れいじょうのてんがい
薔薇の香りが、その日だけは死臭のように鼻を突いた。
エレナがどうしても外せない公務で部屋を空けたその朝、彼女は「僕」の首輪の鎖をいつもより短く繋ぎ、冷ややかな、けれどどこか愉快そうな笑みを残して去っていった。
「留守の間、寂しくないように『遊び相手』を用意しておいたわ。精々、可愛がってもらいなさい」
その言葉の意味を、愚かな僕は「退屈しないように本や楽器でも用意した」のだと、甘く考えていた。だが、扉が開くと同時に雪崩れ込んできたのは、普段は影のように控えていた数人の侍女たちだった。
そこにエレナのような洗練された上品さは微塵もなかった。彼女たちが剥き出しにしたのは、高貴な主人の傍らで抑圧され、歪んだ、純粋な加虐心と性的な渇望だった。
「公爵令嬢のお気に入りだっていうから、どんな上等な玩具かと思えば」
「ただの、空っぽな男じゃない。ねえ、私たちにも味見させてよ」
容赦のない言葉の刃とともに、侍女たちはその包囲網を狭めていく。
彼女たちは慎重であった。エレナが「自分の所有物」の造形美を損なうことを何より嫌うと知っているからだ。身体に傷をつけるような真似は決してせず、ただ、逃げ場のない空間で執拗に言葉で追い詰め、精神的な屈辱を与えることで、その心を支配しようとした。
エレナという唯一の規律が存在しない空間で、無数の悪意に晒される絶望。秩序のない精神的な蹂躙に、心の平穏は静かに削り取られていく。
数時間が経ち、侍女たちが去った後。
彼女たちは先ほどの冷酷さが嘘のような平然とした顔で、身なりを整えさせ、何事もなかったかのように立ち去った。
再び静寂が戻った部屋で、エレナの帰還を待つことしかできない時間が過ぎていく。
しばらくして、エレナが帰還した。
彼女は部屋に入るなり、所有物を確認するかのように、その顎を指先で持ち上げた。
「……待っていたわよ。私の、可愛いお人形」
彼女の態度はどこまでも傲慢で、支配的であった。しかし、その厳格な支配に晒されながら、心は恐ろしいほどの安堵を覚えてしまう。
(エレナがいれば、あの侍女たちの悪意から守られる。この支配の中にいれば、もうあのような不条理な恐怖に怯えなくて済むんだ)
自分を独占し、管理してくれるエレナ。彼女の強固な支配こそが、あの無秩序な悪意から守ってくれる唯一の避難所なのだと、追い詰められた精神は誤認し始めていた。
そのような日々が繰り返された。
エレナが出かけるたびに、侍女たちは冷酷な観察者へと変貌し、精神を磨り減らしていく。その度に、救済としてのエレナの支配を待ち焦がれるようになっていく。
ある夜、エレナの傍らで、彼女の服の袖を強く掴んだ。
尊厳を奪い去った張本人であるはずの彼女が、今や、外界の悪意から守ってくれる唯一の存在に見えていた。
「どこへも行かないで。ずっと、ここにいてください……」
縋りつくようなその願いを聞いた瞬間。
エレナの唇が、三日月のように艶やかに、残酷に歪んだ。
「……ふふ、そう。本当によく懐いたわね」
その微笑みの本当の意味が明かされることはない。
侍女たちに悪意を解放させることで、恐怖と依存を植え付け、自分なしではいられない状態へと作り替える。その残酷な構図を描いたのが、目の前の美しい令嬢であることを知る術はなかった。
ただ、彼女が放つ甘い薔薇の香りと、絶対的な支配の重みの中に、自ら沈んでいくことしかできなかった。




