昭和の奇談 復讐の閨房術 弱い女が仕掛ける復讐の罠。玉川への純情。
玉川は裕子の復讐に手を貸すが、家訓の人を殺さないとの教えに、裕子への恋心を抑える。裕子は自分を餌にして犯人を罠に誘い込む。
昭和の奇談 復讐の閨房術
数年たった。日々は無事に過ぎていった。そのころ古川は過去の汚職で新聞紙上を賑わかしていた。県会議員に落選、それに次ぐ汚職摘発、そして山本正人の件が見直しされていた。考えてみれば不審な死だった。なぜあの時正人は死ななければならなかった?疑問に思われないのが、不思議だった。
そんな時、裕子が久しぶりに、福岡市に住む節子を訪ねた。節子は正人のただ一人の妹裕子に、優しかった。久しぶりに、中洲の割烹に行こうと節子が誘った。節子は固定資産税の高い今の家を売って、少し田舎の方に引っ越したかった。今売る算段をしているところだった。子供が一人前になれば市内に住む理由もない。思い出は多いが、いい思い出ばかりではない。
割烹にはオシャレをしていこうと節子が提案、行くことにした。少し長めだった髪を、裕子は自分でときつけセットした。中洲は入れ替わりが早い。アキを覚えている者はもういないだろう。さみしくもありそれが時の流れだ。裕子にとって中州は別世界になっている。小雪ちゃんのいたクラブも、もうない。小雪ちゃんは裕子の近くでコテージと、居酒屋風車をしていた。裕子と節子は小さな喫茶店に入った。普段二人とも質素に暮らしていた。数年ぶりの中州、はしゃいでいた。コーヒーを頼み、二人が席に着くと喫茶店のほの暗さに裕子の顔が浮かび上がった。それを見てぎょっとした客がいた。古川だはず。彼は議員に落選してから、家にいることが多かった。仏壇の幸太郎に手を合わせ、長くため息をついた。
その日古川はなぜか散歩の足が中洲に向いた。なぜだかわからない。いつもの気の向くままの散歩だった。幸太郎の死んだホテルは取り壊され、ソープランドになっていた。さんざん接待で遊んで歩いたこの町は、数年で入れ替わっていた。中洲の喫茶店に入り、コーヒーを飲もうとした。少しブランデーを入れたコーヒーが、今の贅沢だ。そして目についた喫茶店に入ってぎょっとした。アキがいた。幸太郎の導きとしか思えなかった。でもおかしい。アキは40を超えているはずだ。そして自分は通夜に行った。あれはアキではない。裕子だ。
その夜古川は、山本家の近くに立っていた。是が非でも裕子に問いただしたかった。そうしたら巡回していた警察官に、見とがめられた。
そのころ石井牧子は福岡市警で那の津の交番に勤務していた。そこで巡回の警察官から古川功が、山本家に前に包丁を隠し持って、たたずんでいたと聞いた。一応交番で事情を聴くために連れてきていたが、何もしゃべらなかった。家族を呼んで引き取らせた。普通ならこのまま見逃していたところだが、牧子は少し事情を知っている。あの時の山本正人の、飛び降り自殺が不審だったこと。アキが牧子に送ってきた、手帳のことがあった。そして何より古川の不審な行動である。
翌日牧子は山本家を訪ねた。まずは仏壇にお線香をあげた。牧子は自分が警察の人間であることやアキと幼馴染であること、昨日の古川の行動に不審な点があることなどを告げた。節子のあとから裕子が入ってきた。きれいに髪をとき付け結い上げていた。それを見たとき、思わずアキが来たと思った。よくよく見れば違う。古川がなぜ立っていたのか、分かった気がした。裕子がもっと派手な化粧をしたら、アキになるのかもしれない。そこで牧子は手帳のことを二人に聞いた。自分が持っているのは伏せて、正人から何か預かっていないかと聞いてみた。裕子は兄から預かった手帳があったが、アキに渡したといった。内容を見てもさっぱりわからなかったが、アキは手帳を見て意味が分かったようだといった。それきり手帳は戻ってこなかったとも話した。元々の持ち主は裕子だった。しかし正人の遺品でもある。牧子は改めて節子と裕子に手帳は今自分の手元にあることを明かし、警察内部に古川功のシンパがいるあいだは握りつぶされたり、意図的に紛失されたりする恐れがあるので出せなかった。今なら出せるから出していいかと聞く。裕子も節子もお任せしますと頭を下げる。正人の無念にどれだけ応えられるだろう。気が引き締まった。
福岡地検の検事森山忠は石井牧子の訪問を受けた。森山は古川の汚職を担当していたが、どこか手詰まり感があった。それというのも当時の福知事が警察OBで、知事は古川の配下も同然だった。上から下まで古川シンパ。証拠が残っていなかった。生き証人の山本正人は自殺とされていた。そこも怪しい。そこに石井牧子の訪問である。牧子はまず、自分と山本正人の関係から説明した。
私は矢野アキというものの幼馴染です。彼女には弟妹がいました。矢野修一と矢野裕子です。矢野アキが14歳の時アキの母親と父親が失踪しました。残された3人は施設に行き、アキは15歳になって、美容師の住み込みで働きました。当時3歳だった矢野裕子は山本家に里子に出されます。山本家には裕子より十五歳上に正人という実子がいました。裕子は十五歳の時山本弘と山本町子の養女になりました。裕子と山本正人は兄妹になりました。修一は高校卒業して料理人となっています。私はアキが亡くなったころアキからこの手帳を送られました。その当時は古川の全盛時代、知事は古川に頭が上がらない。副知事は元警察幹部、警察上層部は、古川を調べるなんてできませんでした。それで手帳を出しませんでした。先日正人さんの奥さんと妹の裕子さんに了解を取りました。それでここに持ってきたわけです。隠していたわけではありませんが、適切な時期ではないと考えました。紛失はしないでください。全ページ写真を取っています。
聞いた森山はびっくりした。手帳はビニールに包まれ、送ってきた包装も、そのままビニールに包まれていた。送られてきた時のままですと、牧子は差し出した。どうせこのままでは警察内部で批判されて、居づらくなるかもしれない。それを保存してくれていたのをありがたいと思った。大きな味方だった。
裕子と節子は森山検事に呼ばれ、正人から渡されえたときの状況や、正人の様子を述べた。「兄さんは殺されたと思っています。」裕子は言った。だが証拠はない。
早速手帳の指紋など鑑識で全部調べられた。この結果指紋も筆跡鑑定も、山本正人本人のものだと鑑定された。中に出てくる会社のことが調べられ少しずつ古川は追い詰められた。時効が成立したものもあったが。そうでないものもあった。古川が逮捕された時、裕子と節子は森山に呼ばれた。裕子はわざとアキの服を着て、アキに似るように化粧した。それはどこかで古川に会うかもしれないという、かすかな望みがあったからだ。苦しめばいい。私は兄さんが死んだことで、どれだけ苦しんだかしれない。節子も、町子も甥たちも悲しんだ。私たちの苦しみを思い知れ。アキの格好をするとアキが乗り移ったようになる感覚がする。
裕子が検事室の外で待っていると、古川が出てきた。裕子を見ると飛び上がって驚いた。そしてそのまま連れていかれた。森山は節子と裕子に協力への感謝を述べた。そして以前会った時の楚々とした美貌の裕子を思った。目の前の裕子は赤いバラの印象だった。女は化ける。狸じゃあるまいし。小さい声で言ったつもりだった。
事務官がそれを聞いた。「春野市は、昔は化け狸で有名だったんですよ。昔から山ン中だったんですから。」「今もいるんか。」「今見たでしょう。」
以後は取り調べの最中、古川は幸太郎の不審死を訴えた。「あの女だ、あの女が幸太郎を殺した。」狂ったように訴え続けた。狂っていたのかもしれない。どうにか公判が維持できる証拠が集まると、起訴した。正人の死は不自然だったが今となっては証拠がない。
古川の公判は傍聴券が、手に入りにくい程の話題になった。裕子と節子は証拠の手帳の説明をしないといけないので、証人室で控えていた。証言をするとき裕子はアキにそっくりに化粧し、アキの派手なピンクのスーツを着ていた。裕子の姿を見た古川は目を見開いて驚いた。森山検事はその服装の派手さに顔をしかめた。そして思った。なぜ裕子はアキの格好をして古川の前に立つのだろう。裕子は古川の目をまっすぐ見て言った。「私の兄さんを返して。あなたのせいで死んだでしょう。」それは裕子の口調ではなくアキの口調だった。古川は動揺して暴れた。裕子に殴りかかった。すぐにとりおさえられた。裕子が法廷の外に出ると控室で地味な服装に着替えた。そしてそっと裁判所を出た。何回もの裁判で、毎回裕子は傍聴した。そのたび派手なアキの服を着た。
汚職だけなら量刑はたかが知れている。五年もすれば出てくるだろう。
実は古川は心臓に欠陥を抱え、薬を飲んでいた。教えてくれたのは、今の事務長の菊池。
菊池は山本のようになりたくなかった。使われて責任をかぶせられるのはごめんだ。
簡単に裏切った。そして古川の寿命が尽きるのを望んだ。
長年の飲酒と美食が古川を蝕んでいた。大きな怒りの情が脳や心臓の血管に負担になる
こんなことでは死なないだろうが、少しでも衝撃があればと思った。
それをじっと見ていた男がいた。幸太郎の弟の福次郎だ。子供にはタイプがある。
早くから目覚めて自分を見つめる子。天才を見つけたと新聞などで書かれる事例がある。
知能の高い子はどこにもいる。ただ周りが見つけないだけだ。
満は幸せなことに、誰でもが彼をかわいがり何かすると喜んでくれた。
自己の肯定だけはあった。絵にかいたような秀才だった。
福次郎は小学生の低学年で思い知らされた。日常的にあるテストで、百点を取っていた。
それは70点も取ればその学年としてはいい方のテストだった。誰も喜んでくれない。
クラスメートは妬ましく思ったのか仲間外れにした。誰も口をきいてくれない。
ただ先生は褒めてくれたが、みんなの態度はもっと冷たくなっていた。
父や母は何も知らなくて、幸太郎の事ばかり気にかけた。俺はいなくてもいい子なのか。
それから福次郎は、七十点以上は取らないことにした。答案は間違って書くか書かないか。平均点の成績を取るようにした。兄の幸太郎と一緒に柔道をしていたが、目立つ活躍はしなかった。そこそこで負けた。ただ勝つ自信はあった。実力はあった。
家で幸太郎からいじめられたときは、親のいないところでやり返した。
以後家で幸太郎から、何かされることはなかった。
親は外面いい、顔がいい清潔感がある幸太郎に期待した。福次郎は好きなことをした。
期待されていない分自由だった。そして悪さをした。
見つかりさえしなければ、何をしても自由だった。
古川は結局懲役五年が言い渡された。軽すぎる。裕子は思った。
刑務所の生活は、年を取った古川には過酷だった。
普段からの不節制、わがまま放題の食生活、刑務所生活は健康的に変えてくれた。
恩赦などで刑期は短くなった。実質3年だった。
3回目の最後の冬、彼は脳梗塞症状で入院した。刑期が終わっても半身まひが残った。残りの人生は不自由な体との付き合いだ。家に帰った古川は自分の体に少しずつ慣れ、動かせるようになってきた。
お盆に福次郎が来た。ビールとツマミが出された。妻の昌子は当てつけのように、ビールのつまみに、ゴーヤの味噌煮を作る。福次郎はゴーヤの味噌煮が好物だった。古川はゴーヤの味噌煮を、食わず嫌いだったのに口にするのは贖罪だった。妻には苦労かけた。あとからビールを流し込むと、さわやかな後味がした。この味に出会うに、これだけの歳月が、かかったのか。そっと二つ目を口に入れた。お盆にみんな大濠の花火に出かけた。家には功と福次郎がいた。解かりあわない親子だった。「この前、玉川が来た。」普通にさらりと話した。古川は何も表情は変わらない。「知っているんだ。たぶん。俺のやったこと。」古川がいぶかしんだ。「何のことだ?」何を話しているんだ、こいつ。福次郎は何をやっても中途半端な子だと、功は認識していた。幸太郎といつも比べていた。よく見ていたつもりだ。福次郎の本質に親が気付かない何があったのだろう。「で、何をやった?」「山本正人だよ。」ぎょっとした。あれは幸太郎に命じたはずだった。「幸太郎にできたはずないじゃないか。あの弱虫に。」尊敬のかけらもなかった。幸太郎は俺の理想の息子だ。福次郎とは出来が違う。親の目は確かなはずだった。「勉強ができて柔道が出来て。」「違うよ。父さんの目は節穴だよ。中学3年の時の騒ぎを、覚えているか。新入生のチビにさんざんやられて、母さんが電話で相手に文句言ったら、倍返しされて、いい恥さらしだった。」幸太郎と呼び捨てにする。福次郎に言い返した。
「幸太郎は俺の自慢の息子だった。男前だった。」
「まあいい、あんたの理想の幸太郎は、女しか殴れない腰抜けだったよ。あんときのトラウマで、男に手が出せないようになっていた。母さんや父さんは、幸太郎に何を見ていた。要領よくカンニングする。だいたい行った大学でわかるだろう。あんたが金で入れた大学だよ。」言われてみればそうだった。それに比べ福次郎は普段の勉強はできなかったが、ここぞというときは試験に受かった。
「新入生のチビと言っても、あの不動組の組長の息子だぞ。かなうわけにゃーだろ。」
「そんなの父さんの思い込みだよ。あのチビと俺は同じ学年だよ。」
「そうだったかな。忘れた。」「人数が多い学校だったからね。話すこともなく卒業した。
あいつ付属高校に行ったんだぞ。一般からは通らない高校だよ。そしたら
高校も大学も剣道で国体選手。幸太郎はあんたの努力で学校に行った。」
「でも、就職はなかった。暴力団の息子じゃなあ。」「底抜けの善人ずらしている幸太郎が悪で、悪人ずらしている玉川が馬鹿が付くくらいの善人、杉山が小悪党、善人ずらしてあんたは悪党だよ。そうあんたは政治家。中身はそんなに違わない。あんたは幸太郎に、山本正人を屋上から突き落とせと命じたな。だが幸太郎はそんなことができるほど、肝が座っちゃいない。俺に手助けを頼んできた。だから手助けしたよ。おびき出してきた幸太郎は、何もすることが出来ず、ただ見ていたよ。抱え上げて屋上から落とした。それだけだ。」初めて聞く話だった。古川は返事が出来なかった。俺は幸太郎の本質を見ていなかったのか。目の前にいる福次郎は、今まで自分が見てきた福次郎ではなかった。
「俺は小学校の時わかった。勉強のできる奴は嫌われる。
だから点数は70点しかとらんと決めた。
バイクが好きだったからバイクの整備資格を取った。
好きなものためなら、努力をすると決めた。
あんたや母さんのためには何もしない。ただあんときゃ、そうしないと、
我が家は飯の食い上げだったからね。俺のために幸太郎に協力した。
裕子という妹が幸太郎を殺したち思うとるじゃろう。
女の裕子にできることはしれとうる。抱え上げることも出来ないだろう。」
「じゃ、誰が殺した。」しばらく考えた。「玉川じゃないかな。証拠はないけど。」
「なしてそう思う。」
「殺しちゃおらんかもしれん。あとの始末だけしたかもしれん。そりゃあわからん。俺は
手の感触が残っちよる。抱え上げて落とした。俺の、人殺しは何回目かな。数えていないよ。」古川は仰天した。危うくビールがのどに詰まりそうになる。せき込んだ。
「いつだ。いつやった。」「最近は山本をやる前だよ。幸太郎から相談を受けて、俺に人殺しができるか試した。」こともなげに言う福次郎。春吉で立ちんぼうを殺したという。「殺したっち、どうという事のない女を殺してみた。」福次郎は知らなかった。殺していい人間など存在しない。
「幸太郎も試したがな。できなかったつじゃん。女も殺せない奴に男は殺せんよ。だから俺がやったつじゃんか。」
古川は、謀略渦巻く満州での出来事が目に浮かんだ。俺は許されないことをした。
だから、こんな感覚の息子が出来た。人の死に慣れてしまった過去を、思い出した。
ゴーヤは苦く、ビールも苦い。
「今日は、玉川は何と言ってきた。」「何も言わなかった。ただバイクの話をした。」
福次郎はバイクの修理箱に入れていた長政を思う。最近、錆が浮いていたのを、磨く。先端を研ぎ澄まし鋭利さを増した。ぞくっとする快感がある。かつての殺人の後の快感が戻ってきた。そうかもしれない。そうでないかもしれない。ただ福次郎はそういうが怯えが無い。古川は後悔した。兄弟の本質を見誤った。福次郎を選ばなかったのを後悔する。こいつは生まれながらの人殺しだ。
彼には自分の何が悪かったのか、永久に解からないだろう。「じゃがな。あの裕子は人殺しの目をしちょる。玉川に人は殺せん。あいつ人は殺せん男だ。人殺しの俺が言うからまちがーなか。」発作が起こりそうだった。妻と由美子が帰ってきたとき、古川は気分が悪くなっていた。そのまま入院した。病院のベッドは何者からも遮断してくれる。古川功は考えていた。幸太郎はアキに夢中になった。福次郎は人殺しに目覚めた。なぜだ、そうかわかった。福次郎の性質を目覚めさせたのは親だろうか。それしかなかった。
だったら親の責任でただすしかない。
福次郎が見舞いに来た時、ある話をした。それは信じるか信じないかの罠だった。
あれも女好きだ。裕子は思うようになる女ではない。
父親の古川功は息子に言った。
お前にとって女はなんだ。性欲のはけ口か?ちがうな。すべてを飲み込むものだ。島田を知っているか。あいつにはアキという妾がいた。知っているだろう。幸太郎を骨抜きにした女だ。あいつはアキに夢中になった。昔終戦前満州にいたことがある。遊郭に女がいた。名前は浮かばない。その女は人気でな。そう男を喜ばせる閨房術を心得ていた。遊郭には伝統的に男を喜ばせる技術があって、継承されていた。だが今はそれが途絶えた。島田はアキがその継承をしていると言った。絶対手放さないと。俺は頼んだことがある。アキを貸してくれと。ダメだった。幸太郎はそのアキに骨抜きにされた。あいつはどんな女でもなびかせられた。それなのに最後は裕子か。あいつもアキの妹だ。持っているかもしれないな。俺も骨抜きになるほどの女とやりたいよ。お前はどうだ。お前には無理だろう。やる前に殺すからな。女は殺すためにいるんじゃない。楽しむものだよ。それをやれないお前は幸太郎以下だよ。アキは死んだが裕子はいる。やれるかな。裕子は簡単にはいかないぞ。あおった。殺意を裕子に向けさせたかった。この子は人殺しだ。それを正してやるのは俺しかいない。
別の時、由美子を呼んで、福次郎から逃げるように忠告した。「信じるか信じないかはあんたの自由だよ。」古川にできる最後の善意だった。由美子は逃げた。
玉川は思っていた。あの幸太郎に人殺しは無理だろう。福次郎の店に行った時、目を見て思った。こいつは猫のふりしているトラだ。幸太郎の代わりに正人をやったのは、こいつかもしれない。そう思えた。だがおやじに誓った。人を殺さないと。だから暇を見つけては福次郎の店に行った。由美子の子供瑛太郎といつも遊んでやった。なつかれた。順調に結婚していれば俺にもこんな子がいた。脳裏に裕子が浮かんだ。そしてある日、福次郎の店に来なくなった。裕子に別れを告げに行った日に、彼は彼の人生を歩むことにした。裕子もまた福次郎と同じなのかもしれない。それが玉川の答えだった。
福次郎は由美子に逃げられた。玉川が保護しているのは、知っていた。心に隙間風が吹くようだった。殺人者だからと言って、全部が狂暴というわけではない。花がきれいだとか、小鳥のさえずりに心洗われるとか、そんなセンチメンタルになることもある。
瑛太郎はかわいかった。特に自分のバイクに乗せてくれと、せがむのがかわいかった。
この子が大きくなったら親子でツーリングをする。それが楽しみだった。だがそれはむなしい夢になった。自分がその夢を壊した。
少しずつ彼は追い詰められていた。過去に殺した女たち彼女たちに落ち度はない。ただ運が悪かった。福次郎はそれで満足できたのか、できるわけがない。欲望の限りない正体不明の欲望を起こしただけだ。古川の葬式が済むと旅に出た。金は功の隠し金庫から持ってきた。背中のリックには札束が入っている。どこへ行く当てのない旅だった。バイク旅行の形をとった。九州を出て四国を回った。海辺の食堂で飯を食べた。博多の味とは少し違った。何にでもどっさりと入れる砂糖醤油の味が懐かしい。その食堂のテレビを見ていた時、全国のニュースの紹介があった。九州の福岡県があった。山の中の小学校、閉校になるからとお別れ会をしたニュースがあった。中で見知った顔がタンゴを踊った。裕子と小雪ちゃん。その顔に獲物を見つけた虎になった。急ぐことはない。じっくりと行こう。
春野市は発展するというほどではないが、現状より少しずつ良くなるような田舎町だった。きれいな水を生かして養魚場が出来た。そこに山本裕子の小さな店があった。喫茶店兼用の店舗のその店は小さな店だった。時々観光客がきて品を買っていく。売れすぎたら翌日の分が無い。適当に売れたらいいのだがそうはいかない。和服の生地を使った、ブラウスや上着が主流だが、小物の財布やビーズ細工など幅広くあった。民宿のおばさんも、おじさんも付き合いやすい人だった。養魚場の兄ちゃんは働き者だった。朝の八時には来て働いた。時々裕子が喫茶室でご飯を食べさせると、大きな魚をくれた。夏の川には蛍が出た。見物人で喫茶室はいっぱいになった。裕子にとって穏やかな日々だった。その中に近くに住んでいる中洲の仲間がいた。小雪ちゃんである。50代までは何とか女の形を保っていたが、それ以上は無理だったのか、いい感じの男おばさんになっていた。「裕子、気を付けなよ。」ある時小雪ちゃんが言った。「福次郎が、過去の殺人で調べられているらしいよ。」話によると、過去にあった通り魔殺人の一つから福次郎の痕跡が見つかったらしい。ケンカで相手をケガさせて、参考までに福次郎のDNAを過去の事件と照合したら、いくつか出たらしい。が決定的な証拠にはならない。DNA鑑定は出てきたばかり証拠価値は低かった。「裕子、あんたんとこにも、来ないとは限らんからね。」小雪ちゃんは山の中にひっそりと住む裕子を気使った。「俺、あんたの姉ちゃんのアキ、好きだったんだ。一回寝たよ。でもオカマだって恋をする、一番きれいな時に死んで、犯罪だよ。残ったものはどうすりゃいいんだ。幽霊でもいいから出てきて欲しい。」根っからのオカマではない。半分半分のオカマの嘆きと純情だった。
金山が採掘を再開してから少しずつ人口が増えていった。かといってさみしい山の中は、あまり変わらない。家の周りに背の高い金網を巡らせていた。
しばらくした後、思いもかけないことがあった。小雪ちゃんが引っ越してきた。男おばさんは、山も暮らしもいいものだと、思ったらしい。金山の関係者が増えてきて冬は薪ストーブの暖かい火が心をいやした。小雪ちゃんの居酒屋がオープンした。裕子もお祝いに行った。冬はいのししの季節、地元の猟師が雌のイノシシを持ってきた。それを小雪ちゃんがさばいた。焼肉にした。その猟師に裕子は頼みごとをした。香水の原料だと言った。快く彼は請け負ってくれた。そして数日後望みの物を受けとった。
その年のお正月は賑やかだった。桐谷地区に新入りが来た。地区の人は喜んだ。地区のお宮で初参りを済ませると、小雪ちゃんの居酒屋に行った。先客が何人かいた。「おめでとうございます。」と言って中に入ると、地区に人たちと議論していた。この地区をいかに発展させるかで、白熱した議論があった、裕子は静かに重箱を取り出しテーブルに乗せた。重箱の中のお節は山本家のお節だ。もちろんこの土地のお節もあるが、博多の町家の料理は裕子には町子の思い出とともにあった。お父さんお母さんお兄さん、家族を思いながら詰めた重箱だった。
この桐谷地区には小学校がある。小さな小学校で全校生徒6人。隣の間谷地区の学校と合併が決まっていた。今年はそのお別れ会をやることになった。地区内の人が総出で学校の体育館に集まり、この学校に別れを惜しんだ。豚汁を炊き、握り飯をして、外から来た人にもふるまわれた。そこにテレビのカメラが来た。何もない静かな中で、音楽がかかった。タンゴである。小雪ちゃんが裕子の手を取った。裕子はただエプロンと、このあたりの人に合わせて、絣のモンペをはいていた。体育館の中央に立たされ、小雪ちゃんが踊る。裕子もつられて相手した。小雪ちゃんはセミプロの踊り手だ。裕子はそこまでうまくはないが、相手次第で見栄えする。二人が踊り始めた。周りが静かになった。切れのある小雪ちゃん、妖艶に体のくねらせる裕子、周りから拍手があった。軽妙な二人のダンスをテレビカメラが追った。閉校のニュースと、男おばさんとモンペダンサーは話題になった。そしてそれをじっと見つめていたものがいた。福次郎だ。そして裕子のタンゴを見た。絣のモンペでタンゴを踊る。その姿、相手は小雪ちゃん??信じられなかった。春野市の山の中の学校。しかも閉校する学校。見つけた。口角がぎゅうと上がった。おやじの話は本当なのか。自分で試したかった。旅行の間も獲物を見つけたら仕留めた。そのあとは自分の性欲のはけ口にした。そして指名手配がされた。世間は騒然となった。福次郎は博多を目指した。
金山の坑道のそばには今はもういけない。敷地の入り口にある山の神を祭る小さな祠にお供えの小さな酒瓶を置く。一礼をして柏手をたたいた。
トリカブトは至る所にあった。ビニールの手袋をして花を摘みビニールの袋に入れた。根も掘って入れた。帰りにもう一度神様に頂いていきますと言って山を下りた。
家に帰ると、慎重に花を出した。紙の上に広げる。ビニールの手袋をして花をむしり、ピンセットで卵の白身をつけた。グラニュー糖をまぶす。紙に広げ乾かした。クリスタルゼを作る。この邪悪なクリスタルゼに、可憐なスミレをまとわせる。白雪姫の毒リンゴおばさんになった。家の周りでスミレを探した。見つけて摘んだ。スミレを強い焼酎に漬け乾いたクリスタリゼに吹きつけた。トリカブトをスミレに見せたクリスタリゼが出来た。あとはしっかり乾燥させるだけ。別の日には藪を歩いた。ある蔦を探していた。椿のような葉をしているがそのつたは猛毒を持っていた。その傍に生えるキノコを探した。派手な色をしているが強いとは言えない毒がある。かつては食用にされていたらしいが今は食用にされていない。当たり前だろう。毒蔦に生える毒キノコだ。と言っても強い毒ではない、軽い幻覚がある。この幻覚を利用して、酒の代わりにした。この煮汁を枕や寝具にかけると、男は女にやたら興奮する。見つけてそっととる。帰ると小さく裂き干した。干しあがると煮だした。煮汁をスミレ酒と混ぜスプレーで寝台全体に振りかけた。これから毎日獲物が罠にかかる日まで、磨いていく。裕子が出来る罠だった。
特別な紅茶とコーヒーを用意した。小さな果物ナイフに何回も脂のような液体をぬる。乾かしてベッドの下に隠した。寝る前には風呂に入り薄く香水を振った。自分が餌にならなければ魚は食いつかない。ある蔦から取ったぬめったローションをふろの棚に置いた。
裕子は美しくセクシーになった。
心の中でつぶやいた。私の罠にようこそ。春の夜は更けていった。待つときは長い
小雪ちゃんに玉川から電話があった。早川功が亡くなったという。まあそれだけなら年寄りが亡くなっただけだ。そのあとが気になった。福次郎が裕子を襲うかもしれないという。「あんた、結婚しているの。していないならなんで裕子を守らないのよ。だいたいあんたはアキとも裕子ともいい感じじゃなかったの。女も守れない奴が、へんなことを言うんじゃないわよ。あんた、ばかたれか。」そうは言いながらも話はしっかりと聞いていた。玉川は話した。
早川功の通夜が行われたとき、親の代からの付き合いだから、葬儀会場に行った。香典を渡し通夜の読経が終わると奇妙に感じた。福次郎は喪主の席にいたが、その他の親戚がいない。葬儀の会場も小さかった。福次郎のそばに行きお悔やみを言う。丁寧に返事をする喪主。読経の後、そっと福次郎が来た。裕子はもらうよ、そうささやいていったという。話しを聞いた小雪ちゃんは固まった。
不動興業が出した事務員募集に応募してきた由美子がその後を語った。あれから福次郎は、夜中に出かけることが多くなり、出かけると何かがある。
いやなにかして帰ってくる。
父親が刑務所から帰ってきてからしばらくして、古川モータースを廃業した。古川の本家で同居した。古川昌子に先が見えない暗闇があった、不安がいっぱいだった。その中で功の死。精神が壊れた。車で出かけた。そしてガードレールにぶつかり車は大破した。瀕死の重傷で病院に入った。
由美子が瑛太郎を連れて家を出た。そして離婚訴訟。絵にかいたような話だった。古川は手持ちの金を由美子に渡し逃がした。もしかしたら瑛太郎を連れ戻しに来るかもしれない。恐怖だった。由美子の実家は母子家庭、玉川は、見て見ぬふりはできなかった。由美子と瑛太郎を連れて母民子のところに行った。美鈴が由美子を抱き寄せた。安心しなさい。民子が瑛太郎を抱き寄せた。今いくつかね。来年学校だよ。というと、そうかランドセル買わんとな。民子は満が中学の時の同級生の由美子が、同じクラスだったため知っていた。話しにくそうに話した。「満君、福次郎は殺人犯かもしれないよ。」玉川は目をつぶった。知っていて知らん顔をした。「お義父さんが、にげろって。」「あんたまで、殺されるのか?」「そうかもしれないが違うかもしれない。」「ごめんなさい。最初からあなたを、頼ったの。」断られるのが怖かった。」そして古川は由美子に玉川を頼れと言った。なんてことだ。重しを乗せる奴しかいない。古川までもがずっしりと重い何かを乗せた。
このころはパソコンなんて便利なものはなかった。リストは客の注文、ホステスの指名ヘルプ、記録で営業中はてんてこ舞いだった。有能な事務員が必要だった。由美子は有能な事務員だった。玉川の店に事務員として入った。黒服の一人に送迎を頼んだ。彼は剣道の有段者だった。福次郎が何をするかわからない。やがてその心配が現実になった。リストメンバーの一人が襲われた。背中を刺された。重症だった。幸い一命はとりとめるらしい。背格好が由美子に似て、同じ制服を着ていた。リストの整理をして最終の集計をして、売り上げ確認をして、夜の中洲を歩いていた。人通りはいくら夜遅くてもかなりある。これが中洲だ。目撃者もいた。福次郎だ。玉川はそう思った。通り魔だが凶器が特殊だった、細い形状、通り魔連続殺人と一致した。
修一は堅実に食堂の経営をやっていた。裕子のことは心配だったが、かといって積極的にかかわりたくはなかった。最後に裕子に会ったのはいつだったろうか。その時、血の匂いがした気がした。自分の感が裕子に近づくなと言っていた。そんな中、見知った顔が来た。小雪ちゃんだ。小雪ちゃんはオカマバーをやめても時々来ていた。でも春野市に移住してからくることはなくなった。それが珍しくやってきた。すっかり普通の人になっていたから見違えた。でもさすがに元オカマきれいにしていた。お化粧を少しして、目立たないような口紅、男おばさんとしては普通だった。うどんを食べておでんを食べて、世間話をした。「玉川さん、結婚したんですかね。」何気なく修一が言う。「この間、お子さんとうどん食べに来てくれました。来年小学生だそうです。」小雪ちゃんにはそれが誰かわかった。相変わらず人がいい。それは玉川の強さだった。修一は何も知らない方がいい。何も言わずに帰った。小雪ちゃんの気持ちだった。それが修一には引っ掛かった。裕子のそばに住んでいるのは知っている。裕子に何かあったのか。その夜店が引けた後、宮部に電話した。宮部とは時々顔を合わせていた。印刷会社の社長は島田が生きているときまでだった。あとは、家賃収入、駐車場収入などで暮らしていた。時折、息子の智と来店するが智は島田に似てきた。そしてアキにも似てきた。とうとう智は高校には行かなかった。宮部は必死に行かせようとしたが、ダメだった。島田の遺産を元手にデイトレードをやり始めた。ドル円取引、株取引少しずつ利益を重ねていると言っていた。十八歳でニートか。ニートという言葉もまだなかった。修一はあのアキの強さを思った。彼女がいなかったら自分たちの今もなかった。宮部ととりとめもない事を電話で話していると「そういえば。」と言い出した。古川死んだらしいな。そうだよ。新聞に載っていた。そうかあの古川も年には勝てないか。恵子をじっと見ていた古川が恐ろしかった。だがもう安心だ。恵子も大きくなった。久しぶりに裕子に会いに行くか。そんな気がした。
このころ小雪ちゃんは市の健康診断で引っ掛かり、アルコールは控えていた。市からダンス教室の講師やら、男の手料理教室やら、果ては野球教室の監督まで、なぜか引っ張りだこだった。財産は持っていて、贅沢しなければ悠々自適に暮らしていた。ダンスがある時は裕子も頼まれて助手をした。モンペダンサーは、このいなかでは有名になっていた。成人式は着物の着付けボランティアをしたりした。
石井牧子は相変わらず福岡市の交番勤務だった。県外の出張などで、まとまった休暇が取れそうになったので、実家に帰ってみた。兄は相変わらず、シマ子に母親を丸投げしようとしていた。母の病状は進み、台所のテーブルをかまどと思い火をつけようとした。甥が見つけたがその後も何回もして、よその家の玄関に積み上げていた新聞紙にも火をつけようとした。急きょ措置入院の措置が取られた。シマ子の手には負えなくなっていたが、兄は認めようとしなかった。牧子が言った。「あんたと私の親じゃろうが、シマ子さんの親じゃなか。」男は融通が利かん。自分の親は嫁の親か。
ようやく兄はいい息子モードから目が覚めた。精神病院へ入院させた 。病院代の支払いが重くのしかかった。牧子もその負担はすることにした。まだ七十前なのに、自分もそうなるのかと恐ろしかった。自分は孝行息子と思っていた兄は、家族にしたら裏切者かもしれない。終わると牧子は、裕子の店にいった。
山間の桐谷地区は、平地が少なく、果樹や棚田でのコメ作りが主な産業だった。まだ田んぼの用意はされていない。もう2週間もしたら田んぼに稲が植わるだろう。裕子は客を喜んだ。牧子と裕子は遅くまで世間話をした。久しぶりでおしゃべりをした。「口の運動たい。」二人のおしゃべりは続いた。裕子から頼まれたことがあった。病院の健康診断についてきてくれという。何かの告知らしいが、来てもらえるような身内がいないという。自分でよかったらと、ついていった。
精密検査の結果だった。まだ初期の肝臓がん、牧子の方がショックだったけど、裕子は覚悟していたらしかった。このころは肝臓がんは死病だった。アキのことは知っている。麻酔が効かない体質、それが彼女を死なせた。厳密にはそうではないが、それが裕子にもあった。「牧子さん、私もアキ姉さんと同じ体質よ。」裕子が言った。なんと慰めようもなかった。裕子は堅く誰にも言わないように口止めをした。そして二人で神社に行った。牧子は裕子の死もみなければならないのだろうかと思った。裕子は今日の無事を感謝した。牧子は不安になった。アキの妹だから心配した。それはどういう風に心配したらいいかわからない心配だ。
「今日が無事なら感謝しなければ。」鳥居を出るとお辞儀をしてそういった。
「私の遺産は智に行くように遺言を書くよ。」自分の運命を黙って受け入れた。
春が過ぎて初夏、山は緑が深くなった。野藤が咲いている。車で道を行くと草むらから鳥が飛び出した。車の前を走る。どちらかに避けてくれれば、車はそのまま行けるが、前を走られたら轢かないようにスピードを落とすしかない。だからと言って鳥はスピードを上げるわけではなく追いついてみろというようにすぐ前を走る。迷惑な鳥だ。道端に巣を作って、車が来たらヒナを隠すために、道に出るのだろうがはた迷惑だ。このあたりの鳥なのか前からいた。つかまりそうで捕まらないそんな鳥だった。修一は智を誘った。車を走らせた。裕子の喫茶店兼用の店に行った。趣味のいい店だった。席数は多くはないが下に清流が流れ、その岸は岩盤、その岩の間から水が落ちていた。
この上流にあった金鉱山が操業し始めたという。裕子の穏やかな顔と入れてくれたコーヒーがうれしかった。「今夜泊まっていかない?」と尋ねた。ます釣り堀のそばに小雪ちゃんの居酒屋があるから、そこで夕ご飯ね。民宿に部屋を取った。十八歳の智には裕子の女くささが苦手だった。裕子のランチを食べた。山菜を煮たり焼いたり、ヤマメのすし、そしてヤマメのゴマサバ風を味わった。
智は裕子を深く見ることは今までなかった。いつも父がいた。お父さんっ子の智は母というものがわからなかった。いつも叔母の裕子と見分けがつかなかった。記憶の中の叔母を母と混同した。しいて言えば、ご飯を作ってくれるのが叔母だった。釣り堀や山歩きでおなかをすかし小雪ちゃんの居酒屋に行った。熟成させたイノシシの焼肉を出してくれた。山のおっちゃんたちが来ていた。大人の話に入れてくれた。焼肉を食べて遅くまで話し込んだ。話題は身近なこの桐谷地区をどうするかから、国政世界情勢と広がった。智は目を輝かせて聞いていた。疲れが出て智は民宿に行った。裕子は久しぶりに修一と話した。話すことは限られていた。話せないことが多かった。久しぶりに見た智は少し大人びて見えた。修一が聞いた。
「この前、牧子さんが来た。修一君が、直接裕子さんに聞くべきだと思うと言った。」
言わずに死ぬのは卑怯だろうか。少なくとも兄には言うべきか。言えば全部が失敗する。言うわけにはいかない。「わたし、好きな人が出来たの。結婚するか迷っている。だからもう少し考えさせて。」ごまかした。家に絶対入れようとしないのは、そういう事かと修一は理解した。そうかやっとその気になったか、長かったなあ自分たちの人生。あの人でなければ誰だっていいよ。横目で小雪ちゃんを見た。
翌日、智は小雪ちゃんと山のおっちゃんと、谷川に筌を上げに行った。今は禁止になっているがそのころまで瓶の筌があった。ハヤは透明なこの筌でないと取れない。
ハヤがいっぱい取れていた。それを炊けるように下ごしらえをして甘露煮を作った。小雪ちゃんの甘露煮はおいしい。智の少し病的な顔が明るくなった。また来ていいかと小雪ちゃんに聞いていた。この男おばさんは智にいい影響を与えてくれた。
宮部にも土産が出来た。玉川にも一つ包んだ。
帰る二人を見送ると、小雪ちゃんが言う。「あれでよかったの。」何かを察した。
独り言だよ。と前置きしてしゃべり始めた。
春吉は昔遊郭があったんだよ。遊郭はね、残酷だ。女の寿命を縮めてそれを金にする。牛馬のように女を買いそして売るんだ。遊郭には技術みたいなもんがあったんだ。いつまでも処女のように見せるとか、客を早くイカせて数を稼ぐために、体に媚薬を塗りこんだ。性器にもだ、遊郭の技術だ。体にいいわけはない。
女の体はボロボロだ。あんたいつかイノシシ捕りの猟師に頼んでいたね。
頼んだものは手にはいったんか。だいたいね、男が最高に喜ぶ技術って、あるわけないよ。思いあって慈しんで、寄り添って、それが男と女だろう。あんなの迷信だよ。春吉妓楼の客寄せの作り事だよ。本気でこれで男が罠にはまるとおもっているの。
「そう。」裕子が気のない返事をする。「私、一人だけ、一人だけ、この部屋に来て欲しい人がいるの。」小雪ちゃんにはそれの察しはついた。スウーと近ずいて裕子を抱きしめた。「泣きなさいよ。顔がわからなければ誰の胸でもいいでしょう。オカマだって胸ぐらいかしてあげられる。」声を上げて泣いた。両親を思う正人を思う修一を思う。みんな涙にして小雪ちゃんの胸で泣いた。そして言った。「誰も私の今を喜ばない。」
でも、幸太郎を許せなかった。アキと裕子を最初は間違えていたが、やがて違いに気が付いた。アキは百戦錬磨の猛者だが、経験の浅い裕子はそうはいかない。散々もてあそばれた。そして正人の最後の様子を、茶化しながら裕子を侮辱した。正人を侮辱したのは許せなかった。疲れてまどろんだその口に、毒を入れた。悶える幸太郎を見て、笑いが出た。小雪ちゃんの胸の中で裕子は言う「私は毒花トリカブト。触ったものは殺す。あなたも満さんも殺すわけにはいかない。だから私からはなれて。わたしはね、金の気配がするところに咲く花よ。そして手折ったものを殺す花。」顔を上げた。小雪ちゃんは裕子の顔を見た。その表情は見たこともないくらい冷徹な表情だった。「ここに来て欲しいのはただ一人福次郎よ。」殺してやる。殺してやる。狂気のようにつぶやいた。
小雪ちゃんは裕子が憐れだった。男が女にしてやれることは一つだった。ただ抱きしめるしかなかった。
牧子は 中洲の交番勤務をしていた。いろいろの人が来る。そして帰っていく。指名手配犯のポスターが来た。捕まったものを外した最新版だ。その中に古川福次郎の名前を見た。連続女性殺人容疑者。まだ犯人と決まっていない容疑者だがほぼ確定。その手配書を見ていて、捜査陣は、大事なことを見落としていると思った。勤務中ではあったが、捜査1課の知り合いで後輩の佐藤彩子に電話をかけた。佐藤は美人だ。警察一家、おじいちゃんが長く春野市で駐在所にいた佐藤さん。牧子にとっても話しやすい後輩だった。翌日の勤務明けに会うことにした。佐藤と会って捜査陣が、福次郎の山本正人の殺人にまだ及び腰だと知った。当時の副知事、知事が関係してもみ消した事案だ。警察内部の問題まで出てくる。一番いいのは福次郎が生きて捕まらないことだ。被疑者死亡が一番いい。山本裕子については調べ上げていた。彼女が何をしようとしているかもしっていた。翌日牧子は刑事課長に呼び出された。交番勤務が呼び出されるのは珍しい。刑事課長の山村はいった。「しばらく休みを取ったらどうだ。」他県派遣で牧子の休暇は溜まっていた。それに上乗せして福利厚生として3週間くれるらしい。おまけに桐谷地区の民宿に福利厚生で期間中泊まっていいという。変な策略を感じるが、乗ってみることにした。翌日から客を装って、桐谷の民宿に泊まることにした。小雪ちゃんは歓迎してくれた、朝ご飯は宿で出る。昼と夜は注文だ。小雪ちゃんの店で食べることにした。牧子が裕子を守るために来ていると思っている小雪ちゃんはほっとしていた。3人ほどの釣り客が来て。民宿に泊まった。
張り込みの刑事だ。食事は小雪ちゃんのところ、大賑わいである。裕子と牧子それに合流した警察関係者と合図を決めていた。
居間の明かりをつけっぱなしにしていたら、福次郎が来ている。3人の刑事は裕子の住居を下見して驚いた。性的な興奮が抑えられない、そんな雰囲気があった。牧子は思った。これは自分を餌にして獲物を待つ罠だ。若い刑事はこれを見て牧子に尋ねた。
「なにかむらむらしますね。」「男を捕まえるための箱罠よ。つかまってみたいと思う?」「やめときます。でもいいかな。一回くらい」「からからになるまで絞りとられるぞ。」もう一人の刑事が答える。「伝説だが男の最後の一滴まで絞り取る魔性の閨房術があるらしい。」年配の刑事が言う。「あとはミイラだよ。」牧子は笑えなかった。裕子は合図をしないだろう。そして一人で決着をつけるだろう。
「でも、裕子さんも、あれではもてないでしょう。」「裕子はね。麻酔薬がきかない体質よ。だからあんなの何でもないよ。」「あの中には幻覚の作用のあるキノコの出汁が入っているよ。麻薬とぎりぎりだね。」
警察の装備は貧弱、50ccバイクしかなかった。これでどうやってオフロードバイクに対抗する。
福次郎はチャンスをうかがった。警察官みたいなのがいる。
そしてその日が来た。次の日曜日は晴れてツーリング日和だった。道なき道を走るオフロードバイクの客が来た。一度はきたことのある客が多かった。一回転んだら修理に金がかかるバイクはここには来ない。山の夕日は隠れるのが早い。
お客さんがひと段落して、夕方店を閉め住居に帰った。家の周りの金網のカギを開け、また閉める、数歩歩いて家のカギをあけた。男の匂いがした。自分の匂いではない。誰かがいる。かかったか。猟師のような感が働いた。知らせろと言われていたが無視した。静かにポケットを確かめた。持ち手を短くした千枚通しの鞘があたった。何事もなかったように歩いた。服をかるい部屋着に着替えた。風呂場に行き湯を張った。鼻歌でメロディーをなぞり素足でステップを取った。音楽をかけた。タンゴが流れる。鏡の前に行った。全身が映る大きな鏡だ。その前で身をくねらせて男を誘うように手と腰を回した。鏡の中のじっと見る目を意識していた。寝室のドアが少し開いたようにも感じた。部屋着を取ると風呂場に行った。家の中ではタンゴの曲がループで流れている、汗を流し、髪を洗った。髪はすすいだ後丁寧に水分を取った。湯上りに性器にある秘薬を入れた。効き目は抜群だ。乳房に乳液を刷り込んだ。肌にローションをしみこませた。何日もかかって手づくりした媚薬。
髪をとかしドライヤーをかけた。あらかた乾いたところで髪をとかしてスプレーを体にかける。そして、居間の明かりは消して、寝室に向かった。体にメスの匂いをまとわらせ、寝室に入った。男がいた。福次郎だ。福次郎は全身にぴったりした皮のつなぎを着ていた。手には細い金属棒。その先は鋭くとがっていた。サイドテーブルには黒いヘルメットがあった。「殺すつもりで来たの。」わかりきったことだ。「その前にすることがあるでしょう。」誘うような言葉だった。タンゴのリズムに合わせて誘惑するようにシナを作った。この女は恐れていない。不思議だった。今までの女は恐れ、叫び、命乞いをした。
だが彼女は恐れない。幸太郎を殺したのはこいつか、改めて確信が持てた。俺と同じものだ。言う。「殺してからやったっていいんだ。」「生きている方がずっといいよ。」「へっ、命乞いか。」軽蔑するように言うと「そうかもね。」と流した。
福太郎は忍び込んだ時、寝台の上の布団をひっくり返して下を見た。案の定、ナイフがあった。ナイフを窓から捨てた、元のように布団を直した。布団や毛布は柔らかく、いいにおいがした。抵抗する刃物はないはずだ。福次郎は迷うような目をしていた。この女が何か仕掛けをしているのではないか。疑いながら、寝台に行く。男は迷いながらも服を脱いだ。腰に抱き着いた。足を広げて匂いを嗅ぐ。いっぺんに性欲が爆発した。酔ったような感覚がした。何か薬でも使ったかと思った。布団に顔をうずめると至福の香りがする。はててぐったりと力が抜けた。また少しすると自分の精液の匂いに強烈な雌のにおいが混じった。立ち上がろうとした女を引き倒した。そしてまた乗った。数回それを繰り返した。なぜだ、性欲が湧き出してくる。数回目のあと、さすがに後が続かない。一服しようとタバコに火をつけた。居間の明かりさえつければ、福次郎はおしまいだ。それはしたくない。この手で終わらせる。
お茶を入れると言って台所に行こうとした。危ない。体に羽織ろうとした部屋着をとった。「裸で行けというの。そう。」足の間に福次郎の体液を滴らせながら歩いた。その姿がまた性欲を呼んだ。居間の鏡の前に来ると、「そこでタンゴを踊れ。」と要求した。タンゴの曲はループで流れていた。誘うように音楽に合わせて踊った。男の目をクギズケにするその姿が情欲を誘う。福次郎の気が済むまで踊らされると、足を広げられた。福次郎は気が済むまで、裕子をもてあそんだ。うんにゃ(九州弁で違うの意)福次郎は裕子にもてあそばれていた。媚薬で満たされたこの家に、とらわれた男に逃げ場はない。ただただ女の手の中で悶えるだけだ。その柔肌に塗られた川の毒、女の性器に塗られた野生の毒、少しの傷から入れられる水の毒、そして部屋に振られた幻覚毒あらゆるものが攻撃する。最後の一滴まで男の精気を奪い取った。普通の女ならこれだけのものを塗って入れて無事では済まない。麻酔薬に耐性がある裕子だからそれが出来た。
「逆さに振っても一滴も出ないよ。」福次郎が降参した。こんなに疲れたことはない。
心の中で功に言った。最高のSEXをしたよ。あんたはできなかったんだろう。
彼は忘れていた。SEXは実りある明日のためにある。裕子のSEXに実りはない。
絶望の未来しかない。
小さな明かりをつけて、小さな台所のコンロに火をつけた。お湯を沸かした。
大きな明かりは点けない。福次郎はまた逃げるのか。逃がさない。この小さな明かりを張り込みをしていた刑事が見た。合図なのかそうではないのか。微妙なところだった。牧子も気が付いた。小さな光だった、それは無視してと、彼女が言っているようだった
後ろから来た福次郎に、微笑みながら聞いた。
「紅茶がいい、コーヒー。」さも恋人に言うように言う。「コーヒーかな。」2つの器を出し、皿に小さな砂糖を乗せた。その上にスミレのクリスタリゼを乗せた。
「オシャレにコーヒーを飲みたかった。」「俺とか?」「あんたのわけないじゃない。玉川さんよ。」「幸太郎じゃないのか?」「あいつはとんだ、見掛け倒しだった。まだ子供だった。」夢見るような表情をした。SEXのあとの表情がいい女だな。そんなことを考えた。殺さねばならない女だ。コーヒーを注ぎ砂糖を入れた。スミレが花開いた。裕子もコーヒーを取り砂糖とクリームを入れて飲んだ。楽しみはここまでだ。やるべきことは残っている。裕子を寝室に引っ張った。またむらむらと起きる性欲はあったが、体がもう答えられなかった。裸の体をベッドに寝かせた。
「玉川の夢でも見ろよ。」そう言って顔を撫でた。その福次郎の顔を引き寄せ。耳たぶにくちをよせた。それを吸い嘗め回し、SEXのような快感を味あわせた。全身の力が抜けた。
胸を合わせる。その皮膚から、裕子の肌に塗られたローションが香る。毒かずらの成分が福次郎に移った。幻覚、幻臭、タンゴの曲が変化した。かろうじて半身を起こした。
これ以上いたら女を殺せない。
女の目を手で覆い鋭い金属棒を心臓に刺した。長政とはここでお別れだな。福太郎はそっとつぶやいた。長い間の相棒だった。持ち手のアサヒモからこれまでの被害者の血液が出るだろう。「うう」と声を上げそうな裕子の口を部屋着でふさいだ。口に詰めようとしたとき何かが手に刺さった。千枚通しだった。
裕子が用意した、毒を塗った千枚通し。女が絶命するのを見届けた。苦しみは短かった。
暗闇にバイクの音がした。裕子の店の前を通り小雪ちゃんの前を通り、やがて暗闇に消えていった。小雪ちゃんは飛び起きた。そして自分の50ccバイクを出した。大声で「馬鹿垂れが、福次郎が逃げた。」見張っていた刑事も、寝ていた刑事も、慌てて50ccバイクに乗った。その時は闇のかなたにオフロードバイクの音は消えた。夜が明ける時間が迫っていた。山の縁がだんだん赤くなっていく。バイクを走らせる。帰りたい。帰りたいどこへ?
福次郎に帰る家はなかった。博多の家は荒れ放題。幽鬼のすむ家だ。ただ無性に子供時代に帰りたかった。あのころは母がいた。父がいた。そして兄がいた。幻覚が見え始めたときは峠にさしかかった。ここを越えると広いダム湖がある。長いガードレールがある。心臓に鈍い痛みを感じる。スピードを上げた。ガードレールを突き破ってダム湖に吸い込まれた。
依然は後味の悪い映画があった。私は殺さない。死刑台のエレベーター、後味の悪い考えさせる物語を書いてみたかった。読んでいただきありがとうございました。




