第四十九話 悪夢
まるで時間がゆっくり流れるようだった。
アデラインは驚きに目を見開く。
「…ル…ト……」
名前を呼ばれた碧眼には、みるみるうちに怒りがみなぎっていく。
「…その…っ汚い手をはなせ!!」
その姿は咆哮する獅子を思わせた。
獅子は跳躍するや、手にしていた剣で男の一人を一突きにする。返り血を浴びるその姿すら、アデラインには気高く見えた。
「お、王子だ!殺せ!」
メロウズが剣を抜こうとするも、ルトヴィアスが素早く振り下ろした剣によって指を切り落とされ悲鳴をあげた。
剣術は苦手だと言っていたのに、ルトヴィアスの剣筋には迷いも乱れもない。ルトヴィアスはアデラインの上に乗っていたメロウズを、泥に汚れた革靴で蹴り飛ばした。
「アデライン!」
這っていたアデラインは、ルトヴィアスに抱えあげられるように助け起こされ、そのまま抱き締められる。
いつものルトヴィアスの香りではなく、雨の匂いがした。
「……ル…」
声が掠れて、彼の名前を呼べない。ルトヴィアスの髪や外套はぐっしょりと濡れていたが、濡れた服越しに体温が感じられて、冷たいとは思わなかった。
「くっ、くそ!」
ルトヴィアスの背後で男が落ちていた剣を探り当てる。危ない、と叫びたいのに声が出ない。庇おうにも体が動かない。
――…ああ、ダメ!
けれど瞬きの後に飛び散った血しぶきは、ルトヴィアスのものではなかった。
背後から刃に突き刺され、男は声もなく床に倒れて動かなくなる。
その後ろに騎士団長が立っていた。
「殿下!」
「入ってくるな!」
ルトヴィアスが叫んだ。
「…入ってくるな」
アデラインを抱きしめるルトヴィアスの腕が、小刻みに震えている。寒いのだろうか。ならすぐに温めてあげなくてはと、アデラインはルトヴィアスの背に手を回すが、その自分の手がルトヴィアス以上に震えている。
それを見ていた騎士団長が、何かしらを察したように、軽く頭を下げた。
「迎えの馬車が参りましたらお呼びします」
「…」
ルトヴィアスはただコクリと頷いた。
騎士団長が命じると、数人の騎士が虫の息で喘ぐ男達と、のたうち回るメロウズを部屋から引っ張り出していく。閉められた扉のむこうで、デオや聞きなれた第三部隊の騎士達の声がした。約束どおり、彼らはアデラインを助けに来てくれたのだ。
「俺は…」
声が、明らかに戸惑っていた。訊いてよいのか迷いながら、けれど確かめずにいられないと言う風に。
「…俺は間に合ったのか?」
ルトヴィアスが暗に何を聞いているのか、アデラインは理解した。破れたドレスを、両手で掻き合わせる。
「…舌を」
「え?」
「噛み切ろうと…」
「馬鹿なことを!」
ルトヴィアスが怒ったように言うのに、アデラインは力なく頷く。
「そうね、馬鹿だわ。でも…貴方以外の人に触られるくらいなら…その前に…て…思ったの…」
ルトヴィアス以外の男に触られるくらいなら、死んだほうがましだった。迷いはなかった。ルトヴィアスが飛び込んでくるのが少しでも遅かったら、今アデラインは生きてはいなかっただろう。
「…すまない。馬鹿なのは俺の方だ」
ルトヴィアスはまるで子猫をそうするように、アデラインを両腕の中にすっぽりと抱え込んだ。アデラインは目だけで彼を仰ぎ見る。そのぼんやりした視線を、碧の瞳は力強く受け入れてくれた。震えが、少しずつおさまっていく。
「…お前が息をしている。俺の声に応える。だから俺はちゃんと間に合ったんだ」
そうよ、貴方は間に合った。助けに来てくれてありがとう。
感謝が言葉になったのか、確認する術ももたず、アデラインの意識は闇に沈んだ。
その後のことは、アデラインは後々にミレーに知らされた。
アデラインは、殴られた頬が紫色に腫れ上がり、腕には切り傷、腹と背中には鞘の痕がくっきり残る内出血を負って、まさに満身創痍だったのだと言う。更には精神的なショックの為か、高熱でうなされたそうだ。
「アデライン…っ」
「アデライン。可哀想に…」
夢現に、宰相が頭を撫でてくれたり、宰相夫人とミレーが泣きながら看病してくれたのはぼんやりと記憶がある。
リヒャイルド王やリオハーシュ夫人も見舞ってくれたそうなのだが、覚えていない。
熱のせいか、アデラインが見るのは嫌な夢ばかりだった。
友人だと思っていた人達に、容姿を嘲笑されるものだったり、監禁された部屋で、薄汚れた手に足首を掴まれた夢を見たときは、悲鳴をあげて助けを呼んだ。
「ルト!!助けて!!ルト…っ」
「ここにいる!大丈夫だアデライン!」
ガタガタ震えるアデラインを、ルトヴィアスはしっかり抱き締めてくれた。
「もう大丈夫だ。アデライン」
アデラインの背を、ルトヴィアスが優しく撫でてくれる。
アデラインが悪夢に泣いて起きるたびに、ルトヴィアスはアデラインが落ち着くまで長いことそうしてくれた。その手があたたかくて、そしてルトヴィアスの肩越しに、心配げな母親とミレーの姿を見つけて、アデラインは安心してまた目を閉じる。
けれどその後見た夢は、更に悪い夢だった。
ルトヴィアスが、アデラインに背を向け去っていくのだ。
ルトヴィアスを呼びとめたくて、けれど声が出ない。
胸が潰れるように苦しくて、目から涙が溢れ出る。
『待って。ルト、待って』
嗚咽の中から、必死に言葉を絞り出すが、ルトヴィアスは振り向かない。
頬を流れる涙を、何かが優しく拭ってくれる感触で、アデラインは目を覚ます。
そこには、アデラインを心配そうに覗きこむルトヴィアスがいた。
「…ルト…」
「ん?」
ルトヴィアスが、優しく笑って応えてくれる。
「悪い。起こすつもりはなかったんだが…」
柔らかい布を、ルトヴィアスはアデラインの目元にあてて涙を拭き取ってくれた。
看病の為か天幕は上げられたままで、薄明るくなった室内が見える。もうすぐ夜明けだなと、アデラインはぼんやりと思う。母親やミレーの姿は見えない。
「何か欲しいのか?ミレーを呼ぶか?」
目をさ迷わせるアデラインに、ルトヴィアスが密やかに尋ねる。
甘やかすような優しい口調に、アデラインは口では答えず、小さく首をふった。
上掛けの中から手を出すと、ルトヴィアスの美しい手が、いたわるように包んでくれた。
優しい、温かい手だ。
目を閉じると、瞼に押し出された涙がまた零れて、耳に伝う。
「………き」
「え?」
――…好き…。
アデラインは目を開けた。ルトヴィアスは、困ったように首を傾げている。
「今、何て言った?何が欲しい?水か?」
「………」
答えないアデラインに、ルトヴィアスが痺れをきらしたように体を乗り出した。アデラインの口元に耳を寄せて、アデラインの呟きを拾おうとしている。
「アデライン?」
「……」
瞼が重くなってきた。意識がフワフワとしてままならない。眠くて眠くてたまらないのだ。
――…次に目が覚めたら…。
その時、自分は何者なのだろう。まだルトヴィアスの婚約者なのだろうか。そうであったなら、ちゃんと婚約解消をしてもらわなくてはいけない。優しい彼を、早くビアンカに返してあげなければ。
けれど、手を離したくなかった。
今だけ、次に目が覚めるまで、とアデラインは自分に言い訳をし、ルトヴィアスの手を握りしめる。
ルトヴィアスがそれに握り返してくれたことで、アデラインの体から力が抜けていった。
やがてうとうとし始めたアデラインの様子に、ルトヴィアスは掛布を整え、そしてその長身をもう一度かがませ、アデラインの瞼に唇を落とす。
「寝ろ。大丈夫だ。もう悪い夢は見ない」
「……」
その言葉どおり、その後アデラインは夢を見ることもなく、ぐっすりと眠ることが出来た。
短くてすみません。




