第1話:目が見えなくても、僕の日常は変わらずに進んでいく
序章あらすじ
世界と仲間を救った少年は、のんびりと「世界を繕う」旅に出る。
魔王との決戦、その最奥。世界を崩壊から救ったのは、一人の少年だった。 代償は、自らの瞳と、世界中の人々からの「記憶」。
平和になった世界には、もう彼の居場所はない。
だけどノアは穏やかな笑顔で旅を続ける。
各地で起きている「理のほつれ」を、こっそりと調律するために。
これは、世界から忘れ去られた最強の少年が、 ツンデレで献身的な精霊と共に、 世界を愛おしそうに撫でて回る、優しくて少し切ない調律の旅の物語。
石につまずいた。
右足の先に、ごつっと硬い石。
あ、と思う間もなく、僕の身体は前のめりに傾く。
けれど地面が迫るより速く、左腕が力強く上へ引き上げられた。
シオンの手だ。
細いのに、僕の全体重を軽々と受け止める、いつもの頼もしい手。
目の見えない僕を何かと世話してくれる、星空のような雰囲気の精霊のお姉さん。
「ノア。だから、そこに石が突き出してるって言ったでしょう」
「あ……すみません。なんだか、今日の僕なら石に躓かないような気がして……」
「根拠のない自信ほどあてにならないものはないわ。ノアがクッキーに夢中で、足が上がってないだけでしょう。……ほら、またこぼしてる」
シオンの声が頭の上から降ってくる。
怒ってる。
いつも通り怒ってる。
でも僕の肩を支え直す手は、さっきと同じように丁寧で、そこだけは全然怒ってなかった。
暖かい午後だった。
肌に当たる柔らかな空気の温度が、昔見た陽光の心地よさを僕に教えてくれる。
土の匂いがする。さっき雨が降ったからだ。
草の匂いも混ざっていて、どこかで鳥が鳴いている。
たぶん二羽。高い声の方がちょっと遠い。
風が左から吹いていて、土埃と一緒に花の匂いも運んできている。
眼は見えない。あの頃から。
だから今、世界は僕にとっては匂いと音と手触りでできている。
シオンの手の温度。足裏から伝わる地面の硬さ。
ローブの裾が草を擦る、しゃりしゃりという乾いた音。空気の湿り気。風の向き。
それだけで、だいたいのことは分かる。
だいたいは。
「……ほら、また。こぼしてる」
シオンの声が呆れた色に変わった。
僕の胸元を指先でぱっぱと払ってくれる感触がある。
ああ、クッキーだ。
「だって、これすごく美味しいんですよ。お砂糖がこう、きゅるきゅるって溶けて——」
「きゅるきゅる。……食べるか歩くかどっちかにしなさい。器用なことできる身体じゃないでしょう」
昨日の街で買った星屑のクッキー。
お砂糖を細い糸に伸ばして星の形に固めたやつで、舌の上で溶けるときに甘い音がする。
音、というのも変だけど、僕にとって味は音に近い。
目が見えなくなってから、他の感覚が少しだけ混ざるようになった。
甘いものは高くて柔らかい音がする。
苦いものは低くてざらざらした音。
酸っぱいものは金属を弾いたみたいな鋭い音。
このクッキーは、リンって鈴みたいな味がした。
お店のおじさんが「星の形をしてるんだよ」と教えてくれた通り、舌で触れると律儀に五つの角があった。
そう、星はこの形だ。
昔、見上げていた本物の星たちも、理の糸が収束するとこの形で夜空に縫い付けられていたっけ。
「ノア、聞いてるの?」
「はい?」
「……聞いてない顔ね」
シオンがため息をついた。
大きな、深い、呆れを山盛りにしたため息。
でも僕はこのため息が嫌いじゃない。
ため息のあとのシオンは、だいたい優しくなるから。
案の定、シオンは僕の腕をぐいと引き寄せ抱きしめた。
頬のあたりが大きくて柔らかいものに押しつけられて、ふわりと沈み込む。
温かくて、弾力があって、心臓の音が少し聞こえるくらい近い。
とくん、とくん。一定のリズムで穏やかに鳴っている。
なんだかすごく安心する場所だった。
鼻の先を、あの匂いがかすめる。
冷たい。でも温かい。矛盾しているけど、そうとしか言えない。
昔、まだ目が見えていた頃に眺めた冬の星空に似ている気がする。
理の糸が光る夜空を見上げて、綺麗だなあ、と思った。
今はもう光は見えないけれど、シオンの匂いを嗅ぐたびに、あの夜のことをぼんやりと思い出す。
——ふと、胸の奥がほんのちょっとだけ、きゅっとなった。
昔のことを思い出すと、ときどきこうなる。懐かしいから、かな。
「——ノア。何をにやにやしてるの。気持ち悪い」
「えっ、にやにやしてました?」
「してたわ。すごく気持ち悪い顔で」
「ひどいですねぇ……」
僕は見えないけど。たぶん今、ちょっと笑ってたんだと思う。
「シオンは今日もいい匂いがしますねぇ」
「……何よ突然」
「星空みたいな匂いです。冷たくて、でも温かい。昔見た冬の空みたいな」
「意味が分からないわ。さっさと歩きなさい」
シオンの声が少し上擦った。
こうなるとだいたい、僕には見えない部分で何か可愛いことが起きている。
前に立ち寄った町で、露店のおばちゃんが僕の耳元にこっそり囁いてくれたことがある。
「あんたの連れ、真っ赤になってたよ。りんごみたいに」と。
嬉しかったのでシオンに教えたら「そんな事実はないわ」と道端の石ころを蹴り飛ばした。
あの石、かなり遠くまで飛んでいった音がしたから、たぶん嘘だと思う。
すれ違う人たちの足音が、ときどき不自然に遅くなる。
立ち止まっている人もいる。
振り向いている気配。
ひそひそ話す声。
「——ねぇ、見て。あの人……」
「すごい。あんな綺麗な人、見たことない」
「でもあの子、目が……」
「なんであんな女の人が、あの男の子と……」
そういう声がちらほら聞こえる。
シオンのことを言ってるんだろうな、とは思う。
でも何が「すごい」のかは、僕にはよく分からない。
シオンは匂いも声も手も温かいから、きっといい人に見えるんだと思う。
いい人だし。怒りっぽくて口が悪いけど、根っこのところは誰よりも優しい。
そういうのは、見た目に出るものだから。
「……じろじろ見てんじゃないわよ」
シオンが低い声で呟いた。僕に向けた声じゃない。周りの人たちに向けた声。でも声量は僕にしか聞こえないくらい小さくて、結局は独り言みたいなものだった。
僕の腕を掴む力が、ほんの少しだけ強くなった。守るように。隠すように。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ノア→身長160cm 白髪で常に目を瞑っている
シオン→身長185cm 綺麗な黒髪長髪
シオンとの出会いの話は大事な部分なのでしっかりとタイミングを見て書いていきます。
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