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疑惑と逡巡と決断と

美希みき姉さんね、いずみちゃんが二歳の時にダンナを亡くしたから、それは苦労したのよ」

 由美子さんが店内に流れるクラシックをBGMに静かに語り始める。

 彼女の表情、声色こわいろ、そしてピアノソロが互いに溶け合って、なんとも悲しげな雰囲気を醸し出していた。

 そんな中で、何でキミはムグムグとイチゴタルトを頬張ほおばってるんですかね、彩音ちゃん。ちゃんと「あやたん」って呼んであげたのに我慢できなかったの?

「女手一つで家事も仕事もこなしてたから、いずみちゃんの参観日なんかはよく私が代理で行ってたわけ」

 冷めかけた紅茶を一口すすり、ほうっ、と息を吐き出す。そのさまが妙に大人の女性にピッタリだなんて、場違いな感想が思わず浮かんだ。

「中学の時、同じクラスだったんですか? 大塚さんと、その恭也さんって人」

「そ。分かりやすかったわよ、いずみちゃん。彼が発表する時にじーっと穴があくほど見つめてたり、同じ班になって作業する時ソワソワしたり……」

 由美子さんがクスクスと思い出し笑いを漏らす。

 その表情はまるきり保護者のそれだった。母親、といっては失礼かも知れないが、妹を溺愛する姉というのが一番しっくりくる。実年齢差はともかくとしてだ。

 ……ごめんなさい。やっぱり失礼な話になっちゃった。

 胸の内で一人懺悔(ざんげ)していると、隣から袖をクイクイと引っ張られた。

「ねえ陽ニィ。その恭也さんってまさか……」

 戸惑ったような目で見上げてくる彩音ちゃんにコクリと頷きを返す。

 それからボクはちょっと居住まいを正し、由美子さんを正面から見据えた。

「由美子さん。その恭也さんっていう人の苗字、分かりますか?」

 あらたまったボクの様子に、その質問がなされた理由をいぶかしんだんだろう。由美子さんがチラリと問い返すような眼差しを向けてくる。

 もちろんこれは大塚さんのプライバシーに関すること。ボクが詮索していい範囲なのかは分からない。

 だから判断は大塚さんの保護者代わりである由美子さんに委ねる。

 もし回答を拒否されたなら、この話はきれいさっぱり忘れよう。

 そう心に決めて、ボクは由美子さんの瞳を見つめ返しながら彼女の反応を待った。

 隣で彩音ちゃんが唾を飲み込む音がはっきりと聞こえる。

 由美子さんの視線がボクから彩音ちゃんに移り、あどけない表情を浮かべる顔のあたりをさまよった。その目は困っているような、喜んでいるような、いつくしんでいるような、そのいずれともつかない不思議な色をたたえている。

 しばしの間をおいて、由美子さんの口許くちもとがふっとほころんだ。

「もちろん覚えてるわよ、珍しい苗字だったから。宗像クンっていうの。宗像恭也クン。すごい由緒正しそうな名前じゃない?」

 その朗らかな声音が、こわばっていた空気とボクの身体からだをほぐす。


 ビンゴだ。


「ねえ、ゆみたん」

「なあに、あやたん?」

 ちょっと。さっきまでの張りつめた空気はいったいどこに? 当たり前みたいに仙台ワールドに戻らないでほしいんだけど……。

「その人、どんな感じの人だった? イケイケなタイプの人? それとも、引っ込み思案な感じ?」

「すごく大人しい感じのコだったわよ。自分からはほとんど人に話しかけないような」

 彩音ちゃんがおおっ、と嘆声を漏らした。

「見た目は? ひょっとしてこんな感じ?」

 空中に彩音ちゃんの両手がゆったりとした楕円を描く。

 それを見た由美子さんがクスッ、とかすかな笑いを漏らした。

「あやたん。あなた……」

 そっと伸ばされた手が優しく彩音ちゃんの髪をなでる。

「知ってるのね。恭也クンのこと」




 気づけば、時計の長針が半周していた。

 二人それぞれの知り合いが同一人物だと判明して以降、由美子さんと彩音ちゃんの情報共有がずっと続いている。

「……それでね、私のママが宗像センセーのお母さんと仲良かったから、勉強見てもらえることになったの」

「そうだったの。恭也クンとご近所さんっていうことは、あやたんも浦安に住んでるの?」

「うん、猫実ねこざね。今は陽ニィのお家に居候中だけど」

 千葉県浦安市。

 かの有名なネズミの国がまっさきに頭に浮かぶ地名だが、埋め立てが進む前は漁師町だった場所だ。しかも意外なことに、それはさほど昔の話でもない。

 祖母の昔話によれば、彼女が若かりし頃は信号機すらほとんどないひなびたところだったんだそうな。

 そのせいなのか分からないが、あの辺りのおじいちゃんおばあちゃんはけっこう交通ルールに無頓着むとんちゃくな人が多い。浦安付近における高齢歩行者の信号無視率は異常。

「なるほどね。いずみちゃんも高校まで北栄きたざかえにいたんだけど、中学を出てからは恭也クンと会うことなかったみたいなのよね」

 ふむ。告白すらできずに卒業して、そのまま疎遠になる。よくあるというか、もはやありふれたと言ってもいいパターンだ。

「いずみちゃんは大学に入って、こっちで一人暮らしを始めたの。恭也クンはどうしてるのかしら」

「さっき会った時、第一志望にストレートでうかったって言ってたから、今そこの国立の二年生だよ」

 彩音ちゃんが自分の背後を肩越しに指差した。

「あら。じゃあ、いずみちゃんの大学ともそんなに離れてないのね」

 由美子さんがそう感慨深げに口にしたあと、ボクらのテーブルに不意に沈黙が降りた。

 いわゆる「天使が通った」というやつだ。

 彩音ちゃんは半分ほど残ったタルトの皿に目を落とし、由美子さんは頬杖ほおづえをついて宙に目を彷徨さまよわせている。

 ボクはといえば、沈黙に急かされるみたいにほとんど無意識でコーヒーカップを手にしていた。だがすっかり冷め切ったそれが唇に触れた瞬間、その不意打ちみたいな冷たさが、なぜか思いもかけずボクの心に小さなさざ波を立てた。


 そんなに離れてないのね。


 その言葉に、由美子さんはどんな思いを託したんだろう。

 そんな疑問がふと頭をよぎった。

 通学の途中で二人がバッタリはち合わせ、時間を忘れて昔話に興じる。そんな光景を期待したんだろうか。

 中学時代に叶わなかった大塚さんの恋が、時を経て再び芽吹き出す。そんなストーリーを願ったんだろうか。

 ボクはどうだったろう。

 そもそも、ボクはなぜ今日ここに来たんだろう。

 大塚さんの昔の想い人と彩音ちゃんの家庭教師。この二人が同一人物だと明らかになった後、ボクはその事実にどう処するつもりだったんだろう。

 大塚さんの背中を押す?

 彼女自身がそれを望んでいるかも分からないのに?

 この世界でかつて、打ち明けられることすらないまま時の流れに埋もれていった恋。その数はきっと夜空の星にも劣らないに違いない。

 けれどそのほとんどは埋もれたままでいることを望まれ、それに応えるように消えて行ったんじゃないだろうか。

 そんな思いがどうしようもなく浮かんできて、ボクの心はちょっと沈んだ。

 気づけば、時計の長針はさらに半周していた。


「ねえ、ゆみたん」


 突然の声にはっと意識を引き戻される。

 その声の弾むような調子が、まるでボクの落ち込んだ気分をとがめているような気がした。

 声のしたほうを見やれば、彩音ちゃんがゆったりと微笑みながら由美子さんを見つめている。

 その微笑みはまるで春の陽の中で揺れるタンポポのように、うっかりするとまどろみに引き込まれそうな暖かさに満ちていた。

 そして、これまた雪解けが集まってできた春のせせらぎのような声で彼女は由美子さんに問いかける。

「いずみさんって人、今でも宗像センセーのこと好きかなあ」

 その言葉は疑問文の形式を取りながら、その実一片の疑惑も含まれていなかった。百パーセント、そうであるに違いないという確信のみで形作られていた。

 そしてそう問われた女性も、同じように心からたのしげな笑みを返す。

「そうねえ……。そう言えば陽輔クン、前に本人に同じこといてたわよ」

 またしてもとがめられた。自分に向けられたわけでもない、その言葉によって。

 お前は答えを知っているはずだと。

 何を躊躇ためらうことがあるのかと。

 そうだった。

 ボクは大塚さんに尋ねんだ。今でも恭也さんのことが好きですかって。

 そして彼女は……。


「ねえ、彩音ちゃん」

 ボクはタルトの最後の一口をモグモグやっている我が従妹いとこに向き直った。

「手伝って欲しいことがあるんだけど」

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