28. 結婚式
司式者の声が静かな式場に響く中、ヴィオレッタはフェリクスの隣に立っていた。正面には婚姻の証となる指輪が置かれ、その向こうには両家の家族や親しい友人たちが並んでいる。白い婚礼衣装の裾には、小さな季節の花を模した刺繍が連なっていた。髪には母クラリッサと祖母も婚礼の日に身につけた白い花の髪飾りが留められている。朝から何度も鏡で見たはずなのに、こうして多くの人の前へ立つと、やはり自分が本当に結婚するのだという緊張がじわじわと戻ってきた。
それでも、隣に立つフェリクスの存在はよく分かる。視線を向けなくても、ほんの少し近くにいる気配がある。それが妙に心強くて、ヴィオレッタは司式者の言葉を聞きながら、ゆっくり息を整えた。
ところが、しばらくして別のことが気になり始める。
フェリクスが何度もこちらを見ている。
最初は気のせいかと思ったものの、一度ではなかった。少し前にも目が合ったし、今もまた横から視線を感じる。二人とも婚礼衣装は今日まで互いに見せないと決めていたため、フェリクスがヴィオレッタの姿を見たのも、ヴィオレッタが彼の正装姿を見たのも今日が初めてだった。
ヴィオレッタは正面を向いたまま、ほんの少しだけ彼の方へ顔を寄せた。
「さっきから、こっちを見すぎじゃない?」
「仕方ないよ。想像してたよりずっと綺麗だったから」
何でもないことのように返され、ヴィオレッタの頬が少し熱くなる。自分だって人のことは言えない。普段よりも整ったフェリクスの正装姿が気になって、式が始まる前から何度も見ていた。肩から胸元にかけての仕立てもよく似合っているし、いつもより少しだけ髪を整えているのも分かる。
ヴィオレッタは小さく息を吐き、正面へ戻った。フェリクスも今度こそ司式者へ顔を向ける。
やがて婚姻の誓いへ移った。式場の空気がさらに静かになり、司式者から互いを生涯の伴侶として迎える意思を尋ねられる。
先に答えたのはフェリクスだった。
いつもと変わらない穏やかな声だったものの、すぐ隣にいるヴィオレッタには、普段よりわずかに緊張していることが分かった。続いて名前を呼ばれ、ヴィオレッタもはっきりと答える。自分の声が思っていた以上に式場へ通り、少しだけ肩から力が抜けた。
次に運ばれてきたのは、二人の指輪だった。
フェリクスが一つを取り、ヴィオレッタへ向き直る。差し出された手を見た瞬間、ヴィオレッタは数日前の庭園を思い出して口元を緩めた。あの日は自分から彼へ手を差し出し、結婚式の予行練習だと言って笑った。
「予行練習の成果ね」
「ちゃんとできてる?」
「ええ。合格よ」
ヴィオレッタが左手を預けると、フェリクスはその指へゆっくりと指輪を通した。いつもなら迷いなく動く指先が、今日はほんの少しだけ慎重になっている。指輪が無事に収まると、フェリクスは一度だけ確かめるように見つめ、それからヴィオレッタへ顔を上げた。
今度はヴィオレッタの番だった。
もう一つの指輪を受け取り、フェリクスの手を取る。彼の手は思っていたより少しだけ温かい。ヴィオレッタも同じように指輪を通し、最後まできちんと収まったところで顔を上げた。
二人の視線が重なり、同時に笑う。
司式者が婚姻を認める言葉を告げる。
ヴィオレッタは視界の端に家族の姿を捉えた。クラリッサが穏やかに微笑み、その隣でアーノルドも娘を見つめている。エドワードは普段より少し真面目な顔をしていた。反対側にはクロードとレティシア、アレクシスの姿があり、その中でミリアだけは今にも拍手を始めそうなほど嬉しそうにしている。
司式者から最後の言葉が告げられると、フェリクスがヴィオレッタへ向き直った。
今度はすぐには近づいてこなかった。
フェリクスは確かめるようにヴィオレッタの顔を見る。ヴィオレッタも目を逸らさず、その視線を受け止めた。やがてほんの少し顎を上げると、それを合図にしたようにフェリクスの顔が近づいてくる。
ヴィオレッタは静かに目を閉じる。
唇が、そっと重なった。
触れていた時間は長くない。それでも、ほんの一瞬ではなかった。フェリクスがゆっくり顔を離し、ヴィオレッタが目を開ける。すぐ近くにいる彼も少し照れているように見えて、ヴィオレッタの頬にもさらに熱が集まった。
次の瞬間、大きな拍手が式場を満たした。
ヴィオレッタが思わず参列席へ顔を向けると、ミリアが満面の笑みで手を叩いている。その隣ではアレクシスが妹の勢いに少しだけ身を引いており、レティシアも楽しそうに笑っていた。エドワードと目が合うと、兄は何も言わず軽く頷く。ヴィオレッタも笑い返してから、隣にいるフェリクスへ視線を戻した。
式を終えた後は、そのまま宴へ移った。
二人が以前から望んでいた通り、格式は十分に保ちながらも窮屈すぎない宴になっている。来客へ延々と挨拶を続けるだけではなく、きちんと話す時間もあり、食事を取る余裕もある。席へ戻ったヴィオレッタは、運ばれてきた料理へ手を伸ばし、その温かさに思わずフェリクスを見た。
「ちゃんと温かいわ」
「そこは大事だからね」
二人で結婚式について話し合っていた時、フェリクスが妙に真剣な顔で気にしていたことを思い出し、ヴィオレッタは笑いながら料理を口へ運んだ。
その席へ真っ先にやって来たのはミリアだった。
いつも以上に機嫌がよく、ヴィオレッタの婚礼衣装を近くで眺めてから、今度は髪飾りへ目を輝かせる。
「今日から本当にお義姉様ですね!もう正式に兄様のお嫁さんです!」
「というか、婚約した時からずっとそう呼んでいたでしょう?」
「今日からは正式なんです!そこが大事なんですよ!」
嬉しそうに力説するミリアに、ヴィオレッタもフェリクスも笑った。少し離れた場所からアレクシスに呼ばれると、ミリアはまだ話したそうにしながらもそちらへ戻っていく。
宴が進めば、両家の家族も自然に入り交じっていた。アーノルドとクロードは落ち着いて話し、クラリッサとレティシアも時折笑い声を上げている。エドワードはアレクシスと話しており、以前から予定している馬具を見に行く日のことまで相談しているらしい。
ヴィオレッタはその様子を眺めながら、グラスへ口をつけた。
やがて楽団の演奏が変わり、広間の中央に場所が空けられる。最初の一曲を踊る時間になったようだった。
フェリクスが席を立ち、ヴィオレッタの前へ回る。少しだけ芝居がかった仕草で片手を差し出した。
「予約していた一曲、もらってもいい?」
「だから、予約しなくても最初からあなたでしょう?」
以前、街の広場で交わした言葉をそのまま返し、ヴィオレッタはフェリクスの手を取った。
二人で広間の中央へ進むと、楽団がゆっくりと曲を奏で始める。フェリクスの手がヴィオレッタを導き、白い婚礼衣装の裾が動きに合わせて床の上を滑った。何度も踊ったことのある相手なのに、今日は少し違って感じられる。フェリクスも普段より慎重らしく、ヴィオレッタの足運びを確かめながら歩調を合わせていた。
途中でヴィオレッタの靴先が裾へ触れかけた。
前日にエドワードから転ぶなと言われたばかりだったことを思い出し、思わず笑いそうになる。フェリクスがすぐに支えてくれたため、そのまま何事もなかったように次の動きへ移った。
「今、笑った?」
「ちょっとお兄様を思い出しただけよ。昨日、裾を踏んで転ぶなって言われたの」
「危なかったね。エドワードさんの予言が当たるところだった」
フェリクスも笑い、それからは少しだけ速度を落とした。ヴィオレッタも彼の歩幅に合わせ、次の動きへ入る。
一曲が終わると、周囲から再び拍手が送られた。
ヴィオレッタは軽く息を整えながらフェリクスと席へ戻り、その後も家族や友人から祝いの言葉を受けた。セシリアから婚礼衣装を褒められ、クラリッサには髪飾りの位置を一度だけ直され、ミリアは少し時間が経つとまたヴィオレッタのところへ戻ってくる。賑やかな時間は途切れることなく続き、フェリクスも何度も呼び止められては笑顔で応じていた。
しばらくして、ヴィオレッタがようやく一息つける頃には、楽団の曲も何度か変わっていた。
フェリクスが隣から少しだけ顔を寄せる。
「少し外に出る?」
「ええ。ちょうどそうしたいと思っていたところ」
二人は人の流れが落ち着いた隙に広間を抜けた。扉の向こうには式場に続く庭があり、外へ出れば宴の音も幾分遠くなる。花壇の間を通る石畳には室内から漏れた明かりが落ち、涼しい風がヴィオレッタの婚礼衣装の裾を揺らした。
フェリクスは人目が少なくなったところで大きく息を吐く。式の最中はほとんど崩さなかった表情が、ようやくいつもの柔らかなものへ戻っていた。
「そんなに緊張していたの?」
「してたよ。指輪を落としたらどうしようとか、誓いの言葉を噛んだらどうしようとか、色々考えてた」
「全然そうは見えなかったわ」
「それなら成功かな」
ヴィオレッタは笑いながら近くの手すりへ軽く手を置いた。庭から振り返れば、広間の窓越しに人々の姿が見える。ミリアが誰かと話しながら大きく身振りをしているのも分かり、ヴィオレッタはまた小さく笑った。
しばらく二人で風に当たっていると、フェリクスが何かを思い出したようにヴィオレッタへ向き直った。
「そうだ。新婚旅行なんだけど、南へ行かない?」
「南って……前に話していた海の?」
「うん。ヴィオレッタ、行ってみたいって言ってただろ。港の市場も見たいって言ってたし、せっかくだから少し長めに滞在できるようにしてみたんだ」
ヴィオレッタは目を見開いた。
フェリクスが旅先で見たという南方の海。幼い頃から地図を広げて旅を夢見ていた彼から何度も聞き、いつか自分も見てみたいと思うようになった場所だった。以前二人で話した時には、具体的な予定など何も決まっていなかった。それが新婚旅行の行き先として、突然目の前まで近づいている。
フェリクスはそんなヴィオレッタの反応を見ながら、楽しそうに続けた。
「海沿いの町なら市場にも行けるよ。朝はかなり早いけど、起きられなかったら俺が起こすから。それから、向こうには――」
その先を聞く前に、ヴィオレッタは一歩踏み出した。
「大好きよ。フェリクス」
そう言って幸せそうに笑ったヴィオレッタは、もう溢れそうになる喜びを抑えることもせず、そのまま目の前にいるフェリクスの胸へ勢いよく飛び込むのだった。
最後までありがとうございました!一旦は完結となります。短編はボチボチと投稿していますので、そちらも良かったらどうぞ!
面白かったら評価&ブックマークをよろしくお願いします。




