11 老いを受け入れて
最終回です。
ここまでお付き合い、ありがとうございました。
「昨日の夜、美佐ちゃんちに寄った後で、長次郎と二人で三枝さんの家に向かったんだ。そうしたら、海斗とはあっさり話が付いて、ほっとしているんだと言われたよ。もちろん麗子には渡すつもりもないと断言してくれたんだ。それで、入れ違いになったのかと思って帰ったんだ。ちゃんと話を聞こうと思って今朝アパートに行ったら、アイツまだ帰ってなかっただろ? これはおかしいと思って、三枝さんに麗子のことを問いただそうとして向かっていたら、こいつのケータイに妙な電話がかかってきたんだ」
「そうなんだよ。電話は海斗からのはずなのに、誰も返事をしなくて、しばらく聞いてたら、三枝さんの念書を出せってすごい剣幕の麗子の声が聞こえてな。いうことを聞かないと後悔することになるとか言い出して。なんだか様子がおかしかったから、すぐ警察に行ったんだよ。それで警察が麗子の自宅を家宅捜索して縛り上げられてた海斗を救助したって訳だ。ただ、麗子はその時家に居なかったんだよな」
「そんなことが…」
まるで刑事ドラマのような展開に、美佐子は言葉がなかった。病院に着くと、すぐに病室に案内された。山田がドアをノックして、そっと部屋の中を覗き込んだ。
「海斗、大丈夫か?」
「ああ、長次郎! 頼む! 美佐の様子を見てきてくれないか!」
「そう言うだろうと思って、お前の特効薬をつれてきたぞ」
にやっと笑って三好が言うと、衝立の外で待っていた美佐子の背中を押した。
「海斗さん、大丈夫ですか?」
「美佐! なにもされていないか? 大丈夫なのか?」
言うが早いか、佐伯はベッドから飛び起きて、美佐子を抱き締めた。三好と山田はそっと部屋を出る。
「無事でよかった…。あいつは、麗子は明らかにお前を追い出すつもりだった。」
美佐子は佐伯の腕の中で頷いた。
「昨日の夜、アパートまで来ていろいろまくし立てていたけど、平気です。だって、あの人の言う海斗さんは、本当の海斗さんと全然違うんだもの」
思ったより落ち着いている美佐子に、佐伯はほっと胸をなでおろしていた。その時、慌てた様子で山田が部屋に入ってきた。
「おい、やばいぞ。海斗のおふくろさんのアパートが火事だ!」
「どういうことだよ」
そこで山田が言うには、昨日の夜、碧のアパートの近くをうろつく麗子を山田の女房が見かけたというのだ。麗子の所業は商店街では周知の事実で、嫌な予感がした山田の女房は、美佐子が出勤した後に部屋が荒らされたりしていないかと様子を見に行ったそうだ。すると、碧の部屋の玄関あたりから、火が出ているのに気が付いて、すぐに消防に連絡したというのだ。
「今、うちのかみさんが現場検証に立ち合ってるらしい。まぁ、みんな仕事に出ていてけが人はいなかったみたいだな」
「私、すぐに向かいます」
「そうだな。俺も、手続きが終わったら退院できると聞いている。退院許可が出たらすぐに向かうよ。美佐、頼んだ。でも、気をつけろよ」
「はい」
三好と山田は一旦美佐子を乗せて商店街へと帰って行った。
アパートは無残にも全焼で、すべてが焼け落ちていた。山田の女房、環が駆け付けた美佐子をぎゅっと抱きしめた。
「美佐ちゃん、無事でよかった。さっき、警察も来てたんだよ。どうやら放火らしいって」
「放火?」
まさか…。美佐子の脳裏に高飛車な女の顔が浮かんだが、根拠のない事は言えない。それに、そんなことよりも、美佐子には碧との暖かい暮らしの痕跡がなくなってしまったことが悲しかった。
まだ焦げた匂いが立ち上る現場を確認していた消防隊員が、美佐子に事情を聴きたいと駆け寄ってきた。隊員からもアパートは老朽化が進んでいて火の回りは早かったが、住民がみな仕事に出ていて留守だったのが幸いだったと聞かされ、ほっと胸をなでおろした。
「おい、寿司源さんに配達行くから、店頼んだぞ」
山田が店先で声をかけている。環は「あいよ」と返事しながらも、美佐子に佐伯が来るまでうちの店で待ってたらどうかと誘っていたが、美佐子は丁重に断った。
「お、海斗から連絡来たぞ。もうこっちに向かってるそうだ。じゃあ、俺も仕事に戻るわ。美佐ちゃん、気落ちするなよ」
「ありがとうございます」
美佐子は、周りの人々に深々と頭を下げた。そして、真っ黒に焼け焦げたアパートに歩み寄って、ここで暮らし始めた頃の事を思い出していた。世の中の全てから取り残されたように感じていたあの日、この部屋の暮らしには、自分が生きていていいんだと肯定されたような温かさがあった。碧が守ってきた昔ながらの丁寧な暮らしに、感謝の気持ちが溢れだす。
その時、不意にドンっと何かにぶつかって、街路樹の根元に倒れ込んだ。驚いて振り向いた先では、残っていた警察官が誰かを取り押さえているところだった。
「大丈夫か?」
不意に手を差し出されて見上げると、それは走ってきたのか息の上がった佐伯だった。
「危なかったな。あの男、確実に美佐を狙っていたぞ。知り合いか?」
美佐子を腕の中に引き上げ、両肩をしっかりとつかんだ佐伯が、悲壮な顔で無事を確かめる。その肩越しに、警官に捕まってもがいている井村の姿が見えた。
「はい、今朝、店にやってきた人で、井村さん…、私をルレ島に連れて行った人です」
「なんだって!」
途端に佐伯の目つきが変わった。射るように井村を睨みつけると、警察に連行される途中の井村は、悔しそうに叫んだ。
「俺の…俺の女だぞ! 横取りしやがって! おい、美佐。助けてくれ。ちょっと脅そうとしただけじゃないか」
懇願するように美佐子に訴えかける井村に、昔の様な研究者の影は見えなかった。そのままパトカーに放り込まれると、井村は懇願するような視線を美佐子に送り続けたまま連行されていった。
「大丈夫だ。俺が傍に居る」
固く握りしめていた手に大きな手が重なって、美佐子は自分がどれだけ緊張していたかを自覚した。パトカーや消防車が帰って行くと、ふうっと息を吐いて佐伯が言う。
「それにしても、すっかり焼け落ちてしまったなぁ。おふくろには見せられないな」
「そうね。それに、私だって…」
このアパートに世話になってまだ1年も経っていないが、失いたくない場所だったと美佐子は思う。
翌日からは、いつも通り店を開けた。佐伯の作業場を兼ねた住まいだった店の2階は、美佐子のとりあえずの住まいにちょうど良かった。次の定休日には、碧の見舞いの帰りに不動産屋を訪ねようと予定も立てている。
「よぉ、元気でやってるか?」
「あら、三好さん。その節はお世話になりました」
「はは、気にするな。海斗いるか?」
カウンターに座ってコーヒーを注文すると、三好は海斗を呼び出した。ほどなく階下に降りて来た佐伯に、三好は耳を寄せろと手招きする。
「どうしたんだよ」
「さっき、そこの交番で聞いたんだけどよ。あの放火犯、麗子に唆されたらしいぞ」
あの火事からすでに3日が経っていた。翌日には、監禁の件で事情聴取を受けていた麗子だったが、黙秘を続けていたという。ところが、井村がぽろりと、「派手は格好をした女に、美佐子の住むアパートを教えられた」と口走り、署内は騒然となった。
「これであの高慢ちきなお嬢様の騒動は落ち着くのかね」
「そうでないと困る」
それでもまだ納得がいかない様子の二人だったが、美佐子は自分の過去のモヤモヤと、やっと決別できるんだと思うと胸のつかえがとれた気分だった。あの頃、自分がしてきたたくさんの選択の中に、いくらでも別の道はあっただろうけれど、それでも精一杯生きて来たのだから、あとは前を向いて生きよう。そんな想いを噛み締めていた。
夜になって、店を片付けて二階に上がると、佐伯がめずらしく真面目な顔で美佐子をソファの向いに座らせた。
「念のため、聞いておきたいんだが、その…あの男に久しぶりに会って、どんな話をしたんだ?」
「そうね。すまなかったって言われたわ。私に謝りたいと思っていた。学会で柳瀬さんに会えて、ここのことを教えてもらったって言ってた。苦労しているなら、もう一度やり直さないかって」
佐伯は眉を寄せて唇をきゅっと引き締めた。
「私、気づいていたの。ヨレヨレのスーツに汚れてくたびれた革靴姿のあの人が、学会に出席しているはずはないって。生活が苦しくて、柳瀬さんにお金を借りようとしたんじゃないかと。そこで、私が生きていると知って今度はこちらに取りすがりに来たんでしょう。もう、何の未練もありません」
「そうか。嫌な思いをしたな。そんなときに傍に居られなくてすまない」
美佐子はそんな律儀な佐伯を愛おしく思った。
次の定休日には、再び碧の面会に向かった。着替え類は新しい物に買い替えたが、碧から何か言われることはなかった。今回も、先に美佐子が碧と面会した後、入れ違いに佐伯が部屋に入った。その間、美佐子は例の別室で懐かしい風景画を眺めていた。
「あの、失礼ですが。その絵がお気に召しましたか?」
不意に声を掛けられて声の主を見ると、60代後半の老人が5歳ぐらいの男の子を連れて入ってきた。身なりからして、どこかの重役か何かだろうか。
「ええ、とても懐かしい風景なんです」
そう言いながら再びその絵を見る横顔を見ていた老人が、ぼそりと呟いた。
「姉さん…?」
その聞きなれた言葉にもう一度振り向くと、目を見開いた老人が、懇願する様に見つめていた。
「え? もしかして、貴教?」
「おじいちゃん、お友だち?」
傍に居た男の子が不思議そうに老人に話しかけている。美佐子はその子の前にしゃがみ込んで微笑んだ。
「お友だちじゃなくて、お姉さんよ」
「姉さん、本当に姉さんだよな。…ど、どこに居たんだよ。みんな心配してたんだぞ」
美佐子は、これまでのことを簡単に語って聞かせた。ここでこの絵に出会えてうれしかったのだと伝えると、貴教は目に涙をためて頷いていた。
「とんでもない目に遭ってたんだな。だけど、それでも生きててくれて良かった」
「じいじ、どこか痛いの? はい、ハンカチ貸してあげる」
「ははは、律はやさしいな。でも、この涙は嬉し泣きの涙なんだ。大好きなお姉ちゃんに会えたからだよ」
それから、今の暮らしについても話をした。すると大人の話に入れない律がぐずりだした。
「今日は、孫とデートなんだ。また、連絡してもいいかい? 名刺、渡しておくよ」
「じゃあ、私の働いている店の番号も伝えておくね」
「姉さん、家は?」
「実は、つい最近火事でなくなっちゃって、今は店の二階に居候させてもらってるの」
「え? もしかして、それって、商店街のアパートのこと?」
美佐子がそうだと答えると、貴教は眉を下げてそうだったのかと笑った。
「あのアパートはうちの持ち物だよ。そっか、姉さんはちゃんとうちに帰ってたんだね」
ひとしきり笑って、美佐子はふと弟がゆとりのある暮らしをしているのだと感心した。
「しっかりやってるのね」
「え? まぁ、仕事はそれなりに頑張ったからね。今も技術指導を頼まれるんだ。それより、あのアパートなんだけど、あれはみんなで買った宝くじが当たって、それで建てたんだよ。覚えてる? みんなでお小遣い出し合って買っただろ?」
今度は美佐子が目を見開いて驚いた。
「あの辺りは三枝さんの土地だって…」
「ああ、そうそう。三枝さんは父さんの会社の取引先だったらしくて、安心して買い取れたそうだ。アパートを建てる時もいろいろ助けてもらったって言ってたな。前の家は都市計画で移動することになって、父さんたちは山手のマンションを買ったんだ。僕は独立したときに自分の家を建てたんだ。あ、姉さんの分は銀行に預けてあるよ」
そこへ、佐伯が戻ってきた。
「あれ、お知り合い?」
「海斗さん、こちらは私の弟の貴教よ。偶然こちらに寄ってくれたらしいの。貴教、こちらは今お世話になっている佐伯海斗さん」
「そうか、姉がお世話になっています」
「こちらこそ、いつも美佐子さんには助けてもらっています」
ぎこちない挨拶を交わすと、ふいに貴教が美佐子を見てにやりと笑った。
「姉さん、ちゃんと紹介しろよ。彼氏なんだろ?」
美佐子はあたふたしてそれから、嬉しそうに頷いた。
「さっきの話だけど、アパートにいた人は、別のアパートに移ってもらったんだ。佐伯さんだけ連絡が取れなくて困っていたんだよ。アパートは保険にも入っていたから、建て直しは全額保証だし、せっかくだから、姉さんたちの自宅にしちゃえばいいんじゃない? 父さんたちが生きていたら、きっとそう言うよ」
「もー! じいじ、律っちゃんと遊ぶ約束でしょ?」
とうとう律が怒りだしたので、貴教は二人に挨拶をして帰って行った。
「あのアパートって、もしかして?」
確認する様に佐伯が尋ねると、美佐子もとっても驚いたのだと答えた。
「業者さんが入っていたから気付かなかったんだけど、あのアパートのオーナーだったみたいなの。前に話していた宝くじが、本当に当たったんだって」
まさかの偶然に、二人はほっこりしながら帰路についた。
「よっこらしょっと」
美佐子は、店の前の掃除を終えて、腰を擦りながら海を眺めた。春らしい日差しが波の上でキラキラと跳ね回っている。今日も忙しくなりそうだ。最近は少し視力が落ちた様だとぼやいていると、佐伯が最近買ったという自慢の老眼鏡を差しだした。
「ちょっとかけてみな。良く見えるよ」
老眼鏡なんて、と言いつつかけて見ると、視界がすこぶるよい。目を見開いて見渡す美佐子を見て、佐伯がククっと笑う。
「次の休みは眼鏡屋行きに決まりだな」
「二人そろって老眼鏡だなんて、年老いたものね」
眉を下げる美佐子に、佐伯は、今度は爆笑した。
「おいおい、本当の年齢を忘れちゃダメだぞ。うちに来たときすでに72歳だったんだろ? あれから8年、本当なら80歳だ。充分若いよ」
それには満足げな笑みを浮かべて、美佐子はふと海を眺めた。この海のずっと向こう
に、途切れた過去が眠っているような気がする。自分の眠っている間に通り過ぎた時間を、今は、周りより早く速度で追い付こうとしている。最近は、きっと佐伯と同じぐらいの年齢か少し追い越した気もするのだ。
「先におばあちゃんになってしまうけど、不満はない?」
ちらっと佐伯を見上げて問うと、佐伯の腕が腰を引き寄せて憮然とした顔が目の前に現れる。
「何を言うかと思ったら! 普通に生きていたら、絶対に会えなかったんだぞ。若くて純粋な姿も魅力的だったが、俺の腕の中で大人へと成長する姿を見るのは感慨深いものがある。それに、おふくろを一緒に看取ってくれて、心強かった。俺の最高のパートナーだ」
遠いあの日ルレ島に行ったことを、ずっと後悔していた美佐子だったが、生きている今日を大切にしようと、顔を上げて、佐伯と朗らかに笑い合った。
おわり
最後までお付き合いくださってありがとうございました。




