2 当たり前の暮らし
次に美佐子が目を覚ましたのは、昼を回った頃だった。カーテンを開けると、まぶしい光が差し込んで来る。いい天気だ。昨夜は気づかなかったが、部屋の窓から海が見える。美佐子は窓を開けて、大きく息を吸い込んだ。
「ああ、久しぶりの海だ」
昨夜その海に向かっていったことなどすっかり忘れて、そんな言葉が飛び出した。その時、ふいに以前にもこんな風に潮の香を楽しんだことを思い出した。
その時は、誰かと一緒に旅行に来ていた。宿泊先のベランダに出ると、青い海が見え、心地よい潮風が渡っていた。これからこの土地を存分に楽しむのだと胸をワクワクさせていた。それなのに…。と、そこで美佐子の思考は止まってしまった。その後、どうしたのだったか、どうにも思い出せないのだ。それ以上思い出そうとすると、頭にズキっと痛みが走る。
「ふぅ、もう少しなのに」
その時、タイミングよく美佐子のお腹がきゅるると鳴った。美佐子は、残してあったカップ麺にお湯を注ぎ、テレビをつけた。画面に現れるのは、見たこともないタレントばかりだ。その内容も、随分と雰囲気が違う。そして、次の瞬間、美佐子はラーメンが伸びるのも忘れて画面に見入ってしまった。
「いよいよやってきました2025年大阪万博!すごい人ですねぇ」
「え? 2025年って、どういうこと?」
体の奥からぞわぞわと悪寒が這い上がってくる。住所がなくなっているとか、生年月日がおかしいとか、腑に落ちないことが多かったけれど、今年が2025年だというなら、すべてが腑に落ちる。ああ、そう言えば、あの佐伯という人も話していた。このアパートはもうだいぶ古いから、設備は昭和のままだとか。使い込まれたガス台やテレビのリモコンも抵抗なく使えていたけど。これは、そう言うことだったのか。
なんとか気持ちを落ち着かせたくて、美佐子は朝食もそこそこに、掃除を始めた。まだ少しふらつくが、身体を動かしていた方がきっと気持ちは楽になる。箒、ちりとり、雑巾とバケツ。どれも馴染みのあるものばかりだ。ここに住まわせてもらえた事は、ラッキーな事だったんだと雑巾を絞る手に力を込めた。
布団を干して一息ついていると、電話が鳴った。もちろん黒電話だ。躊躇いながらも出て見ると、佐伯の心配そうな声が聞こえた。
「月ヶ瀬さん、大丈夫かい? 古臭い道具ばかりで困ってないか?」
「いいえ、私にはちょうど良い環境です。ありがとうございます」
それを聞いて、ほっと息を吐く気配がした。
「そうか、それなら良かった。店の方は夕方には一段落するから、その頃そっちに行くから、準備しておいてくれ。あ、いらっしゃーい…」
客が来たのか、そのまま電話は切れてしまった。準備と言われても服は昨夜のおかしな服装だけだ。他には何もない。途方に暮れていると、突然玄関のドアが開いて、誰かが入ってきた。
「あの…」
「あらまぁ! 部屋を間違えたのかしら。でも、そんなはずないわね。鍵を開けて入ったんだもの…じゃあ、貴方はどなた?」
我が物顔で入ってきたのは、年配の女性だ。それでも、しゃれた帽子や上品な服装でセンスの良さが伺える。
「私は、ここに居候させていただいている月ヶ瀬美佐子と申します。あの、もしかして、佐伯さんのお母様ですか?」
「ええ…。あ!あらあら、そうなの? それならそうと言ってくれればいいのに。あのぼんくらにもやっと春が巡ってきたのね」
「ええ? あの、そうではなくて…」
まぁ、立ち話もなんだから、と佐伯の母はさっさと上がり込み、慣れた手つきでお茶を淹れる。奇妙な二人は、それまでの話を擦り合わせ、なんとはなしに気心のしれた間柄になった。
「ねえ、私の服で良かったら、使ってちょうだい。まだタンスに残ってたと思うの」
そう言うと、奥の部屋から何着か服を取り出してきた。その中から美佐子が着られそうなものを選んで手渡した。
美佐子がそれに着替えると、今度は、近くのスーパーに買い物に出かけた。改めて街の様子を見て、驚くばかりの美佐子だ。碧はそんな美佐子を見るのが楽しくて仕方がない。
日が暮れて、佐伯がやってきた。
「月ヶ瀬さん、準備は出来てるかい?」
「ほらほら、うちのぼんくらが来たよ」
「うわ、おふくろ! なんでこんなところにいるんだよ」
のけぞって驚く佐伯にどうだと胸を張る佐伯の母だった。
「ちょっとでも片づけを手伝おうと思って来てみたら、こんな若い子がいるんだもの、びっくりしたわ。じゃ、晩御飯、一緒に食べるでしょ?」
これから店に連れて行くと聞いて、佐伯の母は少し残念そうに帰っていった。
「すまん。うちのおふくろってホントにおせっかいで」
苦笑いする佐伯を見ながら、なんだか懐かしさを感じる人だったと思いをはせる美佐子だった。
海沿いの道路を少し行くと、小さいながらこじゃれたカフェが見えて来た。
「あれがうちの店なんだ。まぁ、状況が落ち着くまでここで働いてくれたら、うちも助かるよ。警察の方でも、身元を調べてくれているらしいから」
「あの、今朝、テレビをつけたら、2025年だって…」
「え? ああ、そうだけど。どうかしたか?」
当たり前のことを聞かれた様にきょとんとする佐伯に、次の言葉が口に出せずに飲みこんだ。今朝、鏡の前で見た自分は、まだ20代のまま。まさかタイムスリップしたということなのか。そんなことが頭によぎり、非現実的だと恥ずかしくなった。
佐伯は車を停めて、さっさと店の中へと入っていく。
「こっちだ。ここがフロア。奥が厨房になってるんだ。月ヶ瀬さんには、フロアを担当してもらいたいんだ。まあ、趣味でやってる店だから、気楽にやってくれ」
一通り店内を見て回った美佐子は、レジスターの前で足を止めた。
「あの、これはなんですか?」
「ああ、それは電子マネー用のリーダーだ。あれ? 使ったことないの?」
聞いたこともない言葉に、絶句してしまう。使わない人間もまだまだいるからな。などと言いながら、佐伯が説明をするのを、真剣に聞きながらも、美佐子の中では、タイムスリップの文字が頭をもたげ、不安が押し寄せる。
―今は、これに集中しなくちゃ。―
バイトは美佐子の体調を考えて、三日後から始まった。悲壮な思いで始めた美佐子だが、動きだすと思いのほかスムーズにはかどった。学生時代のバイト経験が生きている。てきぱきと客をあしらう様子を見て、佐伯も一安心のようだった。一月もすれば、ランチタイム以外は美佐子に任せて、佐伯は店舗の二階でなにやら作業をしているようだった。
時間は少し遡って、あの雷雨の夜が明けた神社では、大きな騒ぎが起こっていた。
「なんてことだ。まさか雷がこんなところに落ちるなんて」
「禰宜様、大変です。宝物庫が!」
無残に崩れた宝物庫は、中の様子が丸見えになっていた。そして、神社で預かっていた棺が床に崩れ落ち蓋が外れているのに気が付いた。
「これは…」
禰宜が言葉を失くすのも無理はない。とある探検家から預かっていた棺の中がからっぽになっていたのだから。慌てて社務所に戻ると、かの探検家の連絡先を見つけ出した。しかし、電話の向こうは事務所になっていたようで、事務員の不愛想な返事で、探検家は今、海外に出かけていると知った。
「仕方がない。現状を詳細にまとめて手紙を送っておくとするか。それにしても…」
禰宜は再び宝物庫に目をやった。何度見ても箱の中は空だ。ここに運ばれた時は、確かに若い女性の蝋人形が眠っていたはずだった。
「あの雷雨の中、雷がどこに落ちるかも分からないのに、蝋人形を盗み出すような者がいるのか? それとも…。まさかなぁ」
禰宜こと庄司栄は、探検家と出会った夜の事を思い出していた。もう二十年以上前の事だ。同窓会があって、珍しく酒が進んだ。同じクラスだったがあまり交流の無かった石田に声を掛けられたのだ。
「庄司んとこって、神社だったか? お前もそこを継ぐのか?」
「ああ、そうだな」
石田は学生時代から自由奔放な男で、大学を出ても就職せずに世界中を旅してまわっていた。生まれたときから未来に自由の無い自分とは大違いだと、悔しくもあり、憧れてもいたのだ。そんな男から声を掛けられて、少し舞い上がっていたんだろう。
「ちょっと頼みたいことがあるんだ」
石田の言葉に後先考えずに首を縦に振ってしまった。その頼みごとが、この棺桶のような木箱に入った蝋人形を保管することだったのだ。神社まで大きな車で乗り付けて、一緒にこの宝物庫に収納した。それから1年程した頃に、一度だけ様子を見に来たっきり、石田がここに来ることはなかった。それを、どこで手に入れたのか、実際それは何なのか、問いただすたびにうまいことはぐらかされて、聞けないままになっていた。
「そういえば、ソロモーニア諸島の離れ小島だとか言ってたが、火山帯の調査に同行しているんだろうか」
いつ帰って来るかも分からない石田の行動にため息が出た。
つづく
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