4-5 古いものは壊れやすいのかと
「いっ、ちまん、にせんえん……」
プライスボードを見ておののく朱莉の背中を叩いて、聡子が入店を促す。
「あんたもフルハウスで稼いでるんだから、こんくらいどおってことないでしょ。それに先三ヶ月のリタッチ代だって込みなんだから、むちゃくちゃ高いって訳じゃないよ。ホラいくよ」
店内はナチュラルウッドの内壁に、カントリー調の小物が彩りを添える、まるでどこかのカフェにでも来たかのように感じた。
雑誌などではよく観ていたけど、実際にこういったヘアサロンに訪れるのは初めてだった。今まではなんの疑問もなく、もっぱら地元の、それも母親と同じ美容院室に通っていた。
母が若い頃から世話になっている、美容師の女性が一人で切り盛りする小さな店だったが、母曰くは腕前は超一級だという。朱莉は子供の頃からそこで切ってもらっていたので、今までそれについてどうこう思うこともなかったのだが、こうして店構えだけでも比べてみると、ただお喋りをしながら髪を切ってもらっていた自分が、随分と世間知らずに思えた。
そして行きつけの美容室のオカリナ――店主の彼女の名前のアナグラムらしい――では、朱莉がいくら頼んでも「高校卒業まではダメ」と、カラーを施してくれなかった。だからあの時も自分でやろうとしたのだ。
そここで洒落たデザインの洋服を着た若い美容師が、女性たちの髪を、魔法の糸を紡ぐかのようにように優美な手先で操っている。
その間を縫って、こちらも足音さえ立てない優雅な足取りで男性が近づいてきて、すっと朱莉の正面に立ち軽く胸に手を当てて会釈をする。
「ようこそヘヴンスマイルへお越しくださいました。店長の加美谷でございます。ご予約の周防様ですね」
朱莉はこれほどまでに慇懃な人の応対を受けたことがなく、途端に緊張して背筋が伸びた。この加美谷という男、朱莉よりも頭一つ背が高い長身で、歳は四十を超えた中年と言えるが、高い鷲鼻に艶っぽい目尻は男性にしてセクシーといわしめる。
日本人離れした濃い造りの顔にとてもよく似合う口髭と顎髭を生やしてはいるが、それらは当然ちゃんと整えられており、ワックスで固められたリーゼント風の髪型は、ラフさの中にも計算された繊細さがうかがえる。
スキニーなレザーパンツに包んだ長い足、白の清潔なシャツを捲り上げた袖口から伸びる二本の長い両腕には、びっしりとポップアートのようなタトゥーが施されている。
最初はそれに驚いた。タトゥーに偏見があるわけではないが、やはり間近で見ると一瞬身を引いてしまう。
「じゃっ、私は家の用事があるから先帰るね。カミさん、よろしくね!」と聡子が、朱莉に対して笑みを投げ、手を振って店を出て行く。
置き去りにされた仔猫のようにしばし正面を向くことが出来ず、手持ち無沙汰にちらと周囲を見渡してみれば、革の上下を着て、いかにも古そうなアメリカンバイクに跨がった、この加美谷とおぼしき人物の写真が額に飾られているのが目に入った。
そこここの壁や床には古ぼけたグローブやヘルメット、バイクのものだろうか、朱莉にはわからない鈍い輝きを放つ金属素材の部品。それらは一見無造作なに置かれているようだが、作業の邪魔にはならないよう、またお客が不用意に触れてしまわないよう配慮されているように思える。
店内は真鍮の取手や水道のカラン、天井からつり下がる球形のオレンジがかった照明に、サボテンを飾った飾り棚と、ヴィンテージなのだろうか、雰囲気の良い調度品も散見される。
なるほど、やや暗い感じがすると思ったアーリーアメリカン調の内装は、この男の趣味なのだなと納得する。なんとなく、天国の道程、という屋号が意を突いているように感じた。
古いモノに囲まれていると、何故か人は落ち着く。それらにはどこか暖かみがあり、まるで穏やかな人々に見守られ、日だまりで昼寝をしているような、そんな気分にさせられる事がしばしばある。
それらただの食器が、ただの楽器が、ただの衣服が、ただの家具が、魂を持ってまるで自身で生きているかのような錯覚を覚えさせられることがある。
おいそれと捨ててしまったり無下に扱ったりしてはいけないように思える。
けしてそれらがヴィンテージやアンティークで値段が高いから、というわけではない。
自身が長年使って愛着のあるものなら、それはまさに相棒とも呼べるものであり、当然だというかもしれない。だが、ただ古いというだけで、多くの誰もが雰囲気が良い、現代のモノにはない良さがあると、そのように感じるのは不思議なことではないだろうか。
それはただの懐古趣味なのだろうか。
道具の多くには“器”という文字があてられる。これは機能や機構を収める器も意味しているが、それら役割を求めた人間の念の器とも言い換えることが出来る。人に使われる道具には、使う人の念が少なからず入る。所有する、他との差別、区別化、気に入る、愛着をわかせる、使い慣れる、そしてその道具と共に経てきた、使用者の思い出が加えられる。
この様にして、かつて人に使われていたモノは、人の念をどんどんと注ぎ込まれるのである。そのモノが大事にされればされるほど。
その結果、意思は持たないが、人と過ごした長い年月の間に、人の念を吸収することによって擬似的な霊魂を纏い出すに至る。
朱莉のような霊感応力者の目から視れば、それら人の念が籠もったモノは周囲にわずかな淡い光を纏っているのですぐに判る。特に傷や汚れのある位置は強く光が見えたりもする。
また、人によっては店で中古品を手に取った瞬間、まるで昔から自分のモノだったかのような親和性を覚え、即決即断し購入してしまうこともあるのだが、これは前使用者と購入者の霊的波動が近く、相性が良いためにそう感じるのだ。
無論、逆もあり得る。
モノが纏う霊的波動と所有者の相性が悪い場合は、安心どころか、不安や恐れを感じ、それを見ているだけで気が滅入り、忌みの対象となる。
また、大事にされる事なく、何の因果か処分されないで見捨てられながらも残ったモノや、処刑道具であるとか、戦争に使われた兵器であるとか、多くの人々が忌むべき行為に使用されていた経緯を持つ場合など、つまりは人に危害を加える、負の念によって生まれ扱われた迎え入れられない感情が載せられたモノは、自然人に忌み嫌われ、触れることすら憚られるものである。
朱莉がそのような話を知っているのは、レオナルドを購入した時に道具屋の主人から、そして鞠から説明を受けたためだ。
もっとも、レオナルドの場合はそのモノを大事にしていた当の本人の霊そのものが憑いている、まるで別の存在なのだが、人の霊が地縛できるほどの力場を形成するほど、その時計に念が溜まっていたという点では同じである。
レオナルドの懐中時計を見つけた、与鶴市の裏通りの古道具屋も、暖かい光に満ちていた。一般人がみればただ薄暗い陰気な店にしか見えなくとも、霊感応力者の朱莉の目にはとても心地のいい空間に見えたのである。
「気に入っていただけましたか?」朱莉の視線を追っていたのだろう、加美谷が問う。
「なんだか、とても雰囲気が良いです」朱莉は目を細めながら店内の調度品を改めて眺めて言った。皆、ぼんやりと淡い光を発していて、良い波動がでている事が解る。
ありがとうございます、と加美谷はもう一度丁寧に頭を下げて、お荷物をお預かりします、と朱莉のバッグを受け取り、セットチェアへと促す。
腰のあたりまでの丸い背もたれと、ワイヤーのフレームが特徴的な、水色を基調とした椅子。驚くほどに綺麗だと感じた朱莉は「すごく状態が良いですね」などと腰掛けながら軽口を叩いてしまった。特に古いものに興味があるわけではなかったのに。
「ん、わかりますか」そう、なにげに応えた風な加美谷ではあったが、鏡越しの彼の瞳は輝いていた。朱莉は思わず目をそらし照れた。
「このセットチェアは1965年のアメリカ製です。もちろんレストアされたモノですけど」
「レストア?」
「うーん、再生とでも言うのかな? 古いものを綺麗に掃除したり整備し直したり、修理したりして当時の状態を再現する、って感じですかね」話しながらも加美谷はテキパキと作業を始める。
「大事にされてきたんですね」言いながらケープの下に隠れた手で、椅子の肘掛けを撫でてみる。
「古い製品というのは、手作りで丁寧に作られているから、何十年使ってもめったに壊れたりしないし、何度でも直せるんです」
ふと、針が途中で引っかかって止まってしまう、レオナルドの懐中時計のことを思い出し、一応約束はしたしなぁ、と残りのお金の使い道を計算する。
「へぇ、意外です。古いものは壊れやすいのかと……」
そこで加美谷の深い目尻が、途端に子供っぽいカーブを描く。まるで我が意を得たりといわんばかりに。
「年数はそれなりに経ってますからね。でも今でもそれが残っているということは、逆に丈夫で壊れないって事ではないですかね。時代が証明する、揺るぎない証拠ってやつです。全てが全てではないですが、昔の製品の多くは、長く使えること、壊れないことを目指して作っていたからなんです。宣伝さえすればどんどんモノが売れたわけでもなければ、安ければ売れた時代でもない。当時の人々は信頼性に重きを置いたんですよ。せっかく買うのだから良いものを買おう、とね。だから作り手も良いモノを作ることに心血を注いだ。今現在一流といわれているブランドが勃興したのもほとんどがこの年代で――――」
加美谷はカットの間ずっとこの調子で話し続ける。
加美谷からすれば朱莉は、数少ない自分の趣味性を理解してくれる客なのかもしれない。だからいつもよりも饒舌になっているのかもしれない。
物知りな上に話し方が上手いなと感心しながら耳を傾けている間に、朱莉の黒々とした髪の毛はどんどんとそぎ落とされ、形を変えてゆく。
目の前の鏡の中では、和服の鞠が店内を物珍しそうにうろうろと見物している。何かと物知りな鞠でも、やはりこういう場所は心が躍るのだろうか。横顔に浮かぶ表情は心なしか弾んでいるように見える。
どこからかコーヒーのいい匂いが漂ってくる。
へぇ、と鏡の中を覗き込んでみれば、どうやらカラーの待ち時間の間に飲み物が提供されるようだ。よく観てみれば自分の鏡の下の小さな台の上にも、メニューがさりげなく置いていた。本当にカフェのようだ。
物心ついた時から美容室に通ってはいたが、一人で切り盛りしているオカリナではそんな光景は見たことがない。第一美容室といっても子供だった朱莉からすれば、それはいわゆる“散髪”であり、それで今よりかわいくなるだろうことは想像できても、それ以上の付加価値を勘案したことなどなかったのだ。
古来より髪は女の命ともいい、その髪を美しくするための空間とは、すなわち全ての女性が求める美への望みを叶える場所でもある。母が近所のオカリナに行って三時間も四時間も帰ってこない事を不思議に思っていたが、髪を切ってもらう傍ら、自らと客観的に見つめ合い、お喋りをして帰ってくるのも、女性が満足し充実するために必要な事なのだろう。美容室とは、ヘアサロンとは、女性が最大限にして最小の幸福を感じる為の特別な場所なのかもしれない。
「いかがですか?」どうやら終わったようだ。長さはそれほど変わっていないのに、まるで顔の輪郭まで変わったかのように見えるから不思議だ。加美谷が眉を上に上げて鏡越しに覗き込んでくる。朱莉の顔から知らず微笑みが漏れた。
その顔を確認すると同時に、加美谷の視線は朱莉の瞳を外れ、鏡に映る店内入り口の方へと向けられる。失礼します、と彼は従業員に手早く後続の指示を出して、新たなお客の出迎えへと向かう。
鏡の前で軽く右へ左へ首をひねり、今からこの髪がどう変化するのかを楽しみに待った




