336 呪い
藤城皐月は二日続けて学校帰りに芸妓の明日美の家に通った。前の日はただ明日美に甘えるだけで家に帰ってしまったが、この日は二人でベッドで横になりながら小説を読んで過ごした。
皐月は太宰治の『人間失格』を読んでいた。再読だった。後ろの席の文学少女、吉口千由紀に「葉蔵みたいだね」と言われたことがずっと気になっていた。皐月は自分のどこが主人公の大庭葉蔵と重なるのかを探ろうと、もう一度『人間失格』を読み返してみようと思った。
「高校では国語の授業で漱石を勉強するんだよね」
明日美は夏目漱石の『こころ』を読んでいた。高校に進学しなかった明日美は高校生の標準的な教養を身につけたいらしく、今は高等学校卒業程度認定試験に向けて勉強中だ。
皐月は明日美の聡明さを知っているので、物ごころのついた頃からずっと尊敬している。明日美のことは自分の知っている大人と比べても、知的レベルに遜色がないどころか凌駕しているとさえ思っている。
皐月の横で本を読んでいた明日美が、漱石の本を投げ出して口づけをした。
「飽きちゃった?」
「本なんか一人の時に読めばいいでしょ?」
「二人で読むからいいのに」
「でも皐月はすぐに帰っちゃうでしょ?」
ベッドで蒲団にもぐって本を読んでいたので、性的な誘惑は常にあった。二人の体は蒲団の中で温まっていた。だが、明日美の口づけで体が一瞬で熱くなった。
激情に任せ、思わずディープキスをしそうになった。舌が絡まる前に抜いて顔を離し、もう一度優しくキスをした。
高ぶる気持ちを抑えつつ、満に教わったことをなぞり、こめかみに口を当てながら肩口から腕へと柔らかく手を這わせた。だが女が女を愛撫するような行為はもどかしい。
皐月は貪るように明日美の舌を吸いながら、感情のおもむくままに胸を揉みしだきたかった。首をキスマークが残るくらい強く吸いたかった。ピンクのさくらんぼを吸ったり舐めたりしながら、手を黒い叢に伸ばしたかった。
寝室の数少ないインテリアの掛け時計を見ると、帰らなければならない時刻までそれほど残されていないことがわかった。
時が経つのを忘れられる機会がくるまでは、これ以上の営みを望むことができない。今の皐月には丁寧に明日美の反応を確かめることしかできない。焦れるだけの愛撫だが、皐月は官能に耽溺しない理性的な行為をしているんだと自分を慰めるしかなかった。
「皐月は優しく愛してくれるんだね」
耳たぶから口を離した皐月はそのまま明日美を背中から抱きしめた。
「明日美はさ……壊れないように大切に扱わないと死んじゃうかもしれないだろ?」
「このまま死ねたらいいんだけどね」
「ばか……」
明日美の望み通り殺してやろうかとも思い、深い口づけをした。舌を絡め合いながら服の上から胸に手を這わせると、明日美が激しく反応した。すると、満の「焦らないで」という言葉が頭の中にリフレインした。
皐月は呪いがかかったように満の言葉で賢者に引き戻された。この日はとうとう、衝動に任せて明日美に溺れることができなかった。