329 遅い帰宅
夜も8時を過ぎると、豊川稲荷表参道の店のほとんどがシャッターを下ろしていた。満の駆るホンダ・ビートは人気のない道をゆっくりと走り、藤城皐月を小百合寮まで連れて帰った。玄関に行燈がぼんやりと灯っていた。
「百合姐さんに挨拶しておかないとね」
ヘッドライトを消してエンジンを切ると、車の中の二人は夜の静けさに包まれた。皐月が助手席から降りると、満も皐月に続いた。行燈の淡い光に照らされた満は一分の隙もないホステスの顔に変わっていた。
「ただいま〜」
玄関の戸を開けると、楽器置き場になっている取次から居間までの全ての戸が開け放たれていた。居間では小百合と頼子がお酒を飲みながら談笑していた。
「おかえり」
小百合が立ちあがり、皐月を迎えに出た。皐月の背後にいた満が小百合に頭を下げて挨拶をした。
「名古屋は楽しかった?」
「うん。満姉ちゃんが大須商店街のいろいろな店に連れてってくれたから、めっちゃ楽しかった」
「百合姐さん、すみません。皐月にアフター付き合わせちゃって」
「あれ〜? 玲子さんのクラブってアフター禁止じゃなかったっけ?」
小百合はお座敷がなく、お酒が入っているせいか上機嫌だった。皐月はひとまず安心した。
「百合姐さん、これお返ししますね。全然手をつけていませんから」
満がバッグから封筒を出し、小百合に手渡した。出かける前に預かったガソリン代と食事代だ。
「何言ってんの。晩ご飯もお世話になっちゃって、これじゃ足りなかったんじゃない?」
「いいんですよ。今日は皐月に私の趣味に付き合ってもらったんですから。お金なんて受け取れません」
満の毅然とした態度に小百合は抗しきれなかった。満には同い年の芸妓の明日美にはない強さがある。
「じゃあ百合姐さん。私、帰りますね。今日はありがとうございました」
「こちらこそ皐月の相手をしてもらっちゃって、ありがとう。気をつけて帰ってね」
満が帰るので、皐月も見送りに出た。小百合と頼子が玄関を出た時、満は車に乗り込むところだったが、ドアを開ける手を止めて、改めて二人に頭を下げた。
満が上を向いて手を振った。その視線の先を見ると二階の欄干に手をかけていた祐希が満に頭を下げていた。皐月は祐希を見た時に背中に冷たいものを感じた。
満が車に乗り込んだので、皐月は運転席の横へ行った。満はエンジンをかけると、サイドウィンドウを下げて窓を開けた。
「じゃあ、またね」
「うん」
無限のマフラーに交換されたビートは重厚感のあるエキゾーストノートを奏でながら、ゆっくりと遠ざかっていった。皐月は赤く光るテールランプがパピヨンの角を曲がり終わるまで、その場から動かずにずっと見送っていた。
家に戻ると、小百合に買ってきた服を見せるように言われた。皐月はまず最初に買ったチルデンニットのベストを見せた。
「あら、懐かしい。昔こういうのが流行ったわ」
頼子が嬉しそうに皐月が買ってきた服を自分の体に当てて喜んでいた。皐月はこの服がこんなにも大人受けするとは思っていなかった。
「古着屋で買ったから、昔の服だよ。レディース物なんだ」
「ちょっと着てみてよ」
小百合に促されたので、皐月はカーディガンを脱いでベストを着た。その時、祐希が二階から下りてきた。
「あんたが着ると、あまり昔っぽく感じないわね。満にしてはいい服を選んだな〜」
「満姉ちゃんは男っぽい服、好きじゃないみたい。この服に決める前にメンズ服の店を10件以上回ったんだけど、反応が悪かった」
「そういえばあの子は男嫌いだったわね。そうか……だからレディースにして中性的にしたんだ。こういう服って凛子が喜びそうね」
皐月は1学期までは髪を伸ばして女の子っぽくしていたが、それは小百合の同僚の芸妓の凛子に勧められたからだ。凛子は男嫌いではないが、まだ小さかった皐月に娘の真理の服を着せて、女の子みたいだと喜んでいた。
「祐希、どう? 似合ってる?」
「うん……似合ってる」
皐月は祐希の反応の薄さが気になった。こういうのは祐希の好みじゃないのかもしれないと思い、もう一着の服を出して見せた。
「こっちの服も見てよ。上下セットで買ったんだ」
皐月は紙袋から黒のベストと白いシャツ、黒のハーフパンツを取り出した。これは自分で選んで買った服なので、チルデンニットのベストよりも反応が気になっていた。
「あんた、またベスト買ったの?」
「いいじゃんか、別に……。この季節って体温調節が難しいんだよ。俺が半袖で学校行ったら文句言うくせに、細かいこと言うなよ」
今着ていたベストを脱ぎ、黒のベストを羽織った。このベストは前開きだ。今はいている黒のテーパードパンツとも相性がいいが、新しいシャツとハーフパンツに合わせたい。
「どう? こっちは女っぽくなくてイケてるでしょ?」
「皐月ちゃん、格好いいわね。まるでアイドルみたい」
「ホント? やべーな。俺、モテちゃうかもしれない」
頼子は昔から男性アイドルが好きだったので、皐月は頼子に最高レベルで褒められたんだと思った。
「あんたは体操服ばかり着ていたし、冬でも半袖半ズボンだったからモテなかったのよ。私が買った服で学校に行けば絶対にもっとモテたんだから」
「そうかもしれないね。ママに買ってもらった服でコンカフェに行ったら、キャストの女の子たちが格好いいねって褒めてくれたよ」
「あんた、コンカフェなんかに行ったの?」
「行ったよ。満に連れられて何軒もハシゴした」
本当は2軒しか行かなかったが、時間延長のアリバイ作りのために皐月は少し盛って話した。
「ハシゴってあんた……。満のバカ、何考えてんのかね」
「別に普通のカフェだったよ。近所のカフェより店の雰囲気とか女の子の制服が凝ってて、食べ物や飲み物がかわいいだけじゃん。値段はけっこう高かったけど……」
「ねえ、皐月ちゃん。そのコンカフェってのは楽しかった?」
「うん。すっごく楽しかった。また行きたいけど、遠いしお金がかかるから、もう無理かな」
「当たり前だ。コンカフェなんて子供の行くところじゃない」
「なんだよ……。行かないって言ってんじゃん。それにママの選んだ服を褒められた話をしたのに、なんで怒るんだよ」
皐月はスマホを取り出して、最初に行ったコンカフェのインスタを小百合に見せた。
「ほれ。こういう所だから。別にヤバい店じゃないだろ?」
小百合に見せると、頼子が横から覗き込んできた。祐希もその背後から眺めていた。
スマホの画面には女の子の客とキャストの女の子、店の健全な雰囲気や出されるかわいいフードの写真が映されていた。
「ねえ、小百合。私もコンカフェに行ってみたくなっちゃった。とてもかわいいお店ね」
「私はいい」
小百合は席を立って台所へ行ってしまった。