331 救済の女神
いつもなら寝る時間なのに、藤城皐月はまだ眠くなかった。一人になって考えたいことがたくさんあるので、部屋の明かりを消して横になった。
しばらくすると襖の隙間から漏れてくる及川祐希の部屋の明かりが消えた。これで部屋が暗くなったが、皐月はさらに暗さを求めて、頭まで蒲団をかぶって目を閉じた。
この波立つ気持ちの原因は祐希が自分に対して気のある素振りをすることだ。皐月はそんな祐希を見るのが辛かった。
祐希には恋人がいるし、自分にも恋人がいる。だから祐希のいやらしさは自分も同じだ。祐希に媚態を示されるたびに自虐し、自嘲し、自己嫌悪に陥る。
体の反応に従って祐希に触れることもある。祐希の体のぬくもりにはいつも心が慰められる。祐希の体や吐息のとろけるような匂いには性的衝動を呼び起こされ、そして甘美な世界へと堕ちていくのがいつものパターンだ。
祐希は今、自分と同じ自己嫌悪に陥っているのかもしれない……そう思うと皐月は冷たく襖を閉めたことを後悔した。もっと優しくできたはずだし、一緒にドロドロとした世界に沈んでもよかった。
皐月は一人の時間が過ぎるほどに目が冴え、ますます眠れなくなっていた。体温で暖かくなった蒲団に包まれながら、今日の満とのことを思い出していた。
「皐月ってキス、上手いね。経験あるの?」
経験のない明日美には見抜かれなかったが、満にはあっさりと見抜かれた。栗林真理に疑われた時は隠し切れたが、満にごまかしは効かないだろう。
「あるよ。キスくらい」
「ふ〜ん。そうだよね。皐月ってモテそうだもんね。……それより先の経験は?」
皐月はキスの相手は誰かと聞かれると思っていたので、話の方向が予想とずれてホッとした。自分が好きになった人のことは絶対に言えない。
「そんなのあるわけないじゃん……」
「そうだよね……。皐月はまだ小学生だもんね」
小学生が童貞なのは当たり前だと思っていても、面と向かって言われると恥ずかしい。皐月は屈辱を感じていた。
「じゃあ、皐月はしたいって思う?」
何と答えても恥ずかしい質問だ。西洋人形のようなかわいい姿をした満だが、悪魔のような笑みを浮かべている。
「思う」
「ふふふっ。皐月ってエッチだよね」
「しょうがないじゃん。悪いかよ」
満の右手が皐月の左耳に触れた。皐月は熱くなった頬を満に知られるのが恥ずかしかった。
「悪い子だよね、皐月って。でも、私はもっと悪い女だから」
満に顔を引き寄せられた。これからキスをするんだなと思い、皐月は満の動きに合わせて顔を寄せた。力を抜いて目を瞑ると、唇は触れずに舌が軽く挿し込まれた。少し驚いたが、皐月も満に応え、舌を吸わずに舌先だけが触れあうキスをした。
「私が全部教えてあげようか?」
「……いいの? 薫姉ちゃんと付き合ってるんでしょ?」
「秘密が守れるならいいよ。こんなことしてたら、私だってキス以上のことをしたくなっちゃうし……」
皐月はこの時初めて女の人にも性欲があることを信じた。今まではそういう欲望は男にしかないと思っていた。だから皐月は恐る恐る祐希や明日美に触れてきた。
だが現実はシンプルだ。同じ衝動は女性にもあり、相手の経験によって度合いが違うだけだ……そう考えると皐月は気持ちが楽になった。本能に対して過剰に罪悪感を覚えるのは間違っていた。
この日、皐月は満によって初めて男になった。満はレズビアン同士がするような愛撫をしてくれたが、挿入後は淡々としていて、あっけなく終わった。
眠れなくなった皐月はトイレに行って、スッキリとした。蒲団に戻った後、再び満のことを思い出した。
「皐月は好きな人っているの?」
事が終わった後に聞くことかと、嫌な気持ちになった。
「いるよ」
「誰?」
「明日美」
皐月は素直に答えた。満は皐月の想いを年上の女性への憧れだと思ったようだ。満の美しい誤解は好都合だ。明日美との恋愛関係は誰にも知られてはいけない秘密だ。
「皐月は私のこと、好き?」
満がどうしてこんなことを聞いてくるのかわからなかったが、皐月は素直に気持ちを伝えた。
「好きだよ」
満に抱き寄せられ、顔が胸に埋まった。皐月は母にもこんな事をされた記憶がなかった。安心感で気が緩み、涙が出そうになった。
「ありがとう。でも私のことはあまり好きになっちゃダメだよ」
「どうして?」
「私は薫のことを愛しているから。それに皐月だって明日美姐さんが好きなんでしょ?」
「うん」
「明日美姐さんも皐月のことが大好きみたいなんだよね。明日美姐さんって男に対してすごく冷めているから、なんで皐月のことをかわいがるんだろうってずっと不思議に思ってた。でも今ならわかるような気がする」
自分の知らないところで明日美から愛されているのを知り、皐月は満に抱かれながら感動していた。
「明日美姐さんは私の憧れなの。美しくて、儚くて、壊れそうで……。でも近づけなかった。だから明日美姐さんに愛されている皐月のことがずっと気になってた」
「それで満姉ちゃんは明日美から俺を奪おうと思ったの?」
「それは違う。さっきも言ったけど、皐月がかわいくて私のタイプだってことと、キスしたらムラムラしちゃったってことで……なんか私って淫乱だよね。イヤだな……」
「淫乱じゃない。俺のことを気にかけてくれたんだし、素直に嬉しいよ」
満のように、人に言えない恥ずかしいことを言える人なんて自分のまわりにはいない。皐月はそんな満のことが大好きになった。しかし、満のそんなところを少し危ういとも感じた。
「私ね……男嫌いだから、セックスなんて一生無理だと思ってた。でも、皐月とキスした時に『あれっ? 皐月なら大丈夫かも』って思ったの。それでやってみたら、実際大丈夫だった。でも他の男とセックスなんてする気はなれないな……」
「いいよ。他の男となんかしなくても。……ていうか、俺以外の男とするなよ」
「じゃあ、私がしたいって思ったら、皐月が相手をしてくれる?」
「……絶対に秘密にするんだったら、いいよ。俺、満姉ちゃんのこと大好きだし」
「皐月、私のことを本気で好きになっちゃダメだからね。私は薫が好きだし、皐月は明日美姐さんのことが好きなんだから。あと、満姉ちゃんはやめてほしいかな……せめて満ちゃんにしてよ」
「わかった」
満はこの後、何度も私のことを好きになるなと言いながらキスをしてきた。明日美姐さんから皐月を奪いたくないと言い、恋人ができても私に言うなとも言った。
いい男になれとも言われた。女のことは全部教えてあげるとも言われた。満は妙に世話を焼いてきた。一方的に満の言いなりになっているような気もするが、皐月は満の望む関係になりたいと思った。
皐月はずっと毎日が楽しいと思っていた。だが、いつしか毎日が苦しくなっていた。恋愛なんか知らない頃の、無邪気でバカみたいな毎日の方が楽しかった。
だが満に男にしてもらったことで、やっと苦しみから救済されたような解放感を得た。そう思うと満は自分にとって女神となるが、きっと危険な女神だろう。皐月は満に荼枳尼天のイメージを重ねていた。欲望を叶える代わりに人の魂を食うという、危険な女神の荼枳尼天に。




