第四十七話 王子の決断
その若葉色の靴は、ルトヴィアスから宰相の娘へ、求婚の品として贈られたものだった。
自らが履くその靴を、今日ルトヴィアスの正式な婚約者になった少女は、嬉しそうに眺めて微笑んでいる。
――…緑色にしたんだ…。
少女の隣で、少女の様子を横目で見ながら、ルトヴィアスは靴についての何の感慨もない感想を頭に浮かべていた。
靴は、厳密に言うとルトヴィアスが彼女に贈ったのではない。ルトヴィアスの祖父・アルバカーキが工房の職人に命じて作らせ、祖父が命じた使者が出来上がった靴を宰相邸に届けた、そこにルトヴィアスの意思は全く介在せず、ルトヴィアスは名前だけを貸したに過ぎない。ルトヴィアスが実際に靴を見たのは今日が初めてで、靴の色すら今まで知らなかった。
けれど、ルトヴィアスに何の思い入れがなくても、高級なビーズをふんだんに使い、意匠を凝らして作られた靴は、幼い少女の目にはただひたすら美しく見えたのだろう。少女はひどく気に入ったようだ。婚約式の最中、何度も何度も靴を見て口元を綻ばしている。
そんな彼女を何とはなしに盗み見ながら、ルトヴィアスは気が付いた。彼女が慣れない靴に靴ずれを起こしているのを。
――…さっさと脱げばいいのに…。
だが、いつまでたっても少女は痛いと言い出さない。
『痛い』という一言さえも、この内気そうな少女は言い出せないのだろうか。
血が滲む小さな踵は痛々しくて、見るに堪えなかった。
――…仕方ないな…。
靴を替えてくるようにと、ルトヴィアスは口を開きかけた。けれど少女の白い横顔に、思いとどまる。
――…まさか…。
ここでルトヴィアスが彼女に靴を脱がせるのは簡単だが、祖父のアルバカーキに知れれば、靴を作った職人はきっと重い罰を受けるだろう。
――…まさか、だから?
だから、少女は靴を脱ごうとしないのだろうか。
このまま婚約式が終わるまで、少女は痛みを我慢し続けるつもりなのかもしれない。
――…いや、いくらなんでもそんなこと…。
あるはずがない。ルトヴィアスより2歳も年下の少女がそこまで考えているとは思えない。
だが、彼女の考えがどうであれ、少女はその靴を履いたまま客人たちに挨拶をし続けた。
――…どうにか、してあげなきゃ…。
アルバカーキに気づかれずにどうにか出来ないかとルトヴィアスは思案した。だが、結局良い考えが浮かばず、離れて座っていた母親に目配せで助けを求める。
「――…どうかしたの?」
祖父が客人と話すのに夢中になっている隙に近づいてきた母親に、ルトヴィアスは小声で必死に訴えた。
「…この子を助けて…」
目で隣の少女を示すと、リーナはルトヴィアスが言わんとしたことを全て悟ってくれた。
リーナはそのまま大広間から出ていき、ややあってから、ルトヴィアスの婚約者は女官に連れられて行った。
今思えば、あの靴は――美しく豪華な靴と、それに傷めつけられる白い小さな足は、アデラインの未来を暗示していたのかもしれない。
王太子妃に―――ルトヴィアスの妃という立場に苦しむだろうアデラインの未来を。
ただでさえ重荷であろう王太子妃という地位に、更にはルトヴィアスから婚約解消されかけたことによる周囲からの侮蔑。
アデラインはそれらの耐え難い痛みに、ずっと耐えてきた。
その痛みがどれほどのものだったのか、ルトヴィアスにはきっと本当には理解できない。
そして、子供の頃と同様、何もしてやれなかった。
アデラインの忍耐力に、強さに、優しさに甘えて、アデラインを限界まで追い詰めた。
『……私、貴方と結婚できない』
彼女にそう言わせたのは、他でもないルトヴィアスに違いない。
にもかかわらず、彼女が離れていくことをルトヴィアスは許容できず、無理矢理手に入れようとした上、泣いているアデラインを部屋へ閉じ込めた。
――…泣かせたくない。傷つけたくない。
なのに、ルトヴィアスのすることはいつだってアデラインを傷つけて泣かせてしまう。
自分は、いったい何がしたいのか。もうルトヴィアスには、自分で自分の行動が説明出来なかった。
アデラインが、苦しんでいることだけはわかる。
ルトヴィアスが傍にいるだけで、彼女を傷つけてしまうことだけはわかる。
本当に、アデラインのことを思うなら、自分は彼女から手を離すべきだ。
彼女を解放してやるべきだ。痛みから、苦しみから、自分から――――。
そんなこと、とうの昔にわかっていたはずだったのに、一度は手を離そうと思ったのに、でも出来なかった。出来なくなってしまった。
苦しんでいる彼女にそれでも傍にいて欲しいなんて、無理矢理にでも自分に縛り付けておきたいなんて。
最低だ。
傲慢で、自分勝手で、本当に自分は最低だ。
だから、こんなことになってしまったのだ。
「申し訳ありません!」
片手と片膝を床について、デオは深く頭を下げた。謁見の間には、玉座に国王を戴き、宰相以下騎士団長や諸大臣、貴族議会議長、神官と、国の重たる面々が秘かに集まっている。
その中心で、デオは頭を垂れて上げようとしない。彼の制服や手袋は、大怪我を負った同僚を担いで運んだせいで血に汚れ、黒く変色していた。汚れを見れば、怪我人がどれだけ出血していたかがわかる。これは、命に関わる量だ。
「謝ってすむことか!護衛の騎士が護衛される側に守られて帰還するなど…この場で叩き切って宰相閣下へお詫びする‼」
騎士団長が剣に手をかける。けれどデオは恐れもせず、逃げもせず、更に頭を深く下げた。
「どうか‼どうかお嬢様を無事に救えとの任務を頂きたい‼その任務を成し遂げましたら、この命をもってお詫びとさせて頂きます!」
「分をわきまえよ!そなた達ごときにそのような重要な任務をまかせられるか」
傍にいた大臣の一人が、厳しく言い放つ。その後ろから、また別の大臣が口を挟んだ。
「きけばその者達は御令嬢に狼藉を働いた咎で謹慎処分になった過去があるとか。今回の拐かしも、その者が裏で糸をひいていたのではないか?」
「そんな…っ」
デオはようやく頭を上げた。
「俺達はお嬢様に忠誠を捧げました!それを…」
「口ではどうとでも言えよう。国王陛下。御令嬢の捜索の任務はどうぞ私にお命じ下さい。騎士団に勝る屈強な者を私兵に揃えてございます」
「いいえ、陛下。我が私兵も…」
私が私がと、周囲を押し退け合う姿は、獲物を奪い合う獣に酷似していた。一体この中の何人が、本気でアデラインの心配をしているのだろう。誰もが、この状況を利用して、自分の立場を強めることばかりを考えている。
その醜い争いの中、ルトヴィアスは一言も発することなく、ただ立ち尽くしていた。
「殿下」
背後でオーリオが囁く。
「殿下、笑えとまでは言いませんが、その真っ青な顔をどうにかしてください。この中に何人政敵がいると思っているのです。つけこむ隙を与えてはいけません」
わかっている。そんなこと、わかっている。けれど、身動きがとれない。まるで暗闇の中で迷子になったように、行くべき方向がわからない。
アデラインを拐う手引きをしたのは、ルトヴィアスの侍官であるアーブだった。
ルトヴィアスを狙って水差しやアデラインの食事に毒を盛っていたのも、アーブだったようだ。彼の立場なら、毒を混ぜるのは、そう難しくはなかっただろう。一度は疑ったのに、証拠もなく、本人も淡々と仕事をするばかりだったので、傍に置き続けてしまった。
きっとアーブはルトヴィアスを毒殺する計画の中で、アデラインの食事の毒味をするルトヴィアスや、毒に倒れたルトヴィアスをアデラインが介抱したりという光景を身近で見ているうちに、思いついたのだろう。苦労してルトヴィアスを殺さなくても、ルトヴィアスに継承権を捨てさせる方法を。
ルトヴィアスに正式に毒味係がついてから毒が盛られなくなったのは、毒によるルトヴィアス暗殺を諦めたからというよりは、『アデラインの人質としての価値』が確認出来たからかもしれない。以前オーリオがした予測は、遠からず当たっていた。あの毒は、ルトヴィアスを殺すという目的をもって混入されたものではなかったのだ。
オーリオは、やや苛々している風だった。
「しっかりなさって下さい。こういう時こそ、貴方の無駄に毛並みがいい飼い猫の出番でしょう?」
「……」
最後に見たアデラインの泣き顔が目の前をちらついて、どうしても感情の切り替えが出来ない。
――…罰が…あたった…。
これはもしかしたら、女神がルトヴィアスに下した罰なのではないか。
神話に登場するような、美しくて慈愛にあふれた女神が、本当に存在するとルトヴィアスも信じているわけではない。大聖堂でもまともに祈ったこともない。
けれど世の中には人知を超える力があることを、ルトヴィアスは知っていた。抗いようのない濁流のようなその力を、人間は『運命』『宿命』――『女神』、様々に呼ぶ。
ルトヴィアスがアデラインを無理矢理自分に縛り付けようとしたから、それに怒った女神によってアデラインを取り上げられてしまった…。
ルトヴィアスにはそんなふうに思えてならなかった。
そもそも人並みに誰かを愛し愛されるなんて贅沢を、夢見たのが間違いだったのだ。アデラインが言っていたではないか。『私達、政略結婚じゃない』と。
――…それ以上を望む資格など、俺にはなかったんだ……。
「犯人の要求は殿下の王位継承権の放棄とか」
大公が声を上げた。
「こんな事態になったのは、ルトヴィアス殿下にも少なからず責任があるのでは?」
笑い出すのを我慢しているような大公に、何人かの大臣が同調して頷く。
何か言い返さなければと思うのに、ルトヴィアスの喉はカラカラに渇いて、音を作り出せそうになかった。
オーリオが少し怒ったように、一歩前へ出る。
「大公殿下におかれましては、責任とはどういう意味でございますか?ルトヴィアス殿下にどうしろと?」
「そんなことご自分で考えられよ。ただ私は御令嬢の無事を祈るなら とるべき行動があるのではないか、と…」
「それはルトヴィアス殿下に継承権を放棄せよということですか!?」
「オーリオ!」
言い争いを制したのは、宰相の鋭い声だった。だがオーリオは納得いかないようで、伯父にも抗議の声を上げる。
「ですが閣下!大公殿下の言い様はあまりに…」
「何様のつもりか。大公殿下に非礼をお詫びしなさい」
「ですが…」
「オーリオ」
「…口が過ぎ…申し訳ございません」
「不出来な甥をお許し頂けますか大公殿下」
頭を下げるオーリオと一緒に、宰相も頭を下げた。大公はそれを満足げに見下ろしている。
「よい。気にするでない、宰相」
「……ですが、大公殿下もお口には注意なさいませ」
「…何?」
顔を上げた宰相の目は、怒りで静かに燃えている。
「万が一ルトヴィアス殿下が継承権を放棄すれば、王位はどなたのものになるか、知らぬ者はおりません。不用意な言葉で御身を滅ぼされませんように」
大公は途端に青ざめた。
「わ、私が王位欲しさに…っ策をこうじたとでも言いたいのか!?」
「そう思う輩もおりましょう」
「無礼な!私は断じてそのようなことは…」
「どうであろうと!」
宰相が声を荒らげると、その場は水を打ったように静まり返った。それを見回し、また宰相は冷静に話始める。
「どうであろうと、犯人の要求を飲むわけには参りません。国家が賊の言いなりになるなどあってはならぬことです。」
「そ、そのとおりだ」
大公は大きく頷き、周囲も『たしかに』『さすが宰相閣下』と口々に言い合った。宰相は玉座に向き直った。
「陛下。新王太子妃が浚われたなどと他国に知れれば我が国の恥でございます。この件の捜査は内密に進めさせて頂きますが、よろしいでしょうか?」
黙って成り行きを見つめていたリヒャイルドは、表情を歪めた。
「致し方ない。貴方に任せるよ、マルセリオ」
「恐縮でございます」
「それから、ルトヴィアス」
父王に呼ばれ、ルトヴィアスは顔を上げた。
「…はい。父上」
「下がって休みなさい」
ルトヴィアスは目を見開いた。
「いいえ、父上。私は…」
「顔色が悪い。昼間もあんなことがあって疲れたのだろう。いいから休みなさい」
ルトヴィアスは首を振った。アデラインがどこにいるのかも分からないのに、一人だけ休んでいられない。
「御気遣いには感謝いたします。ですが父上…」
「いいから休みなさい」
静かだが厳しい父王の声に、ルトヴィアスは言葉を失った。
「明日も公務がある。そんな顔で客人達の前に出るつもりかい?新王太子は父親に似て病弱らしいと、他国につけこまれてもいいと?」
「いいえ。そんな…」
「客人達にはアデライン嬢は急病だと説明しなさい。彼女が浚われたことは絶対に気取られてはならない。いいね?」
「…かしこまりました」
「わかったなら、行きなさい」
「…はい…」
ルトヴィアスは頭を下げると、後ろ向きに数歩下がった。そして踵を返し、足早に歩き始める。オーリオの刺すような視線は感じたが、睨み返す余裕などない。ルトヴィアスは逃げるようにして、謁見の間を後にした。
休めと言われて、けれど足は自室に向かわなかった。いるはずはないのにアデラインの姿を求めて、ルトヴィアスは王宮のあちこちを探した。
「…殿下。あの…お休みになられないのですか?」
心配そうに侍官が尋ねてくるのに、ルトヴィアスは答えなかった。寝台に横になったところで、休めるとは思えない。もう自分はアデラインなしでは休息もとれないのだと、ルトヴィアスは悟った。
夜の闇の中で、ポツポツと雨の降りだす音がした。
「…雨…」
アデラインはこの雨をどうやって凌いでいるのだろう。大切な人質だ。そう酷い扱いは受けてはいないだろうが、やはり心配せずにはいられなかった。
――…俺は…何をしているんだ?
今この瞬間、アデラインは助けを求めているかもしれないのに、何故走り出さないのだ。何を躊躇っているのだ。
――……俺は、どうすればいい?
女神がアデラインを取り上げたなら、ルトヴィアスがどうあがいても彼女を取り戻すことは不可能に思えた。
世の中には、人の手ではどうしようもないことがある。
そのどうしようもない強大な力の前に、人間はなすすべもない。
時に凶暴な牙を剥き、人を翻弄し傷つけ、命さえも奪うその力が、気がすむまでは、ただ息を殺して耐えるしかないのだ。―――――ルトヴィアスは、ずっとそうやって生きてきた。
自分のものであるはずなのに、あまりにもままならない己の人生を、猫をかぶり、大人しいふりをして、微笑んで、そうやってやり過ごしてきた。嵐が通り過ぎるのを待つように。
そんな生き方しか知らない。分からない。
心のままに生きるには、ルトヴィアスに嵌められた足枷はあまりにも重くて、幾重にも絡みついて、身動き一つするのも難しいのだ。
足はいつの間にか歩き慣れた道筋を通り、アデラインの部屋の前に辿り着いた。扉の隙間から明かりが漏れ出ているのに気づき、ルトヴィアスは取っ手に手をかける。
「―…っアデライン!?」
勢いよく開けた扉の向こうにいたのは、やはりアデラインではなかった。
「殿下?」
「…ミレー…」
それはそうだと自嘲しながら、ルトヴィアスは落胆を隠せない。その様子を察したミレーは、頭を下げた。
「も、申し訳ありません。…宰相閣下からお嬢様がいるように装えとお指図がありまして灯りや食事を…あの…お嬢様の行方は?」
おずおずと尋ねてきたミレーに、ルトヴィアスは頭を振る。
「…わかりません」
「…そうですか…」
ミレーはしょんぼりと肩を落とす。昼間、アデラインを部屋に閉じ込めて、すぐにミレーはルトヴィアスを追いかけてきた。あの時、ミレーの言うようにアデラインを部屋から出していたらと、今更ながらルトヴィアスは後悔する。そうすれば、アデラインが雨に濡れていないかなどという心配を、せずにすんだかもしれないのに。
ルトヴィアスはミレーの脇を抜けて、アデラインの寝所に続く扉を開けた。寝台のすぐ横に置かれた燈台の火に、部屋の中はぼんやりと照らされ赤橙色に薄く染まっている。
「……」
誰もいない寝台に、ルトヴィアスは腰をかける。
昨日の朝は、この場所が地獄かのように感じた。
腕にかかるアデラインの重みと温もりが心地よくて、それを思いっきり抱きしめられないことが歯がゆくて…。照れたように微笑むアデラインが、壮絶に愛しかった。明日の夜…今夜会う約束に、アデラインも嬉しそうに微笑んでくれたのに。
アデラインがいたその場所に手を這わせる。冷たい感触に身震いがした。この寝台は本当に昨日と同じ物だろうか。随分と冷たく、広く、寂しい――。
ふと、燈台の横に、一冊の本が置いてあるのにルトヴィアスは気が付いた。赤い装丁のその本は有名な詩集で、良家の子女の読み書きの教本として、よく用いられるものだ。ルトヴィアスは、それをそっと手にとる。扉口のところでルトヴィアスを見守っていたミレーが、遠慮がちに言った。
「あの…お嬢様の姿が見えなくなった後に、部屋の前に落ちていたのです。…とても大切にされていたので…持っていこうとされたのかもしれません」
「…この本を?」
教本とはいえ分厚くて重くて持ち歩きしにくく、愛読するにしても、内容は既に時代遅れだ。
何とはなしに、表紙をめくり、ペラペラと親指で頁を弾く。
――…何だ?これは。
頁と頁の間に、干からびて色褪せた花が挟まっていた。一本ではない。十数本の花が、一本一本、丁寧に押し花にされている。最後の方には、手紙も挟まっていた。そこには『庭に咲いていた』と、一言だけ。ルトヴィアスの字だ。
ようやく、それらが何なのか気づき、ルトヴィアスは乾いた笑いを落した。
「……とってあったのか…」
アデラインに贈った金英花だ。
「……こんなもの……」
胸の奥が、締め付けられるような気がした。
喉の奥から嗚咽がこみあげるのを、ルトヴィアスは口を押えて堪えた。
――…花など、水を替えても数日すれば萎れただろうに。
それをこんなに後生大事にとっておくなど、律儀なアデラインらしい。
目を閉じれば、嬉しそう笑っていたアデラインが瞼に蘇る。
『お花をありがとうございました』
あの顔が見たかったのだ。あの笑顔が見たくて、ルトヴィアスは柄にもなく花を彼女に贈った。
恥ずかしかろうと、何だろうと、アデラインが笑ってくれるなら、それまでの自分を超えることくらい簡単だった。
――…アデライン……。
そっと本を閉じると、その裏表紙にルトヴィアスは額をあてる。
――…俺は…。
この花が、自分に相応しいと思ったのだ。
花言葉を聞いたあの時――――。
『花言葉を知ってらっしゃいますか?』
『花言葉?』
訊きかえすルトヴィアスに、庭師はにっこりと笑って教えてくれた。
『はい。金英花の花言葉は……』
その言葉を、ルトヴィアスは小声で呟いた。
「……『消えない想い』」
アデラインがルトヴィアスを所詮政略結婚の相手としか見ていなくても、女神が『お前には過ぎる贅沢だ』とルトヴィアスからアデラインを取り上げたのだとしても、それでも…それでもアデラインへの想いは消えない。変わらない。
――…愛してる。
ルトヴィアスは瞼を開けた。
ままならない人生。
あまりに強大な目には見えない流れ。
何故、それらに翻弄され続けてきたのだろう。
何故、今まで抗わなかったのだろう。
息を殺して、通り過ぎるのを待つ?通り過ぎなかったらどうするつもりだ。通り過ぎる前にアデラインを失ったら?
「……ふざけるなよ……」
そこに嵌められていた足枷の鎖を引きちぎるようにして、ルトヴィアスは立ち上がった。
怒りがルトヴィアスの心を覆い尽くしていく。
アデラインを奪われた怒り。こんな人生をルトヴィアスに与えた何かへの怒り。そして何より、そんな人生を甘んじて受け取り続けた自分への怒り。
――…奪われたのなら、奪い返せばいい。
本を元あった場所に置くと、ルトヴィアスは歩き始めた。
「殿下?」
「殿下!?どうされ…どこにいかれるのです!?」
部屋を飛び出し、走り出したルトヴィアスを侍官や騎士が遥か後ろをあわてて追いかけてくる。
――…もういい。
人並みに、まともなふりをするのはもうやめる。
そもそも、ルトヴィアスは我慢なんて出来る性格ではないのだ。
自分勝手で傲慢で短気で、それが本来のルトヴィアスだ。
欲しいものは欲しい。
なのに、手を離すべきだとか、それがアデラインの為だとか、らしくないことばかり考えているから、がんじがらめになって身動きが取れなくなってしまったのだ。
もう、自分を殺すのはやめる。やりたいようにやる。
――…俺にアデラインの手をとる資格がないのだとしても…。
それが欲しいと、天に向かって乞い願うような真似は絶対にしない。
――…資格はアデラインに乞う。
彼女がどうしても婚約を解消したいと言ったとしても、『お前を愛しているから、愛してくれ』と拝み倒すだけだ。アデラインが根負けして、ルトヴィアスにその手を預けてくれるまで。
謁見の間の扉を開けると、そこにはまだリヒャイルドや宰相、大臣達がいて、突然入ってきたルトヴィアスに、一様に驚いて振り向いた。
「殿下…!」
オーリオが走り寄ってくる。
「犯人から手紙が届きました」
「…見せろ」
オーリオが示した円卓の上に、要求が書かれた白い紙と……栗色の髪が一房が置かれていた。その髪が誰のものか察して、ルトヴィアスの背筋に冷たい戦慄が走る。
「…失礼」
大公を押し退けるようにして、ルトヴィアスは手紙を手にとった。手紙には、アデラインを返して欲しければルトヴィアスが王位継承権を捨てること。立太子の日を期日とすること。継承権の放棄を国民に周知することなどが、箇条書きで記されていた。
「ルトヴィアス!休めと言ったはずだ!」
リヒャイルドが玉座から立ち上がる。その足元に進み出て、ルトヴィアスは膝をついた。まっすぐ、父親の顔を見上げる。こんなふうにリヒャイルドと正面から向き合うのは、帰国して以来初めてだ。リヒャイルドの瞳の奥に、自分への侮蔑や憎しみの光を見つけてしまうのが怖くて、ルトヴィアスはずっと父から目を背けていた。
リヒャイルドは、息子のただならぬ様子に眉をひそめる。
「ルトヴィアス?」
「……父上」
こくりと、喉が鳴る。自分を、影に日向に、必死に守り続けてくれた父。その父の恩に報いるどころか、裏切る自分は、きっと地獄に堕ちる。それでも…。
「王位継承権を放棄することを御許し下さい」
はっきりと言い切ったルトヴィアスに、リヒャイルドの目が見開かれる。
「殿下!?」
「何を言われますか!」
オーリオや宰相が、驚いて叫んだ。宰相はルトヴィアスのすぐ傍に膝をつく。
「娘のことを思って頂けるのはありがたく存じます。ですが、殿下…」
「継承権を持つのは私だけではない。大叔父上や従兄弟達がいます」
「そういう問題ではありません殿下」
「でもアデラインは…貴方の娘は一人です。マルセリオ」
宰相は口をつぐむ。その場はしん、と静まりかえった。
「犯人は私が要求をのまずに立太子すれば、アデラインを殺すでしょう。そして私が婚約者を見捨てたことを国内外に知らしめる。そうなれば私の王太子としての資質を疑問視する声が上がります。結局、遅かれ早かれ私は廃太子です」
「…犯人がアデラインを殺すとは限りません。殿下が立太子すれば、アデラインに人質の価値はないとされて娘が戻ってくる可能性はあります」
「ありません。衛兵が5人死んでいるんです。娘一人殺すことを躊躇うはずがない。死体を王宮前の広場に放り込むくらいはするでしょうね」
「……」
想像をしてしまったのか、宰相の顔がかすかに青ざめた。冷静に対処しようと努力はしているが、けれど彼が娘を心配していることは、ルトヴィアスにはわかっている。ルトヴィアスにしても、アデラインの死体などと口に出すのもおぞましい。
「…お嬢様を…お嬢様を見捨てて…他の娘を花嫁にするという案が、先程出ました」
オーリオが苦しげに言う。大臣あたりが好きそうな案だ。確かに、すでに結婚をしたあとならまだしも、アデラインはまだ一貴族の令嬢に過ぎない。国のための尊い犠牲、という言葉を、国のご重鎮方が好むのはルトヴィアスも知っていた。
「その案は現実的ではありません」
ルトヴィアスは静かに言った。
「アデラインの顔は、この数日の交流で他国の使者殿達の間でも知れわたっています。婚礼で他の娘を影武者にしたところで、別人とすぐばれる。仮に宰相に急遽他家から養女をとらせて、その娘と婚礼を上げたところで、結果は同じです。何故婚礼直前に花嫁が変更になったのか、他国も民も不信感を覚えるでしょう。犯人達が事の真相を面白おかしく吹聴でもすれば、それが他国や民には真実になる。私は婚約者を見殺しにした史上最低の王太子として歴史に名を残すでしょうね」
「で、ですが…だからと言って賊の要求をのんでは…国の威光が傷つきます」
一人の大臣が、ボソボソと異を唱えた。それをきっかけに、議長や大臣達が声を上げはじめる。
「そ、そうです。誇り高いルードサクシードが賊の言いなりになるなどいけません」
「民の目などいかようにも誤魔化せます。聖サクシード直系のお血筋を大切になさいませ」
「やはりアデライン嬢には国のために尊い犠牲となっていただいて、妃には他の娘を…」
出たよ、とルトヴィアスはうんざりと舌打ちした。尊い犠牲。自分達に都合が良い生け贄の間違いだろう。
けれど大臣達は、ルトヴィアスの舌打ちには気付かない。新しい妃候補を挙げるのに夢中になっているからだ。
「我が一族には年頃の娘がおりまして」
「いやいや、我が一族にも…」
「…っだまれっ!!!」
ルトヴィアスは立ち上がり、叫んだ。
――…うるさい、うるさい、うるさい!!!
こういうことが煩わしくて、祖父は独裁体制を敷いたのだろう。その気持ちがよくわかる。認めたくはないが、自分は祖父によく似ている。どんなに取り繕っても、祖父に似ていることは否定できないし、隠しようがない。
ぽかん、と大臣達が口をあけて立ち尽くす。
「で…殿、下?」
その揃いも揃った馬鹿面がまた燗に障る。この期に及んで、考えるのはまだ自分の利か。娘の命が危険にさらされている宰相を前に、どんな神経だ。怒りが込み上げる。いつも噛み潰し、心と一緒に圧し殺していたそれを、ルトヴィアスはかまわず爆発させた。
「国の威信なんてな、クソ親父がクソジジイをぶっ殺した時にもう底の底まで落ちたんだよ!誇りだ威光だって、それがどれだけ大事なんだ!?命より重いのか!?ならどうしてお前らは生きてるんだよ!命より誇りが大事なら、ジジイと一緒にくたばればよかったんだ!」
10年前、まさにこの場所で、リヒャイルドは実の父を、アルバカーキを討った。家や田畑を焼かれ疲弊する民、もはやまともな装備も補給もなく、それでも攻撃命令に従い出撃していく騎士達。敗戦は明らかで、だがアルバカーキは決して降伏をしなかった。自らの誇りの為に、降伏よりも、国を道連れに滅びることを選んだ。
『誇りを捨てれば、人間はただ卑しい生き物に成り下がる。そうまでして生きたいかリヒャイルド!』
『ええ、生きたい。生かしたい。だから誇りは捨てます。臆病者と罵られようと皇国の犬になろうと、この国を生かしてみせる!』
肉を裂く音。断末魔。祖父の首級を挙げた細い腕。そして、静寂。あまりの光景に、ルトヴィアスは悲鳴もあげられなかった。
『…ルトヴィアス、おいで』
物陰に隠れて見ていたルトヴィアスは、リヒャイルドに呼ばれて飛び上がるほど驚いた。ルトヴィアスがそこに隠れていることに、リヒャイルドはいつから気づいていたのだろう。
『…はい、父上』
『部屋にいなさいと言ったのに』
『…ごめんなさい』
疲れたように、リヒャイルドは大きく息を吐いた。
『父上が怖いかい?』
『…いいえ』
『ルトヴィアス』
『はい』
『いつか…いつか私が捨てた誇りを、お前が拾っておくれ』
返り血と涙に濡れた横顔。
あの言葉を、そして頷いたことを、忘れたことはない。
けれど、自分はアデラインを選ぶ。アデラインを選びたいのだ。リヒャイルドは、自分を裏切者と罵るだろうか。何のために守ってやったのだと、恩知らずと怒るだろうか。
棒立ちする大臣達を、ルトヴィアスは睨み付ける。
「少なくとも俺には…アデラインより大事なものなんてない。誇りも、継承権も、アデラインの為なら棄ててやる」
一族に年頃の娘が、と言っていた大臣が、震えながらルトヴィアスを指差した。
「…な、なんと…前王陛下を愚弄するとは…」
「王子ともあろうお方が…なんと野蛮な物言いをされるのだ。情けな…」
「ごちゃごちゃうるせえんだよ!!すっこんでろジジイども!!!!」
ルトヴィアスの腹の底からの低い怒号に、部屋にいた全員が、まるですぐそこに雷が落ちたとでもいう顔で停止する。
「オーリオ!」
「は、はい」
「この手紙を持ってきた者は!?」
「町の浮浪児が…駄賃を貰って頼まれたと。門で待たせてありますが…」
「デオ!」
「は、はい」
「どんな奴に頼まれたか、人相を聞いてこい!ついでに着替えろ!」
「はい!」
「騎士団長!昼間捕らえた奴は地下牢か!?」
「は、はい…」
「俺が直接尋問する!ここに引きずり出せ!」
「はっ!すぐに」
「そこの口だけ達者なジジイども!私兵を出す気があるならさっさと集めろ!」
「ひっ」
「か、かしこまりまして…」
ルトヴィアスはリヒャイルドに向き直る。そして、もう一度跪いた。
「賊の要求をただのむつもりはありません。3日、時間を下さい。その間に、アデラインを助け出して見せます」
「…間に合わなければ、継承権を捨てると?」
リヒャイルドの表情は静かだった。怒っているのかどうか、ルトヴィアスには窺い知れない。
「…はい」
「私がそんなことを許すと思うのかい?」
ルトヴィアスは手を握り絞めた。ああ、やはりリヒャイルドは怒っているのだ。
ところが、次にリヒャイルドが口にしたのは、ルトヴィアスが思いもよらぬものだった。
「この件に関する全権をルトヴィアスに与える。兵も好きに使うといい。3日のうちに必ずアデライン嬢を助け出すこと。いいかい?必ずだ!」
「…父上?」
リヒャイルドの意図が分からず、ルトヴィアスは呆然とした。リヒャイルドは息子を見下ろし、更に念を押す。
「ルトヴィアス、3日だ。それでもどうにもならなかったら、その時は…」
リヒャイルドが困ったように、微笑んだ。かつてルトヴィアスの悪戯を叱り、けれど最後には必ず許してくれた、あの微笑みだ。
「…その時は、好きにしなさい」
こんなにも優しい眼差しで、父親は自分を見ていたのかと、ルトヴィアスは驚いた。リヒャイルドとまともに目をあわせなくなってどれくらいたつだろう。ルトヴィアスが目を逸らし続けていた間も、リヒャイルドはこんな目でルトヴィアスを見守っていてくれたのだろうか。
「…いいのですか?」
自分から言い出したことなのに、いざリヒャイルドに許されると躊躇いが生まれた。
ルトヴィアスが継承権を放棄すれば、次の王は大公だ。国内の政治均衡が崩れる。それがどんな影響を及ぼすか……。
リヒャイルドは、また笑った。
「いいわけないだろう?だから3日だ。やはり私は駄目な父親だな。どうしてもお前の我が儘には弱い」
「父上…」
「…お前の我が儘を、随分と久しぶりに聞いたよ。ルト。好きにすればいい。何があろうと、お前が私の息子であることにかわりはないのだから」
「……っ」
喉の奥が重くなり、目頭が熱くなった。嬉しさと、罪悪感が入り交じる。
すべて、ぶちまけてしまいたかった。リヒャイルドに、アデラインさえにも言えない真実。そして自分が存在することを謝りたい。
でも、その思いをルトヴィアスは必死に飲み込んだ。父が何も知らないなら、ルトヴィアスの告げる真実は、リヒャイルドにとってただ酷なだけだ。
ルトヴィアスは瞬きをして、目尻にたまった涙を散らし、父王を振り仰いだ。
「…必ず。必ず3日で、アデラインを助け出します」
信頼に応えてみせる。
窓の外では、雨足が強くなりつつあった。




