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アザラシ物語

「跳べ……」

 鳥羽の言葉には感情らしい抑揚がまるでこもっていない。

 パソコンの読み上げ音声のような口調でそれだけ言うと、さっさとその場から離れてしまうのだった。

その顔も、能面のように無表情である。

 「ごっつあんです」

 鳥羽が離れるのを合図のように、二年生たちは一斉にジャンピングスクワットをはじめた。

 「おい鳥羽」

 鳥羽の行く手を主将の七篠が塞いで、その顔を見上げた。

 「もう、いい加減にしてやれよ、大会中なんだぞ」

 「だめだ」

 鳥羽は七篠の目をまっすぐ見返すが、その目にも言葉にも気持ちはこもっておらず、犬の糞でもよけるようにくるりと七篠を回りこんで歩き出そうとした。

 「おい鳥羽」

 七篠は鳥羽の腕をつかんで引き止めようとする。

 「俺の右腕に触んじゃねえ」

 鳥羽は鬼のような形相で、七篠の手を払いのけてにらんだ。

 「俺はあいつらと賭けをしてるんだよ、二年のスタメン、一人の凡打一回につき百回跳べってな……」

 三日月山高校ではスタメンに二年生が二人いた、つまり二人が四打数ノーヒットならば二年生は全員八百回跳ぶことになる。

 だが昨日の試合で二年生のスタメンは二人のうちの片方が一本だけヒットを打ち、また、一応二人とも一本ずつ送りバントを決めたので、今日は五百回で許されていた。

 鬼の鳥羽も犠打の分は許してやるらしい。

 「参考までに教えておくが、エラーは一つにつき五百回だ」

 鳥羽はたっぷりと皮肉を込めて、仏頂面でそう言った。

 七篠は返す言葉がない。

 昨日の試合でエラーをしたのは三年生だったのだ。

 「気持ちは解るが、味方の体力を削るようなまねはよせよ」

 「気持ちが解る……だあ?」

 鳥羽は鼻で嗤ってみせた。

「味方だってんなら三年も跳べよ。俺は失点一点につき千回跳ぶ約束してるぜ」

七篠は実直そうな眉を寄せて強く目を閉じ、鳥羽の言葉を呑み込むように何度も小さくうなずいてから、

「味方だよ」

と言った。

「俺は味方だよ……俺だけじゃない。ここにいる全員がお前の味方なんだよ。でも、打てないものは打てないんだよ、三振やエラーをしたくて試合に出てるやつなんて一人もいないよ。一生懸命やった結果なんだからしょうがないだろ」

「タマは打ったぜ」

鳥羽が言うと、七篠は再び言葉に詰まった。

「なんで打てたんだろうねー、今まで一度もフリーバッティングに混ぜてもらってないタマちゃんが?」

鳥羽は充血した目を見開いてそう言うと、七篠の返事を待たずに歩き出した。

――ほんと、なんで打てたんだ……いや、なんであんなスイングができたんだ――

昨日の試合。

「どうせ延長になるなら、こいつにも打たせてやってください」

自分の次の打者に玉川を代打に送る約束を監督にさせて、鳥羽は打席に向かったのである。

五番打者の代打である。

実のところ鳥羽本人も、やけくそだった。

まさか玉川が打てるとも思っておらず、また、監督がいくらなんでもそこまで鳥羽の意見を呑んでくれるとも思っていなかったのだ。

だがどういうわけか監督は了承し、そして奇跡的に玉川は打った。

いや、鳥羽には奇跡には見えなかった。

玉川のスイングは、当然のように打つべくして打った一振りだったのだ。

鳥羽は玉川の姿を目で探した。

まさか、今日も洗濯しているわけではあるまい。

フリーバッティングのゲージの中にいる玉川を見つけ、鳥羽は歯軋りをするのだった。

――いまさら――

玉川は今日、はじめてそこで打つことを許されたのだった。

三年間野球部に在籍していて、今日がはじめてである。

昨日の試合のご褒美とでも言いたいのか。

それが鳥羽の神経を余計に逆なでするのだった。

――一生懸命だあ?笑わせるぜ、お前らの中の一人でもあいつくらいバット振ったやつがいたかよ――

玉川はこの三年間、ほとんど毎日素振りをしていた。

他の部員が帰った後、全ての雑用を終えてから、一人グラウンドの隅で。

鳥羽が聞いた限りでは毎日二千回以上振っていたらしい。

鳥羽もそれに気づいたのは三年になってからだった。

それは偶然だった。

監督に見つからぬよう、ベンチの陰に隠しておいた携帯電話をそのまま忘れてしまい、探しに戻ったところ、真っ暗なグラウンドの端で玉川が一心不乱にバットを振っていたのである。

鳥羽は呆れながらも、翌日から日の出ている間くらいはつきあい、トスを上げてやったり、時には――本当に気が向いた時だけだが――バッティング投手をしてやったりしてきたのである。

だが、玉川は一向に上達する気配すらなかった。

「おい、俺と代われ」

鳥羽は玉川に投げているピッチャーと交代した。

先ほどから十球ほど玉川のバッティングを見ていたが、ジャストミートが一つもないため、じれったくなったのだ。

「真ん中投げるから、ちゃんと打てよ」

玉川は左打ちである。

彼の父親は野球が好きで、高校までレギュラーで活躍するほどだったらしい。

その父親が、玉川が子供のころに期待を込めてわざわざ左打ちを教えていたのは鳥羽もよく見ていた。

だが、はじめのころこそ熱心に指導していた父親も、一年二年とたち、まるで上達しない玉川に見切りをつけて、五年生になるころには相手をしてくれなくなった。

才能のかけらもない玉川の「左打ち」は、子供のころにはよく同級生たちにからかわれ、鳥羽はその全てを拳骨げんこつで沈黙させたのだが、実は当の鳥羽がそれを最も面白がっているくらいだったのだ。

そしてそれは、中学時代には無性な腹立たしさに変わり、高校生になってからは痛々しく憐れにさえ思えているのだった。

金属バットが軋むような音を立て、まるでバントのようなゴロが内野に転がった。

――スイングの速さだけなら足利よりすげえのにな――

鳥羽は苦笑いする。

玉川は、身を削るほど繰り返した素振りの甲斐があって、スイングのスピードだけは高校生離れしていた。

「なんだよタマ、昨日の振りと全然違うじゃねえか」

鳥羽は二塁から見ていたのでよく分かる。

――昨日はもっとこう、バットが生き物みてえに……――

見ていた鳥羽も半信半疑である。

今でも信じられないが、ボールの方がバットに吸い付いて行くようなバッティング……それはプロでも一流のバッターのスイングだった。

「そんなこと言われたって、俺だって全然覚えてないんだよ」

玉川はそう言ってからも、ど真ん中のゆるいボールを凡打し続けた。

三球。四球。五球……。空振りこそないが全てひどいドンヅマリだった。

――このやろう、もたもたしやがって――

鳥羽はだんだんイライラしてきた。

元々打てないならばともかく、現に昨日はできたではないか。

「昨日はできたじゃねえか、なんで一日たったらできなくなってんだよ?」

鳥羽は腹立ちまぎれにわざと玉川の太ももを目がけて、少し強めに投げてやった。

鳥羽としては加減するつもりだったが、ボールが手から離れる瞬間、彼の気性が一瞬出てしまい、それは全力投球に近くなってしまうのだった。

――やばい強すぎるか?でもそこなら怪我もしねえだろ――

「うわっ」

玉川は思わず悲鳴をあげたが、同時に、心地よい快音が糸を引いて、打球は美しいライナーを描き金網に当った。

角度からいえばファールだったが、玉川は体をゴムのようにぐにゃりと捻りながら自分の体に向かってくる鳥羽の速球を打ってしまったのだ。

「なにすんだよシゲちゃん」

玉川は泣きそうな顔で鳥羽を見る。

にらむのではなく哀願するような目である。

「それだよ」

――解った、そういうことだったのか……――

鳥羽は満足そうに一人でうなずきながら投球を止め、その場を去ってしまうのだった。


県立国分寺球場では、今大会四度目の沢谷香高校校歌が流れていた。

地方テレビ局の放送室では解説者が、沢高ナインを絶賛している。

「藤村投手については言わずもがなですが、とにかくこのチームは攻・走・守のバランスが素晴らしいですね、私は春の大会もこのチームの試合を見ていますが、そのころと比べて、藤村投手をはじめメンバー全員が見違えるほど成長しています。例えば一回戦では藤村投手の乱調で非常に苦戦していましたが、春までのこのチームだったら、もしかしたらあのまま押し切られてしまったかもしれません」

「藤村投手もそこから尻上がりに調子を取り戻してきたようですが……」

と、アナウンサーが言葉をつなぐ。

「なんと、二試合連続ノーヒットノーランです。明後日の準決勝では、これまた三試合連続ノーヒットノーランの記録を引っさげて勝ち上がってきました鳥羽投手擁する三日月山高校と対戦するわけですが」

「非常に楽しみな投手戦が期待できますね」

麗華はチームメイトに揉みくちゃにされながら、本人が一番驚いた顔をしていた。

「あれ?今日もヒット打たれなかったんだっけ」

「てんめえ、とぼけくさって、このやろう」

八郎が満面の笑顔で麗華の肩を叩く。

「お前えがみんな三振させちまうから、こちとらヒマでしょうがねえぜ」

「だって、あたしだっていっぱいいっぱいなんだもん、ごめんなちゃーい」

「けっこう余裕あるじゃねえか、このやろ、このやろ」

「痛い痛い、あははは痛いってば。キャッキャッ……」

「すでにマブダチかよ、こいつら、いつの間に?ハチローのやつ、なんちゅうタンサイボー……」

牛若が目を丸くしながら呆れる。

麗華は三回戦と、この準々決勝で、合計三十七の三振を奪っていた。

試合の結果は。

三回戦  六対ゼロ。

準々決勝 五対ゼロ。

最早並みの高校生では、麗華と沢高ナインの勢いをを止めることはできなかった。

しかも三回戦の勝利者インタビューで麗華が、

「生きてるって、本当に素晴らしいことなんだと思いました……」

と、思わず漏らした本音が、言葉の真意はともかく、その初々しさと爽やかさから大勢の人々の感動を呼び、麗華はすでに、単なる高校野球県予選という枠をはるかに超えた人気者になってしまったのである。


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