覚醒――ハッピーバースデイ・トゥ・ヒロイン
「どおおおりゃあああ!」
「ナイスサード」
――フッ……また捕っちまったぜ――
八郎は今日三度目のダイビングキャッチを決め、ニヒルに微笑むのだった。
――それにしても世間ってな冷てえもんだぜ――
八郎はスタンドを見回し苦笑いする。
一回戦での仁の醜態に皆呆れたのか、今日はあの日の三分の一も観客は入っていなかった。
だが。
「ノッてきたノッてきた。ノッきたぜ」
思ったとおり今日の彼は忙しい。
調子のいい時の仁ならば三振の山を築くはずだが、今日はよく打たれる……というより打たせている。
やはりあの投げ込みの疲れが出ているのだろう。
――当たり前えだぜ、あんなに無理すりゃ――
だが、八郎にとっては楽しいことこの上ない。
やっぱ野球はこうでなくちゃ。
――相変わらずふざけて女言葉なんか使いやがって、やつの人間性は今でも許せんが、野球に関しては、話は別だ。試合は手を抜かねえぜ――
「チェスッットオオオ!」
見ろ、この華麗なグラブさばき。
――とにかく人間性は許せんが――
一方牛若は。
「ふんっ!」
「ナイスショート」
――フッ……笑止!ファインプレーなど素人好みのけれんですよ――
体全体がグローブなどとは悠長な話だ。
ショートストップというポジションはファンブルすることすら許されない。
ちょっともたついただけで内野安打になってしまうのですよ。
見よ、この職人芸。
――打球の方角を瞬時に、そして正確に見極め、しっかりと体の真ん中で確実にグローブに収め、一塁へ……しかーも。新品のボールは遠投になるほど変化するから、それも計算に入れて。遠投する――
「ふんっ!」
――基本の積み重ねこそ、美しいんです。まあ、うちの三遊間が鉄壁の鬼門であることを教えてあげましょう――
そしてエンリケは。
――試合したかったんだよなー目蒲学園。ここのチアガールは県内一だぜ、ふふふ……ってまた内野ゴロ打たれやがったよ、めんどくせえな、頼むからチアガールに集中させてくれっての、たまには二十七人連続三振とかできねえのかよまったく。ぶつぶつ……――
そもそもブラジル系の彼がなぜサッカーではなく野球を選んだか。
それは、サッカー場では広すぎてチアガールがよく見えないから、という理由に他ならなかった。
しかも距離が遠い上にサッカーというスポーツは忙しすぎて、じっくり鑑賞しているヒマがないのだ。
それに引き換え野球の、特にファーストのポジションは彼にとって特等席なのである。
距離が近い上に下から見上げられるという余禄までついているのだ。
――これだからファーストのポジションは誰にも渡せねえんだよ――
一応遠藤も。
――これじゃあ俺の出番はないかな、この試合――
俺が君の近くに行けるのは、試合が負けそうな時だけ。
勝てそうな試合は、いつもこうして君を遠くから見ているだけ。
――大鉄――
でも、負けたら、君とはもう一緒に野球ができないんだね。
最近麗華も君のことを完全に見直したみたいだ。
もしかして、気があるのかな。
俺は遠くから二人を見守っているしかないのかな……。
その大鉄は。
「ふふふ……」
マスクの下で頬が緩みっぱなしだった。
――とんだ取り越し苦労だったぜ――
いつものように三振がとれない仁を誰も非難することなく、皆自分のプレーに集中している。
しかもこいつら確実にレベルが上がってる。
それも全員がかなりのレベルだ。
――これもやつのお陰というのは言い過ぎかもしれんが……――
皆、仁というモンスターに呑み込まれまいとあがき続けたお陰で、一人ひとりが強くなっている。
そもそも、弱者同士の馴れ合いやなぐさめ合いをチームワークだなどと称するのは、弱いチームの欺瞞でしかないのだ。
強い「個」がお互いにしのぎを削り合うからこそ、チームはより強くなるのである。
沢谷香高校ナインは仁という内なる敵と戦い続けた結果、最早まごうかたなき強い「個」の集団……「戦闘集団」へと変貌を遂げていた。
――強くなったもんだ――
まさかこんな逆説的な切磋琢磨の形があったとは。
大鉄は笑いをこらえながら、感嘆のため息を吐き続けていた。
嬉しい誤算はそれだけではないのだ。
今日の仁である。
――これ、カットボールじゃねえか?――
大鉄は思わず唸るしかない。
カットボールとは、「曲がるストレート」である。
ストレートが甘いコースにきたと見せかけ、バットに当る直前にわずかに曲がる。
空振りよりも打ち損じを誘う変化球である。
今日の仁は、このボールで三振ではなく凡打の山を築いていた。
――こいつ、こんなに器用だったか?――
大鉄が驚くのは今日の仁が、血豆が潰れて滑る指を逆に利用していることだった。
先にも書いたが硬式のボールというのは指先の微妙な加減で意外な変化をする。
指先が濡れていれば尚更であり、そのため、ルールでは故意に指先を濡らす――例えば指を舐めたりなど――ことを禁じているが、出血の場合は不可抗力といえるのである。
――アクシデントを逆に武器にしちまうとはな――
本物の変化球投手というのは、雨の試合こそ真骨頂を見せるという。
雨に濡れてボールが滑るのを利用して、普段より余計にボールをグイグイと変化させてしまうのである。
だが、そのためにはそれなりのコントロールと冷静さが必要で、並みの投手であればその変化に自分がついて行けず、投球が乱れ、そのまま崩れてしまうものなのだ。
現に、この春の大会での仁は、雨で完全に自分を見失い大崩れしているのだ。
――こいつも大幅に進歩してるってことか……それにしても――
このチームは強い。
鉄壁の守りと、つながる打線、そしてなにより精神的に見違えるほど成長した大エースの存在。
大鉄は感動のあまり叫びだしたい自分を抑えるのに精一杯だった。
一生こいつらと野球していたいくらいだ、と本気で思うほどだった。
最後に麗華は。
――うふ、ちょっとずるいみたいだけど、いいよね――
麗華は血のにじんだ人差し指を見ながらニヤリと笑った。
先週の一回戦で初球がデッドボールになった理由を遠藤から聞いて、もしかしたらと思っていたらやはり期待が的中した。
ストレートを投げると、ボールが勝手に曲がってくれるのだ。
それもほぼ速球の速さで。
だが、麗華がそれを武器として使いこなせるには、彼女が元々持っていた幾つかの能力が作用していた。
一つには、麗華は指先が器用なのだ。
生まれついての器用さにくわえ、中学時代の手芸部と高校でのリラックマクラブで鍛え抜かれた器用さは、野球部員の男子高校生などの比ではなかったのだ。
そしてもう一つ、麗華には武器があった。
それは並外れた辛抱強さである。
ひたすら仁を想い続けて耐えてきた我慢強さ。
くる日もくる日もクマのぬいぐるみを作り続け、手芸と裁縫で鍛え抜かれた根気よさ。
女性特有の粘り強さといってもいいが、麗華の場合その精神力が並みではないのだ。
ちょっとやそっとの制球の乱れで麗華の集中力が途切れることは、まずありえないのである。
つまり、これがなにを意味するか。
ずば抜けて器用な指先と不屈の精神を持った麗華の魂が、百四十七キロの速球を投げる仁の肉体に宿ったらどうなるか。
それは最早、普通の高校生が打ち崩せるなどというレベルではない。
――か、勝った――
「やった、勝った……勝ったのよ、あたしが……やったあああ」
麗華はこぼれるような笑顔で両手を挙げた。
「ナイスピッチャー」
大鉄をはじめナインがいっせいにマウンドに駆け寄り、麗華をねぎらった。
これも今までの沢高には見られなかった光景である。
「よくやったな」
と、麗華とハイタッチをしながら大鉄が笑う。
「とんでもない、みんながよく守ってくれたからよ、何度も危ない所を助けてもらったわ」
と、麗華は笑顔で答える。
――こいつ、こんなにいいやつだったっけ?――
八郎は麗華とハイタッチしながら首をかしげた。
試合は八対三。
麗華の成績は、奪三振六、被安打七、与四死球三――三失点のうち二点は、エンリケのよそ見によるエラー。
傍目には、ほとんど話題性のない平凡な試合である。
だが、一流投手としての条件を全て兼ね備えた「怪物」が、この予選の、誰も見向きもしないような凡戦で、非常な難産をチーム全員の助けを借りながら――一人足を引っぱる者もいたが――人知れずひっそりと産声をあげたことは、観客をはじめ誰一人、麗華自身さえもこの時には気づいていなかったのである。




