徳川家康の「しかめっ面の肖像画」、実は腹を下していた件 ~三方ヶ原でボロ負けした夜の本当の話~
一六一五年 冬 駿河 駿府城
「父上。蔵の奥から、妙な絵が出てまいりました」
十男の頼宣が、細長い木箱を抱えて座敷に入ってきたとき、わしは火鉢にあたりながら、薬研で薬を挽いていた。
頼宣は、まだ若い。わしの子の中では末に近く、そのぶん甘やかしてしまった自覚はある。
紀伊の国を任せるつもりで育てているが、何にでも首を突っこむ癖が抜けず、城の蔵という蔵を、勝手に開けて回っている。
わしは、薬は自分で挽く。医者の出す薬は、どうにも信用できぬ。何が入っているか分からぬものを口に入れるくらいなら、自分で薬草の書を読み、自分で調合したほうがよい。
家臣たちは、天下人が薬研を挽く姿を見て妙な顔をするが、長生きした者が最後に勝つのだから、これも立派な戦の備えだ。
「父上、またお薬を挽いておられるのですか」
「お前こそ、また蔵を開けて回っておるのか。勝手に開けるなと、何度言えば分かる」
「申し訳ございませぬ。ですが、開けてみなければ、何が入っているか分かりませぬゆえ」
理屈としては、わしの薬と同じだった。言い返せなかった。
「それより父上。この箱に、お心当たりはございませぬか」
頼宣は、抱えてきた木箱を、わしの前に置いた。
「知らぬ。何が入っておる」
「それが、父上のお姿のようなのです。ですが、とても父上とは思えぬひどいお顔で」
頼宣は、箱から掛け軸を取り出し、わしの前に広げた。
わしは、薬研を挽く手を止めた。
鎧姿の男が、床几に腰かけている。片方の足を、もう片方の膝の上に乗せ、左手で頬杖をついている。眉は寄り、目はぎょろりと見開かれ、口はへの字にゆがみ、歯を食いしばっている。
見覚えがある、どころではなかった。
「・・・とうに、捨てられたと思っておった」
「やはりこれは、父上なのですね」
頼宣は、絵とわしの顔とを、遠慮もなく見比べた。眉の形、耳の形。ひとつずつ確かめては、うなずいている。
頼宣の目が、きらきらと輝きはじめた。まずい、と思った。この顔は、答えを聞くまで梃子でも動かぬ顔だ。
「父上、これはいつのお姿にございますか。なぜ、このようなお顔を。そもそも、なぜこのようなものを描かせたのです。いつから蔵に・・・」
「待て。いっぺんに言うな。どれから答えろと言うのじゃ」
幼い頃から、この子は問いを腹にためておけぬ。答えを待つより先に、次の問いが口から出てくる。
「では、なぜ描かせたのです」
助かった、と思った。ほかの問いは、とてもひと言では済まぬ。
「描かせてはおらぬ」
「では、どなたが描いたのです。天下の父上を、断りもなくこのようなお姿に」
頼宣は、膝でひとつ、にじり寄った。掛け軸の端が、その膝に踏まれかけた。
「勝手に描かれたのじゃ」
頼宣は、ひとりで深くうなずいた。
「分かりました。これは、戒めの絵にございますね」
頼宣は、得意顔で後を続けた。
「大きな負け戦のあと、父上は、ご自分の情けないお姿を絵に描かせ、二度と慢心せぬよう、生涯おそばに置かれた。そうでございましょう」
「違う」
「そんなはずは・・・」
「まったく違う」
頼宣は、明らかにがっかりした顔をした。自分で組み立てた話が、よほど気に入っていたらしい。
「では、討ち死にを覚悟なされたお姿」
「それも違う。死ぬ気なら、こんな座り方はせぬ」
頼宣は、腕を組んで考えこんだ。蔵を開けて回るのと同じ熱心さで、わしの昔を開けようとしている。
わしは、ため息をついて、薬研を脇へ寄せた。
この絵のいわれを知っている者は、もう、わしのほかには誰もいない。描いた絵師も、そばにいた家臣たちも、皆とうに死んだ。わしが黙っていれば、この絵は、いずれ誰かの勝手な話と一緒に、後の世へ伝わっていくのだろう。
それも、少しばかり癪だった。
「分かった、頼宣。話してやる。ただし、笑うな」
「決して、笑いませぬ」
「必ず笑う。じゃが、最後まで聞け」
一五七二年 冬 遠江 三方ヶ原
あの日、わしは、生まれて一番の負け戦をした。
相手は、甲斐の武田信玄だった。
信玄は二万を超える大軍で遠江に攻めこみ、わしの浜松城の前を、素通りしていった。城を攻めもせず、こちらに尻を向けて、三方ヶ原の台地を悠々と西へ進んでいく。
家臣たちも、信長殿からの援軍も、城に籠もれと言った。わしも、頭ではそれが正しいと分かっていた。
だが、目の前を素通りされて、黙って見送ったとあっては、遠江の国衆は誰もわしについてこなくなる。若かったわしは、そう考えた。いや、本当のところは、悔しかっただけかもしれぬ。
今思えば、あれは、目の前で餅をちらつかされた子どもと同じだった。信玄は、わしが手を伸ばすのを、ちゃんと待っていた。あの老人は、わしの悔しがる顔まで、最初から勘定に入れていたのだろう。
城を出ると決めたあの日の軍議を、わしは今でも覚えている。
酒井忠次も石川数正も、籠城すべしと言った。信長殿から遣わされた援軍の将たちも、口をそろえた。皆、正しいことを言っていた。
わしだけが、出ると言い張った。
軍議が荒れたあと、夏目吉信が、飯に湯をかけただけの湯漬けの椀を持って、わしの前に来た。浜松城の留守居を任せていた、年配の家臣だ。祖父の代からわしの家に仕え、わしが人質に出されていた頃のことも知っている。
「殿。出陣なさるにせよ、なさらぬにせよ、腹がすいていては、よい思案は浮かびませぬ。せめて、これを」
「いらぬ。それどころではない」
椀からは、まだ湯気が立っていた。夏目は、椀を引っこめもせず、わしの前に置いたまま膝をそろえていた。
「腹がすいていると、人は、つまらぬ意地を張りまする」
「すいてなどおらぬ。意地ではない」
わしは、湯漬けに手もつけずに立ち上がった。夏目は、何も言わずに椀を下げた。その背中が、少しさびしそうに見えた。
わしは、城を出た。
そして、三方ヶ原の台地の上で、信玄が待ちかまえていた。
坂を上ったところで、魚鱗の陣を組んだ武田勢が、こちらを向いて並んでいた。素通りではなかった。わしを城からおびき出すための、見せかけだった。そう気づいたときには、もう遅かった。
戦は、半刻ももたなかった。
武田の騎馬が、わしの陣を、端から順に食い破っていった。鳥居の隊が崩れ、本多が押されると、あとは総崩れだった。日が暮れかけた台地に、わしの家臣たちの悲鳴と、武田の鬨の声が満ちた。
「殿、お退きくだされ」
夏目吉信が、わしの馬の轡をつかんでいた。城に残していたはずの夏目だった。わしの身を案じて、城から駆けつけてきたのだという。
「退かぬと申しておる。ここで退いたら、わしは」
「殿、御免」
夏目は、わしの言葉を最後まで聞かなかった。わしの馬の尻を、槍の柄で思いきり叩いた。馬は棹立ちになり、城の方角へ走り出した。
振り返ると、夏目が、わしの来た道に立ちはだかっていた。
「我こそは、徳川三河守家康なり」
夏目の声が、夕暮れの台地に響いた。武田の兵が、その声に向かって殺到していくのが見えた。
わしは、手綱を握りしめたまま、前を向いた。振り返ることは、もうできなかった。
◇
頼宣が、膝の上で拳を握りしめていた。座敷の火鉢で、炭がひとつ、ぱちりとはぜた。
「父上ほどのお方でも、そのような負け方をなさったのですね」
「そう呼ばれる前の話じゃ。負けたから、そう呼ばれるようになったのかもしれぬ」
頼宣は、よく分からないという顔をした。分からなくてよい。
「・・・夏目殿が、父上の身代わりに」
「そうじゃ。わしの名を名乗って、わしの代わりに討たれた」
わしは、火箸で炭をひとつ返した。夏目の話をすると、手が、何かをしたがる。
「分かりました。それで父上は、夏目殿のご恩を忘れぬよう、あの絵を描かせたのですね。今度こそ、間違いございますまい」
「まあ待て、そう早まるな。話には、続きがある」
わしは、咳払いをした。ここからが、言いにくいところだった。
◇
浜松城までの道は、生きた心地がしなかった。
後ろから武田の兵が追ってくる。わしの周りには、わずかな供回りしか残っていない。馬は泡を吹き、わしは鞍の上で、ただしがみついていた。
途中で一度、馬が石につまずいた。わしは鞍から放り出されかけ、供の者に帯をつかまれて、どうにか踏みとどまった。暗くなりかけた台地のあちこちで、まだ誰かが戦っている音がした。そのひとつひとつが、わしの家臣の最期の音かもしれなかった。
わしは、何度も城の方角を確かめた。確かめるたびに、城は、まだ遠かった。
恐ろしかった。
恥を忍んで言うが、わしは、恐ろしさのあまり、腹の具合がおかしくなっていた。朝から何も食わずに戦い、冷えた風にさらされ、負けて、追われて、夏目を置いてきた。腹の底がぐるぐると鳴り、冷や汗が止まらなかった。
そして、浜松城の門が見えてきたあたりで、わしの腹は、ついに、こらえきれなくなったのじゃ。
◇
「・・・頼宣。笑うなと言ったな」
「笑っておりませぬ」
頼宣の口の端が、ひくひくと震えていた。
◇
浜松城に駆けこむと、わしは門を開けたままにさせ、篝火を盛大に焚かせた。
追ってきた武田の兵は、開け放たれた門と、煌々と燃える篝火を見て、何か罠があると思ったらしい。門の前で足を止め、しばらく様子をうかがったあと、引き上げていった。酒井忠次が、櫓の上で、夜通し太鼓を打ち鳴らしてくれた。
そうして、ようやく城の奥へ入ったとき、大久保忠世が、鼻をひくつかせながらわしのそばへ寄ってきた。
「殿。何やら、匂いますな」
大久保は、わしの鞍のあたりを見て、それからわしの顔を見た。家臣たちの目が、いっせいにわしに集まった。
負けて逃げ帰り、腹まで下した大将に、言えることは多くない。だが、ここで認めては、徳川の家は終わりだ。少なくとも、そのときのわしは、本気でそう思った。
わしは、胸を張って言った。
「焼き味噌じゃ。腰に下げておった焼き味噌が、馬に揺られて、つぶれたのじゃ」
大久保は、しばらく黙って、わしの顔を見つめていた。
「さようでございますか。焼き味噌が」
「そうじゃ」
「殿の焼き味噌は、ずいぶんと、おかしなところから匂いますな」
家臣たちが、いっせいに下を向いた。肩が、そろって震えている。負け戦の夜だというのに、誰かが、こらえきれずに鼻を鳴らした。
◇
頼宣は、とうとう畳に突っ伏していた。
「・・・笑うなと、言ったであろう」
「も、申し訳、ございませぬ」
頼宣は、涙を拭きながら顔を上げた。
「では、あの絵のお顔は、腹が痛くて」
「それも、ある」
◇
その頃、浜松城には、ひとりの絵師が逗留していた。
京から流れてきた、名もない絵師だった。城の広間の襖絵を描かせるために、ひと月ほど前から城に置いていた。戦のあいだは、蔵の隅で震えていたらしい。
わしが着替えを済ませ、腹の痛みをこらえながら広間の床几に腰を下ろすと、その絵師が、紙と筆を抱えて、そろそろと入ってきた。
「殿。お願いがございます」
わしは、目だけで先をうながした。
絵師は、わしの前に膝をつき、紙を胸に抱えたまま、まっすぐわしの顔を見上げた。震えていたくせに、目だけは妙に据わっていた。
「今の殿のお姿を、描かせていただきとうございます」
わしは、絵師をにらみつけた。
「負けて逃げて帰ってきた大将なぞ、描いてどうする」
「描きとうございます。殿のお顔は、今が、いちばんよいお顔にございます」
言ってから、絵師は自分の言葉に驚いたように首をすくめた。それでも、紙は胸から離さなかった。
「何を言うておる。ひどい顔であろうが」
「はい。ひどいお顔にございます。ですから、描きとうございます」
絵師は、筆の先を舐めながら言った。
「勝ち戦のあとの大将は、どなたも同じお顔をなさいます。胸を張り、口をきりりと結び、遠くを見ておられる。手前どもは、そういうお顔を、何十と描いてまいりました」
絵師が少し間を置いて続けた。
「ですが、負け戦のあとのお顔は、おひとりずつ、まるで違います。そういうお顔は、めったに描かせていただけませぬ」
わしは言い返そうとして、腹の痛みに顔をしかめた。言い返す気力が、もう残っていなかった。
「勝手にせよ」
絵師はわしの前に紙を広げ、黙って筆を動かしはじめた。
わしは床几の上で、片足をもう片方の膝に乗せた。そうしていると、腹の痛みが、少しだけましになった。左手で頬杖をつき、奥歯を噛みしめた。腹が、またぐるぐると鳴った。
そうしているうちに、夏目の声が、耳の奥でよみがえってきた。
我こそは、徳川三河守家康なり。
あの声のあと、夏目がどうなったのか。わしは、まだ知らされていなかった。だが、知らされずとも分かっていた。あの台地に、あの声で名乗りを上げた者が、生きて帰ってくるはずがない。
わしのせいだった。城に籠もれと言われたのに、出た。悔しかったから出た。その悔しさの代わりに、夏目が死んだ。
目の奥が、熱くなった。大将が、家臣の前で泣くわけにはいかない。わしは、奥歯をいっそう強く噛み、目を見開いて、こらえた。腹の痛みと、涙と、悔しさと、情けなさが、全部いっしょになって、顔の上でせめぎあっていた。
絵師の筆は、そのあいだ、一度も止まらなかった。
ときおり、広間の外を家臣が通りかかった。床几の上で妙な座り方をして、奥歯を噛みしめている主君と、その前で黙々と筆を走らせる絵師を見て、誰もが足を止め、何も言わずに去っていった。負け戦の夜の城では、何が起きても不思議ではないと思ったのだろう。
わしはその絵師の名を、ついに聞かずじまいだった。春が来る前に、絵師は襖絵を仕上げぬまま、ふらりと京へ戻っていった。
残ったのは、このひどい顔の絵、ただ一枚だけだった。
◇
その夜遅く、夏目の討ち死にの知らせが届いた。
知らせを持ってきた家臣が下がると、入れ替わりに、台所の者が膳を運んできた。
湯漬けだった。
「夏目様が、ご出陣の前に、台所へ申しつけていかれました。殿がお戻りになったら、これを温め直してお出しせよ、と。殿はきっと、何も召し上がらずに出ていかれるだろうから、と」
わしは、膳を見下ろした。湯気の向こうで、飯粒が白く光っていた。軍議のあと、わしが手もつけずに突き返したのと、同じ湯漬けが、そこにあった。
夏目は、わしが城を出ることも、何も食わずに出ることも、分かっていた。分かっていて、黙って椀を下げ、台所に言いつけ、そしてわしを追って台地へ駆けつけた。
湯漬けをひと口食べると、冷えきった腹の底に、温かいものが落ちていった。ふた口目で、喉が詰まった。
台所の者を下がらせて、広間でひとりになってから、わしはようやく泣いた。誰にも見られぬよう、障子に背を向け、声を殺して、湯漬けを食いながら泣いた。腹は、もう痛くなかった。
しばらくして、障子の外で、遠慮がちな咳払いが聞こえた。絵師だった。
「殿。描き上がりましてございます」
差し出された紙を、わしは灯りの下で見た。
さっきまで床几の上にいたひどい顔のわしが、そのまま紙の上にいた。天下に名を知られた大将の姿とは、とても思えない。
腹を下した男の顔にも見えるし、泣くのをこらえている男の顔にも見える。どちらも、本当だった。
「・・・燃やせ」
「殿。それは、あまりに」
絵師は、紙を胸に引き寄せた。蔵の隅で震えていた男が、このときだけは、わしの手から絵をかばうような抱え方をした。
「こんなものが残れば、末代までの恥じゃ。はよう燃やせ」
絵師は、それでも動かなかった。わしは、もう一度、絵を見た。
ひどい顔の奥に、夏目の名乗りの声が聞こえる気がした。この顔は、夏目がわしの代わりに死んだ夜の顔だ。
わしは、紙から目をそらした。
「・・・いや。燃やすのは、やめじゃ」
「は。では、殿のお手元に」
「どこか、わしの目の届かぬところへしまっておけ。わしが生きているうちは、二度と見せるな」
翌朝、広間に入ってきた大久保忠世が、絵師の手元をのぞきこんで、うなった。
「これは、見事に、焼き味噌のお顔にございますな」
わしは絵をひったくり、絵師に押しつけた。
「しまえ。はようしまえ。大久保、お前はこの絵のことも、焼き味噌のことも、生涯口にするな。死んだ後もじゃ」
「承知つかまつりました」
大久保は、まじめくさった顔で頭を下げた。
その日のうちに、城じゅうの者が焼き味噌の話を知っていた。
◇
頼宣は、しばらく黙っていた。笑ってもいなかった。
「父上。夏目殿の湯漬けは、おいしゅうございましたか」
「・・・塩が、効きすぎておった」
そう答えると、頼宣は、何も言わずにうなずいた。
夏目の名は、あれから一度も、わしの家で粗末に扱わせたことはない。
「絵のほうは、それきり、忘れておった」
わしは、掛け軸を見下ろした。
あの夜から、もう四十年以上が過ぎた。信玄が死に、信長殿が死に、太閤殿下も死んだ。夜通し太鼓を打ってくれた酒井も、焼き味噌の大久保も、もういない。
わしは関ヶ原に勝ち、この夏には大坂の城も落とした。天下は、ようやく静かになった。
そのあいだ、わしは何度も負けそうになり、何度も逃げた。そのたびに、あの夜の腹の痛みと、夏目の声を思い出した。絵を見なくても、思い出せた。
「では、やはり、これは戒めの絵ではないのですね」
頼宣は、居住まいを正し、掛け軸を、わしとのあいだに置き直した。
「違う。腹を下して、泣くのをこらえていた男の絵じゃ。それだけの絵じゃ」
頼宣は、掛け軸の中のひどい顔を、じっと見つめた。
「ですが父上、それがしにはやはり、戒めの絵に見えます」
「なぜじゃ。描かれた当の本人が、違うと言うておるのに」
わしは、脇へ寄せた薬研に手を伸ばしかけて、やめた。この子が何と答えるのか、聞いてみたくなった。
「この絵を見ると、負け戦をしてはならぬと思います。家臣を死なせてはならぬと思います。それに」
頼宣は、少し笑った。
「戦の前には、腹をこわすような物を食うまいと思います」
わしは、思わず吹き出した。腹の底から笑ったのは、久しぶりだった。
腹がすいていると、人はつまらぬ意地を張る。あの日、夏目はそう言って、湯漬けを差し出した。
頼宣は、掛け軸を丁寧に巻きはじめた。
「父上。この絵、それがしにいただけませぬか。紀伊へ持ってまいります」
「こんなひどい顔を、持っていってどうする」
頼宣は、巻く手を止めなかった。
「家の宝にいたします。戒めの絵として。紀伊の者たちにも、戦の前には必ずこれを見せまする」
頼宣は、巻き終えた掛け軸を、両手でうやうやしく捧げ持った。
「だから、戒めの絵ではないと言うておる」
「父上がそう仰せでも、後の世の者は、きっとそう呼びます」
わしは、頼宣の顔を見た。若い顔だった。悔しさだけで城を飛び出したあの夜のわしより、まだずっと若い。
戒めなどというものは、いつも、あとから誰かが勝手につけるものだ。本人は、そのとき、ただ腹が痛いか、泣きたいかしているだけだ。
「・・・好きにせよ」
「ありがとうございます」
頼宣は、掛け軸を胸に抱えたまま、深々と頭を下げた。下げた頭を上げるより先に、わしは釘を刺した。
「ただし、頼宣。焼き味噌の話だけは、誰にも言うな。子にも、孫にも、決して伝えてはならぬ」
頼宣は、神妙にうなずいた。
「承知いたしました。焼き味噌のことは、紀州徳川家の秘中の秘といたします」
「やめてくれ、忘れろと言うておる」
頼宣は、笑いをこらえながら座敷を出ていった。廊下の向こうで、とうとうこらえきれなくなった笑い声が、遠ざかっていくのが聞こえた。
わしは、ため息をついて、薬研を引き寄せた。
後の世の者が、あの絵を何と呼ぶのかは知らぬ。戒めの絵でも、しかめ面の絵でも、好きに呼べばよい。
ただ、焼き味噌とだけは、呼んでくれるな。
・・・頼む、頼宣・・・
最後まで、お読みいただきありがとうございます。
楽しんでいただけたら、ブックマークと、下の☆での評価で教えてください。とても励みになります。
「この人物の話が読みたい」なども、感想で教えてもらえると嬉しいです。
【連載中の作品のお知らせ】
『内科医が豊臣秀長に転生して長生きを目指したのに、史実どおりに死んだので二度目は本気で生き延びます ~俺が死ぬと豊臣家が滅ぶ~』
病で死ぬ運命の秀長に転生した内科医が、兄・秀吉と豊臣家を守るために長生きを目指す物語です。徳川家康も登場します。
https://ncode.syosetu.com/n1347my/
『長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―』
真っ先に敵陣へ駆けていく妻・お市と、その後ろで勝ちを整える夫・浅井長政の、戦国夫婦の物語です。
https://ncode.syosetu.com/n5065ms/




