北塔の暗闇
北塔の最上階。そこは星を観測するための場所ではなく、人間を「規格品」へと造り変えるための工房だった。常に重苦しい油の匂いと、触媒が焼ける魔力特有の焦げ臭さが充満し、歯車が噛み合う不快な金属音だけが「僕」の心音に取って代わっている。
「……十一号。また、脈拍が乱れているね。君の心臓は、もう少し私の術式を信頼すべきだ」
ドクターは、度の強い水晶眼鏡の奥で、血走った瞳を執拗に動かしながら僕を見つめる。
彼は、老神官から「代わりはいくらでもいる、殺して構わん」と告げられた際、心底不快そうに顔を歪めていた。彼にとって、被験者の死は「研究の失敗」であり、自身のプライドに対する最大の侮辱だからだ。
「いいか。老神官は代えが利くと言うが、私はそうは思わない。君のように適応力の高い検体は、砂漠に落ちた一粒の真珠だ。……君は死なない。私が、死なせない。たとえお前の意志がそれを望んでも、私はこの禁忌の術式を集めて、お前を『生』の側に繋ぎ止めてみせる」
僕は、冷たい鉄の作業台に、四肢を呪印が刻まれた皮帯とボルトで固定されていた。
「さて、今日の工程だ。昨日の接続テストでは、肘から先の神経が焼けてしまったね。だが、焼けたのなら、焼けないものに替えればいいだけの話だ」
ドクターは、青白い燐光を放つ「切断の魔導メス」を手にする。それは刃を持たず、魔力を極限まで圧縮した「見えない糸」で肉を割り、断面を瞬時に焼き固める呪具だ。
麻酔はない。彼の持論では「神経の結合時の痛覚反応こそが、義肢との同調率を測る唯一の指標」だからだ。
「……っ、が、あぁぁぁぁぁ!!!」
肩の付け根に熱線が走り、肉が瞬時に炭化しながら割ける。
ドクターは、僕の苦悶を「生への力強い反応」として満足げに受け流しながら、剥き出しになった神経の一本一本を、極細の銀糸で拾い上げていく。
「素晴らしい……。君の神経系は、魔導的な干渉を受けてなお、必死に再生しようとしている。この『生への執着』こそが、私の求める最高の素材だ」
そこに接続されるのは、鈍い光を放つ黒鉄の義腕。内部には無数の魔力バイパスが走り、複雑な歯車が組み込まれている。
接合部から高圧の魔力が流し込まれた瞬間、僕の脊髄を逆流する激痛が駆け抜けた。
「ひ、ぎっ、あ、あ、あああ……っ!」
自分の意志とは無関係に、鋼の指がガチガチと音を立てて握り込まれる。
ドクターは、僕の顔の横で、その鉄の指が自律的に動く様子をじっと観察している。
「感度は良好だ。だが、これではまだ君の肉体が金属の出力に耐えられない。……よし、次は上腕の筋繊維を、魔獣の腱を用いた人工筋肉に置換しよう。君の生身の肉を削ぎ落とし、過熱を防ぐための冷却魔陣を皮膚の下に直接刻印する必要がある」
夜が更けるまで、あるいは夜が明けるまで。
僕の身体は、造られては壊され、繋がれては引き剥がされる。
ドクターは決して、僕に「死」という逃げ場を与えない。一瞬でも心音が弱まれば、即座に蘇生の術式が起動し、意識は強制的に地獄の真っただ中へと引き戻される。
神経を焼く魔力。骨を削る振動。
そして、自分という個体が、ドクターの執念によって「永劫に終わらない実験体」に固定されていく絶望。
数週間が経過した頃、北塔の僕の右半身は、もはや皮膚よりも金属と術式の面積の方が広くなっていた。
そしてその夜。本体へと帰還した僕を待っていたのは、右半身が鉛のように重く、心臓が機械的に刻む「異物感」という、狂いそうなほどの違和感だった。
数日後。北塔に横たわる「僕」の前に、ドクターは見たこともないほど複雑な、水晶と真鍮が組み合わさった小さな球体を持ってきた。
「十一号、今日は素晴らしい『光』を君に贈ろう。君の生身の眼球は、情報の処理能力があまりに低すぎる。これでは私の術式が発する高密度の魔力を視認することさえできない。……もったいないことだ、世界にはこれほど美しい真理が溢れているというのに」
ドクターの指先が、僕の左のまぶたを優しく、しかし抗いようのない力でこじ開ける。
恐怖で激しく動く僕の瞳孔。ドクターはそれを愛おしそうに見つめながら、傍らに置かれた「感覚遮断の杭」を手にした。それは痛みを取り除くためのものではなく、肉体の防衛本能による「まばたき」や「拒絶」を、神経系から直接ロックするための呪具だ。
「……っ、ああ、あぁぁあああ!!」
こめかみに冷たい釘のような感覚が突き刺さり、僕の左目の自由は完全に奪われた。まぶたを閉じることさえできない。視界には、ドクターの歪んだ笑みと、青白く光る「摘出の針」が嫌なほど鮮明に映り続けている。
「安心していい。君の視神経は、私が丁寧に保護してやる。……さあ、君の不完全な窓を、一つ閉じるよ」
視界の端から、鋭い冷気が入り込んできた。
眼窩の奥、脳のすぐ近くを、細い魔力の刃がかき回す不快な感覚。
ブチ、ブチ、と。
自分と世界を繋いでいた細い糸が、一本ずつ断ち切られていく音が、頭蓋骨の内部に直接響く。
直後。
左の視界が、一瞬にして底知れぬ漆黒に塗り潰された。
あったはずの場所にある、虚無。
自分の身体の一部が強引に引き抜かれた喪失感に、僕は声にならない絶叫を上げた。
ドクターは、僕の眼窩から取り出した、血に濡れた「かつての僕の眼球」を、興味なさげに傍らの廃液槽へと放り込んだ。
「さて、ここからが本番だ。……接続。魔導センサー『眼の王』、起動」
空っぽになった眼窩に、あの重苦しい真鍮の球体が押し込まれる。
ミシリ、と骨が軋む音。
そして次の瞬間、僕の脳に「あってはならない情報」が濁流のように流れ込んできた。
「ひ、ぎぃっ!! あ、あが、あああああああ!!!」
視界が、爆発した。
見えないはずの空気の魔力循環。壁の奥を流れる熱量。ドクターの体内を流れる不浄な魔力波形。
一千万もの色の欠片が、神経を直接焼くような熱を伴って、僕の意識を蹂躙する。
あまりの情報量に、脳が、精神が、沸騰して溶けてしまいそうだった。
「……見えるだろう? それが真理の姿だ。君の脳が焼き切れないよう、私が魔導的なリミッターを外付けしておいた。君は一生、この『視えすぎる』地獄の中で、私の研究を観測し続けるのだよ」
ドクターの哄笑が、新しく埋め込まれた光学眼の「ズーム機能」によって、異様なまでの解像度で迫ってくる。
「十一号、君の泣き声は実に情緒的だが、音響学的にはひどく非効率だ」
ドクターは、調整の終わった僕の左の光学眼が映し出す極彩色の世界を、満足げに手元の羊皮紙に記録しながら告げた。
光学眼は、瞬きの一つさえ許さず、ドクターが手に取った「細長い、蛇のような形をした銀の管」を逃さず捉えていた。
「君の喉、声帯……それは空気を震わせるだけの原始的な仕組みだ。私の研究には、もっと純粋な、魔力そのものを振動として出力できる『共鳴体』が必要なんだよ。……ああ、そんなに震えないでくれ。喉の筋肉が強張ると、切開線が歪んでしまう」
ドクターの指先が、僕の喉仏をなぞる。
冷たい術式が喉に触れた瞬間、声が出なくなった。叫ぼうとしても、肺からの空気が喉の奥で不可視の壁に突き当たり、虚しい喘ぎだけが口から漏れる。
「よし、沈黙は金だ。始めよう」
ドクターは、僕の首の皮膚を、顎の下から鎖骨の付け根まで一気に割り開いた。
魔導メスの燐光が、喉の奥に隠された柔らかな組織を照らし出す。ドクターの指が、血に濡れた僕の「声帯」を、まるで邪魔な雑草を抜くかのような無造作さで引き剥がした。
――声にならない。絶叫さえ、喉を通り抜けることができない。
口腔内に溢れる血の鉄錆びた味と、喉にポッカリと空いた穴。
そこに、あの銀の管――「魔導増幅器」が無理やりねじ込まれた。
真鍮の牙が、僕の喉の骨に直接食い込み、神経系と魔力経路を強引に繋ぎ合わせていく。
「……接続完了だ。さあ、声を出しなさい。いや、『出力』したまえ」
ドクターが僕の胸の横にある「肺を強制駆動させる」スイッチを入れた。
「――キィィィイィィイイイイイン!!!」
僕の口から漏れたのは、人間の声ではなかった。
それは、金属と金属が擦れ合い、魔力の奔流が空気を切り裂くような、高周波のハウリング。
自分自身の声が、自分の鼓膜を内側から突き破らんばかりに振動させる。頭蓋骨全体が、機械的な共鳴で激しく震え、視界が二重、三重に歪む。
「素晴らしい! 期待以上の純度だ! この振動波を使えば、魔導結界の干渉調査も、魔獣の神経麻痺も、君の『一鳴き』で事足りるだろう」
ドクターは歓喜し、何度も僕の胸を叩いては、その「声」を出力させ続けた。
喉にあるのは、もはや柔らかな肉ではない。
冷たい銀の筒が、僕が息をするたびに、内側から喉を鋭く削る。
僕の意志とは無関係に、ドクターが魔力を流せば、僕の口からはこの世のものとは思えない異質な不協和音が吐き出される。
光学眼で「見たくない真理」を視せられ、魔導増幅器で「人ならざる音」を奏でさせられる。
ドクターのプライドは、僕の五感すべてを、彼専用の「観測機器」へと作り変えるまで止まることはなかった。
「十一号、君は少しばかり『自由』に動きすぎる。それでは実験の精度にムラが出るのだよ」
ドクターは、無機質な光学眼と銀の喉を得た僕を、検品するような冷めた目で見つめた。
光学眼が捉えるドクターの手には、細長く、節くれだったムカデのような魔導具――「脊髄制御棒」が握られていた。
僕はうつ伏せにされ、脊椎のラインに沿って背中の肉を大きく割かれた。
麻酔という概念はこの塔には存在しない。むしろ、ドクターは僕がどれほど鮮明に苦痛を感じているかを、計器の目盛りを追うように楽しんでいる。
「……っ、ぎ、ぎィィ、ィィ……!」
銀の喉から漏れるのは、もはや悲鳴ではない。歪んだ高周波のノイズが、石造りの壁に反射して僕自身の脳を刺す。
ドクターの冷たい指先が、剥き出しになった僕の脊椎をなぞる。
「ほう、素晴らしい。この神経の束……。ここが、君という原始的な生命を動かす主幹だ。ここを私の『回路』に直結させれば、君はもう、無駄な抵抗にエネルギーを割く必要はなくなる」
ドクターは、脊椎の節と節の間に、あのムカデのようなロッドを一本ずつ、ハンマーで楔を打つように叩き込んでいった。
「――ッ!!!???」
衝撃が走るたびに、全身に雷が落ちたような過負荷が駆け巡る。
指先が勝手に跳ね、脚が不自然な方向に折れ曲がり、全身の筋肉が断裂せんばかりに収縮する。
自分の意思が「右へ動け」と命じても、脊髄に打ち込まれた黒い鉄の楔がそれを遮断し、ドクターが流し込む「命令信号」へと書き換えてしまう。
「さあ、同期だ」
ドクターが傍らのレバーを倒した。
その瞬間、僕の意識と肉体の繋がりが完全に断たれた。
僕は自分の腕が、自分の喉元を締め上げるのを見た。
僕は自分の脚が、自分の意思に反して冷たい床に立ち上がるのを感じた。
意識は、ただ「見ている」ことしかできない。
肉体という檻の中に閉じ込められ、外からドクターという操り人形師が、脊髄のレバーを操作して僕を踊らせている。
「成功だ。これで君は、私の意志を完璧にトレースする『生体義体』となった」
ドクターは満足げに笑い、操り人形となった僕の頬を撫でた。
光学眼は、その冷酷な指先を最高解像度で映し出し、銀の喉は、勝手に感謝の不協和音を奏で始める。
心だけが、動かない肉体の奥底で、血を吐くように絶叫し続けていた。
「最終テストだ、十一号。君というシステムの『優先順位』を書き換えさせてもらうよ」
ドクターの冷徹な声が、北塔の静寂を切り裂いた。
脊髄に打ち込まれた制御棒からは、常に微弱な電流が漏れ出し、僕の意志と肉体の接続を、錆びついた鎖のように蝕んでいる。
ドクターは、僕の目の前に一本の「解体用の短剣」を置いた。そして、傍らの操作盤にある、ひときわ巨大なレバーをゆっくりと倒した。
「――同期率、限界突破」
その瞬間、僕の視界は真紅に染まった。光学眼が異常な熱量を感知し、脳内に警告音を響かせる。
僕の右腕――あの、真鍮と鋼で造られた異形の義肢が、僕の意志を無視してゆっくりと動き出した。
(やめろ……。動くな……!)
心の中でどれほど叫ぼうと、銀の喉は「キィィィ」という高周波の肯定音を奏でるだけだ。
僕の右腕は、机上の短剣を迷いなく掴み取った。そして、その切っ先を、僕自身の「生身の左腕」へと向けたのだ。
「生存本能と、私の命令。どちらが上位にあるかを確認させてもらおう。十一号、君が死を拒む意志があるなら、その義肢を止めてみせたまえ。……まあ、脊髄を私に握られている以上、それは物理的な矛盾だがね」
ドクターは楽しそうに、眼鏡を指で押し上げた。
鋼の指が、短剣を強く握りしめる。
一ミリ、また一ミリと、刃が僕の左腕の皮膚に近づいてくる。
僕は必死に、左腕を引こうとした。しかし、脊髄の制御棒が、左半身の「逃走」という信号を、強制的に「固定」へと書き換える。
逃げることさえ許されず、僕は自分の右腕が、自分自身を刺し貫く光景を、最高解像度の光学眼で見つめることを強要された。
「あ……あが……っ!」
――ズブり、と。
生ぬるい肉の感触が、義肢を通じて「触覚データ」として脳へ流れ込む。
自分の手が、自分の肉を割き、骨を削る不快な手応え。
ドクターは満足げに、流れる血の量と、僕の脳波のパニック数値を記録している。
「ほう。痛覚のフィードバックが義肢の駆動を加速させているな。素晴らしい。自傷行為による自己増幅だ」
右腕は止まらない。一度突き刺した刃を、今度はゆっくりと横に引き裂き始めた。
肉が裂け、血管が断たれる。
脳は「死を回避せよ」と絶叫しているのに、身体はドクターの指先一つで「より深く、より確実に自分を破壊する」ために駆動し続ける。
この恐怖は、単なる痛みではない。
自分という存在が、自分自身を「敵」として認識し、排除しようとする、存在そのものの自己矛盾。
「……テスト終了だ。合格だよ、十一号。君の身体は、完全に私のものになった」
ドクターがスイッチを切ると、右腕は力なくダラリと垂れ下がった。
床に広がるのは、僕の血。
左腕に刻まれた深い傷は、僕の意志ではなく、僕の「肉体」が僕を殺そうとした証拠だ。
光学眼は、その傷口を無機質にズームアップし続け、銀の喉は、ドクターへの服従を示す歪んだ音を吐き出し続けた。
本体である僕の「笑顔の仮面」に、また一つ、今度は剥がれ落ちそうなほど深い欠けが生じた




