これはきっとプロローグ。でも読まない方が楽しめるかもね
長げえよ…
退屈な午後の授業。窓の外では部活動の掛け声が遠く響き、教室内にはチョークの音と、友人たちの小さな私語が混じり合っていた。
「ねえ、放課後どうする? 新しくできた店寄ってかない?」
隣の席の友人が、教科書で口元を隠しながら他愛ない笑みを浮かべる。
僕はいつものように、容姿の良さに感情をなぞり書きしたような「作り物の笑顔」を貼り付けて、「いいよ」と短く答えた。他人の顔色を窺い、指示を待つ。それが、僕がこの世界で生き抜くための、唯一の術だった。
――その、平穏が爆ぜた。
視界が真っ白に塗りつぶされる。網膜を焼くような強烈な閃光。
悲鳴を上げる間もなく、足元から重力が消えた。
「――っ!?」
数秒か、あるいは数時間か。
光の残像が消え、再び視界が形を結んだとき、そこはもう見慣れた教室ではなかった。
冷たく湿った空気。高い天井を支える無骨な石柱。松明の炎が揺れる、広大な地下の間。
まるで、最近流行っている異世界召喚のようだ。クラスの人達が少し前にアニメで盛り上がっていた。
しかし、直後に上がったのは「歓喜の声」ではなく、内臓を掻き毟るような「絶叫」だった。
「ぎゃあああああああ!!」
「足が、俺の足が……っ!!」
魔法陣の境界線上。
そこには、幾何学模様に沿って見えない刃でもあるかのように、『切断』されたクラスメイトたちが転がっていた。
運悪く円の外側へはみ出した腕が、脚が、あるいは半身が、切断面から鮮血を噴き出しながら石畳を濡らしていく。
パニックに陥り、泣き叫ぶ生徒たち。
しかし、その凄惨な光景を、祭壇の上から見下ろす者たちの瞳に「慈悲」の色はなかった。
「……やはり数体、欠損が出たか。まあよい」
豪奢な法衣に身を包んだ老神官が、鼻を突く血生臭さの中、淡々と告げた。
「おめでとう、異世界より選別されし供物たちよ。お前たちは今、この聖王国を救う『部品』として、正しく召喚されたのだ」
その声を最後に僕たちは意識を失った。
__________
意識が戻ったとき、最初に見えたのは石の天井だった。息を吸い込むと咳が出る。肺の奥にこびりつくような、カビ臭い地下の空気。
周りを見渡すと、そこは先ほどの広間ではなく、窓一つない石造りの大部屋だった。冷たい石の床に、薄い布を敷いただけの粗末な寝床が並んでいた。
唯一壁の松明だけが、暖かい光と温度を届けてくれる。
そこには布の上に倒れているクラスメイトだった。何人かはすでに起きていた。
「ここは?」
「何この服?」
「ううぅ…」
周りの声に、僕は自分の体を見下ろした。
着慣れたブレザーも、気に入っていたスニーカーも消えていた。代わりに身に纏っていたのは、肌を刺すような、ゴワゴワとした肌触りの麻服だ。
思わずポケットを探る。だが、ポケットなんて物自体が無かった。そこにあったはずのスマートフォンも、家の鍵も、日常を証明する残骸は何一つ残っていない。
周囲では、クラスメイトたちが次々と起き上がっていた。ある者は「制服がない!」と叫び、ある者は「スマホを返して!」と泣き喚いている。
けれど僕は、その混乱をどこか他人事のように眺めていた。この「持てるものすべてを奪われた感覚」は、僕にとって未知の恐怖ではなかったからだ。
不意に、部屋の重厚な鉄扉が跳ね上がるように開いた。
姿を現したのは、先ほどの老神官と、全身を金属鎧で固めた十数人の兵士たちだ。彼らは抜剣こそしないものの、その手に握られた長槍の切っ先は、明らかに僕たちに向けられていた。
「騒ぐな、部品ども。これより、貴殿らの価値を定める『検分』を行う」
老神官の冷徹な一言で、部屋の温度が数度下がった気がした。泣き叫んでいた者たちも、兵士たちの放つ威圧感と、剥き出しの暴力の気配に、身を震わせながら黙り込むしかなかった。
部屋の中央に、鈍い光を放つ大きな水晶が運び込まれる。
クラスメイトたちが、恐怖に顔を強張らせながら、一人ずつ神官の前に引きずり出されていく。
「――『剣士』。一等兵として鍛錬を課す」
「――『魔法使い』。ふむ、よい素質だ。努力次第では好待遇になるぞ」
「――『料理人』。厨房へ行け。代わりはいくらでもいる、励め」
「――『メイド』。礼儀を叩き込む必要があるな」
水晶に触れるたび、彼らのこれからの人生……いや、「用途」が一方的に決定されていく。それは救世主の選別などではなく、家畜のセリに似ていた。
やがて、僕の番が来た。
神官に促されるまま、僕は冷たい水晶に手を置く。
一瞬、水晶の奥で泥のような濁った色が渦巻いた。老神官はそれを見た瞬間、あからさまに不快そうに鼻を鳴らす。
「……ふん。適性なし、か」
老神官は僕の顔を見ることすらなく、手元の台帳にペンを走らせる。
「貴様は『下男』だ。せいぜい城の汚れを拭って一生を終えよ。誰の役にも立たぬゴミにも、その程度の価値はあるだろう」
周囲のクラスメイトから、安堵と心配と嘲笑の混じった視線が刺さる。
彼らの中では「自分たちより下の存在」が確定したことで、奇妙な結束感が生まれていた。
一部の心配してくれる人たちは、きっとこの容姿をもったいなく思っているのだろう。
僕はただ、感情の消えた「仮面の笑顔」をわずかに浮かべ、神官に頭を下げる。
「……わかりました」
_______
僕に与えられた仕事は、城内で誰もが嫌がる雑用の詰め合わせだった。
夜明け前、凍えるような井戸水を汲み上げる。
厨房に運べば、休む間もなく山のような皿を洗う。
それが終われば、城の裏手にある「ぼっとん便所」の汲み取りだ。悪臭の立ち込める地下で、桶を担ぎ、素手で汚れを掻き出す。他の下男たちが鼻をつまんで吐き気を堪える中、僕は無表情に、ただ機械的に手を動かした。
「……お前、よく我慢できるな。前の奴らなんて嫌がりすぎて処分されたってのに」
指示をくれる下男が驚いたように声をかけてくる。
僕はいつものように、感情をなぞり書きしたような「笑顔の仮面」を貼り付けて答えた。
「掃除なら慣れていますから。何かほかに、僕がやるべきことはありますか?」
その態度は、城の人間たちにとって極めて都合が良かった。
兵士たちからは荷運びと案山子替わりに重宝され、料理人からは皿洗いの速さを褒められ、容姿の良さからか夜には侍女の憂さ晴らしに重用され、掃除担当のメイドからは「あの子は本当にいい子だ」と、いつの間にか小さな「信頼」のようなものが積み上がっていく。
理不尽な怒鳴り声も、身を削るような重労働も、望まない行為も、異世界だとしても、僕にとっては「日常」の延長に過ぎない。
他人の指示に従っている間だけは、自分が何者かを考えなくて済む。
自分の選択の責を負わなくて済む。怒りはない、悲しみもない。
そうして四日が過ぎた。
僕は完全に、この城の景色の一部……「動いて文句を言わない便利な道具」として馴染んでいく。
五日目の午後。僕は中庭の隅で、馬小屋から運び出した汚れた藁の山を荷車に積んでいた。
額から流れる汗が目に入り、染みる。袖で適当に拭い、再び重いフォークを突き立てた。その時、石畳を叩く規則正しい足音が聞こえてきた。
「――おや。誰かと思えば、我らがクラスの人気者じゃないか」
低俗な嘲笑を孕んだ声。
顔を上げると、そこには新品の革鎧に身を包み、腰に訓練用の木剣を下げた三人の少年たちが立っていた。中心にいるのは、クラスでも素行の悪さで有名だった佐々木だ。
彼はもともと喧嘩っ早く、暴力への忌避感がない。その性質が「騎士適性」として評価されたのか、今は「聖騎士見習い」という、この城でも将来を約束された地位に就いている。
「……こんにちは、佐々木君。訓練、お疲れ様です」
僕はいつものように、完璧な「笑顔の仮面」を作って頭を下げた。
だが、その一言を発した瞬間、佐々木の顔が真っ赤に膨れ上がった。
「――あぁ?」
佐々木はドスドスと距離を詰めると、僕の胸ぐらを掴み上げる。
「今、なんて言った? 『佐々木君』だと?」
至近距離で浴びせられる、怒りと軽蔑の混じった唾飛沫。
「いいか、よく聞けゴミクズ。俺は将来聖騎士を約束されてんだ。特権階級なんだよ。対してお前は何だ?クソをかき混ぜるのが仕事の、ただの『下男』だろうが!これからは俺を呼ぶときは『佐々木様』だ!わかったか!!」
掴まれた胸ぐらが更に締め上げられ、呼吸が苦しくなる。佐々木は僕の顔を覗き込み、憤怒の形相で叫ぶ。
「はい。佐々木様…」
僕は苦しそうに顔をゆがめ、怯えた表情にする。その態度に満足したのか佐々木は手を放す。せき込み倒れこむ僕に佐々木は嬉しそうに言う
「へっ、お前もそんな顔するんだな。いつものヘラヘラした面じゃなくてよ。学校じゃ女子どもが『ミステリアスで素敵』なんて騒いでたが……今のお前はどうだ? 糞尿の臭いを撒き散らして、地べたに這い蹲ってる!この世界じゃ女子共は助けちゃくれないぜ?」
「まあ、せいぜい家畜の世話をがんばれや。クソと泥にまみれてな!」
彼は僕の足元にある、汚物にまみれた藁の山を鼻先で指し、取り巻きの二人と顔を見合わせて下品に笑う。
彼らにとって、検分のあの日、クラス内でほどほどの位置にいた僕が「下男」というゴミ溜めに放り込まれたことは、何よりの娯楽だったのだろう。
「おい、下男。仕事が遅いんじゃないか? 俺たちの通り道にそんな汚ねえ荷車を置くなよ」
佐々木はわざとらしく鼻をつまみ、落ちてる道具を蹴飛ばして通り過ぎていく。
取り巻きの二人と顔を見合わせ、英雄にでもなったかのような高笑いを響かせながら。
「……あはは、すみません。すぐ片付けますから」
僕は膝をついたまま、去りゆく彼らの背中に向かって、もう一度深く頭を下げた。
怒りも、悲しみも、屈辱も。そんなものは、とっくの昔にこの笑顔の裏に隠して、どこかへ捨ててしまった。
僕はただ、汚れを払うこともせず、散らばった藁を一つずつ、また黙々と荷車に戻し始めた。
_______
ある日の夜。城の厨房は、重苦しい静寂と油の匂いに満ちていた。
下男たちの間で「あいつに任せれば完璧だ」という評価が広まった結果、僕の仕事は雪だるま式に増え、睡眠時間はついに二時間を切っていた。
目の前には、翌朝までに磨き上げなければならない巨大な鍋と、山のような食器の塔。
まぶたが重い。意識が霞む。
(……あと一人。もう一人、僕がいれば、終わるのに)
朦朧とした意識の中で、そう願ってしまうくらいに僕は疲弊していた。
――瞬き、ひとつ。
パチリと目を開けたとき、隣に「それ」が立っていた。
同じ汚れきった麻服。同じ痩せこけた体躯。そして、同じ僕の顔。
「それ」は表情もなく、焦点の合わない目で、じっと虚空を見つめている。
「……え?」
声が漏れた。
幻覚ではない。隣からは、僕と同じ、わずかな体温が伝わってくる。
僕が驚愕に固まっていると、もう一人の僕はゆっくりと首をこちらへ向け、乾いた声で言った。
「――指示が欲しい」
その言葉は、驚くほど平坦だった。
僕は震える手で、もう一人の僕……の肩を掴んだ。手応えはある。感触が、視覚が、鼻を衝くあまりいい匂いとは言えない自分自身の匂いが、そこに幻でない実態があることを証明していた。
「君は……誰だ?もう一人の僕?」
僕の問いに、もう一人の僕は少しだけ首を傾げた。その仕草は、鏡を見ているようでもあり、どこか幼い子供のようでもある。
「……わからない。自分が誰なのか、思い出せないんだ」
彼は自分の汚れた手を見つめ、どこか遠くを見るような目で言葉を紡ぐ。
「でも、君が誰かはわかる。君が受けてきた痛みも、あの『佐々木様』に言われた酷い言葉も……まるで、誰かから聞かされた物語みたいに、頭の中に浮かんでくるんだ。でも、それは僕自身の思い出じゃない。僕の心は、今、空っぽなんだ」
彼はふらりと僕に歩み寄り、縋るように僕の瞳を覗き込んだ。
「ねえ、僕はどうすればいい? 君が僕を呼んだんだろう? 何か、僕にできることを……指示を、くれないか」
その声には、「存在理由を求める切実さ」が混じっていた。
僕は息を呑む。こいつは僕だ。でも、僕じゃない。
僕が持っている「恐怖」も「諦め」も持たない、真っ白な自分自身。
僕は混乱を抑え込み、その場で幾つかの検証を開始した。
まず、もう一人の僕、『彼』は僕の知識と経験を持っていた。けど、あくまで知識と経験のみで、そこにその時の感情はないようだ。
(彼が最初にいったように、記録はあっても記憶がないみたいな感じかな)
次に、一人だけじゃなく、もっと出せないかと思い実行する。
僕は、心の中で「できるだけ出てこい」と強く念じた。
その瞬間、まるで全身の血を一気に抜かれたような感覚に襲われた。
膝から力が抜け、抗う間もなく床に尻もちをつく。視界が激しく明滅し、激しい動悸が胸を打つ。
「……っ、あ……」
荒い息をつきながら顔を上げると、そこには、深夜の厨房を埋め尽くす「僕」がいた。
最初の彼を含めて、全部で十人。どうやら、今の僕が出せる限界はここらしい。
「えっと、君たちは……」
僕が困惑しながら声をかけると、新しく現れた九人のうちの一人が、僕と同じように首を傾げて答えた。
「うん。僕たちは今、君が念じて生まれたんだよ。いや、別れた……と言うべきなのかな? 君がすごく混
乱しながら、僕たちの限界を知ろうとしていたのは知っているよ。さあ、何をすればいいかな?」
その返答を聞いて、僕は奇妙な違和感を覚えた。
新しく現れた九人は、僕が「もっと出そう」と決意した瞬間の思考を共有している。けれど、最初に生まれた「彼」だけは、何が起きたのか分からず、増えた自分たちを呆然と眺めていた。
(……なるほど。彼らは僕と常に意識が繋がっている(同期している)わけじゃないんだ。生まれた瞬間の僕をコピーして、そこから先は『別の個体』として時間を刻み始めるんだな)
新しく来た九人が、戸惑う最初の「彼」に状況を説明し始めている。
「大丈夫、僕たちはみんな君なんだ。僕らの本体が、仕事を終わらせるために僕らを呼んだんだよ」
自分と自分が対話している。その光景はひどく奇妙で、同時に、これ以上なく心強い。
「よし……これだけいれば、夜明けまでには全部終わるかも。みんな、ここを綺麗にしたい。頼むよ!」
僕は十人の自分たちに向けて、力強く宣言した。
彼らがいれば、山積みの皿も、大鍋の洗浄も、厨房の床磨きも、すべてが圧倒的な速度で片付くはずだった。
だが、一斉に動き出した「僕たち」を見て、僕はすぐに異変に気づいた。
「……あれ?」
一人の僕が、いつもなら軽々と持ち上げている空の大鍋に手をかけた。けれど、彼は鍋を持ち上げるが、動けないようで、顔を真っ赤にしてプルプルと震えている。
「重い……。本体、これ、運べないよ」
別の僕は、床を磨こうと身をかがめ手をついた拍子に、自分の体重を支えきれずに「おっと」とよろけてうつ伏せに転んだ。
「……本体。身体に力が入らないんだ」
一人の僕が、自分の腕を見つめながら困惑した声を上げる。
「僕たちの頭の中には、君がいつもこなしている仕事のやり方や、必要な力の入れ方が『知識』として入っている。でも、身体がそれを拒絶しているみたいだ。まるで、一人の力が人数分に薄まってしまったような……そんな感覚だよ」
僕は慌てて、鍋を掴み上げる。
……軽い。
分裂体が「重すぎる」と悲鳴を上げた鍋が、僕の手にはいつも通りの重さに感じられる。
(……そういうことか。数は十倍になったけど、一人あたりの膂力はその分落ちているんだな)
下男の仕事は、そのほとんどが重労働だ。
知識はあっても、それを実行する筋力が伴わない。十人の僕たちは、まるで十人の子供が右往左往しているような、なんとも頼りない集団になっていた。
「参ったな……。十人でそれぞれ一気に運ぶつもりだったけど、これじゃあ一つの鍋を三人がかりで運ぶしかないか」
僕は苦笑いしながら、作戦を練り直す。
数が増えても「無双」ができるわけじゃなかった。
でも、僕たちは文句を言わない。効率が落ちるなら、その分、工夫と連携で補えばいいだけだ。
「いいよ、三人一組でやろう。一人が無理なら、三人で持てばいい」
僕の指示に、十人の僕が「了解」と一斉に頷く。
______
夜もだいぶ更けてきたころに厨房の掃除が終わった。
本来なら、夜明けまで働いてようやく終わるかどうかの重労働。しかし、すべて片付いている。磨き上げられた鍋は鈍く光り、床には塵一つ落ちていない。
十人の「僕」は、疲れ果てた様子で床に座り込んだり、調理台に寄りかかったりしていた。非力な彼らにとって、この数時間の重労働は、僕一人が動くよりもずっと過酷なものだったはずだ。
(……さて。この後、彼らはどうなるんだろう)
自然に消えるのを待つべきか、それとも呼び出した時と同じように念じるべきか。
僕は一人の分裂体に近づき、その細い肩にそっと手を置いた。
「お疲れ様。……戻れるかい?」
僕が強く「戻れ」と念じた、その瞬間だった。
――ふわり、と。
目の前の「僕」の輪郭が、温かな光に溶けるように崩れる。
冷えた指先が温かい湯に溶け込んでいくような、不思議な心地よさ。
それは消滅というよりも、帰還に近いものだった。
直後、僕の胸の奥に、濁流のように様々な感覚が流れ込んできた。
「……っ!」
それは、彼が感じていた凄まじい足の疲れ。
重い鍋を持ち上げた時の、千切れそうな腕の痛み。
彼視点での片付けの過程。
そして――「役に立ててよかった」という、ほんのわずかな、けれど確かな充足感。
(温かい……。それに、彼が感じていたことが、全部わかる)
僕は次々と、残りの九人にも手を触れていった。
そのたびに、厨房のあちこちで「僕」が光に溶け、僕の一人きりの身体の中へと帰ってくる。
九人分の疲労が重なり、僕の身体は鉛のように重くなった。けれど、それ以上に、彼らが抱いていた「一人じゃない」という安堵感が、僕の何の感じなくなったはずの心を刺激していく。
全員が僕の中に戻ったとき、そこには再び、僕一人の静寂が残された。
身体は壊れそうなほど重い。
けれど、心だけは、召喚されてから今日までのどの夜よりも、穏やかだった。
「……あはは。これ、悪くないな」
一人きりの厨房で、僕は自分の手のひらを見つめて小さく笑った。仮面はかぶっていなかった。
他人の顔色を窺い、独りで耐えるしかなかった僕に、初めて「頼れる味方」ができたのだ。それが自分自身だったとしても。
_________
あれから数日、僕は「僕たち」との生活の中で、この力の法則をいくつか理解した。
分裂体一人ひとりの力はひ弱だが、本体である僕が重い荷運びで少し筋肉を付ければ、彼らの腕もわずかに太くなる。本体の底上げが、十人分の底上げになる。
彼らの肉体もまた、僕と同じだった。つまり、腹も減れば猛烈な眠気にも襲われる。
当初は全員で食事を分け合おうとも考えたが、下男に与えられるのは一人分の薄いスープと硬いパンだけだ。それを十人で分ければ、全員が動けなくなるほど飢えてしまう。
結局、重労働を終えた後は、一人の彼だけを残し、他の八人は帰還させることにした。
一人の身体に戻れば、胃袋は彼と僕の二つで済む。
その彼も現在、「出しっぱなし」にしているが、消える気配はない。僕が帰還させなければ、彼らは独立した個体として存在し続けられるようだ。
唯一の不便は、戻すためには必ず「肌に触れる」必要で、遠隔で消すことはできないことくらいかな。
僕は能力を隠すことなく行使した。
「……おい、なんだそれは!?」
と、当初は困惑し恐怖していた同僚の下男たち。目の前で僕と同じ顔の人間が、ふわりと増えたのだから当然だ。
しかし、驚きはすぐになれたのか、その後は、彼らが生まれる度に下卑た歓喜をしていた。僕の力の正体など興味もないのだろう。ただ、自分の仕事が減る。その一点だけで、彼らは僕の能力を歓迎した。
一方で、見回りの兵士や通りがかるメイドたちの反応は、より冷静で、または当惑に満ちていた。
「おい、見たか。あのガキ、身体が分かれてたぞ!魔法か⁉」
「分身魔法? いや、魔力の残滓がないわね。何かのスキルなのかしら…。」
「ふーむ、昔じゃが分身できるやつがおったような……?いやしかし実体はなかった気がするのう」
そんなことがあり僕のこの能力の事は、召喚されたあの日に会ったあの老神官の耳にも入ったらしい。
じゃないと僕をここに呼び出さないだろうし。
視線を上にあげると荘厳な装飾の扉が見える。礼拝堂だ。
扉を開けるといつぞやの老神官がこちらを見据え、立っていた
「やっと来たか。さあ、こっちへ来い。話を聞かねばならん」
案内された部屋で、質問というよりは詰問のような、嘘が許されない空気の中すべてを話す。
老神官は一通り僕の話を静かに聞き終えると、その深い皺に刻まれた口元をわずかに歪めた。
「……なるほど。最大十人まで、お前と全く同じ肉体、同じ思考、感覚を持つ個体を生み出せる、というわけか。ソレは血が出るのか?臓器も同じか?」
老神官の問いは、労働の効率よりも、もっと根源的な「肉体そのもの」に向けられているようだった。
「はい。ですが、一人ひとりは非力です。三大欲求もあり、寝食を疎かにすれば消えはしませんが、動け
なくなります。血も僕と同じように出ます。臓器は……わかりません。あと、意識は共有していないので、一人ひとりに指示を出す必要があります」
「ふむ……。人としての営みが可能な、生きた肉体の複製……」
老神官は、細く長い指先で自身の顎をなぞりながら、獲物の価値を品定めするような目を向けた。
彼の脳裏にあったのは、下男としての労働力などという矮小なものではなかった。
「仮にソレが不慮の事故で死んだ場合は、肉体は残るのかね?」
「…わかりません。ですが出血をした彼を帰還させたとき、止血に使った布は血で汚れたままでした」
(ふむふむ、適合次第では『予備の肉体』が、無尽蔵に供給されるというのか……)
もし、この国の王族や高貴な魔術師たちが、病に侵された臓器を、あるいは失った四肢を欲したとしたら。
「……そうか。血は残った、おそらく肉体もまた、残るのだろうのな」
老神官は、まるで聖典の難解な一節を解き明かした学者のような、恍惚とした表情を浮かべた。
彼はゆっくりと立ち上がると、震える手で僕の頬を包み込んだ。冷たく、枯れ木のような指先が、僕の「笑顔の仮面」をなぞる。
「お前の価値は、どうやら下男以上ではあるようだ。待遇の改善をせねばならんな」
その言葉は、本来なら嬉しいはずだった。
けれど、僕の背筋には、かつてないほどの悍ましい悪寒が走った。
「今日からお前には、従僕としての役割を与えよう。食事も、今までのような残り物ではない。血を肥やし、肉を育むにふさわしい滋養のあるものを用意させる」
「…ありがとうございます」
僕は震える声を抑えて、精一杯の「感謝の微笑み」を作った。話の流れで気づいてしまったのだ。
老神官にとって、僕はもう「便利な下男」ですらない。いつか高値で切り売りするための、あるいは自分自身の寿命を延ばすための、『予備』になったのだ。
「ああ、それから……。実験、と言っては聞こえが悪いが、近いうちにお前の『彼ら』の肉体を、詳しく調べさせてもらうよ。何、悪いようにはさせん。ただ、どれほどの鮮度で肉が残るのか……それを確かめるだけだ」
老神官は、満足げに僕の肩を叩くと、闇の奥へと消えていった。
一人残された僕は、安堵と恐怖で自分の左腕を強く掴んだ。震えが止まらない。
きっと僕は殺されることは無いだろう。しかし、その代わりにどんな未来が待っているのか。目の前の闇は、僕の行く末を暗示しているような気がした。
その夜、与えられた食事は満足のいくもので、個室は清潔で静かだった。
ふかふかのベッドに横たわりながら、僕は一人、分裂体を呼び出した。
向かい合って座る「僕」は、僕と同じように怯え、僕と同じように、暗い瞳で僕を見つめていた。
「……ねえ、僕」
僕は、彼に問いかける。
「僕たちは、いつまで『僕』でいられるんだろうね」
彼は答えなかった。ただ、僕の震える手を、同じ温度の手でそっと握った。
_______
従僕としての身分を得てから、僕は徹底して「自分自身」を温存することに決めた。
従僕とは言っても使えるべき偉い人もいない。
だからか、地方令嬢たちや、力のある商家の夜の相手という仕事を与えられた。
今は一人の分裂体を専属で充てている。彼は「笑顔の仮面」を完璧にこなし、僕が筋トレに励んでいる間も、薄暗い寝室で誰かの欲望を受け止め続けている。慣れ親しんだ不快感だった。
本体である僕は、自室でひたすら己を追い込んだ。
腕立て、腹筋、そして老神官から与えられた滋養強壮の食事。
僕が強くなれば、地獄へ向かう彼らも強くなる。それは僕にできる唯一の、そして最も残酷な「救い」だった。
そんなある日のことだ。老神官に呼び出された僕は、奇妙な命令を受けた。
「四人の『彼ら』を、私に預けなさい。城の重要拠点での清掃や、特殊な魔導具の管理を任せることになった。……お前が直接行く必要はない。彼らに、私の指示に従うよう言い聞かせてよこせばいい」
僕は疑問を抱かなかった。
待遇を良くしてもらった恩。そして、一度に十人分も仕事ができる効率の良さを、城が放っておくはずがないと思ったからだ。
「わかりました。…みんな。行ってきてくれるかい?」
僕は分裂させた四人の「僕」の肩を叩いた。彼らは僕と同じ顔で頷き、老神官の用意した四人の「案内人」に連れられ、それぞれ別の方向へと歩き出していった。
一人は、異様な機械音が鳴り響く北塔へ。
一人は、怪しげな薬草の香りが漂う西の離れへ。
一人は、老神官が待つ礼拝堂のさらに奥深くへと。
そして四人目。
老神官は、城内でも発言力の強い公爵家の令嬢――若くして「氷の薔薇」と渾名されるエレナ令嬢の元へ、僕の一人を送るよう命じた。
「エレナ様がお前を随分とお気に召してな。彼女の私室から一歩も出ず、忠実な犬として仕えるのだ。……光栄に思いなさい」
僕は、四人目の「僕」を送り出した。
――それが、僕が僕らを「切り売り」した最初の日だった。
そして、僕らが僕であった最後の日だった―――




