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呪華ノ鎖  作者: 雪ねこ
第一章
28/29

縮まる距離、許されない距離

夕陽が沈んだばかりの夜の空気は、訓練の熱を少しずつ冷ましていくようだった。


ここ最近の日課となっていた鍛錬の後。

ティアはもちろん、今回もシオンが付き合ってくれていた。


身体全体に残る鈍い疲労を感じながら、ゆっくりと息を吐く。

吐き出すたびに、肺の奥がじわりと重く軋む。

さっきまでの動きが、まだ体の奥に残っている。


踏み込んだはずの足が届かず、逆に体勢を崩された瞬間。

視界が揺れ、何もできないまま叩き込まれた衝撃。

思い返すだけで、無意識に奥歯に力が入る。


力の抜き方を間違えれば、すぐにでも足がもつれそうだった。


「まったく。あの程度でへばってるのか」


横から、シオンの遠慮のない声が飛んでくる。

その声音には、呆れが混じっていた。


反論する気力もなく、ちらりと視線だけを向けた。


「あの程度、って手厳しいな」


息が整いきらないまま、苦笑交じりに言葉を返す。

それだけで、喉の奥がわずかに焼けるようだった。


シオンは腕を組み、鼻で笑う。


「事実だろ。動きが鈍い。無駄も多い」


そう言われ、わずかに肩を落とす。


壁に背を預けると、冷えたコンクリートの感触が、火照った体にじわりと染みていった。

汗の引いた肌に触れるその冷たさが、やけに心地いい。


「言い返せないのが悔しいな」


ぽつりと零すと、シオンは小さく鼻を鳴らす。


「言い返せるようになってから言え」


容赦のない返し。

けれど、それ以上でもそれ以下でもない。


思わず苦笑が漏れた。


その言葉に、もう一度だけ小さく息を吐く。


「……分かってるよ」


ぼそりと呟くと、シオンの視線がわずかにこちらへ向いた。


「なら改善しろ。分かってるだけで終わるのは一番意味がない」


淡々とした声。

けれど、その言葉には妙に重みがあった。


少しだけ顔を上げて、夜空を見上げる。

さっきまで赤く染まっていた空は、もうすっかり深い藍に変わっていた。

遠くに、ぽつぽつと灯りが瞬き始めている。


隣に立つシオンへ、ちらりと視線を向ける。


呼吸は乱れていない。

肩の上下もほとんどなく、まるで今の訓練が軽い運動でしかなかったかのようだ。

汗の量も違う。

立ち方にも、わずかな揺らぎすらない。


同じ時間、同じことをしていたはずなのに、その差は明らかだった。


「……簡単に言うなぁ」


ぼやくと、シオンは小さく鼻を鳴らした。


「簡単じゃない。だが、やるしかない」


短く言い切ると、そのままこちらへ歩み寄ってくる。

何をするのかと思った次の瞬間、無言で手首を掴まれた。


「っと……?」


指が触れた瞬間、わずかに体が揺れる。

反射的に力を入れかけて、そのまま引かれた。


強引ではない。

だが、迷いのない引き方だった。


そのまま、身体が前へと起こされる。

重心が移り、足が地面を捉え、崩れかけていた体勢が立て直される。

ほんの一瞬の出来事だったけれど、その動きには無駄がなかった。


シオンはすぐに背を向け、一歩、足を踏み出して。


「いつまで座ってる。待たせてるんだろ」


足を止めることも無く、そう言い捨てる。


「あんまり遅いと、面倒そうだ」


心底興味無さそうな様子ではあったけれど、シオンが誰を指しているのかはすぐに想像出来て、ぷはっと小さく笑いを溢した。


「……確かに」


苦笑を浮かべながら、後を追うように歩き出す。

それまで無言で、俺たちの会話を静かに聞いていたティアもその横に並んだ。







夜の空気は、さっきよりも少しだけ冷え込んだ気がした。


通りに出ると、昼間とは違うざわめきが広がっていた。


等間隔に並ぶ灯りが夜道を照らし、その下には小さな屋台がいくつも並んでいる。

焼ける音、湯気、香ばしい匂い。

訓練の後の身体には、やけにそれが強く感じられた。


「寄ってくか?」


何気なく呟くと、隣を歩いていたティアの足がぴたりと止まる。


「いいの?」


少しだけ目を輝かせてこちらを見るその様子に、思わず笑いそうになる。


「たまにはいいだろ。疲れた身体にご褒美ってやつ」


そう言うと、ティアはこくこくと何度も頷いた。

分かりやすい反応に、疲れが少しだけ軽くなる気がする。


一方で、シオンはちらりと屋台の列を一瞥しただけだった。


「好きにしろ。長居はするな」


興味があるのかないのか分からない、いつもの調子。

けれど止める様子もないあたり、付き合う気はあるらしい。


適当に目についた屋台へと近づく。

炭火の上で串が並び、じゅう、と脂が落ちて火が小さく弾けた。


その音と匂いだけで、空腹を自覚する。


「串焼き、三本。あと飲み物も三人分」


店主が顎で奥を指す。

簡素な瓶に入った液体がいくつか並んでいる。

透明なもの、淡く色のついたもの。


一瞬だけ視線を迷わせてから、レモン水を選ぶ。


串と一緒に三つ受け取り、確認もそこそこに代金を支払った。


受け取った串からは、焼きたての熱がまだじんわりと伝わってくる。

指先に残る温もりと、鼻をくすぐる香ばしい匂いに、思わず喉が鳴った。


近くの端に寄り、三人で立ち止まる。


「はい」


ティアへ一本差し出すと、素直に受け取ったものの、その視線はどこか微妙に揺れていた。

手に持ったまま、すぐには口をつけない。

串と、こちらの顔を見比べるようにして、少しだけむぅっと口を尖らせる。


「……甘いのじゃない」


ぽつりと拗ねたような声。

思わず吹き出しそうになるのを堪えた。



「いや、分かってるけどさ。たまにはこういうのもいいかなって」

「甘いのがいい」


間髪入れずに返ってくる。

どうしても譲れないようだ。


じっと見上げてくる視線は、無言の圧が強い。

あからさまに不満そうというほどでもないのに、確実に“期待していたものと違う”顔をしていた。


「帰ったらノクスが用意してるだろ。ティアの分、いつもデザート多めにしてるし」


そう言って軽く肩をすくめると、ティアは一瞬だけ考えるように黙り込む。

串と、遠くの屋台とを見比べるように視線が揺れて。

やがて、小さく息を吐いた。


「……我慢する」


完全に納得したわけではなさそうだが、とりあえずは受け入れることにしたらしい。

少しだけ名残惜しそうにしながらも、ようやく串へと口を寄せる。


先端に歯を立てた瞬間、じゅ、と脂がにじんだ。

熱にわずかに目を細めながら、ゆっくりと噛む。

もぐ、と小さく動く頬。


その様子を横目で見ていたシオンが鼻で笑った。


「子どもか」


ぽつりと落ちた一言に、ティアの動きがぴたりと止まる。


もぐ、と咀嚼したまま、ゆっくりと顔だけをシオンへ向けた。

その視線は、さっきまでとは違う意味でじっとりしている。


「……子どもじゃないもん」


低く、小さく、不満げに返す。

けれどその響きには、しっかりとした反発があった。


「そうか? 甘いものが無いと機嫌を損ねるあたり、十分それっぽいが」


淡々と、容赦なく追い打ちをかける。

悪気があるのかないのか分からない言い方だった。


一瞬の間。


「……別に、機嫌損ねてないし」


ほんのわずかに間を置いてからの否定。

膨れっ面のまま言われても説得力が皆無だ。


思わず吹き出してしまった。


「いや、その顔でそれ言うか?」


堪えきれずに肩を揺らすと、ティアのジトーッとした視線が今度はこちらに突き刺さる。

さっきまでシオンに向いていた圧が、そのまま流れてきたようだ。



「……レインもひどい」

「悪い悪い。でも分かりやすすぎるだろ」


そう言いながら肩をすくめると、ティアはむぅ、と小さく頬を膨らませたまま、もう一口串にかじりつく。

さっきより少しだけ強めに。


もぐもぐと噛みながら、ちら、とこちらを伺う視線。

その様子があまりにも子どもっぽくて、また笑いそうになる。


それを横目に見ながら、シオンも串焼きを口にした。


「……悪くない」






――




少し離れた場所から、その様子を見ている薄桃色のひとつの影があった。


足を止め、じっと視線を向けている。

人混みに紛れるでもなく、隠れるでもなく、そこに立ったまま。


その目には、信じられないものを目にしたとばかりに、驚愕の色を帯びていた。



見間違いじゃない。


あの姿。


あの立ち方。


――シオンだ。



「……は?」


低く、押し殺した声が零れる。


理解が、追いつかない。

いや、違う。

理解したくない。


どうしてそんな顔をしている。

どうしてそんな距離で立っている。

どうして、そんなふうに。

どうして。

どうして。

ドウシテ。



視線の先では、三人が何気ない様子で並んでいる。

会話も、仕草も、どこにでもあるような光景だった。

それ自体は、何もおかしくない。


だからこそ。


あれは許されない。



「なん、で……」




小さく呟く。

その声は震えていた。


どうしてそんな距離にいる。

どうして並んで歩いている。

どうして、そこにいる。


そこは。


そこはお前らが立っていい場所じゃない。



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