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『忘却の調律師――視力と存在をささげた少年は、のんびりと世界の綻びを治してまわる』  作者: ミロク
第1章 これが僕の日常

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8/11

第5話:理を編む指先。ほどくだけじゃダメなんだ

見つけてくださりありがとうございます。

前回は魔術師団に切れられながらも、絡まった糸をほどいたところまで


今回はこの物語のキーポイントである特異点。

今後の話にも大きく影響してくるポイント


 

  世界が、ふっと軽くなった。


 ——はずだった。


 最後の一本をほどいた瞬間、指先の奥に、嫌な「引っかかり」が残った。


 解けたはずの糸が、まだどこかで別の何かに繋がっている。


 切れた毛糸の端っこが、ほつれたセーター의向こう側でまだ何かを掴んでいるような、そんな違和感。


「——ノア」


 肩の上のシオンが、鋭い声を出した。さっきまでのナビゲートの声とも違う。本気で警告している声だ。


「下がりなさい。今すぐ」


「え? でも、もう——」


 そのとき、地面が割れた。


 いや、違う。地面じゃない。水だ。


 地中の水脈そのものが爆発するように吹き上がったのだ。


 冷たい飛沫が顔と胸と腕を打って、一瞬で全身がずぶ濡れになった。


「——ッ!」


 シオンが僕の首筋にしがみつく。小さな爪が食い込む。痛い。でも、離さないでくれているのが分かるから、その痛みが嬉しい。


 水の柱の中から、「何か」が浮かび上がってきた。


 音で分かる。水を切る音。


 巨大な、途方もなく巨大な何かが、水の中に泳いでこちらに向かってくる音。


 腹の底を打つ低周波が、空気を伝って全身を震わせる。


 両耳が痛い。


 でも、その咆哮の奥に、僕は別の音を聞いた。


 泣いている。


 この竜は、暴れたくて暴れているわけじゃない。


 絡まった糸に身体を縛られて、苦しくて、痛くて、助けを求めて叫んでいるのだ。


 糸がきつく食い込むたびに、竜の悲鳴が水の柱となって天を突く。


「ノア! 来るわよ!」


 シオンの叫びの直後だった。


 空気が割れた。


 信じられないほどの水圧が、正面から——いや、ちがう。


「右!」


 シオンの声に身体が反応した。考えるより先に、右足で地面を蹴って横に跳ぶ。


 一瞬前まで僕がいた場所を、水竜の尾が薙ぎ払った。


 ごう、と空気が裂ける音。遅れて衝撃波が来る。風圧だけで身体が浮いて、二歩分ほど横へ流された。


「うわっ——」


 着地に失敗して、肩から地面を転がった。シオンが僕の首筋から跳び上がって宙に浮き、すぐにまた肩に戻る。


「立って。次が来る」


 シオンの声には、一切の温度がなかった。戦闘中のシオンだ。普段のボヤきも小言もない。刃物みたいな、純粋な情報だけを伝える声。


 立ち上がる。膝が震えている。


 ——怖い。


 当たり前だ。僕はガルドじゃない。あの巨大な盾で攻撃を受け止められる重戦士じゃない。僕の身体はただの十六歳の、しかも目の見えない、痩せた少年だ。水竜の尾がかすっただけで、骨ごと砕かれて死ぬ。


「——だ、団長! 竜です! 水の中から竜が……ッ! 聞いていない、こんな話は!」


「馬鹿な、特異点の核が水竜だと!? 人間が太刀打ちできるもんじゃない……ッ! 全員退避だ、命を捨てる気か!」


 背後で、王立魔術師団が混乱している。


 当然だ。彼らの魔術は「申請」だから。


 世界に力を借りて、許可をもらって、やっと発動する。


 でも、特異点の中では世界の窓口そのものが壊れている。


 申請先がないのだ。


 僕は違う。


 僕は申請しない。窓口なんかいらない。


 糸に直接触れて、直接編む。


 世界が壊れていようと、僕の指先は糸を見失わない。


 ——でも。


 糸に触れるためには、生きていなければならない。


「シオン」


「何」


「あの竜、すごく苦しそうです」


「……知ってるわ」


「助けてあげたいです」


「…………」


 シオンは何も言わなかった。何も言わない代わりに、僕の肩の上で、ぐっと爪を立て直した。「行きなさい」という合図だ。


「ナビ、お願いします」


「——前方、十二。水竜の核は胸部。ただし、水流が五重に渦巻いて防壁になってる。正面から近づいたら水圧で潰されるわ」


「じゃあ、正面以外から」


「馬鹿。全方位よ。水竜の周囲三十歩は、すべて暴走した水流で覆われてる」


「うーん……」


 僕は首を傾げた。確かに、指先に伝わってくる水の振動は、全方位から等しく鳴り響いている。


 近づくだけで身体が千切れそうだ。


「左!」


 考える暇もなかった。シオンの声に、身体だけが先に動く。


 左足で踏み切って跳ぶ。


 水竜の吐息ブレスが、僕の右頬を掠めて地面を穿った。


 轟音。地面が抉れる音。水しぶきが散弾のように全身を打つ。


 右頬がひりひりする。掠っただけだ。でも掠っただけで、皮膚が裂けるほどの圧力。


 ——これがまともに当たったら。


 考えるな。考えたら足が止まる。


「シオン、もう一回来ますか」


「来るわ。次は——上! 伏せて!」


 伏せた。


 頭の上を何かが通り過ぎた。


 空気を丸ごと持っていかれるような、途轍もない質量の移動。水竜の身体そのものだ。巨大な蛇が空を泳ぐように、頭上を横切った。


 通過の風圧で、ローブが引き千切れそうになる。右肩の布がべりっと裂けた。


 伏せたまま、僕は泥の中に指先を動かしていた。


 水竜が暴れ回る。


 近づけない。


 でも——。


「……シオン」


「何。まさかまた何か思いついたの」


「近づかなくても、できることがあるかもしれません」


「……聞くわ」


「この周り、すごく寒いですよね」


 確かに寒かった。蒼滝の逆樹海は、もともと水脈が豊富な場所だ。


 水竜が暴れるたびに大量の水しぶきが舞い上がり、気温がぐんぐん下がっている。


 僕の指先には、その「冷たさ」が別のものとして伝わっていた。


 熱の糸。


 世界のあらゆるものが持つ「振動」の糸。温かいものは速く震え、冷たいものはゆっくり震える。


 水竜が水を撒き散らすたびに、周囲の熱の糸が急速に収縮して、短く、硬く、動きを止めようとしている。


 ——それを、使えないだろうか。


「シオン。お願いがあります」


「何」


「水竜の攻撃を避けながら、僕にこの辺りの『冷たい糸』の位置を教えてください。攻撃の合間に——少しずつ、手繰り寄せます」


「…………」


 シオンが、一瞬だけ黙った。


 たぶん、僕が何をしようとしているのか、分かったんだと思う。


「正気?」


「たぶん」


「あれは軍隊魔術よ。三十二人の魔導師が十分に時間をかけて発動する儀式を、あなた一人で——しかも水竜に殺されかけながらやるっていうの?」


「うーん……でも、他に方法が思いつかないんです。水竜の周りは水流の壁で近づけない。かといって、あの子はとても苦しんでいて、放っておけない。だったら、遠くから——この場所ごと、丸ごと、糸をほどくしかないかなって」


「…………」


 長い沈黙。


 シオンの爪が、肩に食い込んだ。


「——座標を出すわ。でもノア、一つだけ約束して」


「何ですか?」


「死なないで」


 その声は、刃物のように鋭くて、でも刃の奥がほんの少しだけ震えていた。


「死にませんよ。だって、まだお菓子食べてないですから」


「…………バカ」


 シオンが小さく吐き捨てた。


 でも、次の瞬間には、その声は完全に「戦場の声」に切り替わっていた。


「——二時方向、三歩先に熱の収縮点。足元に水溜り。右に跳んでから、指を伸ばして」


 始まった。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。


何かを助けるためにはそれなりの覚悟と代償が必要。

無償であるほどその代償は高くつく。


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