第3話:空へ落ちる雨。人を見た目で判断しちゃいけないよね
見つけてくださりありがとうございます。
前回のノアが特異点に気づき世界の結び目をほどきに出た続きになります。
足裏の感触が、おかしい。
さっきまでは踏み固められた土の道だったのに、森に入ったあたりから、地面がふわふわする。
踏むたびに足が少しだけ沈んで、次の一歩で妙に軽く跳ね返される。
まるで巨大な生き物の腹の上を歩いているみたいだ。
「シオン、地面が……なんか、呼吸してませんか?」
「呼吸はしてないわ。重力が揺らいでるの。足元の引力が一定じゃなくなってる」
シオンの声は淡々としていた。けれど僕の腕を掴む指が、さっきより少しだけ強くなっている。
蒼滝の逆樹海。
名前だけは旅の途中で何度か聞いていた。
「滝が空に向かって流れている森がある」という噂を、宿屋の老人が怯えた声で囁いていたのを覚えている。
噂の意味が、今さらながら肌で分かった。
重力が、揺れている。
足裏から伝わるだけじゃない。全身の感覚がおかしい。
内臓が持ち上がるような、あの嫌な浮遊感が一瞬だけ走って、直後に足元へ引き戻される。
酔いそうだ。胃の底がぐらぐらする。
「……うぷ」
「吐かないで。ローブに当たったら捨てるから」
「吐きません、吐きませんよぉ……たぶん」
僕はシオンの腕にぎゅっとしがみついた。
大きくて柔らかいものに頬が埋もれて、少しだけ落ち着く。安心する場所だ。
森の匂いが変わっていた。
普通の森は、腐葉土と木の皮と苔の匂いがする。
でもここは違う。水の匂いが強い。
川の底みたいな、冷たくて重い水の匂い。
ぴちゃん。
頬に何かが当たった。冷たい。水滴だ。
「雨ですか? でも、さっきまで晴れて——」
言いかけて、やめた。
違う。これ、雨じゃない。
水滴が、下から上に向かって飛んでいっている。
足元の水たまりから弾けた雫が、重力に逆らって空へ昇っていく。
頬に当たったのは、たまたま途中で方向を見失った一粒だったらしい。
音が変だ。普通の雨は「ざあ」って地面を叩く音がする。
でもこの水たまりからは「ひゅう」という、吸い込まれるような音がしている。
地面が水を空に向かって吐き出している。
「……きれい、なんでしょうね。これ」
「ええ。滝が逆さまに流れてるわ。水の柱が地面から天に向かって伸びていて、途中で霧になって散ってる。虹が逆向きにかかってるのも見えるけど、色が狂ってる。赤と青が入れ替わってるみたい」
「虹の色が入れ替わってるって、なんだか面白いですねぇ」
「面白くないわよ。法則がめちゃくちゃってことだもの。この辺りの理の糸、見るに堪えない。素人が編んだセーターの方がまだマシ」
シオンの声が苛立ちを含んだ。この人が苛立つのは、大体「世界が雑に扱われている」ときだ。
そのとき、前方から声が聞こえた。
複数の人間の声。怒鳴り声と、詠唱の響き。
「シオン?」
「……魔術師がいるわ。五人。いえ、六人。王立の紋章つき。結界を張ってる」
「回り道しましょうか?」
「無理ね。糸の絡まりの中心はこの先よ。あの人たちの真ん中を突っ切るしかない」
「うーん……怒られそうですねぇ」
「怒られたら私が黙らせるわ」
物騒なことをさらっと言ってくれるのが、シオンのいいところだと僕は思う。
近づくにつれて、空気が重くなった。
重い、というか、濃い。
大量のマナが充満している。
それも荒い。
丁寧に編まれた糸じゃなくて、力任せにねじ込まれた、ごわごわした魔力の塊。
鼻の奥がつんとする。鉄の匂いに似ていた。
詠唱が聞こえる。
「——星の理よ、我が声に応え給え! 第三律・重力法典・第十七章——正引力の復元を命ず!」
大きな声だった。
太くて、低くて、自信に満ちていて。声量だけなら立派な魔術師だ。
ぶわっ、と風が巻き起こった。
大気中のマナが渦を巻いている。熱い。
魔力の摩擦熱が肌をひりつかせる。
僕のローブの裾がばたばたと暴れた。
「——固定せよ!」
地面がずん、と震えた。
一瞬だけ重力が正常に戻って、僕の身体がぐっと引き下ろされる。
でも、すぐに元に戻った。
ふわりと浮遊感が帰ってくる。むしろさっきよりひどい。胃の底が気持ち悪い。
「くそっ、また失敗か! マナ供給を増やせ! 触媒の出力を上げろ!」
怒鳴り声。苛立った声。何度も繰り返している声だった。
僕は指先で空気を探った。
ああ、そういうことか。分かってしまった。
この人たちは、絡まった糸を「力任せに引っ張って」いる。
もつれた毛糸玉を解くときに、端っこを掴んでぶちぶちと引きちぎるようなやり方。
そうすれば一時的にはほどけたように見えるけど、千切れた糸がさらに絡まって、結び目はどんどんきつくなっていく。
「あの……」
僕が一歩前に出たとき、鋭い声が飛んできた。
「そこの二人! 止まれ!」
重い足音が近づいてきた。
金属の鳴る音。装飾の多い杖を地面に突く音。高い靴の硬い足音。
「ここは王立魔術師団第四分隊が封鎖している区域だ。一般人の立ち入りは禁止されている。さっさと引き返せ」
低い声。偉い人の声だ。
声の高さと話し方で大体分かる。自分が正しいと疑ったことのない人の声。
「すみません、僕たちこの先に——」
「聞こえなかったか? 立ち入り禁止だと言っている」
遮られた。
「お前は——」
声が、一瞬止まった。
僕の顔を見ているんだと思う。閉じた目と、白い髪と、ボロボロのローブ。
「なんだ、盲目の浮浪者か。杖も持っていない。触媒すらない。……おい、そっちの女。このガキの保護者か?」
シオンが何も答えなかった。
答えない代わりに、僕の腕を掴む指が氷のように冷たくなった。
怒っている。すごく怒っている。
シオンの体温が下がるのは、本気で怒ったときだけだ。
「シオン」
僕は小声で呼んだ。
「大丈夫ですよ」
「…………」
シオンは何も言わなかった。
でも指の力が少しだけ緩んだ。少しだけ。
男は続けた。
「見ての通り、ここは素人が来ていい場所じゃない。蒼滝の特異点は王立魔術院が正式に調査・修復を担当している。触媒も持たない素人が首を突っ込むな。巻き込まれて死んでも、我々は面倒を見んぞ」
触媒。杖のことだろう。
この人たちにとって、杖を持たない魔術師は魔術師ではないらしい。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
世界の常識と自分たちの常識が離れていると、お互いに理解しあえないもんですね。




