六年前の思い出
六年前。
侯爵家ご令嬢として蝶よ花よと育てられた私は、廃工場へ攫われた。
かなり酷い目に遭ったらしく、前後の記憶は失われている。
ただ……最後の瞬間だけは脳裏に焼きついたから、何度だって思い出してきた。
月の綺麗な夜だった。
廃工場の屋根はズタボロで、星明かりまでも降り注いで明るい中、床に仰向けに転がされたままの私を抱き上げる腕があった。
目の前にいたのは……吸血伯爵として名高い男だった。
銀色の髪に青の瞳。
数百年経っても生きている若く凛々しい男の顔が、私を見下ろしている。
……もう、生きたくない。
胸に蟠る絶望をしゃがれた声で口にすると、端正な顔立ちの男が愉快そうに青の瞳を細めた。
『フォーリー……俺こそが犯人だ。俺を恨め。……悔しければ追いかけて来い』
声に湧き上がったのは、衝撃。
それと……ドス黒い敵愾心だった。
……ああ、思い出した。
私を攫ったのは、確かにこの男だった。
吸血伯爵として生き血を啜るため、首謀者として全ての糸を引いていた。
この男を、必ず屠らなければならない。
たとえ前後を覚えていなくとも、目の前には確かな敵がいるという殺意こそが真実を示していた。
腰に穿く剣を奪おうと暴れたのに、騎士が到着したのを見た吸血伯爵は何も証拠を残さぬよう消え去った。
必死に「息の根を止めてやる」と叫んで宣言する私が騎士に止められるのを置いて去り、犯人だけが日常の中へと戻った。
「……で? お父様。その吸血伯爵に嫁げとは何事でしょうか」
あれから六年が経った。
侯爵家のお茶室で剣修行の休憩がてら紅茶を頂いていると、恰幅の良いお父様が慌てて資料を差し出している。
「だからフォーリー、あの方こそがお前を助けてくださったのだと何度言えばわかってくれるんだい」
紅茶を机に乱雑に置いて睨みつけたけれど、飛び上がって慌てている人の良いお父様は娘よりも吸血伯爵こそを信じていた。
……よくある話だ。
私は犯人が吸血伯爵だと、もちろん見たのだから糾弾した。
しかし身の潔白を訴えた伯爵は法廷を買収し、証拠をでっち上げて勝訴した。
あまつさえ、あの場にいたのは私を助けに向かったからだと主張した。
今も何食わぬ顔で平穏に暮らしている吸血伯爵に、お父様も騙された。
「犯人の元に嫁がせるとは何事ですか。嫁の貰い手がないからついに焦ったのですか」
私はあの日以来、女性として生きるのをやめた。
長かった金の髪を切り捨てて短くし、ひたすら剣の修行に明け暮れた。
絶対に屠ってやる。
年頃の少女が赤の瞳を復讐に燃やす姿に、誰もが近づくことはなかった。
お父様も狼狽えながら再び資料を差し出してくる。
「お前の事情を知っているからこそ、是非にと言ってくださっているんだよ。
レイノール伯爵はもちろん長命で奥様も今までにいらっしゃったけど、数十年前に亡くされたから今回はお前を……」
フリック・レイノール。
齢、数千年とも称される人ならざるもの。
吸血伯爵とも呼ばれる男は、伯爵位を与えることで国の守護として引き留めているとも言われる『吸血鬼』だ。
百年に一度気まぐれに妻を娶り、生き血を啜って若さを保っている。
私を攫ったのも気に入ったからだと言うのなら、嫁ぎまでしては相手の思う壺なのにお父様は人がいいから気付きはしない。
「……」
ただ、これは良い機会であることも理解している。
今までは予定をずらされ、伯爵領に入っても近づくことすらできなかったが、婚約者としての立場があれば周囲の油断も誘える。狩ることも容易に出来るはずだ。
あの日、出来なかった復讐を果たす。
この六年間、私は騎士以上に厳しい鍛錬を続け、吸血鬼狩りの準備を進めてきた。
フリック・レイノールの討伐だけを思い描く胸の中には黒い炎が渦巻いていて、必ず相手を屠るのだと音を立てて燃えている。
「……分かりました、嫁ぎましょう」
お父様は私が歯を噛み締めているのを見ても、事態が落ち着くことこそを喜んで……婚約者として名を挙げた私は、ついに吸血伯爵との邂逅を果たすこととなった。




