第五十話 花言葉
目をさますと見慣れた天井と、蜂蜜色の天幕が目に写った。アデラインが王宮に賜っている部屋だ。
――…私…。
ルトヴィアスに助け出された覚えは確かにあるのに、それが夢のように感じられて、アデラインは不安になった。
――…ルトは…?
ルトヴィアスの姿を探して視線を回すと、アデラインが見ていたのとは逆側に、すぐ彼を見つけた。
握りあわせた両手に額を預けている為、表情が見えない。まるで祭壇に祈りを捧げている聖職者のようだ。
眠っているのだろうか。身じろぎ一つしない。
糸のような彼の髪に触りたくて、アデラインは手を伸ばした。
――…触ったら…目が覚めてしまうかも…。
ルトヴィアスの目が、ではない。アデライン自身が夢から覚めて、またあの暗く寒い部屋に一人でいるのではないかと思うと、恐ろしくて手が止まる。
それでも、鈍く光るその髪に、触りたいという欲求には抗えなかった。 赤子にするように、そっと指先で髪をすくと、はじけるようにルトヴィアスが顔を上げる。
「…アデライン?どうした?」
一瞬、目の焦点が合わなかったところを見ると、やはり眠っていたらしい。ルトヴィアスの目は充血していて、目の下にはうっすらと隈まである。随分と疲れた様子が、妙に艶かしかった。
「………」
おかしい。夢から覚めると思ったのに、覚めそうもない。
「……現実…?」
尋ねると、ルトヴィアスが笑った。
「夢じゃない。お前はここにいるよ。王宮に…俺の傍に」
「……よかった…」
ほっと、胸を撫で下ろす。上掛けの温もりや柔らかさが、ようやく現実を持ち始めた。すると、体のあちこちが痛みを訴えはじめ、アデラインは顔をしかめる。
ルトヴィアスの長い指が、アデラインの頬をそっと包んだ。殴られた頬には湿布がされている。ルトヴィアスの顔が、まるで自分の痛みを耐えるように歪んだ。
「…痛むか?」
アデラインは小さく首を振る。
「大丈夫…」
痩せ我慢だということは、きっとルトヴィアスにばれているだろう。けれどルトヴィアスにこれ以上心配をかけたくなくて、アデラインは嘘をついた。
ルトヴィアスの手が、アデラインの額に移動する。少し冷たいその手が、ひんやりして気持ちいい。
「…まだ微熱があるな…」
一人言のように、ルトヴィアスが言った。
「ごめんなさい…迷惑かけて」
アデラインが謝ると、ルトヴィアスは首を振った。
「お前が悪いわけじゃない」
「……ルト」
「ん?」
「…婚約…解消してくれた?」
ルトヴィアスの表情が硬くなる。
――…早く…しなきゃ…。
アデラインが拐われてから幾日たったか定かではないが、とにかく早く婚約解消をして、ビアンカをマルセリオ家の養女に迎える手続きをとらなくては。早くしなければ、婚礼に間に合わない。
「…どうしても解消したいのか?」
絞り出すようなルトヴィアスの声に、アデラインは頷いた。
「お願い…」
心の中で何かが泣いたが、アデラインは無視した。
――…自分で決めたことよ。
これでいいのだ。これで、ルトヴィアスとビアンカは結婚できる。二人の幸せな姿を心から祝福出来ない自分は、どこか遠い地に行こう。
「……そうか……」
アデラインを静かに見つめていたルトヴィアスが、突然、思い切ったように立ち上がった。
「ルト?」
「聞いてほしいことがある」
「え?」
今更、一体何を聞けと言うのだろう。
何を聞かされるのかと怯えるアデラインにはかまわず、ルトヴィアスはすたすたと寝台を挟んで反対側にある棚まで歩き、何か手に取った。
「……お前らしいな、こんなものとっておくなんて」
ルトヴィアスの口元が、穏やかに綻ぶ
――…何のこと?
アデラインはルトヴィアスの手元を見た。
彼の手にしていたのは、赤い表紙の本だった。拐われたあの日、床に落としてそのままになった、あの本だ。
「……それ」
「ミレーが拾ってくれたらしい」
手渡されたその本を、アデラインは慌てて腕の中に抱きしめた。
――…金英花の押し花……。
大切な大切な秘密の宝物として、ルトヴィアスへの想いと一緒に、密かに抱き続けていくつもりだったものだ。
それが胸の中に戻ってきたことに、アデラインは心から安堵した。
「ありがとう…」
ルトヴィアスは寝台に腰かけると、少し憮然として言った。
「できれば手紙は捨ててくれ。『庭に咲いていた』とか、我ながらもうちょっと気が利いたことを書けなかったのかと情けなくなる」
「ダメよ…」
アデラインは小さく笑った。
ルトヴィアスからの最初で最後の手紙だ。老いて人生を終えて、墓場の下まで持っていこうと決めている。
「……その花の……」
ルトヴィアスの声が、微かに震えていた。まるで緊張しているかのように。
「金英花の花言葉を、知っているか?」
アデラインは驚いて、ルトヴィアスの顔を見返す。
ルトヴィアスは、声と同じように緊張した面持ちで、アデラインを見つめていた。
「…花…言葉?」
「そうだ。金英花の花言葉は…」
ルトヴィアスの唇が言葉を紡ぐのを、アデラインは信じられない思いで見守った。
花を贈られた時、ルトヴィアスは花言葉を知らずに、自分にこの花を贈ったのだとばかりアデラインは思っていた。 でも、本当は知っているのかもしれないとも思ったのは、いつのことだったか。
「――…『消えない想い』」
呼吸がうまく出来なくて、アデラインは胸を押さえる。
――…やっぱり、知っていたんだ。
花言葉を知っていて、ルトヴィアスはアデラインに金英花を贈ったのだ。
ビアンカを忘れられないと、アデラインに伝えるために…。
「…そう…」
アデラインの唇が震えた。
「やっぱり…」
「やっぱり?」
「ビアンカ様が忘れられないんでしょう?」
「…どうしてそうなるんだ?言ったはずだぞ?ビアンカとはもう何でもないと。妃はお前一人だと」
「…聞いた…けど…」
けれど、それはアデラインへの償いのつもりだったのではないのか。アデラインの心のうちを読んだように、ルトヴィアスが言った。
「俺が罪悪感から言ったとでも?それとも同情や…義務感か?」
「…違うの?」
「…違う」
ルトヴィアスが、絶望したように呻いて俯く。手を額にあてて、ぼそぼそと何事かを呟いた。
「…まさか本当にオーリオの言うとおりだったのか…」
「え?」
アデラインが訊き返すと、自棄という様子でルトヴィアスは顔を上げる。
「通じてないとは思っていなかった、と言ったんだ。俺の気持ちを知っていて、その上でお前は…俺に応えてくれないのだと、そう俺は思ってた」
「わ、私が…?」
「…金英花の花言葉を知った時。何て女々しい花言葉だろうと思った…けれど俺に相応しいとも思った。…お前が俺を想ってくれなくても、それでも…俺のお前への想いは消えないから」
「…私への想い…?」
これではまるで、ルトヴィアスがアデラインに片想いをしていたように聞こえる。片想いしていたのはこちらの方だ。どれだけ泣いたと思っているのだ。口をひらきかけ、けれどアデラインは何も言えなくなった。ルトヴィアスの瞳が、あまりに、痛々しいほどに、切実だったからだ。
「お前は…妃として完璧だった。だから俺は…それ以上を求めまいと思った。求めるのは俺の我が儘だから…。お前が俺の妃として傍にいてくれればいいと」
「………」
『これ以上求めまい』。同じようなことを、アデラインも思っていなかったか。ルトヴィアスが、アデラインを大切にしてくれる。恋人のように扱ってくれる。時には、国益や義務より優先してくれた。それで充分だと、愛されたいなど望んではいけないと。
同じことを考えていたのだろうか。すぐ隣にいて、二人で同じことを、けれど別々に考えていたのだろうか。
「…ルト…」
「…けれど最近は…期待して、いた。お前の眼差しが、あんまりにも…俺を追いかけてくれるから。……お前の中での俺の立ち位置が…単なる『政略結婚の相手』とは違うんじゃないかと期待して……してはいけないと、自分に言い聞かせていた」
ルトヴィアスが視線を落とす。長い睫毛に、アデラインは見とれた。
この人が欲しくて、どれだけ苦しんだだろう。同じように、彼も苦しんでくれたのだろうか。アデラインを想って、胸を掻きむしることがあったのだろうか。
ルトヴィアスの瞳が、またアデラインをとらえた。本を抱きしめるアデラインの手に、ルトヴィアスの右手が重なる。
ルトヴィアスの唇が次にどう動くのか、アデラインは固唾を飲んで見守った。
「―…愛してる」
その響きに、アデラインの全身が震える。
アデラインが聞き逃したとでも思ったのか、ルトヴィアスはもう一度言った。
「アデライン。愛してる」
歓喜が、心に押し寄せた。
その一方で、『嘘だ』と臆病な少女が、アデラインの中で叫ぶ。信じてはいけない。また傷つく、と。
アデラインはその少女に頷いた。信じてはいけない。もう傷つくのは嫌だ。
「…嘘よ」
「アデライン?」
「だって…私見たわ。ビアンカ様と貴方が…オーリオの部屋で会ってた」
ルトヴィアスの表情が硬くなる。
「…見てたのか?」
「本当はビアンカ様のことが忘れられないんでしょう?でも私が可哀想だから傍にいてくれるんでしょう?そんな同情いらない!そんな気持ちで傍にいてくれても…嬉しくない!つらいだけよ!」
「だから婚約を解消すると言い出したのか?」
アデラインの手を握るルトヴィアスの手に、力がこもる。それをアデラインは力いっぱい振り払った。
「そうよ!だって…」
「ビアンカには謝った!」
「…あ、謝ったって…」
ルトヴィアスが俯く。
「俺は……俺は寂しくて…弱くて…だから誰かに傍にいて欲しかった。誰かに傍にいて欲しくて……あいつが俺を想ってくれることに付け込んで、あいつを利用した」
「…何を言ってるの?」
信じられない言葉を聞いた気がした。そんなはずはない。そんなはずはないのだ。
「だから、ビアンカには謝った。ビアンカの人生を滅茶苦茶にしたことを。何も償えないことを。…俺には謝ることしか出来ないから」
ルトヴィアスが、顔を上げる。
「俺は、ビアンカを愛してない。今も…昔も」
「…」
嘘を、言っているようには見えなかった。
でも臆病な少女が、アデラインの耳を塞ぐ。
「…嘘。だって…貴方がビアンカ様の名前を呼ぶのを聞いたの…『ビビ』って寂しそうに…」
ルトヴィアスは眉をしかめた。
「…いつ?どこで?」
「…晩餐会の…後。貴方がオーリオの首を絞めた日…」
「…」
考え込んでいるルトヴィアスの顔には、全く思い出せないと書いてある。本当に彼は思い出せないのだ。
聞き間違えだったのだろうか。いや、そんなはずはない。けれどルトヴィアスが忘れてしまうほど、それは些細なことだったのだ。その些細なことに、今までこだわっていた自分が馬鹿らしくなり、アデラインは大声で笑いたくなった。なのに、目からは涙がこぼれた。
「…恋人に…会いたいんだなって…思ったの。だから私、ミレーに頼んでビアンカ様を探してもらって…」
「何?」
怒ったのか、ルトヴィアスの声がやや荒くなる。
「お前、そんな勝手なことを…」
「だって!それくらいしか出来ないと思ったの!私が貴方にしてあげられるのはそれくらいだって、そう思ったの!」
「俺が愛してるのはお前だ!」
ルトヴィアスが怒鳴った。
今にも泣きだしそうな顔で、痛みに耐えるように、彼はもう一度言った。
「…お前だ。アデライン」
臆病な少女が、その切ない声に顔を上げた。耳を塞いでいた手を、そっとおろす。
ルトヴィアスが、しばらく目を閉じて呼吸を整えていた。
そして意を決したように、瞼をあげる。
「…俺はお前を振り回して、傷つけた。お前が俺の言葉を信じられないのは当たり前だ。無理に信じろとは言わない。それでも…俺は言い続ける。お前を愛してると。お前が信じるまで」
まっすぐなその視線が痛い。いつだって彼のまなざしはアデラインの心を射抜く。
「一生かかっても、お前に信じさせてみせる」
強い言葉に、アデラインは呆然とした。
碧の目に、熱がこもっている。
――…いつから…。
いつからだろう。アデラインを見るルトヴィアスの目に、この熱を感じ始めたのは。
――…あの頃…。
赤い本を抱きしめる手に、アデラインは力を込めた。
『消えない想い』。
それは、ビアンカではなくアデラインへの想いなのだと彼は言う。そのうえで、金英花を贈ってくれたのだと。
花を贈られたのは、初めて口づけした日の次の日だ。あの頃には、ルトヴィアスはもう、瞳に熱を宿していたのだろうか。いや、アデラインが気づかなかっただけで、もしかしたら、もっと前から…。
心の奥底で密かに思い続けた日々。
ルトヴィアスがビアンカを愛していると思い込んで、傷ついて、婚約解消を願い、それでも消えなかったルトヴィアスへの想い。
つらかった。その想いを抱えているだけでつらくて、苦しくて…。そんな心の痛みが、溶けるように過去になっていく。
痺れる唇を、アデラインはどうにか動かした。
「……知ってたわ」
「え?」
「花言葉」
ルトヴィアスが、僅かに驚いた。
「知ってたのか?」
アデラインは頷いた。
「貴方は…知らずに贈ってくれたのだとばかり思っていたの。でも…私に相応しい花だと、ずっと思ってた…」
目にまた溜まり始めた涙を、アデラインは必死に堪えた。泣きたくなかった。ルトヴィアスの綺麗な顔を、今こそまっすぐに、はっきりと、見ておきたい。
「貴女がビアンカ様を想っていたとしても…それでも私の想いは消えないから…」
悪夢の中、決して振り向いてくれなかった背中。あの背中が見つめる先は、もしかしたらアデラインだったのかもしれない。
「アデライン…」
「貴方が好きなの」
ルトヴィアスは、何故か怒ったように顔を歪ませた。
「…今、何て言った?」
アデラインは、子供に言い聞かせるように、ゆっくりと発音した。
「…貴方が好き」
「…もう一度」
「…ルト」
痛む頬は、けれど自然と微笑む。
「愛してるわ」
「………っ」
奪うようにアデラインは口づけられた。何度も何度も、離れては口づけ、離れては口づけを繰り返す。
――…まるで今までの私達のようだわ。
甘くて深い口づけに溺れながら、アデラインは思った。心が近づいたと思えばすれ違い、また近づいたと思えば仲違いを繰り返した。
――…でも、もう…。
「…やっと手に入れた…」
耳元で聞こえた噛み締めるようなルトヴィアスの声音に、我慢していた涙があふれだす。痛いほどに抱き締められ、骨が折れるかと思った。折れてもかまわない、とも。
「…アデライン」
ルトヴィアスが身を起こす。アデラインの両頬を手で包み、他には何も見えないというふうに、黒い瞳を覗きこんだ。
「ルト?」
「俺と結婚してくれ」
強い声に、涙がとまる。
こんな日がくるなんて、思ってもみなかった。答えは、幼い日からきまっている。
「喜んで…」
答えごと、アデラインの唇はルトヴィアスに飲み込まれた。