第80話 足を洗えと言ったでしょうが
昼食時――。
本校舎屋上で、俺はパンを囓りながら片手に持った一枚の紙を眺める。風になびく紙は、いまにも風に飛ばされてしまいそうだ。
パンを口に咥えて両手で紙の端を持ち、その皺を伸ばす。己の眉間には皺を刻みながら。
「ん~?」
ローレンス・ギーヴリー。
王立レアン騎士学校初等部教官。年齢二十二。
王都中央で司法に関する国政に従事する名門ギーヴリー伯爵家の長男。共和国戦に正騎士として参戦していた経歴を持つが、その際に特筆すべきことはない。停戦後は王国騎士団からレアン騎士学校へと出向、後進を育成することに意欲を見せている。
ライアン・ギーヴリー伯爵本人とは違い、ローレンスには政局への影響力が皆無ゆえ、人質としての価値は極めて低く、暗殺対象にも不適格。
整った顔立ちをしていて髪はブラウンの巻き毛で短髪、身長や体重は――……。
以上が元諜報員兼工作員兼暗殺者であるリオナの情報だ。
斜め読みでだいぶ圧縮された情報ではあるが、紙ペラ一枚には概ねそんなことしか書かれていなかった。その他の項目には、女好きと書かれている。
俺は紙を隣のリオナへと返し、口に咥えていたパンを手に戻した。
これらは共和国“施設”の極秘資料らしい。リオナの手元には、この学校に勤めている教官の数だけ存在しているそうだ。
さらに言えばローレンスの資料は一枚きりだが、リリの資料はその二十倍ほどの分厚さがあったそうだ。その大半が例の戦争で討ち取った共和国軍側の将校たちの名前と死亡日時、場所で埋められている。
ちなみに理事長の正体に関しては共和国側でもつかめていなかったらしく、キルプスの名はなかったそうだ。
「…………ギーヴリー……ギーヴリー……う~ん、誰だ……?」
やはり思い出せない。
このようなことなら思い出したフリなどせず、リリにちゃんと尋ねておけばよかった。あいつがあまりにも俺を視線で追い詰めるから、つい魔が差して。
屋上の柵にもたれて野菜ジュースを飲みながら、リオナが口を開いた。
「エルたんが入学試験のときに木剣で気絶させちゃった教官じゃん?」
「あー! あいつか!」
ブラウン髪で顔面は爽やか、だが性格は抜群に陰険糞野郎だったあいつだ。
そもそも十歳の子供が振るう木剣の一発で肋を五本も同時に砕かれるなどと、どういう受け方をすればあんな大事故に繋がるのだ。才能がないどころの話ではないだろう。
俺に言わせれば自ら折ったとしか思えん。普通に肉体を鍛えているだけでも、ああはならんぞ。ある意味では弱さを極めた天才だ。正騎士にしておくにはもったいない。
ペントハウスに腰を下ろしていたヴォイドが、鉄柵にもたれるリオナに尋ねる。
「よお、アサシン。おめえ、そんなんで足りんのか?」
「アサシン言うなっ」
リオナが野菜ジュースの入ったカップを持ち上げて歯を剥いた。
「ダイエットしてんのっ」
「ククク、ん~なつまんねえことしてるから育たねえんだよ。おら」
ヴォイドがリオナへとパンの入った紙袋を投げる。リオナはそれを受け止めながら、八重歯を牙のように剥いた。
「何がよ!」
「口に出して言ってほしいのか?」
「言うなっ、バカ! へんたい!」
「ククク」
文句を言いながらも紙袋から取り出して食べるあたり、やつらの仲も少しずつ改善されつつあるようだ。
共和国と切り離されたリオナには後ろ盾がない。つまり任務開始時に受け取った経費だけで、今後の学費を賄わなければならなくなった。
実は義理の娘になると勘違いをしてしまっているキルプスから、学費の肩代わりの要請があったそうだが、リオナ自身がそれを断ったそうだ。命を狙った者に対し、これからの自分を見て欲しかったのだとか。
そんなわけで、放課後にはアルバイトを始めたようだ。毎日ではなさそうだが。
そのような暮らしでは、ダイエットというのもアヤシい話だ。どちらかと言えば痩せ型に見えるくらいだ。
おそらく、ヴォイドもそれに気づいていたんだろうな。エルヴァのスラム出身者の金銭面に対する嗅覚は、下品な貴族どもの笑い話にされるくらいだから。
リオナが風に消え入りそうな声でつぶやく。
「…………あんがと……」
「……」
聞こえなかったのか、そういうフリをしているのか。ヴォイドはペントハウスの上で再び寝転んで、自分のパンを食べていた。
相変わらずのお人好しだ。
俺が余分に買ったパンは無駄になったようだ。余ってしまった体で最後に渡すつもりだったのだが、自分で食うか。
うまいな。焼きたてはやはりうまい。あーうまい。たまらん。小麦の匂いがいい。
「食べ方かわい……」
「……」
ちなみにオウジンはペントハウスの壁にもたれて座り、黙々と拳大に握り固められた米を食べている。すでにふたつ平らげたというのに、まだふたつも残っている。
案外大食いだな、こいつ。
「ぐふ……っぷ! ……んぐっ」
オウジンから変な音がして、米粒がわずかに飛び出した。どうやら大食いというわけではなく、むりやり腹に詰め込んでいるようだ。
わかるぞ、その気持ち。早く大きくなりたいよな。だが腹を壊しては何ひとつ栄養は吸収できないのだが。まあ生暖かい目で見守ってやろう。
ヴォイドが俺に尋ねる。
「んーで? そいつがどうしたって?」
「ダンジョンカリキュラムで高等部一組を魔物どものつゆ払いに使う意見を出したのがこいつだとさ。リリの話だから間違いはないだろう」
「へえ。俺ぁ別にそれでも構わねえぜ」
ペントハウスの上にヴォイドが寝転んだ。
「あのな、俺たちはいいだろうが、一組の他の生徒たちが危険だと言っているんだ」
「だろーな」
「だろーなっておまえ……」
どうせ真っ先に助けに動くくせに……。
と言いかけてやめておいた。変に意固地になられては困る。ヴォイドにはいままで通りであって欲しい。何とも情けない話だが、たかだか十五や十六のこいつを、俺は頼りに思ってしまっている。
俺がまだブライズだったら、強引に弟子にしてしまいたいくらいだ。
ため息をついた。
「そうなったのは、俺のせいかもしれんのだ。入学試験でローレンスの肋を五本ばかり砕いてしまったからな。あいつはたぶん俺を恨んでる。そのせいで一組全体が迷惑を被るのはさすがに気分が悪い」
「らしくねーな。どうせバカなんだから、はっきり言えや」
おい。
おまえが俺の弟子だったら、いまのは顔面往復拳骨ものだからな。
「……だから……その……おまえら三人には……助けてもらいたい……」
ミルクのパックを開けて口をつける。
あーうまい。ミルクはなぜこんなにうまいのだ。栄養価の高さといい、穢れなき白さといい、最高にイカした飲み物だ。うまいな。あーうまい。
眠そうな目でヴォイドがつぶやいた。
「おまえの飲み方……いや、何でもねえ」
「……」
リオナが鉄柵にコテンと首を置いて、俺に微笑みかける。
「じゃあ、あたしがローレンスを消しとこうか? 女好きなら簡単に呼び出せそうだし、夜に呼び出して暗闇で喉をスゥ~って」
俺は赤い飛沫ならぬ白い飛沫を噴いた。口に含んでいたミルクだ。
雲ひとつない空に霧となったミルクがキラキラと輝きながら広がる様は、まるで静かな冬の朝を連想させた。
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