337 悪を実行する
この日の夜も藤城皐月は修学旅行の京都での班行動に備えて、自宅のPCで下調べをしていた。訪問先に関する情報を集め、話のネタになりそうなことをテキストファイルに列挙していた。
神社仏閣の由緒や因縁は調べれば調べるほど奥が深い。情報を取捨選択してまとめることの煩雑さを考えると、もっと早くから準備をしておけばよかったと後悔した。旅行前日の明日中に集めた情報を覚えてしまうつもりでいたが、時間が足りない。
「随分熱心に勉強しているのね」
「修学旅行の予習だよ」
風呂から上がった及川祐希が皐月の部屋に入ってきた。皐月の背後から肩に両手を乗せ、モニターの画面を覗きこんできた。
皐月と祐希の距離が日ごとに近くなっている。だが、先にパーソナルスペースを侵犯するのはいつも祐希だ。そして自分の領域に入ってきた祐希を、皐月がさらに奥まで引きずり込む。
ノートPCの画面には東寺に関するウェブサイトと、情報を書き散らしたテキストファイルが開いていた。集中力がそがれるため、音楽は聴いていなかった。
「ふ〜ん。皐月は真面目君なんだね」
祐希からはトイレタリーの香りだけでなく、体からもフェロモンが香り立っていた。背中に感じる祐希の体温が明日美の体を思い出させ、皐月は体が火照ってくるのを感じた。
「予備知識なしに旅行したってつまんないだろ?」
皐月は知識が行動を楽しくするということを鉄道オタクの岩原比呂志や、オカルト好きの神谷秀真との付き合いの中で学んだ。
皐月は修学旅行で訪れるところの知識を覚えておいて、同じ班のメンバーたちに現地で知識を披露しようと思っている。訪問先を深く知ることで、少しでも深く現地の記憶を脳に刻んで、体験と知識を結びつける。団体旅行になりがちな修学旅行を少しでも楽しい思い出にするために事前学習に力を入れている。
「皐月たちはこの東寺ってとこに行くんだね」
「『ひがしでら』じゃなくて『とうじ』って読むんだ。清水寺は訓読みで読むのに、東寺は音読みなんだよね。寺の名前は音読みが基本なんだって」
東寺は平安京の正門にあたる羅城門の東側にある古刹だ。皐月は東寺への参拝を熱望した二橋絵梨花と、芥川龍之介の『羅生門』を語り合った吉口千由紀との対話を楽しみにしながら、東寺のことを調べつつ、平安の都に思いを馳せていた。
そこへ祐希が体を寄せてきた。明日美との逢瀬で燃え尽きることのできなかった皐月には祐希の風呂上がりの体は刺激が強過ぎた。
皐月は猛りそうになる体を鎮めるため、古の荒んだ平安京に意識を飛ばした。
脳内のアバターは崩れかけた羅城門をくぐり、大内裏に向かって広い朱雀大路の真ん中を歩いていた。周囲に人は誰もいなく、皐月はアバターが『羅生門』の下人のように行き場がなく、途方にくれているシーンを映画のように観ていた。
「どうして黙ってるの?」
皐月は空想の世界に入り込んでいて、しばらく祐希のことを放置していたようだ。
「ちょっと困っているんだ」
「何に困っているの?」
「俺は今、悪を実行したいと思っている。その勇気も生まれてきた」
「えっ? 私?」
祐希は祐希と勇気を勘違いしていた。それは皐月にとって好都合だった。
「そう……俺は祐希に悪いことをしたくなっている。それを我慢しなければならないから困っているんだ」
「そんなの、私がいいって言えばいいんでしょ?」
「まあ、そうなんだけど……」
「いいよ」
「えっ? いいの?」
「ふふっ。皐月って面白いね。格好つけて『悪を実行したい』とか言っちゃって。そういうところが好き」
祐希は皐月のことを後ろから強く抱きしめて、何度も頬にキスをしてきた。自分のことを溺愛する祐希に、皐月は抱き合っている時の明日美に似ていると感じた。安らぎと快感に身を任せていると、愛玩に飽きた祐希が動きを止めた。
「椅子、邪魔」
祐希は皐月の座っている椅子を回し、自分の方へ向きを変えて皐月の手を引いた。二人はベッドの上に倒れ込んだ。
「悪は実行しないの?」
「するよ」
皐月は満の教えに背く野蛮なキスをした。歯の間を割って深く舌を挿し込むと、祐希も舌を入れ返してきた。皐月は音を立てて舌を吸った。
キスを重ねるごとに祐希は積極的になっている。だが祐希にはまだ高校の同級生で、恋人の竹下蓮の癖が残っている。自分だけに最適化されていない祐希から、まだ不快感を拭い切れない。
「頼子さんが二階に上がってきたら、すぐに部屋に戻れるようにした方がいいな」
皐月はベッドの横の襖を開けて、隣の部屋へ移れるようにした。祐希の部屋は照明が落とされていて、布団もまだ敷いていなかった。この状態で祐希の母の頼子が来たら言い訳ができない。
「皐月は変なところで冷静だよね。嫌な奴」
祐希が布団を敷いている間にPCの電源を落とした。明日の学校の準備をして身辺が整ってくると、皐月はその気がなくなっていた。
スマホを見ると入屋千智からメッセージが来ていた。千智とは土曜日以来会っていないが、メッセージのやり取りは毎日している。皐月はさっきまでしていた修学旅行の下調べのことを書いて送った。
布団を敷き終わった祐希が皐月のことを見つめていた。何か言いたそうな顔をしている祐希は体にまとわりつく湿気のようだった。
「千智からメッセージが来てた」
「そう……」
「うん……。俺、もう寝るわ」
皐月はもう、その気がなくなっていた。
「えっ? まだ早くない?」
「たくさん寝ないと背が伸びないらしいからな。早く背を伸ばしたいし」
「皐月は六年生にしては背が高いんじゃないの?」
「そうだけどさ……大人と比べるとやっぱり小さいじゃん。なんか悔しくて。そういうわけで、おやすみ」
皐月は部屋の照明を落として襖を閉めた。また一方的に祐希を突き放してしまったと、皐月はスッキリしない気持ちで布団の中に入った。
すると階段を上る足音が聞こえてきた。頼子が自分の部屋に戻って来るようだ。祐希と離れたのはギリギリのタイミングだった。そう思うと、祐希への罪悪感が軽くなった。
頼子が二階の部屋に戻ってくる以上、皐月と祐希は離れ離れになるしかなかった。まだ時間が早いので頼子が就寝することはないだろうが、この状況は皐月にとってはありがたい。
しばらくすると、祐希の部屋の廊下側の障子が開く音がして、祐希と頼子の話し声が聞こえてきた。及川親子の話しているのを聞くと皐月は安心し、急に眠気が襲ってきた。




