1 はじまりは、雷雨の夜
今回はちょっと大人のおとぎ話です。
深夜の街に涼しい風が吹くと、あたりが振動するような雷鳴が近づいてきた。街を見下ろす山の上の神社は、突然夜空に浮かび上がるように照らされる。すると、境内にあった大きな杉の木が次の瞬間、雷に打たれて幹が割け、燃え始めた。火は近くにあった宝物庫に燃え移ったが、雷に続いてやってきた土砂降りの雨で、中途半端な焼け跡を残して鎮火した。そして雲は流れ、月が姿を表すと、無残な焼け跡が煌々と照らされていた。
辺りにしずくの垂れる音だけが聞こえるようになると、崩れかかった宝物庫の棚にあった木箱が、ガタンっと滑り落ちてそのはずみに蓋が外れた。雨のしずくは、その中にもするすると流れ落ちる。
「ん…」
雨粒が顔を濡らして目が覚めた美佐子は、体を起こそうとして全身の痛みに顔をゆがめた。体中がさび付いたように痛みを訴える。それでも、不安定な場所で寝ていたらしく、少し体を動かしただけで、するりと床にすべり落ちてしまった。
「…ここは、どこ?」
どうしてこんなところにいるのか、ここがどこなのか、まったく見当がつかない。どうやら長い間眠っていたらしいことは、関節の痛みで理解できた。周りを見渡すと、瓦礫の様に崩れかけた建物と、身体にまとわりつく濡れた空気。いったい、どういうことだろう。そう思った途端、急激なのどの渇きに襲われた
「み、水はないかしら」
ゆっくりと起き上がり、ふらつきながらも外に出ると、手水舎が目に留まった。すぐさまそこに駆け寄り、勢いよく水を流し込む。途中、むせ返って咳き込みながらも、思う存分水を飲むと身体の隅々まで潤っていくのが感じられた。一息ついて振り返ると、さっきまでいた建物が半壊状態で木箱がむき出しになっていた。
「え? 何、あれ。棺桶じゃない。私…、一体なにがどうなったっていうの?」
神社の軒下に腰を下ろし、それまでのいきさつを思い出そうとするが、うまくいかない。それどころか、お腹からは盛大な音がぎゅるるると鳴った。
「なにか、食べ物を買いに行こう。街まで行ったらなんとかなるでしょう」
手水舎を少し行ったら、街が見下ろせる場所があった。まだ明かりのともっているところもある。それどころか、どこか見覚えのある風景だとわかったのだ。ここからなら、路面電車に乗って帰れば、自宅まではそんなにかからないはず。美佐子はふらつきながらもゆっくりと歩き出した。
「ああ、やっぱりそうだわ。ここは前に初もうでに来たことがある。この長い石段を降りたら、出店が並んでいて…、まぁ、夜中みたいだから今は無理かしらね。その先に路面電車が走ってるから、それに乗ればすぐのはず。でも、今何時ごろだろう。随分静かだけど、終電に間に合うかしら」
鳥居をくぐると、あとは石段を降りるだけ。そこで、美佐子の足はぴたりと止まった。違う。見たこともない街並み広がっている。石段の下に広がっていた出店用の広い通路はなく、ビルが立ち並んでいるのだ。もちろん、路面電車の線路すらない。
「どういうこと?」
石段を下りかけた美佐子は、そっと振り返って、鳥居の先に見える神社が見知った物であることを確かめた。
「おかしい!」
不安な気持ちを抱えたまま石段を下り切ると、路面電車があったであろう場所まで歩いてみた。途中に小さなドームのような建物があり、その入り口を煌々と照らすライトがあった。その横には電光掲示板が3時25分と表示している。
「ええ? 3時25分? じゃあ真夜中じゃない!」
空腹で階段を降りるだけでもやっとだった美佐子はがっくりと肩を落とした。通りのビルにはそんな彼女の姿がぼんやりと映り、美佐子はその姿にギョッとした。そこに見えたのは、白い着物のような物を着て、腰のあたりに組みひものような物が結ばれている、伸ばし放題の髪を垂らした幽霊のような姿だ。悲鳴を上げなかっただけよかったと口を押えながら思う。こんな着物、いつの間に?だけど、今はそんなことより、普段の風景を探したかった。どんなに待ってもこの時間では電車などは来ないだろう。重い足取りで美佐子は歩き始めた。
意識がもうろうとする中歩いていると、波の音が聞こえて来た。なんとなはしにその音につられて歩き続けると、急に開けた浜辺に出た。見慣れないビル群やきれいに整備された幹線道路ではない、自然のままの風景に安堵を覚えた美佐子の足は、じわりじわりと波打ち際に引き寄せられた。
「おい、そこで何をしている? おい!」
突然腕を捕まれ、驚いて振り返ると、日に焼けた40ぐらいの男が心配そうに顔を覗き込んでいる。
「入水自殺でもするつもりだったのか? こんなところで死なれちゃ迷惑だ! ここは、地元の子どもたちの良く来る海水浴場なんだよ」
「あ…、すみませ…ん」
そう言った美佐子の体力は限界だった。そのまま倒れ込みそうなのを抱きとめると、男は参ったなぁとため息をついた。
再び美佐子が意識を取り戻した時は、交番の休憩室に寝かされているところだった。
「お、気が付いたかい? お茶でもどうだい?」
「ありがとうございます」
「さて、仕事なんで事情を聞かせてもらうよ。君、名前と住所、電話番号、生年月日をここに記入して」
用紙とペンを渡されて、書き始めると、警官が慌てて止めた。
「おいおい、そんな古い住所じゃだめだ。今の街の名前で書いてくれ。そのままじゃ、海の中に家があることになるだろ?ははは。おい、生年月日もおかしいよ。今は令和の時代よ」
「え? レイワ?」
「おまわりさん、あれからどうだい?」
交番の前に車が停まって、先ほどの男が入ってきた。
「ああ、佐伯さん、さっきはありがとう。こちらは、やっと意識が戻ったんだが、もしかして記憶喪失なのかな?」
警官に言われて佐伯が書類を覗き込むと、眉を寄せた。
「あんた、どこから来たんだい?」
「わかりません。気が付いたら、そこの山の上にある神社にいて…」
話す傍から、盛大に腹の虫が鳴きだし、ふうっとため息が出た。警官は自分の夜食用の弁当に付けていたポタージュスープを作って差し出した。美佐子はそれを両手に持って、少しずつ口にした。ああ、生きているんだとそんな気持ちになった自分がおかしくて、ふっと笑みがこぼれる。しかし、それは佐伯の言葉で現実に引き戻された。
「じゃあどうして自殺なんて考えたんだ?」
「そのつもりはなかったんです。気が付いたら、海に入っていて…」
警官と佐伯は顔を見合わせたが、その後も首をひねるばかりだった。
第一発見者の佐伯が書類に書き込んでいる間も、警官の質問は続く。
「それで、これからどうするの?」
「…わかりません。私は、家に帰りたいだけなんです。この住所の今の町名を教えてもらえますか?」
「ん、言いにくいんだけど、その住所は今大きな競技場になっているんだ。災害対策でこの辺りの住民は別の場所にバラバラに移動したんだよ。それに、もし、この生年月日が本当なら、君のご両親はもう生きていない可能性が高いよね」
「おまわりさん、縁起でもないこと言うなよ。彼女、どう見たってまだ20代前半じゃないか。何かの間違いだろ」
「しかし…この日付が正しいなら、72歳ってことになるじゃないですか。参ったなぁ。若い女性を放り出すことも出来ないし」
警官の言葉に、うつむき加減だった美佐子は思わず顔を上げた。一体どういうことなのか? 自宅が無くなっていたり、自分が72歳だなどと言われたり、気が付いた時には、妙な服装になっていたし、所持品もなかった。そんな状態で一体どうすればいいのか。
そんな様子を見ていた佐伯は、ふと思いついたことを口にした。
「そう言えば、うちの店、店員募集しようと思ってるんだけど、あんた、飲食関係で仕事したことはあるかい?」
「はい、アルバイトでなら」
「じゃあ、あんたさえよければだが、どうだい? アパートも提供するよ。ただ、おふくろのいたアパートだから、家電は古い。当座家賃は無しでいいや。その代り、給料は低いよ」
横で聞いていた警官が笑顔になって頷いている。
「そりゃいいや。あの海岸沿いの店だね。アパートはどこにあるんだい?」
「海岸通りを一筋北に上がったクリーニング屋の向いに俺の母親が住んでいたアパートがあったんだが、ちょうど空いたんだ。兄貴のところで面倒みてもらうことになって、荷物を片付けるところだったんだよ。家財道具もそろってるし、ちょうどいいんじゃないかと思ってね」
「安心しな。この人は、ここの商店街の世話役で、こんな格好してるけど、いい人なんだよ。ま、いい人過ぎて嫁が見つからないのが悩みの種だけどね」
そう言われて改めて佐伯を見ると、長髪を後ろで束ねた髪にタンクトップにシャツを羽織ったいで立ちは、美佐子がなじんでいた時代では遊び人のような風貌だ。
「こんな若い子に、余計な事は言わないでくれよ」
話はトントン拍子に進んで、美佐子は佐伯の母のいたアパートで暮らすことになった。
「ここがおふくろの住んでいたアパートだ。おふくろは俺にここを住めって言って、タンスや電化製品なんかはそのまま置いて行ったから、使ってくれて構わない。あ…」
冷蔵庫を確かめていた佐伯が、急に言葉を途切れさせた。美佐子が振り向くと、缶ビールと生ハムを手に苦笑いしていた。
「俺が片付けに行くって言ったから、気を利かせたつもりだな。戸棚にお茶っぱもあるから、使ってくれ。ベッドは奥の部屋だ。シーツの替えがあるか分からないが、今日のところは我慢してくれ。じゃあ、俺は仕込みがあるから店に戻る。明日の夕方、店が落ち着いたら迎えに来よう。今日はゆっくり休んでくれ」
佐伯は室内のあらかたを説明すると、鍵を渡して美佐子を置いて去っていった。一人残された美佐子が、キッチンに行くと、テーブルの上におにぎりやカップ麺の入ったコンビニの袋があった。佐伯が気を利かせて買っておいたものだ。
誰もいないテーブルについて、お茶とおにぎりで食事を済ませる。ふと、ほんの数時間前までいた真夜中の誰もいない街中にぽつんと存在した自分を思い出し、このあまりにも日常的な風景がウソのような、急に消えてしまうのではないかとそんな気持ちになる。これから一体自分はどうなってしまうんだろう。不安を抱えながら、どんよりと重い体をベッドに横たえたときには、早い店がシャッターを上げ、街には活気が出始めていた。
つづく
どうして主人公が月ヶ瀬美佐子という名前になったのか。
う~ん、どういうわけか、天から降ってきたとしか。。
もし、同姓同名の方がいたら、すみません。