たった百円ぽっちでも幸せを感じられる時はある
俺は城内の廊下を歩いていた。 もはや日は落ちて、月明かりが弱く世界を支配する時間。
カッカと足音が響くこの廊下を、壁に間隔良く並ぶランプが淡いオレンジ色に照らす。 身に纏う黒の上下の服はそのやわらかな光とよく似合う。
かき分けた空気が、丈の長い上着を小さくたなびかせてくれる。
俺はこの時間が好きだ。 学校も、出された課題も、ここでの仕事も全部終わったこの時間帯。
そして今は甘いものが食べたいと思って、エレイナがいる食堂に向かっている途中だ。 彼女は夜遅くまで、明日の料理の仕込みを大勢の調理班のメンバーとやっている。 そこに行くまでの時間ーーーーこれが大好きだ。
自室から食堂にたどり着く時間は数分。 あまりにも少ない。 が、その少なさがかえって自分の心を楽しく震わせた。
多忙な時期の間にあるたった一日の休暇のように。 とてもおいしいが、内容量が少ないお菓子を食べる時のように。 少ないからこそ、ここまで心を震わせ、疲労によって重くなった身体を運ぶ足を楽にさせてくれるのかもしれない、そう思う。
そしてもう一つ……恐らく、多分、好きの中に入っていることがある。
「もしかして、またアイスですか〜? 飽きないですね」
ちょうど、上から見ればトの字になったところを過ぎ去ろうとした時、右に伸びた廊下の先から声がかけられる。
髪赤く、目を赤く、雰囲気も活発な赤を背負う彼女はシウニー。 彼女が薄い笑みを浮かべ、バカなことを何度も繰り返す奴に言う調子を僅かに見せて言葉を放ってきた。
うるせェ、頭が俺よりも食いしん坊なだけだ、俺じゃあなくこいつに言ってくれーーーー頭に人差し指を向けたら、彼女は笑みのレベルを上げた。貴方の支配者は案外子供っぽいところがあるんですね、と。
不機嫌そうな表情をしてしてしまった、それでも彼女はまだ得意げな顔をしていたが。 もうこれで終わりかと思って俺は前を向き、歩き始める。 そのままシウニーも自室かどこかへと行くのか、そう思っていた。
が、違った。 彼女から目を離れて数歩歩いたら彼女の、途切れ途切れの喘ぎ声が聞こえてきた。 不思議に思ってそちらに目を向けてみると、シウニーは後ろから首元に腕をまわされ、強く絞められているではないか。 一驚するが、すぐに彼女の後ろにいるものの正体が分かった。 アイナである。
そう理解した瞬間、アイナは赤い髪から顔を出した。 頬はその赤髪に負けないくらい赤かった。 そして左手に持たれる緑の酒瓶が揺れている。
つまりは、彼女は酔っ払っているのだ。
「おひぃ〜、こんなところにシウリーがいるひゃねェがぁ〜……うっへへへへ、お前、私の酒に付き合えこらぁ〜」
「ぁ゛、ぐ……ア、ナざん゛……」
彼女の酔っ払った瞳が下品にシウニーを横に見た。 赤い髪に反し青くなった顔を覗き込んで、まるで悦に浸るかの如くにやけてみせた。
そして俺に気付けば「よぉー」と、とろけた笑顔を向けて、お前これから用事ある? と聞いてきた。 アイスを食う、というただそれだけの用事だが、ある、と答えた。
関わるのが嫌だったから。
「そうか〜、ひゃあしょうがないひゃ〜。 でら、シウリーだけ私の部屋に来ひ〜」
アイナはシウニーを引っ張り出した。 だけれども酒のつきあいが嫌なシウニーは踏ん張って抵抗しようとするーーーーものの、到底無理。 酔っ払っているとはいえ実力としては格上。 徐々に引きずられていく。
「ん゛、ん゛あ゛ッ! 嫌すぎるッ!! ちょっ! 魔王様助けて! あんたアイス食べるだけでしょうが!! 十分暇でしょうが!!」
「食べることは生命を紡ぐことだ。 つまり、食べることも重要な用事ってこったな。 しかも……俺は子供なんだろう? じゃあ俺は酒を呑んじゃあいけねェよなァ?」
俺がニタリと勝ち誇ったような顔を浮かべると、彼女はハッとした顔をする。 過去に放った自分の言葉が今、盛大に息をした。
八方塞がったシウニー、もう自分の運命は定まったと思ったのか、目に涙を浮かべてプルプルと身震いし始め。
「ご、ごめんなさいィィィィッ!! もう子供っぽいなんて言いませんからァァァァ…………」
そう叫んで、奥へと消えていった。 彼女には非常に傷心する。 なんせアイナの酒癖の悪さを知っているから。
だが、自分はこれから至福の時間を堪能するために歩いているのだーーーー残忍かもしれないが、地獄へと方向転換するつもりはさらさら無い。
自分が奏でる足音のテンポが妙に楽しく思えた。 今日一日の疲れはこの時点でもうほとんど無くなっているかもしれない、そう思えるほど。
「あむっ……あむあむ」
しかし、物事は簡単には進まない。 未だまっすぐな廊下を進んでいると、先の方の左端に、直立している誰かが見えた。
歩き続けていると、その正体が分かった。 ルシファーだった。 そいつはアイス片手に、反対側の壁にひたすら視線を送っていたんだ。
俺がその視線を阻むように立っても、堕天使は微動だにしない。 ただアイスをちょびっと啄んで咀嚼するを繰り返すだけだ。
とても奇妙。
「……なにしてんのお前」
耐えきれなくなって言葉をぶつけてしまった。 少し苛立ちも感じてしまっていた。 だってルシファーが食っているそのアイスは。
「おいしいですねこのアイス」
俺が食べたいと思っているアイスだったからだ。
「いっぱいあったんで取ってきちゃいました。 おいしい」
棒に楕円状に付いたクリームを、チョコでコーティングしたアイス。 簡単な作りだが、それがまた何故かとてもおいしい。
確かにこいつが言う通り、食堂にある横長の冷凍庫の中にはそれが大量にある。 城内にいる者なら、だれでも食べられるように大量に仕入れているらしいから。
だから当然俺の分もあるんだがーーーー手にしていないこの状況で、目の前で食われたら妙に腹が立ってしょうがない。
彼女の言葉に 「あっそ」 と返事して、進もうとした。
その時彼女の左手から、ビニールが複数回折れ曲がるカリュカリュという音が聞こえた。 青いパッケージに金の文字で 「paamu」 と書いてあるそれは、まさしく俺が欲しているアイスの包装だったのだ。
「これ……先日魔王様が食堂でこれを食べている姿を見かけたので、持ってきましたよ」
あげます、と俺の目の前に差し出してきた。 俺は若干驚きながらも 「お、おぉ、ありがとう」 と言って受け取ろうとしたーーーーが。
手に取ろうとした瞬間、それを高く上げたのだ。 笑顔のままのルシファー。 俺は苦い顔をした。
「……なんだ」
「持ってきたんですから……お礼の品とかありますぅ〜?」
見返りの品が欲しいと言ってきた。 非常に彼女らしい発言で辟易する。
「感謝の言葉ー……とかじゃあダメかよ?」
「だめですね〜」
「じゃあイラネ」
手持ちが無い今、貰うのは諦めて素直に食堂に向かい始めた。 結局は何をしたかったのか、彼女は呼び止めることもしなかった。
少し不機嫌のまま進んでいると。 あの堕天使と同じように、また廊下の端に直立して壁を見つめている者が見えてきた。
「うますぎなこれ〜。 なんでこんなにうまいんだろうな〜」
サタンだった。 ルシファーとは違い右端にいて、このこんちきしょうも同じく俺が食べたいアイスをほうばっていやがった。
なんで悪魔を代表する二人が揃いも揃ってこんな行いをしているのか不思議に思う。 だけれども話しかけたくも無いから素通りしようとした。
だけれども 「あ、海斗」 と話しかけてきて 「なに?」 と、俺はムスッとした、明らか関わるのが嫌そうな顔を向ける。
「さっきお前、ルシファーにイジられてただろ」
どうやらこの暴力悪魔は先ほどの状況を見ていたらしい。 気恥ずかしいというか、面倒なものを見られたというか、変な感情が心の中で渦巻いた。
「……それがどうかしたかよ」
「いやさ。 お前、前からあいつにめちゃくちゃな頻度でイジられてるだろ? で、私はいつもお前に迷惑かけてるから、今回は優しくしてやろうかと思ってさ」
さっきのあれは見られたんだ、きっと馬鹿にされるーーーーと思っていたが、何故かサタンの心は晴れ模様。 いつものように、馬鹿にできる標的を見つければ全力で煽る、ということはしない。 逆に憐憫の情が混ぜ込まれた瞳を向けてきたのだ。
その展開に、思わず 「えっ」 という驚きの声が漏れてしまう。
「さっきアイスをくれなかったんだろ? ったくあいつそういうところあるからな〜。 ま、私はちゃあんと用意したんだよな、お前のためによ〜」
「マジでか! ……いや、でもお前、見返りを要求するんじゃ……」
その心配もあったが、そんなことするわけねェだろ〜、と笑い飛ばされた。 本当に……本当に信用してもいいのだろうか?
しかし鬼の目にも涙とも言う。 たまにこういうこともあるのかもしれない、そう思って彼女がアイスをくれるのを待った。
すると、じゃあお前にあげるアイスは〜、少しにこやかになったので期待が高まる。 まだ少し距離がある食堂まで行かなくても食えるのだ。 小さく俺の胸は躍った。
「この食いかけのアイスだ」
「出会ってから一番迷惑」
だが裏切られた。 俺にあげようとしたアイスはサタンが食べていたものだった。 しかももう既に半分まで食べられていて、ルシファーほど食べ方も綺麗じゃないからヨダレも結構混ざっていた。
俺は素早くこの場を離れた。
「チョコレートコーティングで窒息させられる苦しみは、一体どんな感じなのでしょうか〜……」
「資金がかさんでこっちが苦しくなるわ」
また廊下の端っこに、アスモがいた。 彼女は開封されたアイスを頭一つ高く上げ、頬を赤くさせながら自分の世界に浸っていた。
これは邪魔しちゃいけない。 というか関わったらそういう標的にされそうで恐怖を感じ通り過ぎた。
「ほら海斗! アイス持ってきてあげたわよ! べっ、別に、勘違いしないでよ! ちゃんとあなたのことだけを考えながら持ってきてあげたんだからね!」
花音が五、六個のアイスの包装をぶら下げていた。
そのまま通り過ぎた。
「なんで私だけ完全なる無視ィッ!!?」
途中にとんでもない障害物が多々あったが、無事に食堂まで辿り着くことができた。
四人囲める黄色のテーブルがたくさん並べられ、その端には茶色の長テーブルが置けれている。 アイスが入ってある横長の冷凍庫はその辺にある。
今は、もうほとんど食堂に人はいない。 今夜も数人ちらほら、何かの書類とにらめっこしているだけだ。
それらをぼんやりと照らす天井の照明の先から、いい香りがやってきて鼻腔をじんわり濡らした。 エレイナ達が厨房で仕込みをしているのだ。
そして、少し遅い晩御飯も作っている。 今夜はカレーか、その匂いが鼻をくすぐり続けた。
俺はひときわ明るい厨房の方に向かって、アイス貰うぞ、と言った。 するとエレイナらしき声が 「はーい」 と言ってくるので、若干小走りで冷凍庫に近づいた。
目の前にすると、俺は冷凍庫の横にある木の箱に百円玉を入れた。 なにもタダというわけでは無いーーーーアイス一つにつき百円を支払うということになっている。
種類は十種類と何気に豊富で、俺が手に取ったアイスの他にカップ、普通のアイスクリームもある。
この歳になっても甘味を見ればウキウキしてしまうもんだ。 俺は早速ガラスの蓋をスライドさせて、一つを手に取ったーーーーと、その時。
横から手が伸びてきて、ぶつかった。 どうやらその手も同じアイスを取ろうとしていたようだ。
誰だと思い横を見てみると。
「……変なところで気が合いますね」
バルがいた。 そう言い終わったと同時に、木箱の中からちゃりんと音が聞こえた。
ーーーー
海斗は逃げていた。
もはや幸せにさせて洗脳の期間を短くさせるだなんてことは不可能だと悟った彼。
ーーもう嫌だ、こんな現実なんて見たくない。 彼は違う案を考えながらひた走る。
したら何かの部屋の扉が目に入り、思い切って開扉する。 そこは物置のようで、段ボールなどが部屋の半分程度を占めていた。
しかし、彼は隠れるにはちょうどいいかもしれないと思い入室。 ひとまず段ボール達の間を居城とした。
あぐらをかいて息を整わせる。 洗脳メンバーを思い浮かべる、後悔する。
ーー何故俺はベリアルにあんなことを言ってしまったのだろうか、あんな贅沢なことを言ってしまったのだろうか。
俺はほぼ毎日送った、あのアイスを食べる時間が好きだった。 いや、それまでの時間も好きだった。 それは何故か? あいつらとの会話が好きだからだ。
他人から見れば変なことをやっているようにしか思えない、そんな摩訶不思議な関わりが、なんだかんだ言って好きだったからだ。
そいつらが今、争っている。 血を流し、涙を浮かべて戦っている。
彼はそう頭を抱える。
と、いきなり大きな爆発音と振動が彼に響いた。 同時に小さくガラスが粉砕される音も混じっていた。 なんだと思い、のそりのそりと四つん這いになって扉を開けたら、かすかにほこりっぽい。
通路の右に目を向けると、驚きの光景が目に飛び込んできたのだ。 遠くの方からもくもくと、巨大な灰色の煙が流動していたのだ。
その煙の発生源は、以前、彼がアイスを食べに行く際にシウニーと会った場所ーーーー彼女がやってきた方向からその煙は発生しているようだった。
そうしてそれは、対面にある割れた大きな窓を這い出て、外に天高く昇っている。
ーーあれは……三人の仕業だ……!
そう確信を得た海斗。 刹那、新しく生まれた爆発音に呆然とした。
すぐ次の行動に移ることはできないでいた。




