第5話:理を編む指先。ほどくだけじゃダメなんだ
見つけてくださりありがとうございます。
前回は魔術師団に切れられながらも、絡まった糸をほどいたところまで
今回はこの物語のキーポイントである特異点。
今後の話にも大きく影響してくるポイント
世界が、ふっと軽くなった。
——はずだった。
最後の一本をほどいた瞬間、指先の奥に、嫌な「引っかかり」が残った。
解けたはずの糸が、まだどこかで別の何かに繋がっている。
切れた毛糸の端っこが、ほつれたセーター의向こう側でまだ何かを掴んでいるような、そんな違和感。
「——ノア」
肩の上のシオンが、鋭い声を出した。さっきまでのナビゲートの声とも違う。本気で警告している声だ。
「下がりなさい。今すぐ」
「え? でも、もう——」
そのとき、地面が割れた。
いや、違う。地面じゃない。水だ。
地中の水脈そのものが爆発するように吹き上がったのだ。
冷たい飛沫が顔と胸と腕を打って、一瞬で全身がずぶ濡れになった。
「——ッ!」
シオンが僕の首筋にしがみつく。小さな爪が食い込む。痛い。でも、離さないでくれているのが分かるから、その痛みが嬉しい。
水の柱の中から、「何か」が浮かび上がってきた。
音で分かる。水を切る音。
巨大な、途方もなく巨大な何かが、水の中に泳いでこちらに向かってくる音。
腹の底を打つ低周波が、空気を伝って全身を震わせる。
両耳が痛い。
でも、その咆哮の奥に、僕は別の音を聞いた。
泣いている。
この竜は、暴れたくて暴れているわけじゃない。
絡まった糸に身体を縛られて、苦しくて、痛くて、助けを求めて叫んでいるのだ。
糸がきつく食い込むたびに、竜の悲鳴が水の柱となって天を突く。
「ノア! 来るわよ!」
シオンの叫びの直後だった。
空気が割れた。
信じられないほどの水圧が、正面から——いや、ちがう。
「右!」
シオンの声に身体が反応した。考えるより先に、右足で地面を蹴って横に跳ぶ。
一瞬前まで僕がいた場所を、水竜の尾が薙ぎ払った。
ごう、と空気が裂ける音。遅れて衝撃波が来る。風圧だけで身体が浮いて、二歩分ほど横へ流された。
「うわっ——」
着地に失敗して、肩から地面を転がった。シオンが僕の首筋から跳び上がって宙に浮き、すぐにまた肩に戻る。
「立って。次が来る」
シオンの声には、一切の温度がなかった。戦闘中のシオンだ。普段のボヤきも小言もない。刃物みたいな、純粋な情報だけを伝える声。
立ち上がる。膝が震えている。
——怖い。
当たり前だ。僕はガルドじゃない。あの巨大な盾で攻撃を受け止められる重戦士じゃない。僕の身体はただの十六歳の、しかも目の見えない、痩せた少年だ。水竜の尾がかすっただけで、骨ごと砕かれて死ぬ。
「——だ、団長! 竜です! 水の中から竜が……ッ! 聞いていない、こんな話は!」
「馬鹿な、特異点の核が水竜だと!? 人間が太刀打ちできるもんじゃない……ッ! 全員退避だ、命を捨てる気か!」
背後で、王立魔術師団が混乱している。
当然だ。彼らの魔術は「申請」だから。
世界に力を借りて、許可をもらって、やっと発動する。
でも、特異点の中では世界の窓口そのものが壊れている。
申請先がないのだ。
僕は違う。
僕は申請しない。窓口なんかいらない。
糸に直接触れて、直接編む。
世界が壊れていようと、僕の指先は糸を見失わない。
——でも。
糸に触れるためには、生きていなければならない。
「シオン」
「何」
「あの竜、すごく苦しそうです」
「……知ってるわ」
「助けてあげたいです」
「…………」
シオンは何も言わなかった。何も言わない代わりに、僕の肩の上で、ぐっと爪を立て直した。「行きなさい」という合図だ。
「ナビ、お願いします」
「——前方、十二。水竜の核は胸部。ただし、水流が五重に渦巻いて防壁になってる。正面から近づいたら水圧で潰されるわ」
「じゃあ、正面以外から」
「馬鹿。全方位よ。水竜の周囲三十歩は、すべて暴走した水流で覆われてる」
「うーん……」
僕は首を傾げた。確かに、指先に伝わってくる水の振動は、全方位から等しく鳴り響いている。
近づくだけで身体が千切れそうだ。
「左!」
考える暇もなかった。シオンの声に、身体だけが先に動く。
左足で踏み切って跳ぶ。
水竜の吐息が、僕の右頬を掠めて地面を穿った。
轟音。地面が抉れる音。水しぶきが散弾のように全身を打つ。
右頬がひりひりする。掠っただけだ。でも掠っただけで、皮膚が裂けるほどの圧力。
——これがまともに当たったら。
考えるな。考えたら足が止まる。
「シオン、もう一回来ますか」
「来るわ。次は——上! 伏せて!」
伏せた。
頭の上を何かが通り過ぎた。
空気を丸ごと持っていかれるような、途轍もない質量の移動。水竜の身体そのものだ。巨大な蛇が空を泳ぐように、頭上を横切った。
通過の風圧で、ローブが引き千切れそうになる。右肩の布がべりっと裂けた。
伏せたまま、僕は泥の中に指先を動かしていた。
水竜が暴れ回る。
近づけない。
でも——。
「……シオン」
「何。まさかまた何か思いついたの」
「近づかなくても、できることがあるかもしれません」
「……聞くわ」
「この周り、すごく寒いですよね」
確かに寒かった。蒼滝の逆樹海は、もともと水脈が豊富な場所だ。
水竜が暴れるたびに大量の水しぶきが舞い上がり、気温がぐんぐん下がっている。
僕の指先には、その「冷たさ」が別のものとして伝わっていた。
熱の糸。
世界のあらゆるものが持つ「振動」の糸。温かいものは速く震え、冷たいものはゆっくり震える。
水竜が水を撒き散らすたびに、周囲の熱の糸が急速に収縮して、短く、硬く、動きを止めようとしている。
——それを、使えないだろうか。
「シオン。お願いがあります」
「何」
「水竜の攻撃を避けながら、僕にこの辺りの『冷たい糸』の位置を教えてください。攻撃の合間に——少しずつ、手繰り寄せます」
「…………」
シオンが、一瞬だけ黙った。
たぶん、僕が何をしようとしているのか、分かったんだと思う。
「正気?」
「たぶん」
「あれは軍隊魔術よ。三十二人の魔導師が十分に時間をかけて発動する儀式を、あなた一人で——しかも水竜に殺されかけながらやるっていうの?」
「うーん……でも、他に方法が思いつかないんです。水竜の周りは水流の壁で近づけない。かといって、あの子はとても苦しんでいて、放っておけない。だったら、遠くから——この場所ごと、丸ごと、糸をほどくしかないかなって」
「…………」
長い沈黙。
シオンの爪が、肩に食い込んだ。
「——座標を出すわ。でもノア、一つだけ約束して」
「何ですか?」
「死なないで」
その声は、刃物のように鋭くて、でも刃の奥がほんの少しだけ震えていた。
「死にませんよ。だって、まだお菓子食べてないですから」
「…………バカ」
シオンが小さく吐き捨てた。
でも、次の瞬間には、その声は完全に「戦場の声」に切り替わっていた。
「——二時方向、三歩先に熱の収縮点。足元に水溜り。右に跳んでから、指を伸ばして」
始まった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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