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『忘却の調律師――視力と存在をささげた少年は、のんびりと世界の綻びを治してまわる』  作者: ミロク
序章:世界はまだ僕を覚えている

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序章2:理の観測者は頭がおかしい

見つけてくださりありがとうございます。

頭のおかしい観測者登場。

光の河が渦を巻くその先。


 無数の糸が最も太く、最も古く、最も重い結び目を形成しているその場所に――巨大な影が、座っている。


 それは、織機だ。


 いや、織機のような形をした何か、と言うべきか。


 天井のない空間を覆い尽くすほど巨大な構造物が、理の糸を一本残らず束ね、織り、紡いでいる。


 世界のすべてのルールが、ここから生まれ、ここへ還っている。


 その前に。


 真っ黒なシルエットが、ひとつ。


 足を組み、頬杖をつき、退屈そうに。


 まるで芝居の幕が上がるのをうんざりしながら待つ観客のように、それはそこに在った。


 顔の造作は見えない。


 輪郭すら定かではない。


 ただ一つだけ、三日月を横倒しにしたような真っ白な口が、暗闇の中にニィッと浮かんでいる。


 ノアは数秒ほどそれを眺め、こてん、と首を傾けた。


「ええと、あなたは?」


 黒いシルエットが、ぴくりと動いた。


 頬杖をついていた腕が下ろされ、三日月型の口がゆっくりと開く。


「――私はね」


 声は、どこからともなく響いた。


 空間そのものが喋っているような、腹の底まで振動する低音。


「お前たち人間が『神』と呼んで祈るものの正体さ」


 シルエットが、立ち上がる。


 いや、立ち上がったように見えただけかもしれない。


 大きさが変わった。


 先ほどまでノアと同じくらいだった影が、一瞬で天を突くほどの巨躯に膨れ上がり、背後の織機と一体化するように広がった。


「すべてのことわりを束ねる『巨大な織機』。お前たちの運命を紡ぎ、お前たちから絶望を取り立てる――『世界の観測者』だ」


「かんそくしゃ……。やっと、見つけた」


 誰にも聞こえない、吐息のような掠れた声で、少年はポツリとこぼす。


 特に怯えた様子もなく、どこか懐かしいものを見つめるような表情で、小さく頷いている。


 観測者の口が、わずかに引き攣った。


 次の瞬間――黒い影が消え。


 ノアが瞬きをする間もなく、真っ黒なシルエットは突然目の前に現れる。


 鼻先が触れるほどの距離。ノアの瞳の中に、三日月の口だけが映り込んでいる。


「ようこそ、理の深淵へ」


 不気味な笑みが、ノアの顔を覗き込む。


「さあ、矮小なる紡ぎ手よ。こんな場所に迷い込んで、私に何を乞う? どんな身の程知らずな『奇跡』を望む?」


 嫌悪と愉悦がないまぜになった声。


 数え切れない人間たちの絶望を啜ってきた存在の、品定めをするような視線。


 ノアは、その視線をまっすぐに受け止めたまま、困ったように眉を下げた。


「あ、はい。お願いがあるんですが」


 まるで道端で誰かに道を訊くみたいな気安さで、ノアは言った。


「ルークたちが死んでしまうこの運命、なかったことにできませんか?」


 一拍の間。


 観測者の口から声が漏れるまでに、ほんの僅かな沈黙があった。ノアはそれに気づかない。


「……ハッ!」


 嘲笑が、空間を揺らした。


「なかったことに? 『なかったことに』だと!?」


 黒いシルエットがノアから離れ、大仰に両手を広げる。


 真っ白な空間にひびが走るような轟音が響き、織機の糸が一斉にびりびりと震えた。


「死という絶対のルールを裏返そうなどと、どれほど傲慢なことを言っているか分かっているのか!」


 三日月の口が裂けるように広がり、哄笑が弾ける。


 愉悦に満ちた声だった。


「だがいいだろう!」


 観測者が指を鳴らすと、背後の巨大な織機がゆっくりと動き始める。


 無数の糸が震え、軋み、天秤のような構造が空中にせり出してくる。


 左右の皿が、空虚な音を立てて揺れていた。


「この織機は『釣り合いの天秤』で出来ている。何かを得たければ、同等のものを差し出さねばならない。――三人分の命を買い戻す代償、想像がつくか?」


 観測者が腕を振ると、ノアの周囲に文字のような光の紋様が浮かび上がった。


 取引の条件。代償の目録。


「さあ、見せてみろ! お前の絶望を!」


 黒い影が、芝居がかった大仰な仕草でノアを指さす。


「お前という存在が世界から『完全に忘れ去られる』という恐怖を!」


 ノアの周囲の空間が歪み、彼の「存在」を構成する糸が一本一本、天秤の上に載せられていく。


 名前。顔。声。思い出。誰かに呼ばれたこと。誰かと笑ったこと。それらすべてが、ひとつ残らず。


「お前の『両目の光』を担保として永遠に奪われる代償を前に、泣き叫んで――」


「あ、それだけでいいんですか?」


 観測者の声が止まる。


 白い空間の空気が、ぴたりと凍りつく。


「………………は?」


 三日月の口から笑みが消えていた。


 口が弧を描くのではなく、まっすぐな一文字に硬直している。


 ノアは、きょとんとした顔で観測者を見上げていた。


「はい、僕の『存在の記録』と『目』が担保で足りるなら、それでお願いします」


 さらりと、言った。


 明日の朝食を決めるみたいに。


 宿屋の主人に部屋代を払うみたいに。


「ルークやガルドさん、セシリアが無事なら、僕のことは誰も覚えていなくていいので」


 少年の声に、震えはない。


 逡巡もなかった。


 歯を食いしばって絞り出した覚悟の言葉でもない。


 ただ当たり前の事実を確認しているような、穏やかな声。


「あ、痛いのはちょっと嫌なので、できれば優しく取ってくださいねぇ」


 困ったように笑って、ノアは頬を掻く。


 沈黙が落ちた。


 これまで幾万、幾億の人間の絶望を取り立ててきた世界の観測者は、初めて言葉を失っている。


 目の前の少年を見下ろす。


 白い髪、ボロボロのローブ、左腕に伝う乾きかけた血。


 線の細い、風が吹けば飛んでいきそうなほど頼りない身体。


 その身体で、今、世界のルールそのものをひっくり返そうとしている。


 なのに。


 その顔に浮かんでいるのは、ぽわぽわとした、底抜けに呑気な笑顔だった。


 絶望が、ない。


 恐怖が、ない。


 悲壮感が、欠片も、ない。


 この少年は、自分が何を差し出そうとしているのか、理解していないのか?


 ――いや、違う。


 観測者は、少年の瞳を覗き込んだ。


 神の眼。


 世界で最も美しく、最も正確に、万物の真実を捉えることができる至高の双眸。


 あの眼は、今この瞬間も、世界を構成するすべての糸を一本残らず見通している。


 つまり、この少年は完全に理解している。


 自分が何を失うのか。


 この眼を手放した後、どれほどの暗闇が待っているのか。


 世界中の誰からも忘れ去られる孤独が、どれほど深いのか。


 すべて分かった上で、あの顔をしている。



最後まで読んでいただきありがとうございます。


頭のおかしいぶっ飛んだ観測者のようなキャラ好きなんですよね。

ノアも別のベクトルで頭おかしいですが


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