を真っ直ぐ伸ばし、両手を体の前でゆったり揃えて歩く彼女の頭上で、勿論花帽が揺らぐことはない。

制服の裾がひらめく様が、ため息が出るほど綺麗だった。

「……ニールドーソン家の御令嬢よ」

「え……え?」

気づけば、下女仲間達がミレーを囲むようにして立ち、そしてミレーと同様にヴァルヴルガの後ろ姿に見とれていた。

「……綺麗だねえ」

「歩き方が他の女官様とは違うよね」

「どこが違うのかわからないけどね」

「素敵だね」

「憧れるよ」

ミレーより少し年上の下女が、やはりヴァルヴルガを見送りながら、またミレーに教えてくれた。

「あのヴァルヴルガって女官様はニールドーソン家の御令嬢よ。王太后陛下のお気に入りの女官って聞いたことがあるわ」

「王太后陛下の……」

王太后といえば、かなり気難しいという噂だ。その王太后に気に入られているということは『補ってあまりある教養』と自ら言っていたのも嫌味ではなくて本当のことなのかもしれない。

「何でも国王陛下のご側室候補だとか……」

「ご側室?でも……」

国王とヴァルヴルガとは父娘ほど年が離れているのではないだろうか。

「さあ!仕事に戻った戻った!時間がないよ!」

ヴァルヴルガの背中が廊下の向こうに見えなくなった頃、下女頭が手を叩きながら下女達を促した。

「ミレー、片付け手伝うよ」

「あ、ありがと、メルサ」

床に広がった泥水を、ミレーとメルサは古い布切れで繰り返し拭う。

(側室になるのかなあの人……)

ミレーはもう一度顔を上げ、廊下の向こうを眺めたが、ヴァルヴルガの姿は勿論ない。

「……ねぇ、メルサ。私達も頑張ったら女官になれるのかな」

「下女あがりの女官なんていじめられるだけだよ」

「そういう人いるの?」

「いるって兄さんに聞いたことがある。でも凄く難しいんだって」

「ふぅん……」

ミレーは俯いた。

ヴァルヴルガの輝く瞳が忘れられない。

憧れが、むくむくとミレーの中で育っていった。

(私が女官になれたら……側室になったあの人にお仕え出来るのかな)

それは何だか、とても幸せな未来に見える。

けれど、字もまともに読めない自分が女官になれるはずもない。

膨らんだ憧れと厳しい現実に、ミレーはため息をついた。






ミレーはメルサや、年上の下女を捕まえては、ヴァルヴルガのことについて尋ねた。

「あんた、すっかりヴァルヴルガ様に夢中だね。まるで恋でもしてるみたいだ」

そう言ってミレーをからかいながらも、仲間達はヴァルヴルガのことについて色々と教えてくれた。

ヴァルヴルガが王宮に上がったのは、一年ほど前。

王太后は気難しく、お付きの女官の入れ替わりがとても激しいのだが、ヴァルヴルガのことはすぐに気に入って、以来片時もヴァルヴルガを離さないらしい。

「とても頭がいいらしいわ」

「それに気さくで」

「何だか格が違うもの」

「本当に憧れるわ」

下女達は口々にヴァルヴルガを褒め讃える。

ヴァルヴルガの煌めく青い目と、威厳とも言える堂々とした立ち居振舞いに魅了されているのは、ミレーだけではなかったようだ。

「あの話は聞いた?」

「あの話?」

ミレーが首を傾げると、その下女はにやりと笑った。

「ヴァルヴルガ様は実は国王陛下のご側室候補だって噂よ」

ミレーは頷いた。

「聞いたわ」

その噂については、随分と詳しいことをメルサが教えてくれた。

アルバカーキ国王には多くの側室がいて、彼女達との間に沢山の王女がいる。だが、王子はリヒャイルド王太子ただ一人だ。だが、そのリヒャイルド王太子は病弱で、静養のために離宮に滞在することが多く、大多数の家臣はリヒャイルド王太子が子供をもうけるのは難しいと考えているらしかった。

このままリヒャイルド王太子が即位すれば、後継者問題が表面化する。その為、神代から続く聖サクシード直系の王家の血筋を重んじる家臣達は、アルバカーキ王に新しい側室をあてがい、王子誕生を望んでいるのだそうだ。

(王太子殿下が新しいお妃様をめとられてまだ一年もたってないのに……)

偉い人達は随分とせっかちなようだ。

ミレーは王太子夫妻が気の毒に思えてならなかった。

まだミレーが娼館で働いていた時。婚礼を終えた王太子夫妻が、大聖堂の大塔の露台から顔を出すのを、弟達と見に行った。それは綺麗な花嫁で、ミレーは心から祝福したのに、あの時にはすでに『王太子に子供は生まれない』として国王の側室選びが進んでいたなど、おかしな話である。

ミレーが頷くのを見て、下女仲間も大きく頷いた。

「なら話が早いわ。アルバカーキ国王陛下は王太后陛下の女官になったヴァルヴルガ様をとても気に入られたの。『愉快な女だ』て」

「今すぐにもヴァルヴルガ様をご側室にしたいのだけど、王太后陛下がヴァルヴルガ様を離したがらないからやきもきしてるそうよ」

「それを聞いた他のご側室達や側室候補の方々がヴァルヴルガ様をやっかんで……」

下女達はもったいぶるように、互いに目をあわせた。

ミレーは身を乗り出す。

「それで?どうしたの?」

「嫌がらせの応酬ですって」

「部屋の前に虫の死骸をばらまいたり、制服を破いたり」

ミレーは胸を押さえた。

ひどいことをされて途方に暮れるヴァルヴルガの姿が目にうかび、いてもたってもいられない。

「そんな……王太后様や王様は助けてくれないの?」

「助けないわよ。だってヴァルヴルガ様はケロリとしているんだもの」

「え……」

ミレーは言葉を失った。

シクシク泣いていた想像の中のヴァルヴルガが、箒を出してきて虫の死骸をさっさと片付け始める。

「やりかえすこともあるんだとか」

「さすがよねえ」

「……」

箒で虫の死骸を集めたヴァルヴルガは、それを塵取りにいれると、ミレーが顔も知らない側室相手にばらまき始めた。悲鳴を上げる側室を見て高笑いしている想像上のヴァルヴルガを、ミレーは手で払って霧散させる。

(……まあ、そうだよね)

あのヴァルヴルガが、嫌がらせなんかに大人しくやられているはずがない。

(さすがヴァルヴルガ様!)

ヴァルヴルガの武勇伝に、ミレーは心を踊らせた。自分のことでもないのに、誇らしくてたまらなかった。


ミレーとヴァルヴルガとの二度目の出会いは、それから数日後のこと……。










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