第1話 悪魔の子
昇りきらない日の光に照らされた、色の無い髪を揺らしながら、一人の少年が屋敷の中庭を通り抜ける。使用人もその仕事を始める前の、まだ屋敷の静かな頃に彼は動き始める。
名前をエリシア・ヴァリアルト。ヴァリアルト公爵家に生まれた長男でありながら、『悪魔の子』として家族や家臣、使用人にまでも恐れられ、忌み嫌われる存在である。
彼は幼いながらも自らが嫌われていることを自覚している。生まれてから今に至るまで、あのゴミを見るような目を向けられ続ければ誰だって気付くだろう。
だがエリシアはもうそのことを気にしていない。というよりは気付いていないフリをしている。陰口を叩かれるものの、実害はほぼ無い。それに反応すれば相手の心象をより悪くするだけだろう。ならば放っておくのが得策である。
エリシアには兄弟がいない。いくら嫌われているからといって、エリシアが次期当主である事実は変わらない。母親は既に他界しているため、父が新たに妻を迎えない限りは心に溜め込んだ憎悪を実行に移そうなんて人間はいない。
家臣も使用人も、口だけでは媚びへつらうものだ。それがエリシアに対してではなく、『次期当主』に対するものだということはエリシアにお見通しである。
閑話休題。
エリシアは大きな扉の前に立つと、思い切り力を込めて、その重い扉を開ける。そこには何千、何万の数えきれないほどの本が本棚に並べられている。
貴族のなかでも、大きな権力をもつヴァリアルト家は広大な屋敷を持つが、その四分の一程がこの書物庫で成り立っている。そこは先代公爵、つまりエリシアの祖父が生前、世界中から本を集め作らせたものだった。
そこへ通うのが、祖父ジェードがまだ存命だった頃からの日課であった。
エリシアはジェードに特別好かれていたわけではないし、優しくしてもらっていたわけでもない。ただ、ジェードの誰に対しても興味のないような目を、エリシアは心地よく感じていたのだ。
さて、今日は何の本を読もうか、と本棚の前を歩いていると、一冊の本が目に入る。
相当古い本なのか、擦り切れた背表紙には幾何学的な模様が描かれていた。知識だけではエリシアはそれを知っている。魔法陣と呼ばれるものだろう。となると、これは魔術書か、魔術に関連した書物ということか。
魔術、というのはこの世界では身近なものである。というのも、一人の勇者と一人の賢者が魔王を倒すという童話、あるいは昔話と呼ぶべきものがこの国では伝わっているからである。
エリシアも、もちろんその物語を読んだことがあるため魔術については知っていたが、勇者だとか賢者だとかいうものに興味がなかったため、今日まで触れてこなかった。
興味がないといえ、たまたまであるが目に入ったのだ。ここにある本を読み進めていればいずれは読むことになるだろうし、今読んでも後に読んでも変わりはないだろうと、エリシアはその本を開く。
それは魔術書というよりは研究書に近いものだった。専門的な言葉や記号が並んでおり、八歳の少年が読むようなものではないが、エリシアに限ってはそうではない。読めないならば、読めるようにすればよいのだ。それからエリシアは魔術に関連する本を集め、一つずつ読み進めていった。
そもそも魔術とは何なのか。魔術の基礎基本を学べるという入門書にはこう書かれていた。
『魔術とは、即ち可能性である。人の希望、絶望、願望、怨望、あらゆる望みを叶えるための、手段であり過程であり結果である』
なんとも抽象的で、それでいて具体的な、矛盾を孕んだ説明。しかし、それを見たエリシアが感じたのは可能性、そして望み。
魔術というのが、可能性なのであれば、手段であり過程であり結果であるならば、とうに諦めてしまった自らの望みを叶えられるのではないか、と。
それは、年相応であり、ある意味でいえば、年不相応な望み。
愛されたい、という切望。
だからエリシアは魔術にのめり込む。誰にも見せたことのない笑顔を一人、本に囲まれながら浮かべていた。
これが、魔術師エリシア・ヴァリアルト誕生の瞬間だとは、世界はまだ知らない。
その日を境に、エリシアの生活は魔術中心のものへと変わった。傍からみれば書物庫の入り浸るだけの何ら変わりのない日々かもしれないが、その内容が違っていた。
魔術書を読み、学び、実践する。幸いにも書物庫には大きなホールほどの広さの空間があり、魔術の実践には十分な広さであった。
無表情だったエリシアに笑顔が増え、それは一般的な少年なら微笑ましいことだが、エリシアであればそうではなく、何か良からぬことを企んでいるのではないかと屋敷中の噂となった。
そんなある日のこと。
その日は深夜まで魔術書を読んでいたことが祟り、いつもより起きるのが遅れてしまっていた。
使用人達の目につかないようにと、小走りで書物庫へ向かう。すると、角を曲がってきた誰かとぶつかってしまった。格好を見ると、どうやら若い使用人のようだった。
「申し訳ありません!お怪我はありま…せ、ん…」
その使用人は衝突した相手がエリシアだとわかると、みるみる顔を青くし、言葉を詰まらせた。
「問題ない」
エリシアがぶっきらぼうにそう答える。
エリシアは確かに、愛されたいという望みはあるが、家臣や使用人を好いているわけではない。自分を大切にしてくれない相手を自分が大切にする義務はないと、不貞腐れにも似た考えをエリシアは持っている。だから必然的にエリシアの口調は良いものではない。だが、その考えがエリシアの悪評判に繋がっているということを、エリシア自身が気付いていないのが皮肉なところである。
エリシアがその使用人の顔を見ると、彼女はビクッと身を震わせる。父親譲りの、より遡れば祖父譲りでもある鋭い目つき。その瞳の色も相まって、見られた者に恐怖を与える。
彼女は立ち上がろうとするが、腰が抜けてしまったようで上手く立ち上がれないでいる。
それを見かけた別の使用人が駆け寄ってきて、彼女に肩を貸し、大丈夫?だなんて呼び掛けながら、キッとこちらを睨み付ける。
そんな視線を気にすることなく、エリシアは二人の横を通りすぎていく。




