第1話:さば缶にマヨネーズとラー油をぶち込む夜
「ふいー……っ」
玄関で革靴を脱ぎ捨て、お気に入りのルームシューズに足を滑らせる。
佐藤、五十五歳。職業、IT系のフリーランス技師。
世間というやつは、どうして五十を過ぎた男が独りでいると「かわいそうに」とか「熟年離婚ですか?」とか「老後が寂しいでしょう」などと余計なお世話を焼きたがるのだろう。
佐藤は心の中でいつも鼻で笑っている。
冗談じゃない。俺は今、人生で一番最高に自由だ。
独身貴族というと気取って聞こえるかもしれないが、要するに自分の人生のハンドルを100%自分で握っているということだ。
誰かの機嫌を伺う必要もなければ、休日に無理して家族サービスをする必要もない。部屋には自分好みのJAZZが流れ、壁の本棚にはお気に入りの小説がずらりと並ぶ。この完璧な「佐藤王国」において、王である彼に命令できる者は存在しない。
「さて……今夜の『国王の晩餐』といくか」
スーツのジャケットを丁寧にハンガーへかけ、腕まくりをして台所に立つ。
外で気を使って食べる数万円の寿司も悪くないが、誰の目も気にせず、欲望のままに喰らう家飯に勝るものはない。それも、栄養バランスやらマナーやらを完全にドブに捨てた「邪道飯」だ。
今夜選んだ獲物は、戸棚の奥に転がっていた「さばの水煮缶」。
「よし、今夜は『さば缶マヨラー油』だ」
ハゲかけたテフロンのフライパンを取り出し、火にかける。
さば缶をパカリと開け、汁ごと豪快にぶち込む。木べらで適当に身をほぐしたら、ここからが本番だ。
カロリー? 塩分?
そんなものは誰かと暮らしていた頃の「過去の遺物」だ。自分の健康の責任を自分で取るだけの今、誰に遠慮がいるだろうか。
マヨネーズのチューブを握り締め、フライパンの上で大きく三回転。ぐちゅぐちゅと白い渦が描かれる。さらにラー油の瓶を傾け、真っ赤な油をドクドクと回しかけた。
ジリジリ、ジワジワ……
マヨネーズが熱で溶け、さばの脂と混ざり合って白濁した泡を立て始める。
仕上げに醤油を垂らすと、ジュワッ! と激しい音とともに、香ばしい焦げた香りが狭い台所に充満した。身体に悪いことのすべてが詰まった、まさに暴力的な匂い。
「くぅー……たまらん」
お気に入りの皿? 盛り付け? そんな野暮な真似はしない。
炊飯器から直接、どんぶりに山盛りの白飯をよそうと、フライパンから直接、熱々の「さば缶マヨ」をぶっかけた。
ローテーブルにどんぶりをドンと置き、冷蔵庫から出してきた冷えた缶チューハイのプルタブを引く。
プシュッ!
誰もいない部屋に、澄んだ音が心地よく響く。
「乾杯、俺」
グビグビと喉を鳴らしてチューハイを流し込み、すかさず箸でさば缶マヨをすくい、白飯ごと口の中へ叩き込んだ。
「……ッ! んぐっ……うっま……!!」
濃厚なマヨネーズのコクと、ガツンと来る塩気、ラー油のピリッとした刺激。それを追うように、炊きたての米の甘みが口の中で弾け飛ぶ。
お行儀よく噛む必要もない。豪快に咀嚼し、喉の奥へ流し込む。
ふと窓の外を見ると、向かいのマンションの明かりに、家族で食卓を囲むシルエットが見えた。きっと「お父さん野菜も食べて」なんて会話が繰り広げられているのだろう。
(大変だな、世のお父さん方は)
佐藤はニヤリと笑うと、口の端に付いたマヨネーズを袖でぐっと拭った。
気兼ねも、妥協も、遠慮もない。
このジャンクで、チープで、とびきり背徳的な一皿こそが、彼が五十五年の人生で勝ち取った「完璧な自由」の味がした。
「ふぅー……喰った喰った。……明日は天かすと塩昆布のやつにするか」
冷えたチューハイを最後の一滴まで飲み干し、佐藤は満足げに深くソファへ沈み込んだ。




