305 やりたくない仕事
次の日の朝、藤城皐月は特に心が揺れることもなく家を出て、学校に着いた。教室ではいつもどおり明るく振る舞った。前の席に座っている栗林真理の精神状態も安定しているように見えた。
2時間目が終わった中休み、6年4組に1組の江嶋華鈴が皐月を訪ねてきた。手招きされた皐月は廊下に出た。
「藤城君、今大丈夫?」
「いいよ。どうしたの?」
「今朝ね、職員室で北川先生に呼び止められて言われたんだけど、修学旅行の挨拶を考えておくようにって」
「ゲッ! 挨拶か〜。とうとう来たな……」
挨拶は修学旅行実行委員会の仕事の話だと、高校生の及川祐希に聞いていた。祐希は三度の修学旅行の経験談を話し、委員長はみんなの前で挨拶をしなければならないということをを教えてくれた。皐月にとって挨拶はやりたくない仕事の一つだ。
「挨拶をしなければならないのは全部で4回。豊川駅での出発式と到着式、旅館での出発と到着。挨拶の文言は一応決まっていて、テンプレをもらってあるよ。それを好きなようにアレンジしてもいいんだって」
「あぁ〜、テンプレがあるのは助かるな〜」
「で、どうする? 藤城君、挨拶する?」
皐月は人前で話すことに抵抗はなかったが、学校を代表するのは児童会長でもある華鈴の方が相応しいと思っていた。だから副委員長でもある華鈴に挨拶は任せたいと祐希に話したら、ひどく怒られた。挨拶は委員長の大事な仕事だと言う。
「そうだな……俺が挨拶するか。委員長だもんな」
「私、半分手伝おうか? 全部で4回もあるんだから、負担が大きいよ」
「えっ! いいの?」
「いいよ、挨拶くらい。私、児童会長やってるから挨拶なんて慣れてる。私が旅館の挨拶をするから、藤城君は駅での挨拶をお願いしたいんだけど、いい?」
「俺は六年生みんなの前で挨拶をすればいいんだな。人数的には1クラスが4クラスになるだけだから大丈夫。どうってことないよ」
「そう? 出発式は見送りの親が大勢来るんだって。私ならちょっと緊張しちゃうかな」
皐月が尊敬のまなざしで華鈴を見ていたのに、華鈴はいたずらっぽい顔で笑っている。
「なんだ。江嶋は親の前で挨拶したくなかったんだ。俺はそんなことで緊張なんかしねーよ」
皐月は華鈴の提案を正直助かると思った。親の前での挨拶で緊張するわけではない。委員長としてやらなければならない仕事なら、どんなことでもやるつもりだ。
ただ、誰に対する挨拶でも、気が進まないのは確かだ。皐月が華鈴のように学校を背負って活動するようなことをやりたくないのは、自分みたいないい加減な奴が学校代表なんておこがましいと思っているからだ。
「じゃあ私が旅館、藤城君が駅の挨拶ってことでいい?」
「うん、それでいいよ。ありがとう」
こういう時、華鈴は頼りになる。さすがは児童会長だなと、皐月は華鈴の仕事の進めっぷりに感心した。華鈴は対外的な関わりの方が責任が重いと判断して旅館での挨拶を選んだのだろう。華鈴のサポートが皐月には嬉しかった。
「それで挨拶の文言なんだけど、私はいつも覚えちゃってるんだよね。藤城君はどうする? 紙に書いて読み上げてもいいよ」
「そんなのヤダよ。俺も覚える。紙に書いたのを読むなんて格好悪いじゃん」
「わかった。じゃあ覚えようか。私たち用の挨拶文を完成させたいから、昼休みに児童会室に来てもらってもいい?」
「昼休みならいいよ。放課後はバスレクのことを決める予定だったから、ちょっとヤバかった」
「じゃあそれまでに挨拶文のテンプレをプリントアウトしておくね。あと、水野さんにも声を掛けておくから」
「細かいこと全部やってもらっちゃって、悪いね」
面倒で嫌な仕事のはずなのに、華鈴と一緒にするというだけで皐月は昼休みが楽しみになっていた。本当は昼休みにドッジボールをしようと思っていたが、修学旅行実行委員会の委員長をしている以上、修学旅行が終わるまでは遊んでばかりもいられない。




