341 清水寺まとめ
藤城皐月たち班は清水寺の調べがだいぶ進んだ。
「話がこんがらがってきたんだけど、ちょっとまとめてもいい?」
「じゃあ、真理がまとめろよ」
「うわ〜っ。嫌なこと言うね、皐月は」
栗林真理は目を瞑って少し俯き、眉間に人差し指と中指を当てて考え始めた。
「整った。じゃあ、まとめるね」
・清水寺と法嚴寺は同じ起源を持つ
・賢心が行叡から開山を託されたまでの話が同じ
・賢心と行叡が出会った記録は法嚴寺の伝承の方が8年早い
・縁起に出てくる音羽の滝の場所は清水山ではなく音羽山
・創建伝承は法嚴寺のもの
・清水寺が法嚴寺の縁起を借りたか、あるいは共有している
「これじゃ、清水寺の起源は法嚴寺ってことになるよ?」
「まあ、そういうことになるのかなぁ……」
「寺社の始まりなんてそんなもんだよ。清水寺は資料が残っているだけいい方なんじゃない? もっとひどい寺社なんていっぱいあるよ。記録だって本当のことが書いてあるかどうかも定かじゃないんだし」
皐月が不満げでいると、神谷秀真が慰めてくれた。吉口千由紀の言うように、寺社の起源なんて神話くらいに思っておいた方がいいのかもしれない。
「でも、創建の2年後から清水寺と法嚴寺は分岐するよね」
二橋絵梨花が興味深いことを言った。
「清水寺の公式サイトによると、行叡と別れて音羽山にお堂を建てた2年後に、賢心と坂上田村麻呂が音羽の滝で出会うんだって」
758年生まれの坂上田村麻呂は780年、田村麻呂は妻の病気平癒のため鹿を捕えようとして音羽山に入った。すると、田村麻呂は山中で修行中の賢心に出会った。
田村麻呂は賢心に殺生の罪を説かれ、大師と仰いで寺院建立の願いに協力を申し出た。そして、十一面千手観世音菩薩を本尊として祀るため、自邸を本堂として寄進した。音羽の滝の清らかさにちなんで清水寺と名付けた。
「坂上田村麻呂って蝦夷平定をした人だよね」
「そう。794年に朝廷軍が蝦夷軍との戦いに勝利したの」
「ああ、よかった。合ってた。さすがは絵梨花ちゃん」
「真理、合ってたってなんだよ?」
「蝦夷平定は小学校で習わないけど、中学受験の入試では出るかもしれないってレベルなの。私は絵梨花ちゃんみたいに年号まで覚えていないんだけど……」
暗記くらいしかできないと言っていた真理だが、それでもうろ覚えのことが多いのかと、皐月はこの時初めて知った。中学受験では覚えなければならないことが多過ぎるのかもしれない。
皐月は坂上田村麻呂のことを何も知らないので、ウィキを見る前に絵梨花に聞いてみた。
「坂上田村麻呂って軍人?」
「軍人であり貴族であったってところかな」
「田村麻呂は賢心に自分の家をあげたって書いてあるけど、今の清水寺が建っている所に住んでたってこと?」
「どうなんだろう……。平安京に遷都する前だから長岡京に住んでいたのかな? 清水寺になる所にあった家は別荘だったのかもしれないな……。よくわからない」
調べ物をしていた真理が絵梨花のフォローをした。
「坂上田村麻呂が賢心に会ったのは23歳の時だって。この時に近衛府の将監になったって書いてある。なんだ、これ?……ああ、御所の警護兵ってことか。じゃあ、長岡京の御所で働いていたってことだね」
「ということは……近衛府の将監に決まったから長岡京に引っ越さなきゃいけなくなって、それで住んでいた家を賢心にあげたってことか……な?」
皐月は真理の話を聞き、自分なりに納得してしまった。史実かどうかはどうでもよく、自分の思いついたストーリーを信じたくなった。
桓武天皇によって794年に都は長岡京から平安京に遷都された。坂上田村麻呂は同じ年の794年に蝦夷平定から帰還したが、まだこの時は新しい都は完成していなかった。
新京ができるまでの間、田村麻呂は諸国をまわり、神社に奉幣した。この時に自身が建立した清水寺にも参拝した。
その4年後の798年、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して、清水寺の本堂を大規模に改築した。観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を祀った。
以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願主と位置づけている。本願主とは寺院・仏像などを創立し、法会を執行する発起人のこと。
「じゃあ、清水寺は坂上田村麻呂の寺ってこと?」
「まあ、そういうことでいいんじゃないの」
「それって法隆寺が聖徳太子の寺で、東大寺が聖武天皇、唐招提寺が鑑真の寺っていうのと同じ?」
「まあ、そんな感じかな。よく知ってんな、真理」
「テストで出そうなところしか知らないよ」
これで清水寺の予習は終わった。調べれば調べるほど興味深いということは、ここにいる六人全員が感じていた。もっと調べたい気持ちを抑えながら、皐月たちは次の訪問地のことを調べ始めた。




