332 鏡の中の世界
火曜日の朝、藤城皐月はいつもより目を覚ますのが遅かった。通学服に着替えていると、洗面所からドライヤーの音が聞こえてきた。及川祐希の高校へ行く前のルーティンだ。
今週、皐月には修学旅行があり、祐希には文化祭がある。このビッグイベントを気分よく迎えたいので、昨夜のモヤモヤした気持ちを早めに解消しておこうと思い、皐月は祐希に絡みに行った。
「おはよう」
「おはよう。今朝は四人で食事みたいだよ。さっき小百合さんが台所に入って行った」
屈託のない祐希を見て、皐月は少し気が楽になった。祐希は制服に着替え、鏡の前で髪を整えていた。身だしなみはほとんど仕上がっていた。
「へぇ、珍しいな。あのママが早起きするなんて。昨夜は随分遅くまで頼子さんと飲んでいたのに」
「じゃあ皐月も遅くまで起きていたんだ」
「うん、ちょっと寝付けなくてね。そのせいで今朝は少し寝坊しちゃった」
皐月は鏡越しに祐希と話すのが好きだ。鏡を見ながら祐希と話しているとまるでシネマのワンシーンのようで、恋愛映画の主役になったような気分になる。でも鏡に映っている主演男優の背が低いのだけは気に入らない。
皐月は身支度を終えたが、祐希はまだ目元を気にしてメイクをしていた。何をそんなに細かいところを気にしてるんだろうと不思議だった。
「ねえ……目の周り、おかしくない?」
「別におかしくないけど」
「私、あまり眠れなかったんだ。目の下にクマができちゃって。ヤダな……」
皐月は横にいる祐希の顔を見た。鏡に映る虚像とは違い、近くで見る祐希の顔は肌がキメ細かく艶めかしかった。毎度のことながら、祐希から放たれる芳香に心が乱される。
「大丈夫。クマなんて全然わかんなくなってるから」
「ホント?」
この朝、初めて祐希と皐月の目が合った。しばらく見つめ合っていた二人だが、先に目を逸らしたのは皐月だ。
祐希の恋人の竹下蓮なら祐希を上から見下ろしているだろう……そう思うと皐月は敗北感に苛まれる。自分がまだ背の低い子どもだというのが嫌になる。
「じゃあ俺、先に下に行ってる」
「ちょっと待って」
皐月は祐希に両手で顔を挟まれて引き寄せられた。キスでもするつもりなのかと一瞬喜んだが、そんな雰囲気でもない。
「皐月って昨日、メイクした?」
「ああ……したよ。どうしてわかった?」
「アイメイクがちょっと残ってる。落とし残しかな、昨日は気が付かなかった。……ちょっと大人しくしてて。落としてあげるから」
昨夜は満の家を出る前に、満が慌てて皐月のメイク落としをしていた。皐月には慣れた手つきで手早くメイクを落としていたように見えたが、それが少し雑だったことに気付かなかった。
「皐月、メイクしたんだね。男のメイクなんて生理的に無理って言ってたくせに」
「満姉ちゃんがメイクさせろって言うからさ……いろいろ奢ってもらったから断れなかったし、しょうがないだろ」
「ふ〜ん。で、メイクされてみてどうだった?」
祐希はシェイククレンジングを含ませた綿棒で皐月の目の周りを撫でていた。
「格好良くなったと思う。満姉ちゃんは喜んでいたし、コンカフェの女の子たちからも綺麗だって褒められた」
「へぇ〜、見たかったな……。今度、私にもメイクさせてよ」
「いいよ。面白かったし、そういうのちょっと興味でてきた」
「じゃあ女の子みたいにししゃおうかな」
祐希は皐月のメイク落としを終えた。綿棒を捨てた後、また皐月の頬に両手を添えた。
「皐月は化粧映えする顔だよね。どんなメイクをしても綺麗になりそう。羨ましい……」
「祐希だって綺麗な顔してるじゃん。初めて会ったときからずっとそう思ってた」
「本当?」
「うん、本当」
皐月は祐希にそっと口づけをした。薄目を開けて鏡を見てみると、まるで恋愛ドラマのキスシーンみたいだった。
「ねえ、祐希もキスしてるところを鏡で見てみなよ」
祐希の見やすい角度でもう一度キスをした。祐希に見せるように舌を絡めると、祐希の息が乱れ始めた。皐月も興奮してきて、祐希や自分に恋人がいようがどうでも良くなってきた。悩んでもどうせ苦しくなるだけだ。この刹那の幸せが永遠に続けばいいと思った。
だが快感と不快感が入り混じり、気持ちよくなるほど心はざわついて、幸福感を得ることはできなかった。それでも祐希が幸せそうにしているのが皐月には救いだった。




