序章3:僕が世界からも仲間からも忘れられた日
見つけてくださりありがとうございます。
もし自分が大切な何かを失って仲間をすくえるとしたら、何を差し出しますか?
「…………」
観測者の三日月型の口が、小さく震えた。
「……ぷっ」
こらえきれなかった。
「……アハハ」
肩が揺れる。
「アハハハハハハハ!!」
崩れた。
「ギャーッハッハッハッハッ!!」
世界の観測者が、腹を抱えて笑い転げていた。
真っ白な空間が震え、織機の糸がびりびりと共鳴し、天秤がガタガタと揺れる。理の深淵が丸ごとひっくり返りそうなほどの大爆笑が、どこまでも、どこまでも反響していった。
「傑作だ! なんだお前! 壊れてるのか!?」
涙すら滲ませながら、観測者が叫ぶ。
「自分が何を差し出したか分かっているのか!? 自分の眼の価値も知らないのか!!?」
ノアはきょとんとして、少し考えてから答えた。
「眼の価値、ですか。……うーん、特に考えたことはないですねぇ。生まれた時から付いていたものですし」
「付いていたものですしィ!?」
観測者が悲鳴のような笑い声を上げる。
「お前の眼はなァ!! 星の理を直接視る『神の眼』だぞ!!? この世界が生まれてから死ぬまでの間に、片手で数えるほどしか現れない至宝中の至宝だ!! それを!! たかが人間三匹の命と等価だと!!?」
「たかが、なんかじゃないですよ」
ノアが、珍しく少しだけ語気を強めた。
と言っても、普段の穏やかな声がほんの僅かに芯を帯びたくらいのもので、怒鳴り声とは程遠い。
「ルークは、僕を外の世界に連れ出してくれた人です。ガルドさんは、いつも美味しいご飯を作ってくれました。セシリアは、僕が寝ぼけて崖から落ちそうになった時に泣きながら怒ってくれました」
ノアは指折り数えるように、大切な記憶をひとつずつ取り出しては並べていった。
「あの人たちと過ごした六年間は、僕が生まれてから一番幸せな時間でした。それが続くなら、僕の眼くらい安いものですよ」
ケラケラと、照れくさそうに笑う。
「……おい」
観測者の笑い声が、ふっと止まった。三日月の口が、何とも言えない形に歪んでいる。
「お前さ、もしかして」
「はい?」
「忘れ去られるってことの意味、本当に分かってるか? お前が命を懸けて守ったその三人は、お前のことを一切合切忘れるんだぞ。それどころか、世界がお前を忘れる。名前も、顔も、一緒に飯を食ったことも、一緒に旅をしたことも。お前という人間がこの世に存在したという事実ごと、綺麗さっぱり消えてなくなる。――お前がどれだけ彼らを大切に思っていても、彼らはお前を一生思い出さない」
観測者の声には、もう嘲りの色はなかった。ただ純粋な興味と、それと――ほんの微かに、何かを確かめるような響きがあった。
ノアは、しばらく黙っていた。
光の河が静かに流れる音だけが、白い空間を満たしている。
「…………はい」
少年は頷いた。
「それは、少しだけ、寂しいですね」
その声は、穏やかだった。
悲しみがないわけではない。
目尻がほんの少しだけ下がって、唇の端がかすかに震えていた。
けれどノアは、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「でも、みんなが生きていてくれるなら、それでいいんです。僕のことを覚えていなくても、みんなが笑ってくれるなら。ルークがまた誰かの前で格好つけて、ガルドさんが焚き火の前で歌って、セシリアが難しい顔で本を読んでいてくれるなら」
ノアの眼が、遠くを見る。
見えるはずのない仲間たちの姿を、この至高の瞳で最後に探すように。
「それだけで、十分です」
白い空間に、沈黙が降りた。
観測者は、もう笑っていなかった。
「……いいだろう」
低い声が、空間を震わせた。
「お前のその狂った自己犠牲、この世界の観測者が『莫大な代償』として確かに取り立てたぞ」
背後の織機が唸りを上げた。天秤の片方の皿が、重く軋みながら沈んでいく。取引が、成立しようとしている。
「――持っていけ。お前が望んだ『誰も欠けない結果』を」
空間が、裂けた。
白い世界にひびが走り、その裂け目から無数の黒い糸が噴き出した。漆黒の糸はノアの身体に絡みつき、這い上がり、蜘蛛の巣のように顔を覆っていく。
「ぁ――」
ノアの瞳が、最後に世界を見る。
理の糸の大河。
宝石のように煌めく光の粒子。
世界の裏側に隠された、息を呑むような美しさ。
その一つ一つを、まるで古い友人に別れを告げるように、眼の奥に焼き付ける。
綺麗だったなあ、と思った。
黒い糸がノアの眼を覆った瞬間、視界が暗転。
光の河が消えた。
宝石の粒子が消えた。
世界を織り成す理の糸の美しい綾模様が。
六年間、この眼で見てきたすべての景色が。
ルークの笑顔が。
ガルドの大きな背中が。
セシリアの怒ったような、泣きそうな顔が。
何もかもが、闇に呑まれた。
ノアの世界から、光が消えた。
真っ暗だった。
何も聞こえない。
何も見えない。
指先の感覚さえ遠くなっていく。
自分がまだ存在しているのかどうかすら、分からなくなっていく。
世界が、ノアという少年を忘れ始めていた。
記憶の断片が、砂のように崩れていく。
戦場のどこかで、ルークの脳裏から「四人目の仲間」の輪郭がぼやけている。
ガルドの記憶の中で、焚き火を囲む四つ目の影が薄れている。
セシリアの日記から、一人分の名前が消えていく。
何もかもが、初めから無かったことになっていく。
闇の底で、ノアは微笑んだ。
もう見えない眼を細めて、もう届かない声で呟いた。
「ルーク、ガルドさん、セシリア。――またどこかで、会いましょうねぇ」
その言葉は、誰にも届かなかった。
理の深淵に、静寂が戻る。
天秤は釣り合い、織機は何事もなかったかのように回り始めていた。
取引は完了した。
世界のルールは書き換えられ、三人の英雄は「無傷で魔王を討伐した」という新しい事実の中で目を覚ますだろう。
四人目のことなど、誰も覚えていない。
黒いシルエットは、再び織機の前に腰を下ろしていた。
頬杖をつき、足を組んで。
その三日月の口は、もう笑ってはいなかった。
「せいぜい一人で、その暗闇の旅を楽しむんだな。狂った紡ぎ手よ」
吐き捨てるように言って、観測者は視線を逸らす。
少年が落ちていった闇の底を、一瞬だけ見下ろして。
誰にも聞こえない声で、呟いた。
「――全く。神に愛されたクソガキめ」
白い空間が、静かに閉じていく。
世界が、再び動き出す。
どこかの戦場で、金髪の少年ルークが目を覚ました。
傷ひとつない身体で。
仲間が二人、傍にいた。三人は、勝っていた。
完璧な勝利だった。
なのに。
ルークは、自分が握りしめた剣を見下ろしながら、長い間動けなかった。
何かを忘れている。
何か、とても大切なものを。
左手が、無意識に、誰もいない空間へ伸ばされていた。
肩を組むくらいの高さに。
すぐ隣にいるはずの、誰かに触れようとするように。
指先は、何にも触れなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
観測者が大爆笑してましたね。
けど神に愛されたクソガキは嫌いなようです。
次の本編からは、のんびりとノアの旅が始まります。
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