昭和五十年中洲のクラブ月光で起きる、成り代わり事件春野市の旧華族藤田家に起きる殺人事件とこの一家の美人姉妹が織りなす人間模様。
昭和は遠くなっていきます。昭和五十年中洲の歓楽街で、クラブやスナックソープを運営する不動興業の黒服川島は、自身が家出少年だった過去を持つ。家族から疎外された孤独感を持つ相手に寄り添うようになる。黒服となった川島は名無しと名付けられた家族から切り捨てられた女の面接をする。
昭和の奇談 二つの顔を持つ女。
昭和五十年、もうそろそろ正月かという寒い年末、不動興業のホステス採用担当の川島勝は、営業前のクラブ月光で面接をしていた。
彼自身が二十三歳と若いが、相手は十八歳と数日出ただけの若い女だ。
小さな手荷物を持っている。
採用はするが寮を希望とのことに、今、寮の空きを調べていた。
これくらいの年齢だと親や兄弟がいるはずだが、
その姿はみすぼらしく貧弱だ。訳ありの身の上らしい。
本籍地の役場に年齢確認と、存在確認の照会を入れる書類を準備する。
寮には眠れるくらいの夜具の用意はある。
川島は彼女が家出でもなくただ家族から絶縁された若者だと思う。
それは自分も同じ、妙に自分の身の上と重なる。美人でもない。ただの小娘だ。洗練されていかないとこの世界は通用しない。小太りで顔は平たく目鼻立ちも悪い。この中州に来たのは今日が初めて、父親とともに来たと言う。最初はソープに連れていかれた。そこで店の人と話していたら、昔のように売り飛ばしが出来ないと知り置いていかれた。そこでソープ大奥の支配人平松が同じ系列のクラブ月光に連絡を入れた。少し話を聞くと父親は本当の父ではなく、母親の浮気で生まれた子で、家で厄介者、中学を出ると家の農家の手伝いで牛馬のようにこき使われ、挙句に中洲での置き去り。川島は言葉が出なかった。母親のことを尋ねると、生まれたばかりの彼女を置いていなくなったと言う。残酷な話だが希望はある。そんな家族と絶縁できる。女は山田名無子と名乗った。母親の浮気の代償を子に払わせる。名無しとつけられた名前、田舎の陰湿さを感じた。吉塚の寮に連れていき、部屋や夜具の用意をする。布団を貰うと喜んだ。この寒空にまともな布団で寝せてもらえなかったらしい。
川島は同情したがビジネスを忘れてはいない。寮の家賃、と食費、ここにいられる期間を説明する。ここはあくまで緊急避難の場所なのだ。金が出来たらここを出ていく。それまでの仮の宿だ。寮のミカジメをしている米田さんに紹介して、夕食から出してもらう。夕食と朝食は出るが、昼は自分で食べねばならない。だが一文無しでは仕方がない。クラブの中の従業員食堂と言っても調理場の横で椅子が二つの場所で食べることになる。調理場の賄飯が昼食だ。明日から一週間、戸籍照会の返事が来るまで、川辺のところの清掃部門に行く。それでもホステスを希望すれば、ホステス修行をさせる。そのあととりあえず近くの飯屋でカツ丼を食べさせた。感激しながら食べていた。「あんしゃま、ありがとうさん。」
あとで中洲交番の石井牧子巡査が来てくれると言う。いろいろ聞きだしてくれるだろう。自分の時もそうだった。冷たい家に耐え切れず家出して、牧子に事情を聴かれた。以来ずっと寄り添ってくれている。自分のせいではないことで、全否定される悲しさを彼は知っている。それが中洲では珍しい事ではない。中洲は来るものを拒まない。自由がある。その自由に自殺する自由も、殺される自由も含まれる。もちろん飢え死にもある。最悪春吉橋の上での立ちんぼうでも糊口はしのげる。クラブに帰ると総支配人オーナーの玉川満に報告する。「美人をスカウトしてこい。」と言われるが、美人がそんじょそこらに転がっているはずもなく、スカウトの競争も激しい。この前ナンバーtwoの菱沼嫁とは知らずスカウトして激怒されたので「ストリップにスカウトしました。一人で見物はもったいない。みんなで見るべきでしょう。」と言ったら、殴られそうになったので、嫁をパートに出せない職場ですかと言ったら、玉川から、余計な一言が多いと言われた。その玉川、自分はオニオコゼのような顔をしているのに、姉ちゃんたちは日本人形のような美人、少し年増と既婚者だと言うのに目をつむればこのクラブは美人がそろう。黒服にお前らの女房をここに出せと言いたい。出してくれればスカウトなんて手間はいらない。
本籍地照会の返事が来た。問題はなかった。山田名無子に希望を聞いた。ホステスになるか、このまま清掃員でもいいと。そうしたらソープに行くと言う。初めからそう言うものは珍しい。理由はお金を稼ぎたいから。男の経験はあるのかと聞くと、あると言う。日ごろから家族や近所の男たちから日常的な性被害にあっていたらしい。何とも言えない気持ちになる。生まれたときから彼女を守る者は存在しなかった。ソープの条件と給与の説明をする。いくら稼ぎたいのかと聞くと、二百五十万円。それを稼ぐのにどれくらいかかるかと聞く。本番は禁止されているが、やるのが当たり前。何回ぐらい本番をやるかに寄るが、だいたい半年ほどと目安を言う。愛そうよくして、客を捕まえればの話。やってきた支配人の平松からも説明した。稼いでみろと送り出すことにした。つぶれるなよ。それがせめてもの餞の言葉だ。業務の戻るとホステスの精査を始めた。傘下のスナックからホステスの要請が来ていた。年配のホステス二人を推薦する。彼女たちはクラブよりスナックの方がいいだろう。一日中傘下のおでん屋からスナックソープクラブを見周り不都合を見つける。普段の仕事はそれなりに忙しい。彼の直接の上司木下は外回りの営業をやる。クラブに来る芸能人、系列店を流す流しの歌手、店の前にいる占い師、それらが木下の采配にかかっている。名無子に源氏名が付いた。奈々子だ。なぜ同じにしたと聞いたら、いずれ捨てる名前、捨てる時惜しくないと言う。嫌な思い出は全部おいていけばいい。そういうと笑った。ソープで仕事をやって一か月、平松から電話が入る。奈々子の父親が来て稼ぎを全部出せと言う。仕方がない。白い背広に黒いシャツ黒メガネ、でソープ大奥に出向いた。父親は玄関でごねていた。川島がいくとびくりとした。見るからにヤクザ、「おれが話を聞こうか。」と、ドスの利いた声で言う。ビビっているのはわかる。「あんた何の権利があって俺の女が稼いだ金をとるんだ。」すみませんといって逃げるように帰った。クラブ月光に帰るには中洲交番の前を通らねばならない。行きは見つからなかったが、帰りは見つかった。牧子から交番に引き込まれた。訳を話すと解放してくれた。ここでは娘からせびりあげる親は多い。そのため人身売買組織の手に落ちる者も多い。石井牧子巡査は奈々子の顔を思い浮かべた。かわいそうと言って何か変わるわけではない。変わらせようとするものに手を貸すだけだ。川島がヤクザ服を黒服に着替えたころ、藤田隆一が来る。今日は傘下の企業の定例会。玉川。菱沼、藤田、川辺と、木下が集まる。開店前のBOX席で五人が集まるはずだが川辺がまだ来ない。待っている間のコーヒーを川島が持っていく。ハンサムでオシャレな藤田隆一にいたずら心をくすぐられる。それぞれにコーヒーを渡す。藤田に笑顔で話しかける。「そういえば藤田さん、この間スナック水車に行きました。あそこは自衛隊官舎のすぐ近くで、大山さん夫婦を見かけましたよ。いいですね。ポンポンと妊娠して。お盛んなんですね。」隆一の顔が曇った。耳を詰める。「聞きたくない。」という。菱沼が「それくらいにしてやれ。」という。藤田は大山二尉の妻志乃にぞっこん惚れている。大山から志乃を盗ろうとは何回もしたが、盗れなかった。いまだにそれを引きずっている。藤田隆一は有能な男だ。だが泣き所もある。泣き所を言われても、なにもできない。ただ耐えるしかない。木下が「こら。」という。それから川辺が来たので下がった。玉川が言う「ほんと、一言多い男だよ。」と。玉川の異母兄大山信二の妻志乃に、魂を抜かれるほど隆一は惚れこんでいる。しかし志乃は夫の信二にベタ惚れ、隆一のつけ込む隙が無い。
川島の中州人生はウエイターから始まった。彼は不思議なほど指名手配犯を見つける。新しい客が来るとフロントが指名かセットかを聞く。セットと答える客が大半だがたまにそうしないのがいる。ナンバーワンを呼んでくれとか、一番年上とか、一番若いのとか。変な注文を付ける。そうしたら川島の出番。セットの飲み物を持っていき、客の訛りやしぐさに注目する。だいたいの職業の目安を付けると交番の指名手配犯の顔写真を思い起こす。指名手配の写真と実際の顔とは違いが大きい。それを頭の中でスーパーインポーズみたいなことをする。そして何か決まれば、交番へ。何もないのが大半だが、一年にすると結構なだけ指名手配を見つけた。クラブの支払いの後に逮捕されるように、逮捕は道に出てからにしてもらう。初めのうちは表彰された、金一封も出た。何回も重なると「もういいだろう。」と表彰も金一封も無視される。駐車違反したら罰金、牧子のところに行って報奨金との相殺にならないかと言いに行った。ダメだった。母親のような年齢の牧子から報奨金と罰金は別だと説教を食らうのを、川島と同じ年齢の君島巡査が笑いながら見ていた。歩いて月光の方に行っているとスナックムーランのママ久木原真子が寄ってきた。ムーランは不動興業の傘下の店、なんでも相談を持ってこられる。真子は中洲でも古株のママで、年を取ってきて細かい法律経理届け出が面倒になり、それをやってくれる不動興業に、最初に傘下に入ったスナックだ。それから徐々に入る小さな店が増えた。今は裏路地のだご汁屋まで入っている。こんなことは金にはならないが、そのうち大きな波が来るだろう。ムーランのホステスのことで、相談に応じることにする。
二年後奈々子はソープ大奥をやめた。川島は気にはしていた。二十歳になったばっかりで、身寄りはない。強く生きていて欲しいと思う。そして一年後クラブ月光の面接に来た女がいる。美人だ。化粧もうまい。川島はいつものように面接した。相手は川島をよく知っている。なんか初めて会う気がしない。じっと相手の顔を見る。顔に見覚えはないが、強い九州弁が耳につく。その訛り聞き覚えがある。「もしかして奈々子ちゃん。」言ってみる。「そうよ。見違えたでしょう。採用してくれるの?あんしゃま。」この言葉は名無子の言葉だ。「もちろん。」その夜から出勤となる。寮の必要はなく自分でアパートを借りていると言う。このために2年も頑張ったのかとほめてやりたい。源氏名がいる、この店の名前一覧を見る。だいたい百はある。色気のある名も、ない名もあるが、このころ人気の女優でこのクラブのナンバーワンからファイブまで限定名前の“つかさ”さん。
夕方出勤して全員に紹介する。整形はもちろん秘密、体形は脂肪吸引で見事なプロポーション。ドレスは店の貸出物だがきれいに似合っている。新入りを菱沼が見に来る。「あれは、奈々子ですよ。」の言葉にびっくりしていた。天然美女もいいが人工美女もいいものだ。川島は鼻の下を伸ばしてみている。月光に美人の新人が入った。再雇用なので本籍地照会をしないと思っていたが、いつもの癖で発送した。その夜の営業が終わり、一人帰っていると後ろから声をかけられた。声をかけてきたのはホステスの葵さん、年配のホステスである。進駐軍時代からの中州を知っている。だご汁屋に一緒に入る。葵さんは今独身。彼女がなんで、今の月光にいるのかというとそのダンスの腕前である。少しは聞きかじったくらいで、みんなダンスを踊っているが、彼女は本格派を踊れる。黒服の伊藤は妻の茉莉子が妊娠して相手が出来なくなったので、相手をしてもらっていた。フロアの空いた時、二人で踊ると拍手があった。希望するなら傘下のスナックでもいいのだが、元気なこのホステスに、癒される年配者も多い。茉莉子は玉川の姪で伊藤とはダンススクールの同期、結婚していた。葵は言う。「今日来た子、知り合い?」ああそうか彼女はソープに行った。月光でホステスをしたことはなかった。内営業だからソープの女もスナックの女もみんな知っているが、月光のホステスがソープの嬢の顔を知らないのは当たり前だろう。言うべきではないのはわかっているので黙っていると、察したのか黙った。「私が占いをするのは知っているでしょう。」そう彼女は占いをした。腕前は確かだ。ただ金を受け取れないと言う。プロでやっていくのは、占いをさせる守護霊が許さず、無料でやる時のみ的中すると言う。「私ねえ、今日来た子、不穏なものを感じるのよ。だからそれを伝えたかった。」「今日は僕おごりますよ。」と伝票を取ろうとすると「私が謝礼貰えないのは知っているでしょう。」と言う。このだご汁屋は不動興業の傘下の店。「おや、川島さん、恋人を連れてきたと思っていました。」ここの親父が通りかかり言う。「悪かったね。恋人で通るでしょう。」葵の反撃に、おやじは苦笑いして通り過ぎた。吉塚にある自分のアパートに帰ると、風呂に入り寝た。葵の言葉が気にかかった。と同時に思う。あれは本当に奈々子なのか。しかしそうしたところで、何のメリットがあるのだろう。気の回しすぎと思う。次の休日、春野市に行くことにした。場所は休暇村。以前中洲でオカマバーを開いていた中洲の小雪ちゃんがやっている。車を飛ばして休暇村に行く。途中大きな道路から小さな山道に入る。曲がりくねった道を行くと少し視界が開けて休暇村が目に入る。そこの居酒屋風の建物風車に入ると中洲の小雪ちゃんが応対してくれた。小雪ちゃんはオカマバーを引退してからここで居酒屋とコテージをやっている。コテージの部屋を取る。担当の宮部が用意した。近所のヤマメの養殖場の釣り堀や、渓流釣りもあるが、川島の一番の目当ては、ここの夕食。イノシシの丸焼きがある。結構な名物。そのほかには小雪ちゃんはダンス教師でもある。男おばさんのため、いい年をした男が女言葉を使うのに違和感もある。身ぎれいにして髭も剃っている。そんな男おばさんなのだ。クラブ月光とは因縁浅からない関係らしい。詳しくは知らない。ここは中洲に無いほっとする空間なのだ。フロアではダンスのコーチを受けている若いペアが二組いた。コーチが終わると小雪ちゃんがコーヒーを入れてくれた。「最近玉川どう?」と聞いてくる。「元気ですよ。厳しいボスは相変わらずです。」「厳しいボスは彼だけではないでしょう。菱沼だって、隆一だって、もっと言えば川辺だって、ビジネスには厳しい男よ。」「でも、女にはめっぽう弱い。」「そうね。みんな弱みは女ね。」「藤田社長なんか、女の話題は駄目ですね。」「傷には触らないものよ。あんた好きな女はいないの。」「気になる女はいるんですよ。」と奈々子のことを話す。「ふうん。」と聞いていたが、カウンターから水晶玉と虫眼鏡を取り出す。葵さんといい小雪ちゃんといい、水商売のお姐さんたちは、これが好きなのだろう。しばらくじっと水晶玉を見ていたが、やがていう。「この春野市、昔は山だけのところだったのよ。でもね。人が住み、男が来て女が来て家族が出来て。ここは何もないところよ。家族の中の誰かを犠牲にしないとやっていけない。その犠牲になったのは子供たち、特に女の子。若い嫁も。」一息つくようにコーヒーを飲んだ。「そこでお化けが出来たのね。ナリカワリ。ある家の女がいなくなると、その女にそっくりの女がいる。売られた少女、売られた妻。口減らしのため谷底に落とされた年寄り。やがてその家はナリカワリばかりになり、ある日消える。そこには昔の山ばかり、人の住んだ以前の山よ。」「そのナリカワリをまた売ればいいじゃん。」「買いに来た女衒には見えないよ。」「ホラーだね。」「それがあんたに憑りつこうとしているよ。」川島は慌てて椅子から飛び上がった。「心配しなさんな。これを上げる。」とお守りを取り出した。「この先の桐谷神社のお守りよ。二千円ね。」財布を出しながら思う。なんかごまかされた気分がする。桐谷神社は比較的大きい神社。珍しく神主がいる。神主は風車にアルバイトに来ている。「お祓いもしてもらったらいいよ。」この上俺から金を巻き上げるのかと思ったが、してもらうことにした。料金は五千円。出勤してきた神主にお祓いをしてもらう。テーブルに一式お祓い道具を乗せると、祝詞があげられ払いが行われた。これで妖怪とは縁が切れる。すっきりした気分でイノシシの丸焼きを味わった。ご利益があるのだろうか。そして中州にもナリカワリはいるのだろうか。一泊して帰り際小雪ちゃんに言う。「もしナリカワリがいるなら藤田社長に出てきて欲しいな。片思いの悲しさなんて。」「失恋や片思いのエネルギーがナリカワリのエネルギーになるんだろうね。私だって死ぬほど恋した女はいたのよ。死んだけど。それで男の部分の終わり。」小雪ちゃんも所詮男なのだろう。オカマが惚れた女はどんな女だろう。想像する。
そこを出発して約二時間アパートについた。
夜の出勤に出た。事務から戸籍照会の返事を手渡された。そこの返事に驚愕した。
山田名無子は死亡していた。今ここにいるのは誰だ。彼女は妖怪なのか。死亡したのは今年の二月。奈々子を名乗る人物が来たのは五月。彼女がソープで二年かけてためた千五百万くらいは有っただろうと思われる預金。警察に相談するべきか。平松なら名無子とつかさをみわけられるかもしれない。翌日平松に事情を話して会ってみてもらうことにした。菱沼に報告しなければならないだろうか。もう一日待ってみよう。それがいい判断かどうかはわからない。その夜の営業でつかさの人気はあった。人工美人でも美人は美人、彼女がフロアに降りて、客を相手に踊って目立っていた。
翌日開店前平松が来た。いくつかの署名が必要な書類を用意して、事務室に呼び出した。平松が事務机に座り書類を出す。署名欄に署名を貰う。いろいろ事務的な説明をする。そして最後に言う。「これで書類はそろいました。奈々子さん。」平松が言うとつかさこと名無子は頭を下げて部屋を出た。出て行きしなに川島の耳元で言う。「ソープを思い出させないで。あんしゃま、ありがとうさん。」残った平松と川島は、平松が持ってきた書類の署名と、比べ言う。「筆跡が似ていない。」中州はあまり他人の過去を詮索しない。だが一人が消え、消えた者の名前を使い、誰かがここに来た。ぞっとした。だがつかさは奈々子の雰囲気を持っていた。川島が面接したとき、確かに彼女は奈々子だった。だがその奈々子は、平松に声をかけなかった。ソープで一番接触した支配人を、見おぼえないもののように扱った。だが川島にはささやいた。それは初めてあったあの日、彼女が言った言葉だった。それにしても筆跡がちがう。つかさは達筆、奈々子は金釘流だ。どう見ても同じ人間ではない。同じかもしれない。小雪ちゃんの妖怪話が現実味を帯びてきた。
木下に相談、そして菱沼に話がいく。弁護士相談案件な気がするがまずは木下が面接をした。戸籍照会で死亡になっているのを告げると、驚いていた。「一つだけ思い当たる。」と言う。東京で整形をしてソープに出たとき、中国人のスタッフに名義貸しをしてくれと頼まれた。聞くとオーバーステイで逃げ回っていると言う。貸し賃は五十万悪くはない金額。そのころ全財産を整形に使ってしまったため金が欲しかった。自分の情報を渡した。少し金が出来たのでこちらの戻ったと言う。弁護士に事を任せると一筆を取り、弁護士に任せた。相変わらずつかさは人気がある。その日も指名が五本も入ったが、回れるものではないので、二本は辞退した。欲張れば客が離れる。ヘルプで入って、愛想を振りまいている。ここまでする店はない。玉川の経営理念があるからこその、そこまでの世話なのだ。不動興業が中洲で傘下を多く持つ理由がこれなのである。厄介ごとを全部引き受けてくれる。経理や届け出の代行をする。細かい事だが年配のオーナーにはありがたい。愚痴は中営業の川島が聞く。行事や芸能は外営業の木下が聞く。経理や税金は菱沼、不動産案件棚代案件は藤田がした。いいトリオなのだ。川島は家族からはじき出された自分を取り立てて、修行させてくれる不動興業には感謝している。だが、やめられない癖がある。一言多い性格を改められない。
次の休み春野市から一段と山深い、大石村に行く。いまだに自治体名が村なのはここだけ。三つの村が集まって合併してもまだ村にしかならない。そんな辺鄙な山の中から山田名無子は出てきた。彼女の母は山の中廻りをする置き薬行商の男と姿を消した。生後間もない名無子を置いていなくなった。父親はわが子と認めず、名無しと名づけた。そして売る時の金を楽しみに育てた。このころ置き薬の行商人と山の中の若い嫁が出ていくのは珍しくなかった。低収入の山里暮らし、希望のない暮らしは外へのあこがれを強くした。名無子の母はどこに行ったのだろう。一緒に逃げた置き薬の商人はどこに行ったのだろう。山田名無子の家に行く。父親の彦四郎は寝付いていた。長男は山を下り隣の市の工場で働いている。看病をしていたのは長男の嫁美津子。頑として老人ホームに行かないので、このまま置いておこうと思うと言う。寝ている耳元で声高にそれを言う。この嫁ともいろいろあったのだろう。名無子の死亡届に関して知らないかというと、以前そういえば名無子が死亡したと連絡があり、骨壺の引き取りを尋ねられたが拒否したと言う。一年ほど前だったかもしれない。どうでもいい事なので覚えてもいないらしい。このまま置いていくなら、保護責任遺棄になるよ、というとこの爺さん早く死ねと口汚くののしった。役場に行き手続きをするように言い、ふと思う。なんでここに執着する。以前玉川が言う。今これがあるのは原因がある。その原因を知らないで解決はない。思ってみればそうだ。女房の尻に敷かれてペシャンコの菱沼も、魂抜かれるように惚れた女に袖にされた藤田も。玉川が中洲にこだわる理由も、皆女だろう。だから、彦四郎のこの家にこだわる理由も女?彦四郎の寝ている部屋を見る。日当たりの悪い湿気の多い北側納戸。日当たりのいい部屋はある。風通しのいい部屋もある。なにより玄関近くで便利のいい快適な部屋がある。なぜ暗く湿気がたまり、風通しの悪いこの部屋なのか。恐ろしい考えが浮かぶ。電話機を見た。このころ多かった有線放送電話。電話機の横の回しハンドルを回す。交換手が出ると駐在所につないでもらった。彦四郎の家に来るように頼む。美津子が帰ってきて、まもなくして駐在さんが来た。役場の車も来た。川島は納戸に行き彦四郎の布団をずらした。彦四郎は抵抗した。「美津子さん、義父さんは判断能力にかけています。ここにいる身内はあなたしかいません。許可してください。」美津子はうなずいた。彦四郎は布団ごと抱えられ、日当たりのいい風通しのいい、座敷に運ばれた。声にならない声で抵抗している。
納戸の畳をめくる。下に石灰をまいた跡がある。納屋からスコップをもってきて石灰の上の方から泥をよけた。中から骨が見えた。「奈々子さんのお母さんでしょう。」駐在さんが有線放送のハンドルを回した。村は大騒ぎになった。
静かな森があり、絵にかいたような景色がある。そこに暮らしていくのはむつかしい。ナリカワリは、そんな村に住んでいる。納戸の地下からは、二人の遺体が出てきた。女性が一人。男が一人、手荷物から男は、置薬の商人と分かった。彦四郎の身内、近所の親戚も事情聴取をされた。もちろん“つかさ”こと山田名無子も聴取された。そのころはDNA鑑定も精度が低く捜査に使われてはいない。弁護士は山田名無子の戸籍の復活と、分籍をした。そして名前を変えた。母の苗字を名乗り、佐々川純子にした。父親の裁判は長引くだろう。それまで父が生きているかわからない。死んで地獄に行くがいい。彼自身が妖怪だったのだ。
翌日の聴取があるため小雪ちゃんの風車に行く。泊まるかどうか考えあぐねた。
ああそうだ。今日もクラブ月光は営業する。帰らなければ。あそこが自分の家族だ。帰ろうとしたがそのままカウンターに伏せて眠ってしまった。どれくらい眠っただろうか。ふと目が覚めた。小雪ちゃんがカウンターの内側でグラスを磨いていた。「目が覚めた?」と話しかけた。「うん、少しまだぼやけているよ。」「もう遅いからここに泊まっていきなさい。」「えええつ、小雪ちゃんと同室?俺、普通に女がいいんだけど。」「馬鹿ね。誰があんたなんかと同衾するのよ。コテージに部屋を用意しているよ。宮部さんに頼んでおいたから。」ほっとした。言葉はきれいだが、おっさんと同衾する趣味はない。「ついでに、俺と一緒にナニしてくれる美人はいないの。」「俺でよかったら相手するよ。」小雪ちゃんがわざと男声で言う。
コテージで布団に入り眠る。夢の中でいい、名無子に会いたいと思う。夜が明け、日が高くなっていた。目を覚まし風車に行く。警察関係者がいた。みんな朝ご飯を食べていた。ふかふかの棚田米のご飯はオカズが要らないくらいおいしい。ヤマメの塩焼き、山菜の佃煮、みそ汁には豆腐薄揚げ、出来立ての生豆腐、どれをとってもおいしい。ハフハフフウフウと言いながら食べていると、警察関係者の食事が終わったようで、じっと川島の方を見る。「あんた、うまそうにたべるね。」警官が言う。小雪ちゃんがコーヒーを入れて持ってくる。「このコーヒーの水は、今朝龍神滝から汲んできたのよ。あそこの水はコーヒーにぴったり、一味違うのよ。」龍神滝、ふと名無子の何か言ったのを思い出そうとした。思い出せない。コーヒーはよい香りがした。川島は香りを嗅ぎ、口に含んで味わい、舌の上で転がした。えぐみのない香りと奥深い味が口の中に広がる。
龍神滝は春野市と大石村の境にある。福岡県内では一番高い美濃山の中腹にある滝だ。この山には大小の滝があり、その滝にはツボが置かれ、そのツボにビニールホースが差し込まれて、近辺の家につながれて簡易水道になっている。自分も行ったことがある。お茶やコーヒーがおいしいのでスナックやカフェが水を欲しがる。そこで業者に頼み龍神地区の住民の同意のもと水を配布する組織を作った。今ではカフェなどに水を入れている。まだウオーターサーバーなどは無かったが、水が注目されてきている。山の中の産業が出来ることはこの地に住む人にとって大事なことだ。これは外営業の木下の仕事だ。そして不動興業の幹部藤田隆一は、九州の山林の大地主なのである。その隆一は水事業を本格的にするか、検討していた。「あんなに金持ちなのに、なんで一介の自衛官に、好きな女を奪われたのかわからない。」そう小雪ちゃんに聞いたことがあったが、答えてはくれなかった。「そういえばあの滝のそばの観音堂はまだありますか。」小雪ちゃんは答えてくれた。「あるわよ、あの山は分水嶺でね。大石村の側に、まだ立っていたわよ。」近くの龍神神社は春野市側で桐谷神社の管轄らしい。二日に一回の掃除の日、宮司が水を汲んできてくれると言う。五千円のお守り代がその返礼なのだろう。そっとお守りを見た。宿泊費を払い、店を出る。里穂の加奈子にはほのかな恋心があった。今はそれが上書きされていく。名無子はどんな顔にしたかったのか。あの平たくて目鼻が小さく頬骨が張る九州にはよくいる顔がそのままでもよかったのではと思えてくる。名無子どこにいるのだろう。
川島は相変わらず忙しく傘下の店を見回りに行く。平松から書類の整理をしたいと言われ手伝いに行く。ずいぶん前の書類からあった。五年は保存義務があるが、不動興業は十年にしている。というのは警察からの問い合わせがある。以前浮浪者の女性の身元照会があり、不動興業に残っていた写真で身元が分かった。五年までの物を店に残しそれ以前は場所を取るので隆一の春野市の居宅の土蔵に入れている。捨てるのを考えてもいいのかもしれない。大半の整理がすんだ頃、平松が一枚の写真を差し出した。ここに来たばかりの山田名無子の写真である。その写真を見ながら今の顔と頭の中でスーパーインポーズをしていた。違う、今の佐々川純子は、昔の山田名無子ではない。山田名無子は消えて、得体のしれないナリカワリがいた。その写真を大切に財布に入れた。裏に山田名無子とあり生年月日本籍地が書いてある。そしてそれは金釘流の彼女の字だった。消えていく前の最後の抵抗のような気がした。これに目を止めさせたのは彼女の意志だったのかもしれない。
営業が終わると、川島は中洲交番に行った。牧子はもう帰っていなかったが、巡査の君島がいた。指名手配犯の分厚いファイルを出してもらう。若い女性の指名手配犯。あった。飯島里穂三十二歳写真を見ると今の佐々川とは少し違うが、ここを整形してとか考えると、似ている。なにより骨格が同じ。誰に言っても信用されないだろう。牧子は信用してくれるか。指名手配の理由は殺人、二人の男を殺していた。年配の男に金を貢がせる。ある程度したら自然死事故死に見せかけて殺す。発覚したのは二人だが何人いるかわからない。山田名無子も彼女に殺されたのか。山田名無子は生きていれば二十三歳九歳の開きがある。女はそれくらいごまかせる。かつて月光にもいた。いつまでも二十八歳。本当の歳がばれたときは三十六歳。本籍地照会をしたら一発でばれた。それでも二十八で通した。女はずうずうしい。
川島はその夜、葵にだご汁屋に誘われた。彼女の給料はしれている。その彼女がおごると言う。どういうことかと興味があった。だご汁屋で一杯頼む。そしてとりわけ容器に取り分けて半分こした。それを食べて別れた。別れて吉塚のアパートに帰る道を歩いていたら、遠くからけたたましい救急車のサイレンの音がした。まさかと思い道を引き返す。救急車の止まったところに、葵が車にひかれて倒れていた。即死だった。救急車に乗って付き添った。彼女は独身、身内はいない。さっきのだご汁を思い出す。あれは今生の別れだったのか。
翌日警察立ち合いで葵のアパートに入る。身内の手掛かりを求めた。整理されていた。本名木村多江、小さな仏壇に遺書があった。これだけ見れば自殺かもと思うが、相手の車は酒酔い運転。普段から何かの覚悟があったのかもしれない。遺書には公正証書を公証役場に預けている旨が書かれていた。全財産を川島に譲るとあった。と言ってもたいしたものはない。一千万円の貯金と不動産としてマンション。ド田舎今宿の景色のいい山林、と言っても百坪などがある。川島は、借金はないが資産もない。初めてもらった資産だ。安アパートから葵のマンションに、引っ越した。しばらくして畳のこすれが気になり、業者を呼んだ。畳をすべて剥いで、新調することにした。畳をはぐと、畳の下に封筒があった。開いてみた。写真が一枚、裏に葵の字が書いてある。
李白蘭、千九百二十年大連生、若い頃の葵だ。一目でわかった。本名はなじみがない。ここに書かれているのは本名だろう。日本人なのか、中国人なのかはわからない。この李白蘭は川島の中にいない。いるには葵となった中洲のホステス。それで充分。その写真を仏壇に置いている骨箱に入れた。玉川の同級生の坊主、立花の寺に納骨堂の一角を買った。来週そこに納骨をする。
川島はその夜夢を見た。飯島里穂の夢だった。暗い中をひたすら自転車をこいでいる。大きなリックを背負いひたすら漕いでいる。前に立ちはだかる女がいる。そしてゆっくり川島に顔を見せる。山田名無子だった。優しく微笑んで消えた。川島は声を出す。「今どこにいる。」声にはならなかった。
休みの日、川島は休暇村にいた。小雪ちゃんと話をした。この前ナリカワリの憑依に対するお守りとお祓いが利いていないと文句を言う。小雪ちゃんは川島をじっと見た。小雪ちゃんと言うが見方によればおっさんなのだ。いい歳した女ことばのおっさん。そのおっさんの小雪ちゃんが言う。「あんた、女の本気の情事を知らないでしょう。」「そんなのがあるんか。女なんて一緒だろう。穴に入れてふんふんとやって、出すものだしたら終わり。」「馬鹿だね。芯から女に惚れる、惚れられるがないなら、男じゃないよ。わたしゃあるよ。」遠いうっとりとした目をする。「で、それが何の関係がある。」「ナリカワリは女から惚れられない男に憑りつくよ。あんたはね。あんたに惚れた女から守られているよ。多分。ご利益はあったんだよ。」へーそうなんだ。小雪ちゃん、男として女とやったことあるんだ。こっちのほうに興味がいく。小雪ちゃんは、こってりと過ごした夜の後、肝臓がんで衰えた姿を見せたくないと毒をあおった女を思い出していた。
「川島、あんたいい男だよ。女がいつか惚れるよ。隆一みたいに、魂抜かれてもう女に手出しできない男もいるけどね。気を付けな。」そうはいってもまたお守りを売りつけられた。今度は五千円、痛い出費だ。そして思う。名無子しか知らないことを今の名無子の純子は知っている。これは名無子の意志なのだ。名無子はどこかで里穂と会い自分の情報を渡した。多分金も。里穂に聞くしかない。名無子の行方を。それまでは警察に知らせることはしない。
雑談をした。その中で葵のことも話した。葵とだご汁半分こしたんだ。若い女なら自慢だけど葵では年配過ぎる。ふうんと小雪ちゃん。炉にイノシシが処理されてかけられていた。表面を薄くナイフで削って皿に入れてくれた。上から小雪ちゃん特製の、ソースをかけてくれる。沢のクレソンやセリを添えてくれた。季節はいつしか夏になっている。このイノシシは一旦捕って豚の飼料でしばらく肥育している。臭みもなくおいしい。真夏はイノシシがマムシを食べる時期だ。旨くなる。このイノシシはうまかった。
二年前、飯島里穂は横浜市のアパートに住んでいた。住むと言うより逃亡先で身を隠していた。彼女は常習的なロマンス詐欺師。高齢者を標的にし、金銭をだまし取っていた。そのうちに年寄りの一人が死亡、殺人容疑がかかった。以前に亡くなった一人も不審死扱いされ、とうとう指名手配になった。里穂の生まれた九州の田舎は男尊女卑が激しかった。里穂の生まれた日田市は九州の中では異質の地方。この地は幕府から派遣された代官が治めている。美人が多いのは歴代代官が、京都や江戸から美人の妾を、連れてきたからだと言われていた。言葉も商家は九州には珍しいくらい柔らかい。農家はきつい九州弁だが、その中に柔らかい商家の言葉が混じる。里穂の日田市と名無子の春野市は言葉が似ていた。
成人して家を出る。山田と話が合ったのは同じ九州という事だったからかもしれない。二人は似た境遇だ。頼るべき親はいない。守ってくれる男はいない。その中で背いっぱいの自己防衛が嘘だった。自分を守るための嘘をついた。すぐにばれて折檻されても嘘が身を守る手段だ。嘘で高齢者から金を巻き上げた。それが彼女の生活手段になって行く。そして殺人疑惑。里穂は育った九州に行くことを考えた。そんなころ隣の部屋に若い女性がいるのに気が付いた。ある夜、隣の部屋を隔てる薄い壁越しにうめき声が聞こえる。そっと行ってみるとドアに鍵がかかっていなくて、中に入れた。薄い布団の中で女は呻いていた。とりあえず病院に連れて行こうとすると、女は言う。私助からないと思う。美人になりたくてね。ソープで売春をしてお金をためた。でもそのため肝炎を貰いこのありさまよ。梅毒や淋病などもあるかもしれない。山田名無子は布団の中で呻いていた。なにくれとなく世話をした。男や親への愚痴を聞いた。それは里穂の中のものと同じである。おかゆを作り食べさせようとしたが、もはや体が受けつけなかった。現金にして持っていた二千万円を里穂に差し出した。これで整形して逃げ延びて。そして私の頼みを聞いて欲しい。自分に優しかった川島に伝えて欲しい。ありがとうと。そして愛しい。
そうして身の上を話し始めた。お願いよ。話を聞いて。私の生まれたのは九州の福岡県。大石村というところ。母は私が生まれて間もなく薬屋の男と逃げた。小さなノートを託した。追われているでしょう。こんなに悪くなる前、警察が来た。このノートに私のことを書いている。このお金で整形しなさいよ。そして逃げおおせて。女は里穂の状況を理解し知っていた。
私ね。人生で初めて好きになった人がいるのよ。中洲の不動興業というところにいる川島さん。私に初めて人間らしい暮らしを教えてくれた人よ。冬に布団もなく寝ていた私に布団をくれた。ご飯なんてまともに食べていなかったのに、カツ丼を食べさせてくれた。人生で初めてのまともな食事よ。うれしかった。そして恋をした。つぶれるなよ、と言ってくれた。一生懸命ソープでお金を稼いだよ。この見た目でしょう。美人になりたかった。誰からも愛される美人になりたかった。夢よね。身の程知らずの夢よね。私は無縁仏でいい。私に犯罪歴はないから、私になりなさい。私になるんだから、言葉の訛りも覚えていてね。初めて川島さんに言った言葉が「あんしゃま、ありがとうさん。」その言葉を川島が覚えているか賭けだった。言葉の感じもイントネーションも覚えた。闇の美容外科で目の感じを手術した。口元を直した。少し名無子に近づいた。名無子の荷物に有った写真を持った。まだ少し息がある名無子に別れを告げた。大家に彼女の具合が悪いのを告げる。九州に向けて出発した。名無子になる。彼女の身元を証明するものは全部私がいただいた。ありがとう。
九州、それは懐かしい。言葉の九州弁がほっとした安心をくれる。不動産屋に行きアパートを借りる。小さな部屋でいい。目立たないことが大切だ。自転車を買う。電動アシスト自転車、少し遠出をしないといけない。地図を買う。春野市、大石村、ともに大分県と熊本県、そして福岡県、三つの県が接する場所だ。県境が複雑に入り込む。こういう場所は警察の目が届かない。逃亡者としての里穂の知恵だ。ここに名無子の荷物を隠す。それは名無子から教えられた場所がある。当座の現金は持っている。それ以外の現金と名無子の写真や日記を隠さねばならない。捨てたらあとで困ることも起きる。あくまで名無子が整形したことにする。身近では危険だ。途中までならバスも鉄道もある、田舎では自分の足で移動できる手段を確保していないと不安だ。名無子として定住したら、免許も取ろう。春野市と大石村の境にある龍神滝につく。龍神滝の水が落ちるその裏に窪みがある。そこにある石をどけると、少し大きな窪みが出てくる。黒いビニール袋に密閉した荷物を置く。上に現金を包んだ黒いビニール袋を置いた。上にまたもとのように石を置くと、完璧な隠し場所が出来た。里穂は名無子に限りなく近づいた。自転車で走って中洲に帰る。翌日月光に電話をかける。川島に連絡した。昔不動興業にいた奈々子というとわかってくれた。川島の二十五という年齢が信じられないくらい彼は世慣れしていた
就職面談を申し込んだ。面接で驚いていた。昔知っている奈々子ではない。今の山田名無子は別人なのだ。詐欺を生業にする女を見抜けない。平松もごまかせた。そして別れ際に「あんしゃま、ありがとうさん。」イントネーションも完璧に再現した。これが決定打になった。川島は彼女を信じた。クラブの客筋はよかった。里穂は銀座のクラブにいたこともある。客あしらいはうまい。人工美人と言われてはいるが、本当は天然部分が多かった。
川島は、かねてから予約していた立花寺に葵の骨箱の納骨に行く。いくつ名前を持っていても法名は一つ、寺の納骨堂に収まった。戦後の混乱の中、戸籍屋がいた。戸籍を売る商売だ。何人もの日本人が死に、本人のいない戸籍はたくさんあった。李白蘭がどういう人生を始めたのかはわからない。終わりでは葵として納骨堂に収まった。それでいい。詮索をするときりがない。
川島は身内の葬式も覚えていない。そもそも親戚さえも知らない。親も生きているか死んでいるかさえわからない。そろそろばあさんか、親のどちらかが死んでもおかしくない。それとも死んだことも知らされないほど、縁が切れたのだろうか。あるいは自分のナリカワリがいて自分がいないことに気が付いていないのか。それを悲しいとも思わなかった。
夏の夕方、風車は金鉱山の従業員で、少しずつ込み合ってきている。
風車は不動興業の傘下に入っている。山主の藤田隆一が鉱山会社と交渉、風車は福利厚生を兼ねた社員食堂の役割をしている。時々菱沼が来て帳簿を見ている。放漫になりがちな事業をしっかり支えている。
小雪ちゃんは若い時は炭鉱にいた。福岡市近郊の炭鉱がひとつずつ閉山していき小雪ちゃんの炭鉱も閉山した。元々彼は細マッチョタイプで、力も強い。何をすると言ったとき、オカマバーを開いた。ただのバーでは儲けが少ないと思った。と同時に自分にも、その方面の気配があったのかもしれない。ダンスを勉強した。当時米軍兵相手に踊れないと商売にならなかった。ダンス極めたころ、一人の女に出会う。当時の港湾の実力者の妾矢野アキに恋をした。オカマが女に恋をするのは変かもしれないが、こういうこともある。小雪ちゃんは長年彼女を口説いたが、いつも返事はno。そんなある日アキがホテルに誘った。その一晩が小雪ちゃんを変えた。小雪ちゃんは女を知らないわけではない。ただ商売としてのオカマと生活の男との区別がつかない。ここしばらく女を抱いていない。アキは美しい女だ。旦那から性接待に使われることもある妾。その彼女が小雪ちゃんを自分の意志で選んだ。男を体の中に入れると狂おしい程の蠕動やがて男の精気をすべて吐き出させた。しばらくボーとしていると、体の中に誘い込まれる。その肌の吸い付くような感触に男が反応する。抱きしめて、それでも狂おしい思いが廻る。何回も男の精気が吐き出された。やがて朝が来た。帰ろうとするアキに体をまきつかせベッドに引き倒した。電話を取りもう一晩の承諾を取ると、部屋への食事を頼んだ。アキは自分の病気のことを小雪ちゃんに話した。末期がん、痛みや苦しみは始まっている。それに耐えることはできない。アキは痛み止めや麻酔が効かない体質で、自分のこれからが予想できた。小雪ちゃんへの、今生の別れだ。彼女の腹には、メディユサーの首がうっすらと出ている。肝臓機能が低下している。数日後アキはがん治療を諦め自殺した。痛みで苦しむ期間が短かったのが救いだった。もう女を好きになることはない。小雪ちゃんの心にアキがずっしりと居ついていく。そして月日が過ぎるたび彼女の良いとこばかりしか思い出せない。心の中でいつしか理想の女になって行く。命日には、アキが残した手編みレースのドレスを着た。今日は赤い手編みレースのドレスを小雪ちゃんが着ている。その赤いドレスは男おばさんを優雅に見せた。
川島は仕事をしている間も考える。名無子のことをいつ“つかさ”に、問い詰めようかと思っていた。クラブでは黒服は、決してホステスを恋愛対象にしてはいけないとの決まりがある。ホステスはあくまで商品なのだ。店員が手を付けていい存在ではない。木下に相談するべきか悩んだ。名無子はもはや解決された問題、つかさから相談に来ない限り川島は手が出せない。時間が解決するかもしれない。時間がうやむやに消すかもしれない。これを牧子に相談はできない。警察が動けば名無子は永久に闇に消える気がする。名無子の父親、彦四郎が死んだ。白骨になっていた男の情報は出たが、犯人彦四郎の供述は取れなかった。推測しかない。その報告を牧子から受けたとき、そうだろうなと思う。つかさは今日も生き生きと月光で働いている。あの影に白骨が眠る。
休日にバイクで龍神滝に行った。菱沼も玉川も隆一も。よくバイクでツーリングを楽しむ。川島もそれに影響されてモトクロスバイクに乗るようになった。二時間ほどバイクを楽しむと龍神滝につく。少しセンチメンタルになっている。涙が出てきた。それは幸せ薄い名無子に対するものであるとは限らない。親兄弟と縁が切れ、天涯孤独の自分に対する涙でもある。
玉川も菱沼も心配してくれる。だが自分の親兄弟は一度でも、心配してくれただろうか。いろいろの感情が混ざり合い悲しい。龍神滝の水が少し少なくなっている。簾の向こうが見えるように滝の裏側が見えた。水量の多い時は見えないものが見える。少し窪みがある、そこに石がある。この情景を名無子が言った気がする。バイクで小雪ちゃんの風車に行く。小雪ちゃんが来て、コーヒーを入れてくれた。センチメンタルになっている川島に、「泣いたらすっきりするよ。」と慰めた。全容が解明されるまでしばらくかかるだろう。それまで待つ時間が長い。
夜も更け夏とはいえ山の夜は冷える。コテージに部屋を取って、眠っる。相変わらず名無子は夢にも出てきてくれない。夜が明けると風車がにぎやかだ。作業前の腹ごしらえに食事に来ている鉱夫がいた。一通り食事がすむとスーとみんないなくなる。食事つくりに雇われた、近所の農家主婦が皿を片付けていた。セルフだからカウンターまで持ってきてくれるが、それを食洗器や乾燥機やらに入れている。川島も皿を取り食べ始めた。ご飯がふかふか、焼き魚がうまい。みそ汁がと食べていた。しばらくするとおばちゃんが、コーヒーを入れて持ってきてくれた。「ごめんね。マスターみたいにうまくないから、インスタントね。」ふっと気が付いた。「マスターは。」今イノシシ罠を見回っていると言う。地区の猟友会のメンバーと行っている。イノシシは捕っても、簡単に食べるものにはならない。ひと手間も二手間もかかる。食物を得るには手間がかかる。山の中の悠々自適は夢物語。
帰る前に、コテージにある温泉に行く。一応露天風呂はある。一人で入っていると、農家のおばちゃんが入ってくる。ここは混浴、しかもおばちゃんは遠慮が無い。素っ裸で遠慮なく入ってくる。その上ある程度の広さしかない湯船に、いっぺんに十人ほど入ってこられたら狭くなる。男が入っているとは思わないのかお尻で押してくる。上がるに上がれずにいると、堂々と前も隠さず入ってきた男がいる。小雪ちゃん。見ていると、おばちゃんたちとワーワーキャッキャと仲良く風呂に入っていた。ホウホウの態で逃げ出した。このころ農村では共同風呂での混浴は、珍しくはなかった。帰る準備をして代金払いのため風車に行く。小雪ちゃんはそこにいた。代金を払いコーヒーを貰う。「あんた、恋しているんじゃない。」突然小雪ちゃんが言う。しばらく体が固まった。「つかさに恋をしているんじゃないと、この間来たウエイターの高野が言っていたよ。」聞くと月光の中でもっぱらの噂だと言う。思い当たる。じっと彼女を見ることが多くなった。それが誤解を生んでいるのだろう。誤解のままにしておくか。バイクにまたがりアパートに向かった。月光に出勤する。ホステスが美しくスタイルを仕上げてフロアに並ぶ。点呼が終わると木下に言ってスナック水車に行く。かねてから売却を頼まれていた。次のオーナーが決まるまでこのまま営業をするが、買い手がつかなければそのまま閉店となる。バーテンダーと二人のホステスがいる。三人をどこかにやらねばならない。女はどこにでも行ける。元気ならばおでん屋でもいい。あとはバーテンダーだがどこかあるだろう。水車に行くとママのキャシーさんと客の岩田がいた。岩田は元県警本部長、副知事の経験もある。家族はいない。しいて言えばキャシーさんが家族のようなものだ。何を考えているかわからない爺さんである。この店は客の入りはそこそこ多い。それはキャシーさんの経歴にある。彼女は進駐軍巡りをしていた実力派のジャズ歌手だ。今もピアノを置いていて歌う。岩田は博多の生き字引みたいなもの人間関係に詳しい。そして一つ朗報がある。岩田がキャシーさんにプロポーズをしたらしい。岩田にしたらさみしい老後を思うのだろうが二人を祝福してやりたい。
岩田に聞く。「玉川さんのお兄さん、自衛官の大山さん。奥さんはなんであんなに美人なんですか。藤田さんとどういう関係?」意外という顔をした。「まあ、徐々にわかってくるだろう。深入りせんがよか。」玉川や大山も、うでが立つが、隆一はケンカにめっぽう強い。触らぬ神のたたりなしなのだろう。名無子のことを聞こうかと思うが躊躇する。それを岩田が察した。「相談があるんやろう。」
名無子のことを言う。ソープで金をためた女が整形をしに関東に行った。
一年後に整形をして帰ってきた。本人ではない気がする。だが本人しかわからないことを多く知っているそして先日、本人ではないことの決定的証拠も持った。名無子のことが気になる。もしかして殺されてはいないか気になる。
「亀の甲より年の功。お前その女の気持ちになって推察してみろ。」言われてみればそうだ。「まずな。他人に成りすますならその他人のことを知らないといけない。全部覚えられるか?覚えきれないものをどうする。成りすますためには九州訛りがいる。二人とも九州なら成り代わっている女の地元はどこだ。そこの訛りが出てくる。九州弁は地方の特性が多くある。川一つはさんでも少し違う。これを見つけるのが一つ。まあそのうちしっぽをだす。」「そのうちでは間に合わないですよ。名無子は無事なのかしりたいです。」「お前だってわかっているだろう。死んでいるからこそ堂々と成り代わっているんだよ。」うすうすはそう思っていた。だが決定的に言われるのは嫌だった。「お前、名無子が好きだったのか?」思いがけない岩田の言葉にドキッとした。そう好きだ。金を貯めたいといった。現状を自分で破る。そのけなげなさが響く。つぶれるなよと行かせたが、死んだのか。死んでいるなら葵の横に骨箱を置いてやりたい。
里穂はたくさんの名前を持った。里穂、つかさ名無子、佐々川純子、奈々子考えればいくつ名前を持っただろうか。詐欺に使った名前は覚えていないほど多い。川島がつかさを好きなのではともっぱらの噂なのは知っている。この世界では黒服が商売物のホステスに手を出すのは厳禁。少し前なら手足の一本も折られた。その中で川島はじっとつかさを見てくる。自分は感じていた。恋愛の目ではない。疑念の目だ。彼はつかさを疑っている。そしてそれは、つかさも知っている。月光は今日も営業をする。
玉川も、菱沼もクラブ内の噂を知らないわけがない。どうしたものかと考えていたら、隆一が引き取りを申し出る。隆一は水事業を計画しており、春野市の杉谷地区に天然水工場を作る計画だ。工場の設置に関しての総監督をしている藤田不動産の泉に預けることを提案した。このころの藤田不動産は会社の規模としては不動興業をしのぐ勢いがあった。藤田隆一は旧華族伯爵家の家系、明治から九州の山林の四十パーセントを持つ家系だ。しばらく泉の小間使いとして走り回らせることにする。個人をこのように扱うことは普通しないが、川島の一言多い性格が、気にかけさせた。その日のうちに、辞令が出て隆一の居宅の部屋の一つに、住むことになる。隣には邸の管理人の大山夫妻が住む。隆一はこの屋敷の主なのだ。泉も隆一の部屋の隣にいる。泉の足もやらねばならない。オフロードバイクもランドクルーザーも、駆使しなければならない。中洲が平和だったと思う。一口多い性格が災いした。泉は隆一と同じ歳、妻子はいない。二回結婚したが死に別れたと言う。果たしてどうだかわからない。引っ越した翌日からこき使われた。技術者の食事調達、宿泊調達、ついた資材の検品管理。秋の日はつるべ落とし、薄暗くなって部屋に帰り風呂に入って寝るのがやっとだ。平地しか歩きなれていないのに、山道を普段の倍歩き回る。山田名無子のことなど吹っ飛んでしまった。悩み??そんなのあったっけ、の心境だ。来年の春の操業を目指す。鬼監督の泉の采配が光る。そして使い走りは、ただひたすらに走るしかない。休息は寝るときだけ。しばらくするとそれに慣れた。
里穂のつかさは忙しく過ごしていた。月光のホステスで上位の売り上げを誇っていた。実年齢を九歳もごまかしていては少し無理も出るが化粧でごまかした。
彼女の化粧前の肌はシミがびっしりと浮き出ている。下地を塗ってシミをみえないようにする。この化粧で彼女は十代後半のような見た目を出していた。ドレスを着て通路を歩くと客が目を止め、ヘルプでも呼んでくれという。佐々川純子としての生活で銀行口座も作れるようになった。免許は今取りに行っている。川島が転勤になりほっとしていた。彼以外誰も私を疑っていない。
川島がいなくなって、指名手配犯が見つかることが無くなる。石井牧子は少し寂しい。同じように、指名手配犯は来ているのだろうが、見つける人がいない。川島の観察眼は、特別なものだったらしい。年齢が近い君島がさみしそう。あの一言多い性格はケンカ相手としては申し分ないものだ。口げんかでストレス発散が楽しい。その楽しみがなくなってから、君島は暇なとき指名手配犯の写真を見ていた。顔を覚えておいて役立てようとしていた。飯島里穂のページを開けたとき、来客があった。道を聞かれた。交番の壁にかけられた大きな地図を指さし棒で指し示す。「ここの角を曲がって」などと話して説明。来客は帰ろうとしたとき、たまたま広げていた指名手配犯のファイルを見た。そのページに飯島里穂の写真があった。「ああ、この人月光のホステスにそっくり。」声を上げた。「月光のホステスさん、整形したんですよ。そしたらこの人にそっくりになっちゃって。ああこれ秘密だよ。」と説明した。
飯島里穂の写真は月光のつかさに似ていた。つかさは整形美人と聞いた。整形したらたまたまよく似たと先入観がある。それを取り払うと、同一人物にしか見えない。君島は思う。川島はこれに気が付いていたのではないかと。だからあらぬ噂を立てられて、関係ないとこに飛ばされた。君島なりの推理をする。牧子に相談をした。牧子はまさかと笑ったが、内心君島の考えに同調する。天然美人が整形美人を装う。その逆は多い。それに隠れた。年末は中洲も人通りが多い。交番も多忙を極めた。
年末にかけて多忙を極めた川島は、牧子からの電話に出た。「年末に小雪ちゃんのコテージを予約した」というものだ。正月まであと五日、そういえば、クリスマスケーキも食べていない。あと二日で御用納め。マンションに帰ろうかと、思っていた。葵の墓参りもある。骨箱は一つだが三つの人生を生きた女、敬意しかない。牧子が来るという事は、名無子の事で何かあったのか、そうは思うが、体が言う事を聞かない。早々に寝た。こうしていると、何でもちっぽけなものにしか見えない。飯島里穂が名無子に成り代わっていても、それがなんだと言うのか。明日の朝飯の方が大事だ。
菱沼は藤田不動産の経理も見ていた。社長の藤田隆一はボンボンの感じではない。株価や為替差益、原料の先物。何でも手掛けた。菱沼藤田、玉川は不思議な縁で結ばれた友人である。藤田隆一は玉川の人を育てる力を評価している。そして川島の有能さを泉が便利に使うのを見て、感心している。泉は有能な男だが、納得しないと動かない。それを川島が、転がすように扱う。どっちが使うのか使われているのか、それをふんふんと見ている。泉は川島が来て忙しくなったと思っている。川島は泉を人使いが荒いと、この二人アクセルを全開にして走り回る。はたから見るといいコンビだ。
正月の用意に神社は忙しい。龍神神社は小さいとはいえ歴史ある神社、
しめ縄や護符の用意お神酒の用意一通り用意する。氏子の人たちが。幕張や、旗立てをして新年の用意ができる。それを川島は牧子とみていた。桐谷神社宮司の滝内はここの管理者でもある。時折二人に由来などを説明してくれる。
牧子は正月三日まで小雪ちゃんのコテージに泊まる。兄の代になっている実家に帰っても、居ずらいだけだ。母親はいるが兄嫁と犬猿の仲、行けば双方から愚痴を聞かねばならない。牧子は初めて龍神滝を訪れた。川島から案内してもらった。夢のように美しい景色に心が奪われる。そしてこの地の伝説の妖怪ナリカワリを聞く。牧子も同じ春野市だが、初めて聞く妖怪だ。「してみると、つかさの正体は妖怪ナリカワリかもしれないよね。」牧子がつぶやいた。龍神滝を見ると冬の期間は水が少ない。湧水量が少なくなる。滝の裏側に丸い石がある。ふと思いつく。「あの石の裏側、どうなっているのかな。」川島は石を動かそうとは、考えていなかった。龍神滝はそこから石一つ草一本取っていけば、水は枯れ祟りがおきると、村人から聞いた。「あの石は龍神様の口の中の玉石だそうです。」それにしては違和感がある。もう少し動かせばきれいに収まり、なおかつ丸みがいかにも玉のようになる。自分が潔癖症なのか。じっとその石を見ていたら、手を出したくなった。水の量は多くないが流れている。流水はその玉石の部分が、極端に少なくなっていた。コートを着たまま滝に降りていく。滝の裏側は人が歩けるくらいの空間がある。玉石のところまで行くと、玉石の方向を変えようと石をつかんだ。石がごろりと動いた。裏が空洞で石は不安定になっていた。石の下にビニールが見えた。神社関係のものかもしれない。宮司の滝内を呼んだ。「神主さんちょっときて。これって神社関係の物?」滝内は違うと言う。出してみる。上に有ったものから取り出していく。一番上に黒いビニールに包まれたものが一つ、下にそれより大きい包みが一つ。外に出した。中を開けてみる。小さい包みから、札束が出てきた。大きい包みから出てきたものは、山田名無子の書類関係、はがきなど、アルバムもある。そして川島に宛てた金釘流の手紙があった。肝炎で自分はまもなく死ぬとあった。
近くの家で電話を借りた。駐在さんに連絡した。川島はこれが岩田の言う飯島里穂の隠し荷物かもと思う。川島に宛てた手紙をなぜ捨てなかった。引っ掛かる。
正月も十五日になれば正月気分も少しは落ち着く。クラブ月光は三日から営業している。さすがに正月二月は水商売の売り上げが落ちる時期だ。それをイベントで補う。新春歌謡ショーと銘打って、イベントで十五日から二日間地元出身アイドル男性歌手、三山清のショーをやる。予約席は女性のファンで埋まっている。女性は金にならないが、男を引っ張ってきてくれる。この時期これだけのイベントが出来るのは木下の腕だろう。玉川はこの歌手ファンの家族のために席を用意していた。恵子の横にはつかさがいた。二人が一斉にフロアの清を見る。興奮して立ち上がる。その時二人の背中が見えた。年齢は背中に出ると言う。一歳しか違わないはずの二人が並んで後姿を見せる。つかさの後姿は三十代の背中だった。女を扱いなれている菱沼だからこそ、見える背中だ。忙しく得意さん廻りをしている玉川に二人の様子を手で示した。前から見れば、二人とも二十代の女性、これが着物ならわからない。洋装の背中が開いている服は年齢が出た。
その横に信二の妻の志乃がいた。三月出産のためお腹が大きい。着物で来ていた。上張りを着ていたから、体の線はわからないが、後ろから見ると、うなじと顎の線がなまめかしい。何人かの男たちが志乃を見ている。その視線を信二は感じた。志乃を誘拐するものも視線が混じっているのかもしれない。
志乃は地味にしていても目立つタイプの美人、恵子は目立つわけではないけど、雰囲気に溶け込むタイプの美人。つかさはキャバレーで雰囲気を作る。その後ろの陰に、信二と隆一がいた。三人女たちのいるBOXは周りにいる男たちの目を集めた。ショーが終わり、志乃が立ち上がる。外に向かった。信二は横で支えるように歩く。人をよけながら歩いていた。誰かがよろけてぶつかりそうになる。信二がさっと志乃を抱え上げお姫様抱っこをした。そのまま外まで行く。周りの客が道を開けた。ドアを開けたタクシーの座席に、差し込むように乗せると、自分も乗って帰っていった。周りのショーを見に来ていた女たちは、信二のこの行動に、胸をキューンとつかまれた。私もあんなにされたい。信二の行動は映画のワンシーンのようだ。隆一は複雑な表情をして立っていた。志乃を争ったからこそわかる。後日二人で会いたいと言った。そして志乃を見る目が変化していた。信二はこんな風に、志乃を隆一に会わせない。いつも隠すようにしているのに、今度は今でも志乃に気があるか、試すようにしている。ハラボテでも、くれるなら絶対欲しい。もともと俺の女だ。
恵子は信二のお姫様抱っこを見ていてポーとしていた。菱沼にお姫様抱っこをせがんだ。仕方がない、やっと抱えられたが、よろよろとした。この手の被害者は何人も出た。男はみんな信二じゃない。場所考えていい格好しろ。半分怨嗟の声がする。
この日の月光は華麗なエピソードばかりだ。川島は客の喧騒の中、泉と帰った。
川島が泉に聞いた。「泉さん、藤田さんと同級生ですよね。」「そうだよ。」「大山さんの奥さんと藤田さんはどういう関係なんですか。」「そうだな。あの志乃は、隆一の妾になるために、藤田家で育てられた女だ。昔の人間は残酷だね。」
十数年前になる。志乃は藤田家の、親戚筋に当たる湯島家の、最後の一人。湯島家は没落した元華族。戦後を上手く渡ることが、できなかった。もともと財産の少ない貧乏華族、戦後の没落は激しかった。藤田家に助けて欲しいと連絡があり、隆一の母がいくと、幼い志乃とリンゴ箱に置かれた骨壺がバラックに取り残されていた。内働きの使用人は昔からの使用人ばかり、昔のやり方がそのまま踏襲されていた。妾は使用人、志乃は隆一の妾になるために育てられた。反抗は許されず、絶対服従。別に隆一が志乃にひどいことをしたわけではない。中学を終えると、進学も就職も許されず、当時大学生の隆一が帰ってくると、寝所に行かされ、抱き人形となった。彼はそれが当然と思いながら過ごしてきた。生理が飛ぶと裏庭で水をかけられた。体を芯から冷やして、流産させられた。志乃は恋愛対象ではく、SEX対象の抱き人形それが彼の意識だ。二十歳になって成人式、その時彼女は振袖を着せてもらった。見違える美貌だった。隆一は初めて志乃を、恋愛対象として意識した。布団を温める湯たんぽのように扱っていた女を改めて見た。湯島家は美人筋。娘を豪商豪農に嫁や妾に出し、仕送りを得た。その最後の一人が志乃だった。隆一の母が湯島家の出だ。だから引き取られたが、彼女に愛情を持つものはいなかった。後見人が藤田巌になっていた。巌は何が行われているか目をつむった。
そのころ自衛隊を退官して、藤田邸の管理人をしていた大山夫妻には養子の息子がいた。赤ん坊のころ養護施設から引き取られた大山信二、自衛官をしていた大山昇に影響され、自衛官になった。信二はのちに自分の腹違いの弟姉と会う。これが不動興業の玉川満。そして玉川は国体選手に選ばれるほどの剣道の腕前、その国体選手仲間に藤田隆一がいた。信二は驚異的な体力があった。初めは普通、レンジャー、曹候補学校、それから降下隊。体力エリートの道を歩んだ。今は春日基地に所属、時々大山夫妻のもとに来ていた。そこでたまに志乃を見かけた。そのころ志乃は暗い表情と、人前に出るのを極端に怖がる性格になっていた。彼女にとって救いは信二、いつか信二が救い出してくれる。希望だ。会うたびに、信二はきれいなハンカチや、スカーフをお土産にした。志乃の信二を見る表情が、少しずつ明るくなった。信二にとって、志乃は藤田家の人、自分が関わっていい人ではない。隆一に縁談があった。現職国会議員の娘。隆一の父親藤田巌はその縁談に喜ぶ。それは冬のある夜だった。志乃は隆一の部屋で、抱き人形としての役目をしていた。お腹の中には子供がいた。妊娠六ヵ月、流産させようとしたが、この子はしがみついて流産しなかった。目立つかもというときでも、だれも彼女を気づかう者はいなかった。つわりは志乃の体力を奪った。この家の者にとって彼女は使用人、激しいつわりはまだ続いている。大山夫妻は外の仕事、家の中を覗き見ることはなかったし、家族関係も知らなかった。外で音がした。信二のランドクルーザーの音がした。小さな音だがいつも気を張って聞いていた。門を入るまで数分の時間がある。志乃は隆一の手をそっと横に移動させ、布団を抜け出した。寒い。薄い赤い長襦袢、庭用の下駄をはこうとした。音がする。後ろに隆一がいた。捕まえられ部屋にひき戻された。歯の根も合わない恐怖が襲う。反抗は絶対出来ない。それが育てられる過程で、たたき込まれたこと。自分を助けるため必死で考えた。隆一は一度も志乃に、手を挙げたことはない。彼女の境遇に、気を使うこともない。無言で彼女を布団に置いた。逃げ出そうとしたことが、彼女が人形ではない、人間と初認識した。襦袢の間から大きくなった腹が見えた。今まで無抵抗の女が、抵抗しようとしていた。つわりで何日もまともに食べていないが、家の中で奥様も、奥様の周りの使用人も、何もしなかった。妊娠しているのはわかっていたが、そこまで、何もしなかった。奥様としては、隆一の縁談の邪魔になる妾は、積極的に殺そうとは思わないが、死んだら仕方がない。くらいの感覚だ。だから病院に見せるつもりもない。お腹の子もろとも死ぬのが彼女に求められていた。志乃は死にたくはなかった。
朝方の四時半に信二はここを出る。その時が最後のチャンス。懸命に考えた。隆一の好きなsexのやり方。そっと彼の胸に顔を埋める。隆一が意外な言葉を言う。「縁談は断る。結婚しょう。」今までにないやさしい声。夢かと思う。結婚の言葉にゾ~とした。この家に閉じ込められる。いやだ。隆一はそっと志乃の体をもう一度抱いた。冷たくなった足を太ももに挟んで温めてくれた。志乃が恐怖で固まっているのを、彼にはわからなかった。足が温まってくると眠気がする。少しうとうとする。隆一を見ると眠っていた。その手の中から足を引き、手を引き、体を離した。隆一が寝返りを打つ。それに布団をかけた。それは見つかった時の言い訳にもなる。寒さが身に染みるが少し布団から離れる。そっと部屋を出る。裏玄関にいく。下駄は履かない。履けば音がする。音がしないように戸を開ける。体を丸めて外に出た。百メートルほど先の裏門の外に信二のランドクルーザーが止まっている。そこまで歩く。足は凍えて痛い。でも今から先のつらさを思えば耐えられる。ランドクルーザーのそばに行くと信二がいた。「助けて、ここから連れ出して。」それを言うのがやっとだった。数秒遅れたら、信二は気が付かなかったろう。信二はおどろいて数秒固まった。その身なりを見て自分の上着を脱いでかけた。裸足なのを見て抱え上げた、軽い、妊婦なのに軽かった。赤い長襦袢のはだけたところから、あばら骨が見えた。ドアを開けて座席に置く。後ろから毛布を出すと体の上からかけた。低体温でがくがくと震えた。エンジンをかけ走り出す。しばらく走ると暖房が効いてくる。志乃は震えが収まっていくのを感じた。隆一は目を覚ました。かすかにエンジン音がした。横を見ると志乃がいない。庭に出てみた。雪の上に裸足の足跡がある。門の前でタイヤの跡がつづいている。信二が連れ出した。失ったものの、大きさを実感した。なぜ俺から逃げた。志乃の状況も理解していなかった。
信二はどうしていいかわからなかった。女が連れ出してくれというが、これをしていいのかどうか迷う。官舎に行く。布団を出して、そこに寝かせる。とりあえず制服に着替え、業務をこなす。それから休暇を申請した。二時間ほどして官舎に帰ると隣の内田一尉の奥さんが来てくれていた。出がけの大山に頼まれて、内田加奈子は、大山二尉の部屋にいく。女がいた。赤い長襦袢、ムッとする精液の匂い、どういう状況だったのか推察できる。とりあえず風呂に入れる。体中から匂う情事の痕跡を消さねばと思う。おまけに妊娠している。「これどういう人。」信二にもわからない。道端で拾ったと答えた。「どこで拾った。」まさか藤田邸で拾ったとはいえない。「どっかわからん。」要領を得ない返事をした。
風呂に入れると着替えが無い。仕方がない。自分のシャツを渡す。加奈子が買い物に行く。帰ってみると志乃が信二に縋りつき「助けて、戻さないで。」と泣いている。信二も半分鼻の下を伸ばして抱いている。満更知らない仲ではないと、推測する。加奈子が下着を着せ服も着せると、じっくりと話を聞く。加奈子は思う。魅力的な女だ。悪阻でがりがりに痩せ、あばらが浮き出ていた。どこから信二はこの女を拾ってきたのかと思う。話からすると、元夫か内縁の夫から、逃げてきたのだろう。よくよく話を聞くと、入籍はしていない。助ける道は一つ、「婚姻届けを貰ってきて出しなさいよ。それ以外にないよ。そこまでしたくないなら別だけど。」数回会い、顔見知った仲、淡い恋心もある。急いで役所に婚姻届けを貰いに行く。証人は内田夫妻。書くとそのまま、また役所。手続きが終わると自衛隊に事務に行き保険の加入などの手続きをした。万端整えた。もう返と言われても、俺の女房だと突っぱねられる。翌日自衛隊病院の産婦人科を受診した。産婦人科の科長は、院長の村田。「お前、ちょっと来い。」その間、看護婦が母子手帳の発行準備をしてくれた。信二は散々説教された。妊娠八か月に入っていた。いままで病院にもかかっていない。やり逃げする気だったのか。散々説教されてから、血液検査だと言う。大きな注射器で血を抜かれた。村田院長が言う「いっぱい抜いとけよ。」
そうか自分の子で通そう。母子手帳に検査結果が記入された。
つわりで栄養状態が悪かった。妊婦なのに、35キロを切るくらい、やせている。点滴を受けた。しばらく入院となる。加奈子は毎日来てくれ、なにくれとなく世話をしてくれた。気分が落ち着くと、悪阻の吐き気が、軽くなっている。あの夜の志乃の状態はひどいもので、世話をせずにはいられない。身よりは藤田邸の奥さんらしいが、この扱い。知らせることはなかった。
信二は父親学級にも行った。出産の準備は隣の加奈子が手伝った。赤ちゃん用品は先輩ママのお古を貰う。おむつも(このころ紙おむつはない。)どうにかそろう。加奈子は自分の孫が生まれる気分だ。事情は誰にも話さなかった。あの大山二尉に奥さんがいて、ハラボテでおまけにもうすぐ生まれる。日ごろの彼の誠実さとのギャップがすごすぎた。基地中の噂になった。そして生まれた。女の子、柚希と名づけた。院長の村田は子供と信二の血液型が、合わないのに気が付いた。あの時の事情を察した。どっから女を拾ってきた。どこからでもいいが、信二なら守ってやれるだろう。
赤子はすくすくと成長した。母乳があふれるように出たが、そのうち睡眠不足、夜泣きが始まり母乳が出なくなりミルクを足した。信二はよく赤子を抱いて、公園に行く。信二が抱くと赤子はよく寝た。そのうち志乃の体が回復し始めた。美貌がよみがえった。出産して半年ほどしたら、体は回復した。子育てに余裕が出てきた。
公園で柚希を抱いて寝かせつけていると、隆一が来た。「俺の子だろう。女と子供を返してくれ。」「おまいにそういう資格があるか。この子も志乃も俺ん家族。あの夜、おりが気ずかんかったら、死んでいた。拾ったのは俺だ。」「拾ったんをネコババする気か。」「バカタレ、人聞きが悪い。拾ったもんは俺のもん。文句あるか。腕ずくで来い。」隆一は最近体がなまっていた。ケンカしたら負けそうだったので、体を鍛えて出直す事にした。公園の出口で振り返ると志乃がご飯よと、信二を呼んでいた。その笑顔は藤田邸では見せたことのない、抜けるような笑顔だ。負けた。そう感じた。俺のモンをネコババしやがった。
隆一は結婚できないでいた。失ったものが大きく見えていく。現実の女が見えなくなっていく。自分に何の抵抗もしなかった志乃が愛しい。もっと大切にできたはずだ。女を知らなかった自分が悪い。女は身ごもることも悪阻があることも知らない。関心が無い。布団に来た時がすべてだった。抱き人形にように抱いた。そして数回身ごもらせた。そのたび隆一の母が寒い日に、裏庭で凍るような水を浴びせていた。なぜだか意味が分からなかった。志乃が何かしたから、折檻を受けているとしか思わなかった。あとでその意味が分かると母を責めた。だが今度は違った。冷水を浴びせても流産しなかった。あまりの事に気を失ったとき、古くからの女中が止めた。このままでは死んでしまう。言い訳できない汚名になる。方法は他にもある。悪阻でがりがりにやせ細っても、誰もが知らん顔をした。志乃がいなくなって、母から話を聞き意味を理解した。
自分の事業に専念し仕事の鬼になって行く。父や母の縁談話は、拒否した。母は隆一が志乃に愛情を持っていたのを、改めて認識した。志乃を取り返す。そう思ったが、結婚して人妻、方法はなかった。官舎に会いに行ったが、隣の内田加奈子に志乃にした仕打ちを非難され、退散した。大山昇夫妻には、いてもらった。取り戻せるチャンスは、これしかない。
そのころ自衛隊内で選抜が行われていた。スナイパーとしての適性を見ているらしかった。合格した者の中から、十人ほどがアメリカの訓練所に行くことになる。信二はいくことになった。もちろん誰にも秘密だ。本人たちもただの合同訓練だと聞かされた。行く日の前日、志乃から求められた。しばらく志乃に触れられない。やるか。入念に準備をした。産後半年たっているとはいえ、まだ妊娠させるのはかわいそうに思えた。コンドームの用意をした。抱きついてくる彼女を愛撫し優しく入れた。ことが終わると彼女が眠るのを待った。やっと寝た、と思ったら不意を突かれた。抱きつき下半身を摺り寄せてくる。二回戦の準備はできていない。体の中に引き込まれ全射精をしていた。志乃は信二の射精の感覚に酔っていた。慌てて思い出す。今日は危険日だった。今更止めても無駄だ。完全降伏。志乃の甘い声がした「大好きよ。あなた、離れたくない。」抱き合った。甘いフェロモンが彼らを包んだ。行きたくない。初めて信二はそう思った。
アメリカでの訓練は過酷なものだった。これが何を選抜するためのものか、彼には解かった。実戦のテロリスト討伐、それ以外ない。登れないような山に指一本に全体重をかけ登る。出会った瞬間敵味方を識別して、敵を撃ち殺す。地雷原を踏破する。出身をだれも明かさない。自衛隊員ですら、お互いどこの誰と知らされない。言葉から推察するに五か国は入っている。英語は日常的に演習で使う。聞きなれない言葉もある。百人ほどが集められ、数日で半数になる。自衛官の宮園と仲良くなる。宮園は防大出身、剣道柔道では無敵だ。仲良くなると言っても話し込むことはない。識別票の裏に貼った志乃の写真に目を止めた。ここでは階級はない。「嫁さんか。」短く尋ねた。何とも答えられない。実際のこういう場合は写真なんか持っていたら、写真の人物を弱みとみる。志乃を攻撃される。慌てて写真をはぎ、口に入れ飲み込んだ。それ以上言及されなかった。終わりに近づき人数はさらに減った。訓練から十五日目、ついに宮園が脱落した。信二を含む五人ほどが残った。モサドCIA、MI6その他名も知らない機関がそれに参加している。最後にテロリストのアジトに潜入、爆弾を仕掛けて、退避。最終日生存確認で残っていたのは信二を含む三人だけだった。運がよかったのか天性の体力か信二は最終選考に残った。みんな実際に死んだわけではない。訓練が終わりカルホルニアの基地に引き上げる。このまま日本に帰れる気がしていた。実際は帰れない。まだ訓練は続いた。普通任務の前の訓練は任務の倍の厳しさで行われる。この訓練の狂気のような厳しさは、異常だ。宮園は情報将校だ。その彼も参加した。ある日の夕方「少し話せないか。」と誘われた。基地の中の売店の外。椅子が二つある。それに腰掛け宮園は語りかけた。年齢は同じだが階級は宮園が上。「嫁さん、いるんだろ。」いると答えると「嫁さんと別れるか、殺すかしろよ。」「嫌です。惚れた女房です。腹に俺の子がいます。」「今度のこれは、生半可に行かないよ。内閣調査室に対テロ組織ができることになった。」「まさか。陸軍中野学校の時代ではないでしょう。」アメリカやヨーロッパで、テロ組織「マッドクレセント」のテロが横行していた。彼らの資金源やテロリストの殲滅は急を要している。その殲滅に携わる軍人や工作員の家族に魔の手が伸びる。その妻を標的にして誘拐し惨殺する。その苦しむ過程を動画にとり、送り付けていた。宮園はその動画を見て仰天したと言う。「ナイフで少しずつ肉を切り取る。悲鳴を上げられないように舌を抜き、その顔を大写しにする。見ていて耐えられない。その動画の夫は衝動的に自殺しょうとした。嫁さんそんな目にあわせたくないだろう。別れて保護できる人物に託すか、後顧の憂いを断つために、自分で楽に逝かせるか。彼らは容赦しないよ。君は一応抜群の成績で選考に残った。しかし最後でつまずく。身辺調査では春日基地で断トツのバカップル。離婚して誰か保護してくれる人に託すか、最悪君の手で殺すかだ。君は志願したくはないと思う。向こうで発砲して死者を出せば君は殺人者だ。自衛隊法を改訂したくても、野党の反対で、改定できない。行って分のいいことは、何もない。
国際的なテロ組織「マッドクレセント」の活動が日本でも確認されている。
座して国民が犠牲になるのを見るのは政府としては耐えがたい。
君の保護が無ければ嫁は惨殺される。ゆっくりと殺される。君が志願しなくても事態は変わらない。自衛隊員、討伐要員、そして仲間の死だ。皆行きたくていかない。やむおえず行く。数年前に起きた、あさま山荘事件のようなことが日本で頻発するのはまずい。これからは世界中が紛争の時代に入る。地域紛争、独裁者への抵抗運動、そしてテロ組織。君は断トツの成績だった。君に期待は高い。誰かに託するときは、前々から浮気していたとでも偽装するんだな。内閣調査室は、協力するよ。採用されても君には長く続くアサシンとしての生活しかない。でもそれは人々の生活と人生を守る必要悪だよ。君の決意しだいだ。内閣調査室は君に期待している。信二は青くなった。しまった。体力バカを出しすぎた。訓練に行って、一年近くがたっていた。日本に帰った。志乃はアメリカに行っている間に、子を産んでいる。男の子、翔と名付ける。また日本で訓練がある。訓練で疲れて帰ってきた日、大の字になって寝ていると、志乃が抱きついてきた。そのまま抱いていた。すべてが終わって、はっとした。宮園の言葉を思い出していた。このままいくと、自分は後に引けなくなる。スナイパーとしての腕の良さに評価が高かった。知り合いが行ったらしい。PKOでの殉職と発表された。自分がいかなければ、何人もの自衛官が死地に行く。それは信二が行ったとしても、同じかもしれない。仲間の死を見て見ぬふりはできない。志乃のお腹は大きくなるばかりだ。本格的に信二がアサシンとして、活動しているわけではない。信二にPKO派遣の話があった。期間は2年。おそらく帰ってくることはできない。
信二は玉川に頼みごとをした。コンサートでの席の確保と、藤田隆一との同席だ。不自然にならないように、何人かの同席も頼む。隆一の志乃を見る目を観察する。頼めるのは隆一だけだ。
川島と牧子は中洲の交番にいた。川島は泉に言って休みをもらっている。雪の中では工事は進まない。泉をコンサートに招待すると、ホイホイと山の中から出てきた。きれいなお姐さんに囲まれて、鼻の下は伸び放題、ゆるゆる顔の泉を見て和んだ。
牧子は警察署と合同で飯島里穂の逮捕に向かっていた。三山清のショーはよい逮捕機会だ。ショーが終わると、つかさが立ち上がる。フロアに降りていく。客から頼まれたサインを貰わねばならない。フロアの広いところに出ると、警備の男たちがいる。こういう有名歌手だと、自前の警備を連れてくる。珍しいことではない。その警備の男たちがつかさを取り囲む。手錠を出し、男の一人が書類を差し出す。「飯島里穂、殺人容疑で逮捕する。」逃げられない。逮捕され、華麗なドレス姿で連行される。玉川も菱沼もその姿を見送った。その後ろ姿が若くはなかった。
逮捕された飯島里穂は、完全黙秘を貫いた。何を聞いても何も言わない。川島が聞きたかった山田名無子の事も何も言わない。膠着状態だが、老人の殺害でいくつかの証拠が出てきていた。拘留期限は何回も延長された。川島は仕事の合間に龍神滝に行った。玉石は元に戻され、宮司のお祓いも済んでいた。二月の龍神滝は寒かった。ふともう一つの信仰を思い出す。観音堂だ。観音堂は少し下がったとこにある龍音寺の管轄にある。龍音寺の住職が境内を箒で掃いていた。高齢の一人暮らしの住職である。しばらく前に奥さんは亡くなった。山の中の檀家も少ない寺では、生活はままならない。そこを補ったのは彼の教師の職だ。中学校の教師をしていた。寺に行きお御堂に上がった。お御堂に用意された封筒に五百円札を入れて、山田名無子の名前を書いた。彼女のために経を上げてほしかった。お御堂に座ってしばらくすると、住職がお茶を持ってきてくれた。川島は自分と名無子のいきさつを語った。もの固い宗教者らしくお御堂も廊下も、丁寧にふきあげられていた。住職は観音堂のいわれを言う。子供の人身売買が横行していた時代、この村から売られていく子供たちが、最後に手を合わせ、後生を祈る。その場が観音堂だった。あの台座は動く。その下に最後の願いを入れた。字を書けないものは、息を吹きかけた布切れを入れた。その最後の生きた証が観音堂なのだ。帰り道、観音堂に寄った。手を合わせた。名無子もここに祈ったのだろうか。山の二月は寒い。
藤田邸に帰り自分の部屋に行く途中で信二のランドクルーザーを見た。裏門の外に置いてある。ここは隆一に直接会うものしか使わない。見ていると助手席から志乃が降りてくるところだ。信二が毛布を広げ、志乃を抱きとめた。少し雪がある道は抱いて通り、敷石のある所に出ると下ろした。川島はどれだけ大切な嫁さんだと思いながら、信二の行動を見ていた。少し抱き合うと、裏玄関から邸に入った。
志乃はもう臨月と言ってもいい体だ。来月が生み月。玄関に隆一がいた。玄関の次の間に置いてある炬燵に志乃を入れた。信二と隆一は座敷で対面した。しばらく隆一と信二は話し合っていたが、やがて信二が席を立ち、志乃の後ろを通り過ぎ玄関から出ていった。志乃は目を袖で覆い炬燵に伏せた。隆一が志乃のそばにきて助け起こしながら、寝室に連れて行った。志乃を立たせるとすべての衣服をはぎ取り、まとめて暖炉のマキの上に置いた。風呂に入らせ体を洗う。バスタオルに包んでベッドに置いた。バスタオルのままベッドに横たわった。「これは信二の指示だよ。」「わかっています。」子供のおもちゃ一つ持ち出せない。昨日柚希と翔を玉川の姉美鈴に預けた。服やおもちゃ、布団にいたるまで買ってもらっていた。今日は志乃を連れて藤田邸。衣服を脱がせ服は燃やした。信二の任務が関係しているのは理解していた。家族の存在はすべて消す。
この屋敷にいたときの着物や下着を持ってくる。着せたがお腹の大きさがある。着物を着てお腹を包むように着る。きつく帯を締めなければこれでいい。
隆一に抱かれて眠った。「旦那様。」小さく志乃が言う。抱き人形だった時の言葉だった。「隆一でいいよ。」そうは言うが志乃の言葉は改まらない。志乃が壊れ物のように思えた。帰ってきた。俺の女。愛しい。志乃が十五歳、自分が二十一歳、抱き人形として与えられた女だ。愛情なんてないと思っていた。違った。志乃がいなくなって母親が後悔しているのを感じた。妊娠しているのがわかっても、何もしなかった。つわりで苦しんでいるのを見ても、知らん顔した。それは母親が志乃の美貌に、嫉妬したのかもしれないと思う。死んでいいと思っていたのは、うすうす知っていた。そして自分も何もしなかった。いなくなって初めて後悔した。あの扱いが母も自分も当然と思っていた。母は後悔しながら死んだ。
隆一は藤田巌に志乃のことを報告した。巌はその間の事情を知らない。腹の子も柚希も翔も自分の子、今まで隠していたと謝った。巌は大喜びをした。てっきり孫は望めないと思っていたら、三人もできる。自分の高望みを反省していたところに、孫が転がり込んできた。もう高齢だ。柚希を見て涙を流した。かわいかった。まだ三歳の柚希は爺様がいようがお構いなしに走り回った。翔は高速ハイハイではい回った。隆一の母親が、生きている間は許さなかったことにした。それで納得した。ほどなく志乃が出産した。女の子だった。巌は喜んだ。名前は自分がつけると言い張った。赤子は美しい子だ。喜んだ。巌が必死で命名忍の文字を書いていた。誕生披露の時、柚希と翔は親戚に披露された。誰に遠慮することもなく夫婦として暮らしていける。隆一はうれしかった。志乃を昔のように独り占めできた。志乃がここに来てから、ベビーシッターに地元の瀬口康子を雇った。彼女は看護婦と助産婦の資格があった。亭主に死なれた女性で、中学生、高校生の子供がいた。子供の学費と給料を出すという事で働いてもらうことにした。彼女の子供が「おっかん。」と呼ぶのを聞いて、皆彼女をおっかんと呼んだ。育児や家の運営全般を引き受けた。昔からのやり方は廃止した。
巌はすっかり爺様になり柚希を抱きたがった。出産後しばらくして、隆一は自分の子を仕込んだ。
子供を寝かしつけ二人きりでベッドに寝た。抱くと旦那様という。昔に帰った気分だ。あの時は悪阻が何か、わからなかった。寒い中に放り出されて凍えていても理解できなかった。使用人はそういうものだと思っていた。今は違う。手の中で壊れるのが怖いくらい、そっと抱きしめた。体に受け入れると身を寄せてきた。俺の女だ。愛撫した。手の中から抜け落ちるのが怖かった。志乃は信二を思い出していた。四人目の子供が生まれて、それが男の子だったら、君を殺しに行く。夫婦生活の解禁日に行くから準備していてくれ。この子は母を知らずに育つ。妊娠した。隆一は壊れ物のように志乃を扱った。昔からの使用人は妾が本妻に直った、としか認識しなかったが、瀬口は違った。お腹の子を気使いいろいろしてくれた。悪阻の時期が過ぎ子供の性別がわかる時期になると、医師から男の子の可能性を告げられて、静かに覚悟と準備をした。死ぬのが嫌だと言えば簡単に助かる。しかし自分の死を信二が望むなら、それに従うほかはない。志乃にとって信二は特別な存在だ。
志乃と一緒に、出掛けることが多くなった。彼の商売上の付き合いのこともある。志乃は九州では珍しい目鼻立ちのはっきりとした卵型の顔立ちをしている。地味な服や着物でも、かえって人目を引く。隆一の大学時代の友人が志乃に一目ぼれ、譲れと言って聞かず家まで押しかけてきた。子供が三人いると聞いて驚いていた。ついでに腹にもう一人というと、泣きながら帰った。これ以後志乃を連れていくことは少なくなった。でもなるたけ一緒にいてやりたいと、隆一は考えていた。
隆一はあの日の信二を思い出していた。志乃を引き取って欲しいと言う。戸惑った。あのバカップル状態を見ていた。真剣に引き取って欲しいと言う。訳は聞かないで欲しい。その必死さに、「俺の子を産ませるが文句ないな。」と念押した。置いていったあと、絶対守ってくれと言い、着てきた服の廃棄を頼んだ。子供が生まれしばらくすると自分の子を仕込んだ。産後三か月、悪露が出ることもなくなり美貌を取り戻した。裸にした。赤い長襦袢を着せた。ふわりとこぼれる乳房、裾からちらりと見える白いふくらはぎ。興奮した。一晩中抱いた。そして自分の中のものを志乃の体にぶっつけた。もうこれから全部俺のモン。
そして四人目の子が生まれた。男の子、名前を佳一とつけた。今日は楽しみがある。隆一は家に帰ると居間のソファに座った。寝室に行くため服を脱ぎ、ガウンを羽織った。ここ六年で四人の子を志乃は産んだ。子を産んで三か月、医者から夫婦生活の許可が下りた。授乳している間は妊娠しにくい。五人目はいつ孕む。自分の子が三人は欲しかった。もちろん志乃の子供は自分の子。
信二はコードネーム002討伐チーム階級で少佐だ。日本にいる時はない。いつもどこかに飛び回っていた。初めての討伐は、中央アジアの山にテロ組織マッドクレセントのアジトの一つがある。そこに幹部がいる。幹部暗殺のため六人で出発した。先発隊がある。宮園がそれに入っていた。本隊はまっすぐアジトに入り幹部を射殺の予定だ。自分の銃を選んだ。日本が誇る戦闘武器メーカー剣菱重工業社のアサルトライフルXj228、この銃は腕さえよければ五キロ先の狙撃も可能、銃弾はNATO弾。テロリストのアジトに近づく。岩山に一人の兵士がつるされていた。双眼鏡をあて見る。宮園だった。まだ生きているが拷問の苦痛に身をよじる。そばに死体らしきものがあるが傍に行けば何らかのトラップが仕掛けてあるだろう。ここから宮園まで二キロ不可能な距離ではないが撃てば敵に自分たちの場所を知らせることになる。この一発を撃ち宮園を痛みから解放する。しかしその一発は信二を日本に帰ることができなくする。自衛隊法がそれを許さない。戦地であっても、人を殺せば殺人罪。そのころの日本政府は矛盾した法律の下、自衛官を戦地に派遣している。もう志乃には会えない。銃に弾を込める。双眼鏡を取り付ける。撃った途端の敵の反撃を覚悟しなければならない。言葉の通じないもののいる混成部隊、六人のうちの二番目。みんなに隠れるように指示、銃のほかにロケットランチャーも用意した。苦しみを長引かせないように一発で仕留める。覚悟を決めて、引き金を引いた。一発で彼の頭を砕いた。残りの弾で傍にいた敵兵を一人ずつ倒す。死体に狙いを定めてロケットランチャーを撃つと、大きな火花が上がった。爆薬が仕掛けられていたらしい。信二の後ろで№001モサドのコーヘン大佐が援護してくれた。隊長のコーヘン大佐は驚愕していた。大山少佐は難題を潜り抜けた。それは二度と日本に帰れない。死体となるしか日本へは帰れない。
アジト周辺につく。アジトの周りにいる警備兵を一人ずつ倒していく。門を守る警備兵の中に少年がいた。他の隊員は躊躇した。信二は知っている。これも敵の目くらまし作戦、撃たなければ自らがやられる。少年を躊躇なく射殺した。少年の体には爆薬が仕掛けて有り、大きな音を立てて爆発した。門扉は吹き飛んだ。塀の中の石造りの家にロケットランチャーを数発たたき込み、中に踏み込む。「フィリ」と叫ぶ。躊躇なく撃たなければ、こちらが撃たれる。奥の部屋にマッドクレセントの幹部の一人がいた。そばにいた幼児を抱えた女を盾にした。躊躇なく女もろとも射殺する。中にいた男は片端から射殺した。女も女とは限らない。ブルカの下は女でないことが多い。一瞬のためらいが命を分ける。部屋の隅にうずくまったと思ったら、ブルカの下から銃を出す。射殺した。この急襲でマッドセレクトの幹部十二人が射殺された。対空砲火の設備も破壊した。すべてが終わった後、奥の部屋に行った。切り刻まれた女の死体があった。上空に援護のヘリが来た。死体袋が来ると女の死体を丁寧に袋に収めた。一番苦しむ方法で殺された女が志乃と重なった。幹部の死体とともに、ヘリに乗って引き上げた。おそらく処分を受けるだろう。覚悟していた。あそこで一瞬でも躊躇していたら、全員生還はしていない。それを理解する者はいない。それがこのころの風潮だ。日本、イスラエル、フランスイギリスアメリカの混成部隊。選抜訓練で日本人が最後まで残った。選抜で残ったものを使うとなっていた。何かの間違いと思う。日本人を出したのは、日本人は攻撃できないと思っていたからだ。消耗要員、それなのに、ほぼ半数を射殺したのは、大山少佐だ。日本政府は困った。死ぬことを前提に派遣していた。血を流さない国に信用はない。消耗要員が戦力要員になった。国内に帰ってくれば間違いなく殺人罪。彼を擁護する法律はない。
政府はとりあえずPKOで殉職とした。春野市の大山夫妻に知らせがいく。知らせに二人は悲しんだ。しかし志乃は知っていた。彼が死ぬはずはない。
信二はアメリカによって擁護された。アメリカ政府は彼に新しい名前と経歴、国籍、報奨金を渡すことにした。彼は対テロ組織討伐メンバーとなった。
数回の小さな仕事をした。と言っても人殺し、スナイパーとしての腕が、それをこなした。そしてある知らせを受け取った。
大山は一つ願い出た。日本に行きたい。日本での休暇が認められた。顔は戦地での苦労か、すっかり変わっていた。日本につくと領事館の車に乗った。外交官として、日本に帰ってきた。春野市の藤田邸に、やり残した仕事があった。
隆一はウキウキしていた。久しぶりに志乃を抱ける。知能戦で勝てば楽しみはあれしかない。志乃は風呂に入り、隆一の帰りを待っている。五人目を今日は仕込む予定だ。金と女が人生の楽しみ。それ以外は頭の中にない。志乃の体がちらついて、何もかも上の空だ。
縁側のカーテンが少し揺れた。来たかと思う。すっかり人相が変わった信二だ。ただその目は変わらない。「何か楽しみがあって家に帰ってきたようだな。」彼らは酒を飲まない。感覚が鈍るのを嫌うからだ。それ以外で二人が楽しみと言えるのはあれしかない。信二はあれ以来姿を見せることはなかった。ただテロ組織マッドクレセントの討伐や無残なテロのニュースも見た。暗殺される独裁者、都合よく死ぬ実業家。どこかで誰かが暗殺者の手にかかる。そんな時代なのだろう。時代の渦中にいる隆一だからこそ、これは怪しいと思う死を感じる。思い当たってそのまま顔を凍り付かせた。「おまえ、まさか。」「少し前ニュースにもなっていないが、ある討伐組織の№スリーの妻が誘拐殺された。動画が送られた。」隆一は口の中が乾いた。「生きたまま一寸きざみに肉を削る。彼らのやり口だ。志乃にそんな目にあって欲しくない。ベッドの上で髪をとかしていたよ。あれから子供産ませたよな。」「悪いか、今日五人目を腹に入れる予定だった。殺したんか。志乃を殺したんか。俺が守ると言っただろう。」悲鳴のように声を上げた。守れてはいない。だからこその信二の侵入。「きれいな女だ。そのままいただいたよ。楽しんだ。そして俺にとって愛しい女だ。抵抗はしなかった。五人目はかなわない。苦しまないように、麻酔薬と毒物注射、眠るように逝った。まだ温かい。行ってやれよ。そして後始末を頼む。」そういうと消えるようにいなくなった。寝室に行った。いなかった。風呂に行く。風呂の中にいた。バスタブの中で沈んでいる。美しい裸体だ。標本か作りもののようにみえた。幼かったころの志乃の姿を思い出した。なぜ大切にしてやれなかった。
引き上げバスタオルに包む。瀬口が救急車に電話をかけた。まだ息があるうちにお湯に入れられ、溺れたらしい。水を飲み込んで絶命していた。がっくりと座り込む。ただ涙しか出てこない。愛していたかと言えば、わからない。ただ愛しい。無性に愛しかった。瀬口康子がいなかったら、何もできなかった。隆一の叫びで気が付き、かけよった。救急車の手配をした。志乃の顎の下にバスタオルをあてた。死後硬直がある前にこれをしないと、口が開いてしまう。てきぱきと指示をする瀬口のそばで、隆一は呆けたように座り込んだ。川島は大切にされていた志乃の半分だけでも、名無子に保護するものがいればと思ったが、死は平等に来た。美人も十人並みも死ねば同じ。
その一時間前、信二は藤田邸に忍び込んだ。子供たちはベビーシッターの瀬口さんが寝かせつけている。志乃は風呂に入ろうとしていた。今日は産後の禁欲期間が解けた。隆一は今日帰ってきたら五人目を腹に入れると言う。楽しそうに出かけた。身支度をしていたら、だれかが入ってきた。顔を見て嬉しさに震えた。信二だった。今日を予想していた。産後の夫婦生活ができる最初の日、必ず来るだろう。腹に子がいないのはわかっている。そばにより抱きついた。信二の匂いがした。ベッドに行き服を脱いだ。脱いだ服をたたんだ。男が絡みつく。体が答える。間違いない今日は危険日だ。だがもう妊娠はあり得ない。男を体に受け入れ、吸い付くような感覚、体の中でうごめく感覚、情事を楽しんだ。一昨日からの絶食、下剤。志乃は体を整えていた。信二は存分に楽しめなかった。充分に楽しんだら次の仕事に取り掛かれない。女が満足したころを見計らって、体を離した。女が情事の後のふわふわ感に酔っていると、信二が小さな金属の箱を取り出す。中から注射器を出した。ああそう忘れてはいない。信二と別れたとき、彼が言う。「今度会うときは、君を殺すとき。命乞いはしないでくれ。体の肉を薄切りにして死ぬまで切り取る。そんなひどい目に合わせたくない。楽に殺すから。」そう言って別れた。「死ぬまで抱いていて。」「ダメだ。決心が鈍る。見ないでくれ。」信二は思い出していた。殺される動画を見た№スリーが、妻を殺しておくべきだったと後悔した。アサシンには愛する資格が無いのかもしれない。志乃の体の痛みのないツボを探った。今から殺そうとするのに、なるたけ痛くないようにする。ツボを見つけ、探りながら確かめた。嘔吐などの心配はない。手でなぞって確かめる。内臓には何もない。志乃の体を、死後の汚物にまみれさせたくはない。内容物が無いか調べる。胃のあたりを抑えると、ウウと呻く。強く押せば、いわゆる落ちる状態になる。一本目の注射で意識が薄れる。二本目の注射で死ぬのだろう。意識は少しある。情事の痕跡を消すために、裸体を抱え上げバスタブに行く。抱きかかえたまま、信二が接吻をする。鼻を抑えた。口を合わせた。自分の肺活量限界まで強く息を吸い込んだ。そしてそのままお湯に入れた。縮んだ肺が広がりいっぱいにお湯を吸い込んだ。意識がなくなる。一言でも命乞いをしたら、信二にはできない。それを志乃は知っていた。そしてしなかった。志乃は美しい死体にならねばならない。彼女はそれの準備をした。隆一に託した子供のために。彼女の死は事故として扱われる。
信二は板付空港から米軍機に乗って、アメリカに向かった。おそらく米軍特殊部隊として、戦いに行くだろう。もし死んだら、莫大な今までの報奨金は藤田隆一に行く。アサシンとしての人生が始まった。
川島は相変わらず忙しい日々を送っていた。水の配送事業は順調だった。最初はコーヒー、次々といろいろの業種が顧客になった。今は第二工場を検討していた。水事業の責任者泉は新しい水源を求めていた。
飯島里穂の裁判は、遅々として進まなかった。完全黙秘は裁判を長引かせた。飯島は裁判所で意外なことを言う「私は不動興業の川島勝さんに、いうことがあります。ここに呼んでもらえませんか。そうしたら何もかもお話しします。」意外な言葉だ。裁判官はそれを認めた。裁判員裁判はまだない。川島は飯島里穂の弁護士から、傍聴に来てくれないかと打診があった。泉に相談した。「えええっまだ裁判があってたんかい。」今は世間から忘れられようとしていた。川島は名無子の事がわかるならと了承した。
裁判所に行くと、証人席のすぐ後ろの席が用意されていた。開廷し裁判官が言う。「異例の事ですが被告人が話すことがあるそうです。後ろに川島さんが来ています。」里穂は傍聴席の方に向き、川島に向かい話し始めた。
川島さん、私があなたに初めて会った日、その日のことは、何回も名無子さんと話を予想し、予行演習をしていました。あなたに初めて会った気がしなかった。何回もあなたについて名無子さんから聞いていました。横浜市のアパートの私の部屋の隣に彼女は住んでいました。肝炎で全身黄色くなっていて、自分はもう長くない、二千万円の現金をもっていて、この金をやるから、逃げ延びるように言います。私に成り代わりなさいよ。成変わって私の人生を生きて欲しい。そして川島さんに伝えて。私が初めて恋して愛した人。ずっと愛しくて、愛しくて、あなたのことを考えていたら自分の未来が見えてきた。そうだ、整形しよう、美人になろう、そして川島さんの恋人になろう。でも、もうダメ。もうじき死ぬ。あとはあなたが恋人になって、私の人生を生きていって。九州弁には地域特性が多い。自分の九州弁の特性を教えた。「あんしゃま、ありがとうさん。」は名無子が教えた。
里穂は自分のことを語りだした。昭和20年大分県日田の山深い樫葉村で生まれました。父と母祖父母、叔父叔母大家族でした。小さな家に大家族、息が詰まりました。家は貧しかった。明日の米に困ると言うものじゃないけど、収入は限られていた。村の中心にある大きな邸宅の吉松家から仕事を貰わないと生活できない。それはこの村の産業が林業に偏っていたからです。私は中学を卒業するとこの村を出ました。東京に集団就職、都会に出て行っても夢があるわけではない。金の卵と言われても、若年労働と低賃金、昔の身売りと何ら変わらない。
給料から親への仕送り、強制的な天引き預金。小さな町工場でした。半年もするとここは私のいるべき場所ではないと思いました。そこを出て新宿へ、そこのキャバレーに入った。未成年、年齢を偽った。キャバレーに入ると男が寄ってくる。女の性が目当て、女の金が目当て、甘い言葉で誘ってくる。里穂の隠れた才能が開花する。田舎の家族は困難に会うと家族の一人を攻撃する。あいつのせいだ。家の中で孤立する。それが若い嫁であるときが多いし、若い女性の場合が多い。貧しければいたたまれない。そんな自分の居場所の為、嘘を付くことを覚えた。学校の費用を貰おうとしても金が無い。あっても里穂に使うのは惜しい。祖父母がしっかり家の財布を握っている。明治の人間は全部ではないが固い。自分に甘く家族に厳しい。子供に寄り添おうなんて思わない。それが彼らの生きた社会だったからだ。里穂は家の中での居場所のために、嘘を付くことを覚えた。金の隠し場所をさがして学級費に充てた。給食費を払えない。長く払わない。家人は知らないふりをした。彼女の嘘だけが彼女を守った。そしてその嘘が稼ぎに変わった。キャバレーの客に金の無心をする。家族が病気で金が要ると言う。さみしい老人がなけなしの老後資金から金を差し出す。そしてウソがばれる。躊躇なく茶に夾竹桃の樹液を入れた。老人は心臓発作でかたづけられた。一つのキャバレーである程度稼ぐと、銀座に入った。上品で、競争が激しい。ある程度の教養が求められた。勉強した。銀座で稼げなくなると歌舞伎町、ソープにも入った。彼女は自分が大事だ。その信念がほかの誘惑を断った。男に貢わけではない。ただひたすらに自分のためだ。男からの搾取が無かったのは、気に掛けるものがいない強さだ。老人からしたら自分を気にかけてくれる存在、彼女からしたら金ズル。数えきれない嘘と金。そしてウソがばれると容赦なく夾竹桃を飲ませた。身近な毒の木、柔らかい色の花を咲かせる。排気ガスにも強い。道端にたくさんある。怪しまれることはなかった。慢心していた。ばれないと思っていたが、ばれた。指名手配、逃亡、そして名無子に出会った。
そこまで話すと、里穂は改めて川島に向き直った。
「あんしゃま。」里穂が言う。名無子の口調だ。
「川島さん、名無子はあなたに恋をしました。大好きだったんです。だから考えた、あなたが振り向いてくれる方法を。整形して美人になりたい。そう思ったそうです。だからあなたのつぶれるなよ、の言葉を励みにソープで頑張れた。本番を一日五回はとった。整形して美人になって、あなたの恋人になる。それが人生の目標でした。希望が無かった生活に、目標が出来ました。その希望はあなたがくれたものです。横浜のアパートで整形の準備をしました。予備の診察で、肝炎が発覚しました。劇症肝炎。診断が降りたところで治療法は有りません。アパートで横になっているのがせいぜい。そんな中、私と知り合いました。私は当時老人の殺害にかかわったとして指名手配されています。名無子が整形したことにして、私と入れ替わると言うものです。すでに命の火は消えかかっていました。あなたへのラブレターを預かりました。読みましたか?苦しい息に中でせいっぱい書きました。読んでいないなら読んでやってください。読んでくれと言う資格が、あるかどうかわかりませんが、名無子の気持ちです。私もわかります。家族なんていないも同然。あなたしかいない。私も名無子の話を聞くうちあなたに恋をしました。笑ってください。私おかしいでしょう。名無子の話を聞くうち私が恋をしました。だから初対面の面接の時、初対面ではありませんでした。私はあなたをよく知っていました。」
初めて聞く名無子の真実。だが今は言ってやれる。俺も名無子に恋をしていた。目も鼻も小さく頬骨が張っている九州にどこでもいる顔、小太りで、足が短いスタイル、それのどこを整形すると言う。あのままでいい。それが九州。文句あるかと言いたい。里穂はつづけた。
「今思えば、私は老人を憎んでいました。嘘だけが私を守る家族の人間関係、名無子もそう。冷たい老人、家族のすべてを握りしめ、欲望ばかりの老人が憎かった。だから罪悪感はなかった。孤独な老人と言いますが、孤独になるのは理由があります。そして最後の家族愛を求めて、私の嘘に酔う。私は彼らに夢を与えました。頂いたお金は正当な報酬です。」すごい詭弁だが自分では納得している。全罪状を認めた。極刑しか判決はないだろう。その日は近い。
隆一は、次女の忍とともに東京に来ていた。長男の翔の進学で忍とともに上京していた。そのついでに、忍にいろんな所を見せてやりたかった。高校二年生の忍は紺色のワンピースを着ていた。通路に立つとなぜか目立った。志乃が地味に装っても目立ったように、忍もその姿が目立った。他の兄弟と違い背丈も百六十センチくらいでそう大きくはない。
隆一とはぐれないように、ずっと後ろをついていった。ちょっとつまずいた。転ぼうとしたとき手を差し伸べた男がいた。さっと抱え上げるとそのまま下ろした。男は優しく忍に尋ねた。「大丈夫かい。」ありがとうと礼を言うと隆一が振り返る。礼を言おうとして言葉に詰まった。男は唇に指をあてて去っていこうとした。「忍、何がいい。ご飯に行こうか。」父親が言う。そう忍というのか。その夜一人の男が死んだ。風呂場で心臓発作。その男の死はニュースにもならなかった。そして社会の潮目が少し変わったかもしれない。
隆一は昔の仲間で実業家のパーティに忍を連れて行った。一人で部屋に置いておくわけにもいかず、連れていた。柚希に来て連れ出してくれるように、頼んでいた。隅っこで隠れるようにしていたが、やがて彼女の周りに男たちが群がった。その輪から抜け出して隆一のところに行く。柚希が来たので忍を連れ出してもらうおうとした。彼はこの集まりのボスともいえる女社長のところに行った。忍を紹介する。女社長武松菫はイベント関係の会社をしていた。忍を見てそっと隆一に聞いた。「この子、私に預けてくれない。」「ダメですよ。この子、線が細くて、神経質です。とても駄目です。」男たちは武松が苦手、おかげで隆一は旧友と話し込み、商売上の情報交換ができた。武松は忍を手に入れたいと思う。とにかくこのタイプの女の子は男を虜にする。そこに置いておくだけで、男が集まる。すでに目の色が変わった男もいた。世界的なIT産業の実質的な社主でアメリカ人のJシンプソンだ。彼が忍に話しかけようとしたとき、隆一が間に割ってはいった。彼の性癖を知っていた。武松はそんな隆一にいう。「純粋培養では野生で生きていけないよ。少しはつらい風に、当てた方がいい。」「この子は別だ。」武松は、柚希も翔も知っている。柚希は美人でしかも武道もしていて力もある。現在大学二年生。身長百八十以上はあり、何かのイベントで、海兵と腕相撲をしていた。勝ちはしないが、負けてはいない。筋肉隆々というわけではない、しなやかで強い体を持っている。柚希は武松の家に下宿して、時々武松のイベントの手伝いをした。翔もなかなかの美男子。女がほっとかない。剣道とは別に、居合もしていた。武松は翔を自宅に下宿させようとしたが、寮に入った。忍は初対面だ。そっと陰に隠れる。表に出ようとはしない。だから余計美貌が目立つ。これにしたたかさが加われば、一人で生きていける。「来年進学するでしょう。来年私に預けなさいよ。」武松は志乃を知っていた。忍は志乃にそっくり。忍が抱き人形にならないようにと思う。隆一が抱いて寝ていると言ったことを、覚えていた。「まさかと思うけど、まだ抱いて寝ているの。男好きになるよ。男がいないと過ごせない女になるよ。」ぎくりとした。そろそろ寝入りばなに、抱いて寝かせつけるのは、やめなければと思っていた。でもやめられない。かわい過ぎた。眠くなると自分の懐に入り込んで、抱きついて眠るのは小さい時からの習慣だった。翌日ホテルの部屋に武松が来た。武松がこの日一日忍を連れまわしてくれると言う。服や美容院、少しはあか抜けないと、との説得に折れた。今日行くところは、金と女しか興味が無い男たち。知能戦は彼らの娯楽、女はトロフィー。彼らとの会話は面白い。忍を連れて行けば彼らのトロフィーになる。それは嫌だ。知能の高い奴は、スケベだ。彼らの興味は、知能戦に勝つ。そしていい女を抱く。それに尽きる。かつて自分もそのメンバーだった。
忍を連れてはいけない。忍を武松に託するとき、ボディガードの鮫島峰夫を紹介された。今日一日のガードだと言う。好青年だ。武道も多少はしていると言う。武松は忍を男で釣ろうと思った。鮫島はある財界の大物の庶子だ。妾の一人、父親には正妻がいて嫡出子がいた。父親の人生に彼と母親絹代の存在はなかった。
鮫島は忍に一目ぼれした。武松はそれを狙った。忍が鮫島に惚れてくれればと期待した。車をよけるため抱きとった。はぐれない為、手を握った。忍は男に免疫が無い。自分の兄、弟、父親、瀬口康子の息子たちくらい。洗練された都会の男はおそらく初めてだろう。オシャレな鮫島に最初戸惑った。手をつなぐのは抵抗があったが、慣れた。さりげなくエスコートをする彼に好感があった。田舎娘が都会の男にポーとなった。その夜ホテルに帰ると鮫島がしばらく隆一と話した。忍が風呂に入り隆一のところに行くと、まだ鮫島がいた。「おとうさん、眠い。」というと、隆一はソファの横に入れようとした。「違うよ。今日は鮫島さんがいい。」鮫島の胸に顔をうずめるようにした。「おまえ、さっさと帰れ。」鮫島は追い出された。隆一は思う。もうじきこの子からお払い箱になるかも。志乃を俺から奪ったやつに忍は渡さない。的外れな意地がある。
翌日、帰るために車に行く。そこに鮫島がトランクを引いて現れた。当然のように車のトランクに荷物を入れると、後ろ座席にいる忍の横に座ろうとした。隆一から引っ張り出されると、運転席に座らされる。「おい、福岡まで運転な。京都で一泊する。」自分は後部座席で忍の横に座った。忍を自分の懐に抱いて、優しく言う。「忍、寝ていてもいいよ。」鮫島の脳裏に昨日武松が言った言葉がよみがえる。「あの子、男ったらしで、男好き。あんたそれでもいいなら、ついていきなさい。」俺は許す。これだけ可愛かったら何でもいい。男ったらし?たらされようじゃないか。
京都で一泊する。九州につく。おっかんの息子の瀬口新が出迎えた。彼は藤田不動産の森林管理をしている。横に新の妻誠子がいる。誠子が忍に疲れたでしょうとねぎらい家に入る。続いて入ろうとした鮫島に、新が言う。「君はこっち、使用人居宅、明日から営林管理をしてもらうよ。いつも忍はいい仕事をしてくれるよ。君で5人目だ。出かけるとなぜか男を釣ってくる。おかげで人手不足はうちにはないよ。明日からやってもらうからね。」使用人の部屋に案内された。二十代の男五人がいると言うが、今は仕事で出払っている。賄のおばちゃんがいた。ご飯は出してくれるらしい。翌日から鮫島は新に連れられて山の中を歩き回った。森林管理は山歩きが基本、早朝にたたき起こされ、日が暮れようとする時間に、くたくたになり帰り着く。昼飯は弁当、おいしかった。一日中、山を歩き回る。帰ってくると、最初に風呂だと言う。山ダニを落とすため頭から全身石鹸で洗う。風呂から上がると五人の男がいる食卓へ、そこに川島も泉も来た。みんながクスクスと笑う。「お前も釣られたか。」川島がいう。鮫島は改めて自分の身に起きたことを思う。逃げ帰れない。自分にも意地がある。川島は思う。男って惚れた女の前では盲目、男たちに同情した。自分が来た頃の山歩きの厳しさを思い出した。鮫島も今日寝るときは、忍なんか思い出してもいないだろう。鮫島は翌日も早朝たたき起こされた。
柚希は大学で機械工学の中の防衛装備に関心があった。特にアサルトライフルに魅了された。美しい凶器。剣菱重工業社のXj228、彼女は傑作だと思っている。しかし改良の余地はある。大学では理論を学び、そのあと剣菱重工業社の研究所に行く。地下2階の銃の実射が出来る射撃場に行く。ゴーグルとヘッドカバーをつける。アサルトライフルは反動がすごい。生半可では撃てない。何度も反動を流すやり方を覚える。か弱い女性が撃てる武器ではない。柚希にはその体力としなやかさがある。簡単に撃てるまでには相当かかる。一回撃ってその欠点を見つけようとする。安全装置を解除して撃てるまでの時間。安全装置を解除して普通に持っていれば、自分の足を撃ちかねない。
射撃する。本当は違反だが試験射撃として西条所長の黙認がある。若い女性が珍しい職場、柚希はその中にいた。少し遠くで見れば人形のようなかわいらしさ、近づくとその背丈の高さに圧倒される。百八十五は下らない体格がいいため軽々と銃器を扱える。しなやかな体をしている。所員は初め柚希に片思いをする。やがて無理だと悟る。担当教授は勝手に柚希の就職先希望をここだと決めていた。彼女がここに出入りするのは理由があった。三歳だったから誰もが覚えていないと勝手に決めつけていたが、彼女には記憶があった。もう一人の父の記憶、いつも優しく抱き上げて、大きな手で撫でてくれた。いつも彼の後を追いかけた。ある日父が入れ替わった。今の父も優しく抱き上げた。少し後、今の父が母を抱いて泣いていた。葬儀があった。子供の記憶である。ここに来れば昔の父に会える気がした。Xj228は記憶の中の父と同じ匂いがした。この銃を扱いたい。柚希の中の記憶がそうさせる。研究所には研究員のほかに、機械の整備や、試作品の不具合を修正する整備員が時々来た。彼は微調整の仕方や、銃の部品を少し削って調整をする方法などを教えてくれた。
西条所長は前日社長の本田から相談を受けていた。もうすぐドバイで兵器展がある。日本企業として参加の予定だ。しかし難問が待っている。社長の本田雄一郎は有能な男だ。欠点がある。そんな男によくある女性関係、女好きの癖にきれいに関係を持てない。古い軍人家系に生まれ、中学までに高校課程を修了、実践的な経済を学び、投資で稼いでいた。知能の高さは見ていて分かる。目の力が違う。彼の父親は何人かの女を飼っていた。彼の母親はその一人、彼を産んだ後は、ほかの女に関心が行き、訪問リストから外された。父は来なくなったが生活はある程度保障された。母は新しい出会いを求めても良かったが、もう男はこりごりだ。わがままで、女の人生を無視している。故郷の茨城に帰った。母は町のカフェで働いた。学校から帰ると母のカフェに行きおやつを食べた。隅の席で教科書を広げた。マスターは優しくそれを見守ってくれた。雄一郎の知能に気が付いたのはマスターだった。たくさんの本を読破し理解した。どんどん高度な本を読む。英語はマスターが教えた。戦前フランス留学の経験からフランス語も教えてくれた。水が地面に吸収されるように覚えていく。それはそうしなければ生きていけない時代を、読んだのかもしれない。ベトナム戦争でアメリカ兵があふれていた。マスターから学んだ英語を使いパンパンと米兵の通訳と値段交渉をした。彼の英語は、スラングなどではなく、正統派の英語だ。それを聞いた米兵は驚いていた。十五歳でいっぱしの交渉人になる。母が再婚することも米兵に慰みになることも嫌だ。母の隠していた書類を見つけ出し、実父と思しき人物を見つける。ただ行ったのでは会ってくれないのはわかっていた。数日かけて見張る。米軍兵とよく合っている。米軍基地のクラブにボーイとして入り込む。父はそこに出入りできる数少ない日本人だ。父中島洋介は当時米軍の兵站部の補給の一部を請け負っていた。金回りはよかった。こいつから金を巻き上げてやる。米軍との交渉を見ることがある。ベトナム戦争が始まっていた。雄一郎は父に近づいた。「padon est―ce que avez besoindaide? 」はたから見ればつたないフランス語だった。中島はふうと顔を向けた。体は大きいが中学生くらいの少年がそこにいた。交渉相手の米軍ヘンリー.スミス大佐が席に着いた。固い話はオフィイスでやるがくだけた前哨戦。日本語で中島が言う。ヘンリーは日本語が堪能だ。日本の女性を紹介したいと言うと、喜んで乗ってきた。日時を決め別れた。中島は雄一郎に金を渡した。はした金だったが、今の雄一郎には、必要な金だった。母親の奈央を説得して身ぎれいにさせた。そしてヘンリーとの見合いの席に行く。ヘンリーは一目で奈央を気に入った。そこに同席していたのは、父親の中島洋介だ。奈央に久しぶりに会った。そこで雄一郎が自分の息子と知った。
ヘンリーが奈央を気に入ったら、惜しくなった。洋介はかつて華族の令嬢と結婚していた。戦争が終わると重荷ばかりが増えた。妻の実家は没落、いっきに生活が自分の肩にのしかかってきた。何人もいた妾の面倒など見てはいられない。ついでに妻も捨てた。戦前戦中軍事産業の一端を担ってきた。戦後は貧乏のどん底だったが、朝鮮戦争でよみがえる。勝手知ったる軍事品、装備品から銃弾にいたるまでそろえた。再び彼がよみがえったが、関心はもっぱら若い女、昔の妾や元妻には関心はなかった。「俺から金を引き出したかったら、むしり取りに来い。」が彼の言い前、誰も来ないはずだった。雄一郎は母とヘンリーがいい関係になるなら、それもいいと思っていた。洋介の性質も知っていた。猛烈な自己愛者、一度自分のものと認識したものは、いつまでも俺のモン。奈央がヘンリーに気が合う風を感じさせると、猛烈に反発した。結局洋介は奈央にまとまったお金を渡したが、奈央はヘンリーを取った。雄一郎は母からお金を貰う。大学に入った。株の投資と、ヘンリーからの援助で大学を出た。
大学終了後剣菱重工に入った。本来は技術畑の人間である。技術を知らない営業は存在しない。外国を飛び回り大口商談をまとめる。外国語力も技術に裏づけられた説得にも力があった。国同士の武器売買はトップセールスだけが頼りだ。それをこなさなければならない。そして、彼の一日は二十四時間ではない。いろいろの案件を同時進行でこなす。四十八時間もあれば、六十時間もある。だからこそ、その若さで世界的武器メーカーのCEO、その趣味は女。これ以外にない。金が本業なら趣味は女。女に満足しなかった。次々と変える女。アスペルガー気質がある。そのため最初はいいが、あとから女が精神的に参ってしまう。いわゆる別れ下手。本業以外の悩みが無い。悩むくらいなら女を冷たく捨てた。ドバイで兵器展、これに参加するCEOは夫人か夫同伴、もしくは恋人か婚約者。これには意味がある。信用である。女から信用されない男は信用が無い。古典的な価値観がある。参加国はこの国の防衛も考える。警備の穴を見つけ出す。それに対応する装備を提案するか。政情不安の国に囲まれていればこその行事である。今の本田社長にとって、夫人同伴は越えられない壁なのだ。社員はまずい。あとの噂が怖い。社長スキャンダルは会社の命取り、部外者で口が堅くないといけない。西条所長は一人思い浮かべた。明日来る予定なので言ってみると話した。
柚希が来た時、「アルバイトしないか。」と声をかけた。柚希の体格なら欧米人の中に入って見劣りしない。「いいよ。」と軽く返事をした。本田社長と対面した。軍隊のフル装備のデーター取りをやっていたので、軍服のままで対面した。本田は柚希のことをでかい女だなとは思った。柚希は歩く姿がきれいな女だ。女好きの社長がどう口説いても関係は持てない。彼女の趣味が武器である。男は対象外。美容師は連れていく、衣装はこちらで用意する。条件とアルバイト料の詰めをした。期間は夏休みに入った直後一か月夫人外交も頼むと言われた。その分のレクチァがまた別に。バイト料はいらないから、銃を撃たせてくれという。無制限とはいかないが、百発が限度とした。アルバイト料の方が安くつく。部屋を出ていくとき後姿がきれいだと思う。
六月の初頭、武松に海外旅行に行くと言って家を出た。トランクとオシャレなハンドバック。このバックは忍のハンドメイド。似合っていた。スーツも帽子も忍の作品だ。空港で本田は息をのんだ。今まで付き合ったことのないタイプの美女が、そこにいた。少し離れるとグラビアから出た美女、傍によるとデカと思う。本田は百八十程身長がある。それ以上に柚希はある。一緒に特別飛行機に乗る。他の会社のCEOも一緒、本田は女の趣味が変わったとひそひそと話した。ラウンジに行くと兵器に組み込む組み込みソフトの大手CEOが話しかけた。「あの娘と、どうやって知り合った。」と聞いてきた。あのその言い訳を考えていたら、「言い訳は通じない。あの娘の恐ろしさもアジの内だろうな。」と言う。意味が分からなかった。
ホテルに着くと戦いの火ぶたは切って落とされた。美人の妻や恋人をこれ見よがしに見せる男たち。商品を売り込む前に自分に関心を持ってもらわねばならない。事前の用意した売り込み授業が役に立つ。美容師の化粧と髪のセット、豪華な振袖、各国の衣装にも引けはとらない。小さな日本人だったら埋まりこみそうな外国人ばかりに、大柄な柚希は負けていなかった。柚希が普通サイズに見えた。自分の会社のブースに立つ。中の説明要員は懸命に商品説明をする。柚希は一本のアサルトライフルを取り上げた。弾は入っていない。銃を構える。何人かの外国人が写真を撮った。写真はたちまち流布された。着物姿の剣菱重工の社長の婚約者が自社製のアサルトライフルを構える。構えるライフルはXj228K3。柚希が改良を重ねてきた。話題になった。各国アーマースーツのショーがある。フル装備の兵士の装備がその上に着せられる。剣菱重工社製のアーマースーツにフル装備、防弾チョッキを加えると四十キロにはなる。これを柚希に着せた。各国は男性のモデルに着せたが、剣菱重工は柚希に着せた。モデルのように軽々と歩く。ターンをするとき愛そうよく手を振る。それに五キロのアサルトライフルを持たせた。普通の女性なら動けないが、歩いて笑顔を振りまく。柚希は歩く姿がきれいな女だ。注目が集まる。
夜のレセプション高級ホテルアトランティックメイトの大広間、大勢の客がいる。兵器関係の取引イベント。顧客も出店側もいる。兵器産業は輸出が無ければ成り立たない。各国懸命の売り込みである。それは危険と隣り合わせ。テロリストにとって、またとないチャンス。この中の五分の一でも行動不能にすれば、彼らは優位に立てる。宴もたけなわになった時、騒ぎが起きた。二十人ほどの銃を持った男たちが乱入した。銃を乱射、人を射殺し始めた。最初の銃声を聞いた時、柚希は床に伏せた。実弾と空砲くらい聞き分けられる。近くのテーブルのナイフとフォークを取る。一番近いテロリストに投げる。それは普通の投げ方ではない。相手をまっすぐ刺しに行く投げ方である。食事用のナイフ、フォークとはいえ、それなりの形をしていれば凶器として使える。相手に刺さった。顔面に数本命中した。防弾チョッキが顔面にはない。弱い部分だ。柚希の方へ向き直り撃とうとしたが、柚希が早かった。カラシニコフには安全装置がかかっている。撃つとき指先で操作をするタイプ。解除の零点一秒の差だった。銃を奪い取ると、躊躇なく射殺。銃の反動を抑えるため、グリップを帯に固定した。会場のテーブルは所々に頑丈な防弾仕様を置いている。国際的な場所ではよくある。その一つを見つけ、それを盾に応戦する。一人二人と倒す。靴は履いておかないといけないがあいにく草履。相手は銃を乱射しながら近づく。テーブルから落ちた燭台をつかむ。相手に向かい投げる、その燭台を相手が撃つとき、すかさず大きな燭台を持つ。相手が狙いを外したすきに相手のそばに行き燭台をたたきつけた。アドレナリン全開。手にしたカラシニコフで目に入る相手を射殺しようとした。残りを射殺した人物がいた。柚希に近づくと、着物の袖を体に巻き付けて結び、彼女の自由を奪った。抵抗しようとすると口を近付ける。口移しに何かを飲まされた。もはやこれまでかと。懐かしい体臭がした。「おとうさん。」口に出した。意識を失った。
気が付くと米軍の軍艦の中だった。アドレナリン全開だったから感じなかったのだろう。脇腹に銃創があった。着物の袖で止血していた。手術して弾はとりだしている。療養が必要とのこと、艦内にいた自衛官がそばに来てくれた。「お父さんはどこ?」「レセプション会場で乱射があったので、負傷救助であなたを救助しました。」意識が遠のいた。
一時間前、本田はテロリストが会場に入ってきたとき伏せた。銃声がして何人か倒れた。そしてテロリストの銃口が自分に向いているのを感じた。目の前に銃口があった。そばにいた柚希がフォークを投げた。銃口が外れた。女が銃を奪い射殺したところを見た。男が現れてテロリストを射殺、柚希の脇腹を縛り抱えて、本田を伴い屋上に出た。ヘリコブターがいた。本田を引っ張ると走り出した。ヘリに二人を乗せると、本田に言う。「婚約者ならちゃんと守れ。守れないなら結婚するな。死なせたら殺すぞ。」ヘリコブターは沖にいる軍艦に向かう。艦内では柚希は本田の婚約者として扱われ、手術がなされた。意識が無い状態が続いた。佐世保につくと、東京の本社に戻る算段をする。柚希を置いていくのが普通だろうが、決心した。彼女を東京の剣菱重工病院に連れていく。ヘリを用意した。婚約者として扱う。あの時彼女が庇わなければ死んでいた。柚希は腸が数か所切れていた。点滴だけで命を持たせている。ヘリをしたて搬送した。
軍事企業で機密扱いも多い。柚希の家族調査を入れた。しばらくすると調査結果が出てきた。米軍の情報室に呼ばれた。高い地位の情報将校が、説明をした。柚希の一家は情報保護家族という。「柚希と結婚してもいいのですか。」いいが監視対象だと言う。自分たちは米軍と取引がある。武器の部品に使われている商品も多い。元々監視対象だ。
気になるのは彼女の母親が、風呂で溺死している。工作活動でよく使われる手だ。母親は何かしたのだろうか。母親の写真を見た。柚希によく似た女だった。彼女は殺されねばならない程の、何をしたのだろうか。柚希と自分を引っ張ってヘリに乗せた男の、死なせたら殺すぞ、の一言が頭を離れない。それは泣かせたら殺すぞにも聞こえる。どんな関係なのだろう。
入院をしたての頃、隆一が来た。婚約者としてドバイに行っていたことを知った。そこにいた本田に説明を求めた。いけシャーシャーと柚希は自分の妻で妻としてドバイに連れて行ったと言う。そんなの聞いていないと言うと、もう成人していますよね、と言う。そして懐から婚姻届け受理書を出した。剣菱重工の誇れない偽造班が、柚希の文字と判を書いていて婚姻届けを出していた。お前年齢はいくつだと言うと、三十五という。柚希と十五も違う。俺の娘を何だと思っている、と言うと「私の妻です。父親といえども連れては行かせません。」と言う。まだ麻酔が効いていてうとうとしている。その柚希に向かって「抵抗もせずに、むざむざ殺されるな、抵抗しろとは言ってきたけど、こんな形で嫁に行くこたあないだろう。」と泣いた。抱えて連れて行こうとしたら、医者に止められた。「死にますよ。銃創で腸が何か所か切れています。ここ三週間がヤマです。死んでいいですか。」その言葉にそっと手を離した。俺の娘なのに、夫と言うのに勝てないのか。
軍関係者からビデオを見せてもらった。銃口を向けられた本田社長をかばうようにナイフ入れから一掴み手に持つと、投げた。まるでクナイのように飛んでいきテロリストの顔にあたった。それ以後は見せてもらえない。この男が自分より大切だったのか。「柚希が命がけで守った男だ。だから殴らない。だが柚希を泣かせたら、どこまでも追いかけておまえをなぐるからな。」
柚希に正気が戻ってきたころ、本田は仕事が終わって、柚希に会いに行くことが増えた。不思議そうな顔をした。「ねえ、教えてよ。私、あなたの恋人だったの?」恋人どころか婚姻届けまで出している。それは言わない。
「そうだよ。いっぱいデートしたじゃないか。忘れたじゃないだろう。」「知らない。覚えていない。」「じゃあ、キスしたら思い出すかな。」「キスしたことがあるの。」「ホテルでナニまでしたじゃないか。」いつしか病院通いは一つの楽しみになっていた。とはいえ企業のCEOいつも行けるとは限らない。限られた時間。外国行きの飛行機までの時間、会議の合間の時間、などの小間切れの時間だ。一年三百六十五日の内の二百日以上が外国との交渉に明け暮れる。そんな企業戦士のジャパニーズビジネスマンの典型が彼だ。
柚希は深い麻酔のせいで、記憶が所々、飛んでいた。その記憶のとんだところに、自分の記憶を入れていく。楽しみだ。俺の記憶に塗り替わっていく。女を作り上げる楽しさがある。営業で鍛え上げた鉄面皮とも思える厚かましさが本性だ。そして次第に記憶を取り戻した柚希は、その嘘を楽しんだ。へえそう、そうなん。うんうんと聞く。柚希が男の経験が全くない事を、彼は知らなかった。
長い入院の日々、それでも退院の日が来た。病院には隆一に事後で知らせるよう頼んだ。本田雄一郎は出張中だ。彼は警備会社に連絡した。柚希を運ぶのを依頼した。なんとしてもあの親父から、柚希を掠め取りたい。泥棒になった気がする。本田のマンションに着くと本田の母親奈央が夫ヘンリーとともに来ていた。
雄一郎の態度から大切な女だとわかっていた。まだ右半身は自由に動かない。ついてきた看護婦は、抱えるように歩かせ、ベッドに置いた。大きなダブルベッド。雄一郎が特注していた。
柚希が言う「おっかんに会いたい。」無性に瀬口康子に会いたかった。
育った春野市の藤田邸がなつかしい。おっかんは翌日には来てくれた。看病体制に入ってくれて、夫ヘンリーとともに、帰国していた奈央とも仲良くなった。
雄一郎が帰ってきた夜、柚希のベッドに雄一郎が入ろうとした。瀬口が止めた。「柚希は男の経験が無いよ。わかっていますか。」雄一郎はびっくりした。今時こんなのはないだろう。巷には同棲時代の大きな看板がある。大信田礼子、由美かおる、ヌードが幅を利かせている。世の中の女はみんな経験者だと勝手に思っている。そんな中で未経験だと聞かされて面食らった。しっかり自分と何回もした間柄だと、刷り込んでいる。「どうしたらいい。」「女の体がしっかりと男を受け入れる気になるまで、撫でまわすんだね。やりそこなうと嫌われるよ。一回しかないチャンスで後はないよ。」しっかりと瀬口は脅した。今夜はできないか、そう思って柚希の横に入った。何回もホテルに行った仲だと刷り込んでしまった以上、後へは引けない。
柚希の夜着を脱がせた。抵抗はしなかった。自分も裸になると、肌と肌を合わせた。「こうすると、痛みもなくなるよ。」耳元で優しくささやいた。女とやるためには男はどこまでも優しくなる。男も女もその時間は楽しい。そして刹那の真情が支配する。好きだよ。愛しているよ。私も。
肌と肌を合わせて、その夜は更けていく。柚希はその手の中で甘えるように身を擦り付けた。まだ妊娠はさせられないが、そんなの関係ない。欲望が頭をもたげる。「私たち何回ホテルに行ったの。ホテルで何したの。」雄一郎は答えられなかった。寝るまで体を撫でまわした。ベッドの中では背丈は関係ない。もういいだろう、やろうか。そう思ったらベッドから蹴りだされた。柚希は寝相が悪い。それは聞いていない。悩みが増えた。
気を取り直して柚希の寝相を直す。まっすぐに直すと横に寝た。そっと乳房に触る。乳首を口に含み軽く吸う。目を覚ました。優しい目で見つめてくる。組み敷こうとしたとき素早くはぐらかされ、格闘技の業か足と片手の自由を奪われた。もがくとじっと男性器を見て触ろうとする。慌てるが抵抗できない。雄一郎は百八十はある体格の持ち主だが、柚希は百八十五、しなやかな体で細い、だが力は強い。なすがままに触られる。玉をぐっと握られたらとひやひやしたが、無事に放してくれた。そんな中でも雄一郎の男はしっかりと興奮を保っていた。「だってじっくり見たかったよ。何回もしたんでしょう。」力を抜いて布団に横になった。「実は、、。」と言いかけたがチャンスと見て腰を抱き、中に滑り込ませた。二人で抱き合った。腰にバスタオルをあてた。出血があったが無視した。「痛いよ。」柚希が言う。しっかりと彼女の体を離さず、それを無視して最後まで自分の欲望を満たした。ことが終わった後、柚希はトイレに行った。出そうで出ない何かを出したい、便器にいっぱいの血が出た。歩きにくい。股間に何か挟まっているようで、歩きにくい。
風呂に行き洗い流していたら、雄一郎が来た。「生理が始まったみたいだね。」股間に手を入れて洗い流して、生理用品を出して手当をした。柚希は恥ずかしかった。そういうと、「いつもそうしていたじゃないか。」雄一郎は、瀬口の言葉を思い出していた。「恥ずかしいところまでいっぱい撫でまわすんだね。」柚希が起きているあいだ中、撫でまわした。痛みがあったのだろう、なかなか眠らない。やがて疲れて眠った時ほっとした。女は面倒くさい。だがいいもんだ。女にこんな感情を持ったのは初めてだ。いつもの計算高さが隠れた。うまいとこ刷り込みは成功した。
翌日、「おっかん、夕べ生理が始まったみたい。」翌日彼女が瀬口に言っていた。
歩きにくいとも言った。「柚希が初めてだったからよ。初めてはそうよ。」「だって、雄一郎さんは何度もしたって。」「騙されたんだよ。よく覚えておきなさい。あんたの旦那は嘘がうまい。上手に騙されなさい。でも全部知っているのは大切よ。」彼女は、雄一郎がいい夫になると、見込んでいた。そして柚希の何か抜けている性格を、危ぶんでいた。ずるい男だが柚希の何かに執着している。それが何かわからないが、このままいい夫になって欲しい。ピンぼけな柚希を守って欲しい。
朝食で顔を合わせた。柚希は気まずかった。夜に、すべて触られ、股間まで洗われた。相手の顔をまともに見られない。恥ずかしい。耳まで真っ赤になる。目を伏せていると視線を感じる。そっと目を上げると夫がいた。昨日までは夫と言う意味が分からなかった。今朝は間違いなく夫である。目を合わせてしばらくすると、おかしさがこみあげてきた。笑顔になった。彼は思う。嫌われなかった。俺の女だ。出がけに服の胸を開くと、唇を押し当て吸った。くっきりとキスマークが付いた。妻は黙ってなすがままにされた。今は右半身の痛みで自由に体が使えない。それであの強さ、全快したらどうなるか、今朝の様子で少し安心した。俺が制御する女になれ。「愛しているよ。」と言うと「本当に。うれしい。」素直に喜んだ。
迎えの車に乗り込む。会社に着くと業務報告を受ける。一段落すると会長室に行った。会長中島洋介は椅子に座っていた。報告をして、話すことを話した。会長は思わせぶりに雄一郎を見ると、にやりとした。「どうだ、嫁はかわいいか?そこかしこに嫁がかわいいと書いているぞ。お前も俺と同じで女が好きだからな。でも、お前は間違えた。一番好きな女は、結婚してはいけない。妾にするべきだ。俺はお前の母親の奈央が一番好きだった。」雄一郎が後を言う。「だから、妾にした。そして逃げられた。僕はそんなヘマはしません。」中島の一番弱いところだ。奈央がヘンリーと結婚してアメリカに行く時、気落ちした。気にもかけていなかったのに、いざ自分の手から抜け落ちるとあわてた。「なんとでも言え。」会えばケンカをしているような二人を、周りは普通の上司と部下と思っている。中島の何人もいる子供で入社できたのは雄一郎と他三人、株は少しずつ彼等の名義に変えている。一番優秀な彼の子孫が俺の後を継ぐ。そして雄一郎が競争に勝った。彼の手腕があればこその会社の発展だが、それは中島の助力があればこそでもある。雄一郎はそれを感じていた。彼らの考えは一つ、無能なものは表舞台から去れ。次の年末、柚希の実家、春野市に行く。藤田邸に入ると正月休みに入っていた。家族の食事の支度は、賄のおばちゃんがしてくれた。大半が帰省し従業員宿舎には鮫島がぽつんといた。家族とともに食卓に着いた。忍も久しぶりに鮫島の顔を見てほっとしているようだ。食事の後、鮫島が雄一郎に言う。「山歩きにいきませんか。とっておきのおいしいものをご馳走しますよ。」
翌日朝、朝食を終えると鮫島と二人で鍬と登山ナイフをもって出かけた。「ここにきて教えてもらったんです。」竹藪に入ると、地面を丹念に調べ始めた。やがて鍬で土をよけると竹の根にコブのようなものがあった。登山ナイフで切り取った。皮をはいで渡した。「時間がたつとまずくなるんです。」急いで口に入れた。
梨のような、しゃくしゃくとした歯触りと甘さが広がった。「おいしいな。」「そうでしょう。もうあと数日すると食べられません。女はここまで来ないから、男だけの秘密の食い物です。秘密です。」たくさん食べるものではない。一つずつ食べると、山を下りた。なぜ父親の大野勇吉を頼らないのかと聞くと、「頼りたくないです。」なぜだと言うと、嫌悪感を示した。自分にもわかる。大野はもう九十に近い。財界の重鎮で明治の人間だ。数々の企業再生と技術改革をしている。彼の手法は雄一郎にとって理想でもある。「忍だって今は若いが年を取るよ。そしたら捨てるのか。」「一緒に年を取っていきますよ。当たり前じゃないですか。忍の悪いところもいいところも、すべて愛せます。母は今も父を尊敬しています。でも俺や母は父の人生になかった。さみしい事です。」それを聞いて雄一郎は思う。自分も大野と同じことをしている。愛人に産ませた三人の子を思った。そこはアスペルガー、長くは気にはしていない。すべて弁護士に任せている。
元旦は美濃山からの御来光の為みんなで山に登る。忍はいかないと言う。翔が負んぶするからと言うとそれでも渋る。鮫島は自分が負ぶると言うと、忍は笑顔で承知した。どこかで二人は心を通わせていた。手をつないだり、負ぶったりして山頂を目指す。
本田も登った。御来光は素晴らしかった。帰りに風車に行く、みんなでワイワイやっていると、小雪ちゃんが本田に言う「披露宴はしないの。」「しないとダメかな。」「このあたりの人を呼んでやっとくと、実家に逃げて帰りづらくなるよ。」小雪ちゃんは本田にカマをかけた。引っ掛かった。「よろしく頼む。」一切合切を請け負う。柚希の嫁入り披露をやった。正月三、四、と地区の人を招いて食事会をした。結婚式は桐谷神社の宮司がしてくれた。忍が縫ってくれたドレスを着た。柚希を取り戻そうとしていた隆一は、渋い顔をして席に座っていた。離婚して帰ってきたら出戻りと言われる。それは嫌だ。知らせなければそれはない。できるだけ秘密にしておきたかった。
正月明けから米国への出張がある。国防総省の係官はネゴシエイターで有名な人物。タフな男だ。このまま板付から出ることにしていた。柚希も正月明けの飛行機で帰る。研究室にはまだやり残したことがある。
実は柚希は女子社員から人気がある。背が高くボディアーマーが似合い、フル装備で軽々と歩く。その姿が宝塚の男役のような雰囲気、結構な社内ファンがいる。兵器研究員の女性研究者は「ゆずきー。」と言うし、それで「はーい」と答えている。中島は長く米軍との付き合いがあるので、少しは情報が漏れ聞こえている。彼女は手を出してはいけない女だ。それに手を出し、なおかつ結婚。あのアホが、いつも俺を見下している罰だ。あいつが嫁にしなかったら、俺が手を付けていた。雄一郎が米国への出張から夕方帰ってくるという日、女性研究者十人ほどとホストクラブに行く計画を立てた。会長直々のねぎらい。リーダーの中川に、柚希も誘うように言う。彼女たちは柚希のファン、喜んで誘った。行く時間の前、中川は柚希に目いっぱいのオシャレをさせた。ホストの男たちをクギズケにしてやる。柚希が男に抵抗力が無いのはわかっていた。だから注意が必要なのもわかっていた。おまけにアルコールに柚希は弱い。と言うか呼吸困難を起こす。しかしウーロン茶で酔っ払ってくれる。男はともかくアルコールに関しては、店側に何度も念を押した。
仕事が終わって小型のバスを仕立てて、総勢十五人、帰れないといけないので、ホテルも予約。開店直後のホストクラブRoon。キャッキャとはしゃいでみんな入っていく。ホストはにこやかに迎えた。剣菱重工の社長夫人と、会長、女性社員。羽田に着いた雄一郎は家に電話をした。家政婦が出た。今、会長と女性研究者と、銀座のホストクラブに行っていると聞いて驚いた。やってくれたな糞親父、タクシーを飛ばして銀座に行った。
ホストクラブへ行く。席に案内されるとにやけけた顔をした中島とその横に柚希がいる。ホステスにするように、肩に腕まで回していた。他の女子社員はホストとしゃべったり踊ったりしていた。柚希の横にいた、ホストをつかむと、ソファから追い出した。横に座ると、言う。「今日は僕がホストだよ。指名してくれるかな。」中島の手を払いのけ、肩に手を回し優しくささやいた。「いいよ。キスしてくれるなら。」キスした。映画のシーンを意識して濃厚なキスをした。そして体をまさぐった。横で中島が呆れてみていた。中川も柚希の濃厚なラブシーンを見ていた。終わると「ということで、帰ります。皆さんごゆっくり。柚希帰るよ。帰ったらやることがあるだろう。僕は十日も柚希抜きの生活だったんだよ。」「何かするの。」雄一郎が見回すと中川を含めみんな見ている。そして一人に目を止める。翔がいた。現実に目覚めて翔を見る。バツが悪そうにしていた。「翔、こい。」呼ぶと来た。「なんでここに?」「バイトですよ。バイト。」「バイトなら、倉庫の整理をさせてやる。明日来なさい。今日は一緒に帰るよ。」「ロッカーに荷物が。」と言うと取ってこいと言う。店長に話を付ける。翔は二か月ほどバイトをしていたらしい。かなりの客が付いたそうだ。甘いマスクに百九十はある背丈。女にもてないわけがない。翔との関係を聞かれて「弟だよ。」と答えた。俺が一番チビなのか。翔はいたずらがばれた子供のようにしていた。雄一郎は翔と柚希を引きずって、出ていった。中川が初めて見た社長の一面だ。まっ黒焦げ嫉妬を、あの冷徹な社長がしていた。中島もこんなに動揺した雄一郎を初めてみた。
雄一郎は思う。柚希は俺だけを見ていればいい。他の男に目移りするな。何の疑いもなく自分を信じる柚希に、愛おしさを感じる。自分が年を取って丸くなったようにも感じた。その夜は翔や家政婦の気配も気にならず、一晩中柚希を抱いた。朝起きたとき柚希の目立つところに、いっぱいキスマークがある。翔はおかしさをこらえながら雄一郎と柚希で朝食を取った。翔は長男だ。だから父やおっかんから女は弱い、だから男の兄弟が守ってやらなければと、教わっていた。柚希の格闘術は、どうかしたら翔もかなわない。そんな柚希を組み敷いて、やることやる雄一郎を、感心してみていた。「おい翔、おまえ筆おろしは済んでいるのか。」翔は急に話を振られて面食らった。「まあ、はい。」とだけ答えた。柚希が聞く。「筆おろしって何?新しい筆でも買ったの。」「柚希は聞かんでいい。」
翔を倉庫に連れていく。倉庫の管理をしているのは、雄一郎の腹違いの弟にあたる田代小弥太だ。ここの倉庫一つで管理しているわけではない。全体をしっかりと管理していかないと品物が銃や銃弾、軍事品だけに厄介だ。このころはインターネットも発達しておらず、今のようなパソコンもない。ようやくあるのはFAXくらい。その中で田代はいい仕事をしていた。全国にある剣菱重工の製品はここの管理者の承認を得て出荷される。田代は管理者として有能な人物だ。彼を見ていると中島の女の好みが見えてくる。有能な子供を産むことが女たちに求められていた。そんな都合よく優秀な子供ができるわけもなく、中島の子供は適当に優秀で適当に凡人だ。翔を引っ張っていき、田代に頼んだ。「この子をバイトとして使ってくれ。」「誰ですかこの子、まあ見た感じホストにでも行った方が、稼げると思いますが。」「嫁の弟だよ。頼む。」無理やり翔を田代に押し付けた。「時々、直のところに貸し出していいですか。」「いいよ。どこにでも貸し出していいよ。」田代は小さくつぶやく。「嫁がかわいけりゃ、弟までもか。」彼は中島の子供の中で優秀な男だ。他に総務部長をしている清村がいる。田代直は機械オタク。工場の機械整備と新しい兵器の開発をやっていた。田代小弥太は直の兄、直は兄と違い鈍くさく会社に入れなかった。兄の小弥太が自分の助手として入れてもらい、機械整備が得意なことも相まって入社できた。中島は直を子のうちに入れていない。当然株の分配もなかった。機械の整備はじみな仕事、試作品の修正も地味な仕事、彼の手伝いをやるという事は、機械油まみれになる事でもある。直は嫌な顔をせず翔を自分の手元に置いて、機械整備を教えた。翔は大学でコンピュターを学んでいた。まだWindowsも出ていなかった。日本のトロンが一般的なパソコンには最適だと思われた時代だ。トロンは米国政府の圧力で、あえなくオクラ行きとなる。トロンが世に出ていたらM社の発展はなかった。その中で直は翔にプログラムを教えた。大学教授より直が勉強になった。中島は表面しか見ていない。鈍くさい直が天才的な才能を、秘めているとは思っていなかった。小弥太の製品管理も、直が組んだ小型コンピュターに組み込まれたリーナックスの、手助けを借りていた。彼は言う。「いつか戦場には人はいなくなる。その時コンピュターを支配している国に勝てない。」
雄一郎は工場にいるときは社長として、作業服で通す。そして直の底知れぬ才能に気が付いていた。そしてどう扱っていいか迷っていた。彼も工学部卒だが、彼の理解をはるかに超えた才能を見ていた。そしてそれらは、鈍くさい直の中にある。
川島は裁判所の傍聴席にいた。今日は里穂の判決の日だ。傍聴券を手に法廷に入った。長い前文の朗読があり、死刑判決が出た。予想通りだ。里穂は静かに頭を下げた。死刑設備のある福岡刑務所に収監された。新聞記者がインタビユーをしに来た。何も答えなかった。ただ彼が期待しているものは、わかった。獄中結婚をして、彼女を支える期待だ。ごめんだ。自分は通りすがりの他人に過ぎない。これが名無子の望んだ人生とは思えない。里穂はどこで人生を間違えたのだろう。間違えるべくして間違えたのか。やりきれない気持ちを抱えながら、小雪ちゃんの風車に行く。先に鮫島と新がいた。川島を見ると席を空けて、中に入れてくれた。「女は怖い、おれ、絶対結婚できないな。新さんよく誠子さんと結婚できたね。」「誠子はよくできた女だよ。俺のいいパートナーだよ。だいたい女がみんな忍だったら、生活できないよ。分相応と言うものがある。」鮫島が言う。「おれ、忍ちゃんに、どう思われているんだろう。」「安心しろ、何とも思われていないから。」「それはないでしょう。」鮫島はこの一年でたくましくなった。森林管理で一日三万歩以上は歩く。歩くのが当然になってしばらくたつ。歩くのが無理な時はオフロードバイク、ランドクルーザー、を使う。木の種類は覚えた。その外見のたくましさに、少年のような純粋さが見える。彼の父親は財界の大物大野勇吉。顔も知らない父親の妾の一人が鮫島絹代。鮫島峰夫の母である。母ともこの一年会っていない。心配もしていない。大学出るまでは金を出してくれたがそれ以後はない。明治生まれの大野にしたら、男は二十歳を過ぎたら自立していくものだと考えていた。母の絹代も小料理屋をしている。もう手当も途絶えて十年以上になる。自分も子供と認められているとは、思えない。
新が言う「なんかさあ、忍も柚希も一つ何か多すぎるのか足りないのかわからないけど、感覚がおかしいと思う。小さいころから知っているよ。あの大将のかわいがりだろう。おかしくなって当たり前だよな。おっかんがいたから、基本的なしつけはで来たけど、でなきゃひどいものになっていたと思うよ。翔と佳一だってそう。俺たちが捕まえて勉強させなければ、山猿になっていたよ。」大将とはこの辺りでは一家の長を指す。「でも、あの可愛さでしょう。俺は許します。俺の嫁になってくれたら、何でも許します。」「お前バカか。」と川島。川島は思う。志乃が死んだ日、隆一は魂が抜けた。そんな女にこれから出会えるだろうか。出会わない方がいい。新が言う「それにしても柚希、なんであんな亭主と結婚したのだろう。」鮫島が言う「すごい人ではありませんか。あの剣菱重工の社長ですよ。」新が「このあいだ、柚希がおっかんに電話してきたとき、横でストップウォッチを見ていると言っていた。三十秒だとよ。なんもかんも管理されて泣いていたよ。何でも買っていいと、無制限のカードを渡されているらしいが、柚希に欲しい物はないからな。ホストクラブにでも行けと、横から怒鳴ったら、切られた。ありゃ聞いていたな。」二人が帰ると、少し店内が静かになった。
小雪ちゃんは静かにグラスをみがく手を休めてコーヒーの準備をした。「ひどい顔しているわね。」小雪ちゃんが言う。「おれ、一生結婚できないかも。」「どうしてそう思うの。」「名無子は死んでいたし、里穂は人殺しだし。俺は一生女が怖い。」「心配しなさんな。あんたもう結婚しているよ。」「だれと。」「葵よ。」「えええつ。そんなわけないよ。」「あんた、依然言ったことあったわよね。だご汁半分こして葵と食べた。」「あれが何か?」「冥婚。あんたをあの世の夫にした。」「そんなの、知らない。知らないよ。」慌てた。しかし葵には感謝している。少なからぬ遺産を、残してくれた。そうかおれは葵の亭主だったのか。小雪ちゃんがコーヒーを出してくれた。「ありがとう。龍神滝の水?」「そうよ。」そこへ女が顔を出した。高校出たばかりのような、イモイモしい女の子だ。目も鼻も小さめ、頬骨が張っている。どこかで見たような顔。「マスター、お先に失礼します。」と声をかけ消えた。小雪ちゃんが視線に気が付いた。「あの子気になる?今度ここに入ったのよ。」「見たことのある顔だなと思って。紹介してくれる。」「紹介してもいいけど、ひどい目に合わせるのは厳禁。丁寧に扱うのよ。」「そのつもりだけど。」「杉谷地区の山田登美子さん。」「この辺、山田さんが多いの?」「そうね。山田さんばかりね。だから屋号がある。彼女の家はショウケ屋。他に上がり坂、一本松、馬屋、などがある。その場の景色が、名字の代わりをしているよ。昔は竹で農業用のショウケ(笊)を作っていたらしいね。ショウケ屋の勇さんの長女よ。お父さん今は水工場で働いているよ。」小雪ちゃんに紹介を頼んだ。付き合うことになるならいい。この山の妖怪ナリカワリは出づらくなる。絶滅危惧妖怪となるのを願うばかりだ。後日お見合いを設定する準備をすると言う。登美子の親にも話を通さねばならないし、仲人も頼まねばならない。「お金かかるわよ。」小雪ちゃんが言う。「俺の親来ないと思うよ。」ぼそっと言うと、「そんなのわからないじゃない。いうのはただよ。」と言う。久しぶりに実家に連絡を取ってみようと思う。あれからかれこれ十年、子の結婚を喜ばない親はいないだろうが、俺の親は違うかもしれない。「こう、簡単に紹介はできないのかな。たとえば、ここで紹介するとか。」「あんたね。田舎の恐ろしさを知らないね。そういうことをすると、野合と言われて、家の格が下がるのよ。登美子さんとこも困ると思う。」困らせるつもりはない。「わかった。費用はどれくらい。」「うまく成立したとして、あそこは女ばかり、あんたが婿に行けばいいから、意外と安いよ。」「俺が。」「あそこのお父さんに頼まれてはいたのよ。いい婿はいないかと。あんたピッタリね。」「じゃあ、藤田さんとことか、そんな手順を、踏んでいないじゃないか。」「あそこの志乃は特別よ。隆一の妾になるために育てられていたからね。でも妾から妻に直った。それに家の格が違うよ。旧伯爵家、志乃も旧子爵家よ。」「柚希はどうなんだよ。ようわからんことでいつの間にか嫁に行った。しかも相手は婚外子が三人もいる。」「都会の人間は特別よ。それに家の格が下がると言われるのは、団栗の背比べのような普通の家庭、この山の中の貧乏家だけの話。」
昭和とは、遠くになった思い出だが、そこには団塊の世代の、泣き笑い人生が有る。ご覧いただきありがとうございます。書き足していくため少しづつ長くなっていきます。




