↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

徳川家康の「しかめっ面の肖像画」、実は腹を下していた件 ~三方ヶ原でボロ負けした夜の本当の話~

作者: 島村 巡
掲載日:2026/10/31

 一六一五年 冬  駿河 駿府城



「父上。蔵の奥から、妙な絵が出てまいりました」


 十男の頼宣が、細長い木箱を抱えて座敷に入ってきたとき、わしは火鉢にあたりながら、薬研で薬を挽いていた。


 頼宣は、まだ若い。わしの子の中では末に近く、そのぶん甘やかしてしまった自覚はある。


 紀伊の国を任せるつもりで育てているが、何にでも首を突っこむ癖が抜けず、城の蔵という蔵を、勝手に開けて回っている。


 わしは、薬は自分で挽く。医者の出す薬は、どうにも信用できぬ。何が入っているか分からぬものを口に入れるくらいなら、自分で薬草の書を読み、自分で調合したほうがよい。


 家臣たちは、天下人が薬研を挽く姿を見て妙な顔をするが、長生きした者が最後に勝つのだから、これも立派な戦の備えだ。


「父上、またお薬を挽いておられるのですか」


「お前こそ、また蔵を開けて回っておるのか。勝手に開けるなと、何度言えば分かる」


「申し訳ございませぬ。ですが、開けてみなければ、何が入っているか分かりませぬゆえ」


 理屈としては、わしの薬と同じだった。言い返せなかった。


「それより父上。この箱に、お心当たりはございませぬか」


 頼宣は、抱えてきた木箱を、わしの前に置いた。


「知らぬ。何が入っておる」


「それが、父上のお姿のようなのです。ですが、とても父上とは思えぬひどいお顔で」


 頼宣は、箱から掛け軸を取り出し、わしの前に広げた。


 わしは、薬研を挽く手を止めた。


 鎧姿の男が、床几に腰かけている。片方の足を、もう片方の膝の上に乗せ、左手で頬杖をついている。眉は寄り、目はぎょろりと見開かれ、口はへの字にゆがみ、歯を食いしばっている。


 見覚えがある、どころではなかった。


「・・・とうに、捨てられたと思っておった」


「やはりこれは、父上なのですね」


 頼宣は、絵とわしの顔とを、遠慮もなく見比べた。眉の形、耳の形。ひとつずつ確かめては、うなずいている。


 頼宣の目が、きらきらと輝きはじめた。まずい、と思った。この顔は、答えを聞くまで梃子でも動かぬ顔だ。


「父上、これはいつのお姿にございますか。なぜ、このようなお顔を。そもそも、なぜこのようなものを描かせたのです。いつから蔵に・・・」


「待て。いっぺんに言うな。どれから答えろと言うのじゃ」


 幼い頃から、この子は問いを腹にためておけぬ。答えを待つより先に、次の問いが口から出てくる。


「では、なぜ描かせたのです」


 助かった、と思った。ほかの問いは、とてもひと言では済まぬ。


「描かせてはおらぬ」


「では、どなたが描いたのです。天下の父上を、断りもなくこのようなお姿に」


 頼宣は、膝でひとつ、にじり寄った。掛け軸の端が、その膝に踏まれかけた。


「勝手に描かれたのじゃ」


 頼宣は、ひとりで深くうなずいた。


「分かりました。これは、戒めの絵にございますね」


 頼宣は、得意顔で後を続けた。


「大きな負け戦のあと、父上は、ご自分の情けないお姿を絵に描かせ、二度と慢心せぬよう、生涯おそばに置かれた。そうでございましょう」


「違う」


「そんなはずは・・・」


「まったく違う」


 頼宣は、明らかにがっかりした顔をした。自分で組み立てた話が、よほど気に入っていたらしい。


「では、討ち死にを覚悟なされたお姿」


「それも違う。死ぬ気なら、こんな座り方はせぬ」


 頼宣は、腕を組んで考えこんだ。蔵を開けて回るのと同じ熱心さで、わしの昔を開けようとしている。


 わしは、ため息をついて、薬研を脇へ寄せた。


 この絵のいわれを知っている者は、もう、わしのほかには誰もいない。描いた絵師も、そばにいた家臣たちも、皆とうに死んだ。わしが黙っていれば、この絵は、いずれ誰かの勝手な話と一緒に、後の世へ伝わっていくのだろう。


 それも、少しばかり癪だった。


「分かった、頼宣。話してやる。ただし、笑うな」


「決して、笑いませぬ」


「必ず笑う。じゃが、最後まで聞け」



 一五七二年 冬  遠江 三方ヶ原



 あの日、わしは、生まれて一番の負け戦をした。


 相手は、甲斐の武田信玄だった。


 信玄は二万を超える大軍で遠江に攻めこみ、わしの浜松城の前を、素通りしていった。城を攻めもせず、こちらに尻を向けて、三方ヶ原の台地を悠々と西へ進んでいく。


 家臣たちも、信長殿からの援軍も、城に籠もれと言った。わしも、頭ではそれが正しいと分かっていた。


 だが、目の前を素通りされて、黙って見送ったとあっては、遠江の国衆は誰もわしについてこなくなる。若かったわしは、そう考えた。いや、本当のところは、悔しかっただけかもしれぬ。


 今思えば、あれは、目の前で餅をちらつかされた子どもと同じだった。信玄は、わしが手を伸ばすのを、ちゃんと待っていた。あの老人は、わしの悔しがる顔まで、最初から勘定に入れていたのだろう。


 城を出ると決めたあの日の軍議を、わしは今でも覚えている。


 酒井忠次も石川数正も、籠城すべしと言った。信長殿から遣わされた援軍の将たちも、口をそろえた。皆、正しいことを言っていた。


 わしだけが、出ると言い張った。


 軍議が荒れたあと、夏目吉信が、飯に湯をかけただけの湯漬けの椀を持って、わしの前に来た。浜松城の留守居を任せていた、年配の家臣だ。祖父の代からわしの家に仕え、わしが人質に出されていた頃のことも知っている。


「殿。出陣なさるにせよ、なさらぬにせよ、腹がすいていては、よい思案は浮かびませぬ。せめて、これを」


「いらぬ。それどころではない」


 椀からは、まだ湯気が立っていた。夏目は、椀を引っこめもせず、わしの前に置いたまま膝をそろえていた。


「腹がすいていると、人は、つまらぬ意地を張りまする」


「すいてなどおらぬ。意地ではない」


 わしは、湯漬けに手もつけずに立ち上がった。夏目は、何も言わずに椀を下げた。その背中が、少しさびしそうに見えた。


 わしは、城を出た。


 そして、三方ヶ原の台地の上で、信玄が待ちかまえていた。


 坂を上ったところで、魚鱗の陣を組んだ武田勢が、こちらを向いて並んでいた。素通りではなかった。わしを城からおびき出すための、見せかけだった。そう気づいたときには、もう遅かった。


 戦は、半刻ももたなかった。


 武田の騎馬が、わしの陣を、端から順に食い破っていった。鳥居の隊が崩れ、本多が押されると、あとは総崩れだった。日が暮れかけた台地に、わしの家臣たちの悲鳴と、武田の鬨の声が満ちた。


「殿、お退きくだされ」


 夏目吉信が、わしの馬の轡をつかんでいた。城に残していたはずの夏目だった。わしの身を案じて、城から駆けつけてきたのだという。


「退かぬと申しておる。ここで退いたら、わしは」


「殿、御免」


 夏目は、わしの言葉を最後まで聞かなかった。わしの馬の尻を、槍の柄で思いきり叩いた。馬は棹立ちになり、城の方角へ走り出した。


 振り返ると、夏目が、わしの来た道に立ちはだかっていた。


「我こそは、徳川三河守家康なり」


 夏目の声が、夕暮れの台地に響いた。武田の兵が、その声に向かって殺到していくのが見えた。


 わしは、手綱を握りしめたまま、前を向いた。振り返ることは、もうできなかった。


 ◇


 頼宣が、膝の上で拳を握りしめていた。座敷の火鉢で、炭がひとつ、ぱちりとはぜた。


「父上ほどのお方でも、そのような負け方をなさったのですね」


「そう呼ばれる前の話じゃ。負けたから、そう呼ばれるようになったのかもしれぬ」


 頼宣は、よく分からないという顔をした。分からなくてよい。


「・・・夏目殿が、父上の身代わりに」


「そうじゃ。わしの名を名乗って、わしの代わりに討たれた」


 わしは、火箸で炭をひとつ返した。夏目の話をすると、手が、何かをしたがる。


「分かりました。それで父上は、夏目殿のご恩を忘れぬよう、あの絵を描かせたのですね。今度こそ、間違いございますまい」


「まあ待て、そう早まるな。話には、続きがある」


 わしは、咳払いをした。ここからが、言いにくいところだった。


 ◇


 浜松城までの道は、生きた心地がしなかった。


 後ろから武田の兵が追ってくる。わしの周りには、わずかな供回りしか残っていない。馬は泡を吹き、わしは鞍の上で、ただしがみついていた。


 途中で一度、馬が石につまずいた。わしは鞍から放り出されかけ、供の者に帯をつかまれて、どうにか踏みとどまった。暗くなりかけた台地のあちこちで、まだ誰かが戦っている音がした。そのひとつひとつが、わしの家臣の最期の音かもしれなかった。


 わしは、何度も城の方角を確かめた。確かめるたびに、城は、まだ遠かった。


 恐ろしかった。


 恥を忍んで言うが、わしは、恐ろしさのあまり、腹の具合がおかしくなっていた。朝から何も食わずに戦い、冷えた風にさらされ、負けて、追われて、夏目を置いてきた。腹の底がぐるぐると鳴り、冷や汗が止まらなかった。


 そして、浜松城の門が見えてきたあたりで、わしの腹は、ついに、こらえきれなくなったのじゃ。


 ◇


「・・・頼宣。笑うなと言ったな」


「笑っておりませぬ」


 頼宣の口の端が、ひくひくと震えていた。


 ◇


 浜松城に駆けこむと、わしは門を開けたままにさせ、篝火を盛大に焚かせた。


 追ってきた武田の兵は、開け放たれた門と、煌々と燃える篝火を見て、何か罠があると思ったらしい。門の前で足を止め、しばらく様子をうかがったあと、引き上げていった。酒井忠次が、櫓の上で、夜通し太鼓を打ち鳴らしてくれた。


 そうして、ようやく城の奥へ入ったとき、大久保忠世が、鼻をひくつかせながらわしのそばへ寄ってきた。


「殿。何やら、匂いますな」


 大久保は、わしの鞍のあたりを見て、それからわしの顔を見た。家臣たちの目が、いっせいにわしに集まった。


 負けて逃げ帰り、腹まで下した大将に、言えることは多くない。だが、ここで認めては、徳川の家は終わりだ。少なくとも、そのときのわしは、本気でそう思った。


 わしは、胸を張って言った。


「焼き味噌じゃ。腰に下げておった焼き味噌が、馬に揺られて、つぶれたのじゃ」


 大久保は、しばらく黙って、わしの顔を見つめていた。


「さようでございますか。焼き味噌が」


「そうじゃ」


「殿の焼き味噌は、ずいぶんと、おかしなところから匂いますな」


 家臣たちが、いっせいに下を向いた。肩が、そろって震えている。負け戦の夜だというのに、誰かが、こらえきれずに鼻を鳴らした。


 ◇


 頼宣は、とうとう畳に突っ伏していた。


「・・・笑うなと、言ったであろう」


「も、申し訳、ございませぬ」


 頼宣は、涙を拭きながら顔を上げた。


「では、あの絵のお顔は、腹が痛くて」


「それも、ある」


 ◇


 その頃、浜松城には、ひとりの絵師が逗留していた。


 京から流れてきた、名もない絵師だった。城の広間の襖絵を描かせるために、ひと月ほど前から城に置いていた。戦のあいだは、蔵の隅で震えていたらしい。


 わしが着替えを済ませ、腹の痛みをこらえながら広間の床几に腰を下ろすと、その絵師が、紙と筆を抱えて、そろそろと入ってきた。


「殿。お願いがございます」


 わしは、目だけで先をうながした。


 絵師は、わしの前に膝をつき、紙を胸に抱えたまま、まっすぐわしの顔を見上げた。震えていたくせに、目だけは妙に据わっていた。


「今の殿のお姿を、描かせていただきとうございます」


 わしは、絵師をにらみつけた。


「負けて逃げて帰ってきた大将なぞ、描いてどうする」


「描きとうございます。殿のお顔は、今が、いちばんよいお顔にございます」


 言ってから、絵師は自分の言葉に驚いたように首をすくめた。それでも、紙は胸から離さなかった。


「何を言うておる。ひどい顔であろうが」


「はい。ひどいお顔にございます。ですから、描きとうございます」


 絵師は、筆の先を舐めながら言った。


「勝ち戦のあとの大将は、どなたも同じお顔をなさいます。胸を張り、口をきりりと結び、遠くを見ておられる。手前どもは、そういうお顔を、何十と描いてまいりました」


 絵師が少し間を置いて続けた。


「ですが、負け戦のあとのお顔は、おひとりずつ、まるで違います。そういうお顔は、めったに描かせていただけませぬ」


 わしは言い返そうとして、腹の痛みに顔をしかめた。言い返す気力が、もう残っていなかった。


「勝手にせよ」


 絵師はわしの前に紙を広げ、黙って筆を動かしはじめた。


 わしは床几の上で、片足をもう片方の膝に乗せた。そうしていると、腹の痛みが、少しだけましになった。左手で頬杖をつき、奥歯を噛みしめた。腹が、またぐるぐると鳴った。


 そうしているうちに、夏目の声が、耳の奥でよみがえってきた。


 我こそは、徳川三河守家康なり。


 あの声のあと、夏目がどうなったのか。わしは、まだ知らされていなかった。だが、知らされずとも分かっていた。あの台地に、あの声で名乗りを上げた者が、生きて帰ってくるはずがない。


 わしのせいだった。城に籠もれと言われたのに、出た。悔しかったから出た。その悔しさの代わりに、夏目が死んだ。


 目の奥が、熱くなった。大将が、家臣の前で泣くわけにはいかない。わしは、奥歯をいっそう強く噛み、目を見開いて、こらえた。腹の痛みと、涙と、悔しさと、情けなさが、全部いっしょになって、顔の上でせめぎあっていた。


 絵師の筆は、そのあいだ、一度も止まらなかった。


 ときおり、広間の外を家臣が通りかかった。床几の上で妙な座り方をして、奥歯を噛みしめている主君と、その前で黙々と筆を走らせる絵師を見て、誰もが足を止め、何も言わずに去っていった。負け戦の夜の城では、何が起きても不思議ではないと思ったのだろう。


 わしはその絵師の名を、ついに聞かずじまいだった。春が来る前に、絵師は襖絵を仕上げぬまま、ふらりと京へ戻っていった。


 残ったのは、このひどい顔の絵、ただ一枚だけだった。


 ◇


 その夜遅く、夏目の討ち死にの知らせが届いた。


 知らせを持ってきた家臣が下がると、入れ替わりに、台所の者が膳を運んできた。


 湯漬けだった。


「夏目様が、ご出陣の前に、台所へ申しつけていかれました。殿がお戻りになったら、これを温め直してお出しせよ、と。殿はきっと、何も召し上がらずに出ていかれるだろうから、と」


 わしは、膳を見下ろした。湯気の向こうで、飯粒が白く光っていた。軍議のあと、わしが手もつけずに突き返したのと、同じ湯漬けが、そこにあった。


 夏目は、わしが城を出ることも、何も食わずに出ることも、分かっていた。分かっていて、黙って椀を下げ、台所に言いつけ、そしてわしを追って台地へ駆けつけた。


 湯漬けをひと口食べると、冷えきった腹の底に、温かいものが落ちていった。ふた口目で、喉が詰まった。


 台所の者を下がらせて、広間でひとりになってから、わしはようやく泣いた。誰にも見られぬよう、障子に背を向け、声を殺して、湯漬けを食いながら泣いた。腹は、もう痛くなかった。


 しばらくして、障子の外で、遠慮がちな咳払いが聞こえた。絵師だった。


「殿。描き上がりましてございます」


 差し出された紙を、わしは灯りの下で見た。


 さっきまで床几の上にいたひどい顔のわしが、そのまま紙の上にいた。天下に名を知られた大将の姿とは、とても思えない。


 腹を下した男の顔にも見えるし、泣くのをこらえている男の顔にも見える。どちらも、本当だった。


「・・・燃やせ」


「殿。それは、あまりに」


 絵師は、紙を胸に引き寄せた。蔵の隅で震えていた男が、このときだけは、わしの手から絵をかばうような抱え方をした。


「こんなものが残れば、末代までの恥じゃ。はよう燃やせ」


 絵師は、それでも動かなかった。わしは、もう一度、絵を見た。


 ひどい顔の奥に、夏目の名乗りの声が聞こえる気がした。この顔は、夏目がわしの代わりに死んだ夜の顔だ。


 わしは、紙から目をそらした。


「・・・いや。燃やすのは、やめじゃ」


「は。では、殿のお手元に」


「どこか、わしの目の届かぬところへしまっておけ。わしが生きているうちは、二度と見せるな」


 翌朝、広間に入ってきた大久保忠世が、絵師の手元をのぞきこんで、うなった。


「これは、見事に、焼き味噌のお顔にございますな」


 わしは絵をひったくり、絵師に押しつけた。


「しまえ。はようしまえ。大久保、お前はこの絵のことも、焼き味噌のことも、生涯口にするな。死んだ後もじゃ」


「承知つかまつりました」


 大久保は、まじめくさった顔で頭を下げた。


 その日のうちに、城じゅうの者が焼き味噌の話を知っていた。


 ◇


 頼宣は、しばらく黙っていた。笑ってもいなかった。


「父上。夏目殿の湯漬けは、おいしゅうございましたか」


「・・・塩が、効きすぎておった」


 そう答えると、頼宣は、何も言わずにうなずいた。


 夏目の名は、あれから一度も、わしの家で粗末に扱わせたことはない。


「絵のほうは、それきり、忘れておった」


 わしは、掛け軸を見下ろした。


 あの夜から、もう四十年以上が過ぎた。信玄が死に、信長殿が死に、太閤殿下も死んだ。夜通し太鼓を打ってくれた酒井も、焼き味噌の大久保も、もういない。


 わしは関ヶ原に勝ち、この夏には大坂の城も落とした。天下は、ようやく静かになった。


 そのあいだ、わしは何度も負けそうになり、何度も逃げた。そのたびに、あの夜の腹の痛みと、夏目の声を思い出した。絵を見なくても、思い出せた。


「では、やはり、これは戒めの絵ではないのですね」


 頼宣は、居住まいを正し、掛け軸を、わしとのあいだに置き直した。


「違う。腹を下して、泣くのをこらえていた男の絵じゃ。それだけの絵じゃ」


 頼宣は、掛け軸の中のひどい顔を、じっと見つめた。


「ですが父上、それがしにはやはり、戒めの絵に見えます」


「なぜじゃ。描かれた当の本人が、違うと言うておるのに」


 わしは、脇へ寄せた薬研に手を伸ばしかけて、やめた。この子が何と答えるのか、聞いてみたくなった。


「この絵を見ると、負け戦をしてはならぬと思います。家臣を死なせてはならぬと思います。それに」


 頼宣は、少し笑った。


「戦の前には、腹をこわすような物を食うまいと思います」


 わしは、思わず吹き出した。腹の底から笑ったのは、久しぶりだった。


 腹がすいていると、人はつまらぬ意地を張る。あの日、夏目はそう言って、湯漬けを差し出した。


 頼宣は、掛け軸を丁寧に巻きはじめた。


「父上。この絵、それがしにいただけませぬか。紀伊へ持ってまいります」


「こんなひどい顔を、持っていってどうする」


 頼宣は、巻く手を止めなかった。


「家の宝にいたします。戒めの絵として。紀伊の者たちにも、戦の前には必ずこれを見せまする」


 頼宣は、巻き終えた掛け軸を、両手でうやうやしく捧げ持った。


「だから、戒めの絵ではないと言うておる」


「父上がそう仰せでも、後の世の者は、きっとそう呼びます」


 わしは、頼宣の顔を見た。若い顔だった。悔しさだけで城を飛び出したあの夜のわしより、まだずっと若い。


 戒めなどというものは、いつも、あとから誰かが勝手につけるものだ。本人は、そのとき、ただ腹が痛いか、泣きたいかしているだけだ。


「・・・好きにせよ」


「ありがとうございます」


 頼宣は、掛け軸を胸に抱えたまま、深々と頭を下げた。下げた頭を上げるより先に、わしは釘を刺した。


「ただし、頼宣。焼き味噌の話だけは、誰にも言うな。子にも、孫にも、決して伝えてはならぬ」


 頼宣は、神妙にうなずいた。


「承知いたしました。焼き味噌のことは、紀州徳川家の秘中の秘といたします」


「やめてくれ、忘れろと言うておる」


 頼宣は、笑いをこらえながら座敷を出ていった。廊下の向こうで、とうとうこらえきれなくなった笑い声が、遠ざかっていくのが聞こえた。


 わしは、ため息をついて、薬研を引き寄せた。


 後の世の者が、あの絵を何と呼ぶのかは知らぬ。戒めの絵でも、しかめ面の絵でも、好きに呼べばよい。


 ただ、焼き味噌とだけは、呼んでくれるな。


 ・・・頼む、頼宣・・・

最後まで、お読みいただきありがとうございます。

楽しんでいただけたら、ブックマークと、下の☆での評価で教えてください。とても励みになります。

「この人物の話が読みたい」なども、感想で教えてもらえると嬉しいです。


【連載中の作品のお知らせ】

『内科医が豊臣秀長に転生して長生きを目指したのに、史実どおりに死んだので二度目は本気で生き延びます ~俺が死ぬと豊臣家が滅ぶ~』

病で死ぬ運命の秀長に転生した内科医が、兄・秀吉と豊臣家を守るために長生きを目指す物語です。徳川家康も登場します。

https://ncode.syosetu.com/n1347my/


『長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―』

真っ先に敵陣へ駆けていく妻・お市と、その後ろで勝ちを整える夫・浅井長政の、戦国夫婦の物語です。

https://ncode.syosetu.com/n5065ms/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。