ローレン編 温泉へ向かう夜
九月上旬の夜。
ローレン・ブルックスは、東京を離れて山間部の温泉旅館へ向かう予約制シャトル「青葉ライナー」の座席に収まっていた。
今回の目的は、ただの旅行だった。
仕事でもなければ、怪異の噂を追ってきたわけでもない。
美味しい料理を食べ、日本酒を飲み、温泉へ浸かる。
その程度の、平和な予定だった。
新しいバイパスの一部が落石確認のため通れず、シャトルは旧道へ迂回することになった。
車内には運転手を含めて八人。ローレンのほかには、看護師、営業職の男性、道路舗装会社の現場監督、母親と九歳ほどの少年、旅行好きらしい若い会社員が乗っている。空席は二つ残っていた。
旧道へ入ってしばらくしたころ、前方に黒いセダンが見えた。
道路上に中途半端な位置で止まっているのに、ハザードも出ていない。
夜の山道で見るには妙な止まり方だった。
青葉ライナーが近づいた――その瞬間だった。
黒い車の後部が沈んだ。
続いて、車体の中央があり得ない角度へ折れ曲がる。
故障車が崩れたのではない。
硬いはずの車体が、生き物の胴体のようにしなった。
「――っ!」
運転手の黒田が咄嗟にハンドルを切った。
完全には避けきれず、右後部へ鈍い衝撃が走る。
車内が大きく揺れ、乗客たちから短い悲鳴が上がった。
黒田は右肩を強く打ったが、シャトルそのものは走り続ける。
そして――後ろに残ったはずの黒い車が、動いた。
タイヤが回った、という動きではない。
黒い下半分が路面へ伸びる。
押しつける。
掴む。
そこを支点に、自分の巨体を引き寄せる。
伸びる。
掴む。
縮む。
そして、また伸びる。
車の輪郭をどうにか保った何かが、道路そのものへ指をかけるように追ってくる。
ローレンは窓越しにそれを見ながら眉を寄せた。
聞こえるのもエンジン音ではない。
ゴムと金属と、それよりもっと粘つく何かを無理に引き伸ばしたような、擦れ、軋み、引きずる音。
「うわ……嫌ですね、これ」
第二章 走るもの、追うもの
ローレンは車内を素早く見回した。
非常用の発炎筒、三角表示板、消火器、救急箱、ジャッキ、ホイールレンチ、牽引ロープ、懐中電灯、反射ベスト、車載工具。
旅行鞄には、折り畳み式のマルチツールも入っていた。
後方へ視線を戻す。
黒い何かは直線では少しずつ距離を詰めてくる。
しかしカーブに入ると、その動きは明らかに鈍った。
自動車のような形をしていながら、曲がるときには下部の黒い部分が路面へ食いつき、身体全体を無理やり引き回している。そのせいか、速度を保ったまま鋭く曲がるのが苦手らしい。
ローレンは自分の席側の窓を開けた。
風が一気に車内へ入り込む。
「ちょっと、試してみますね」
走行中の車体から身を出し、屋根へ上がる。
夜風が髪と服を激しく叩き、足元では車体が絶えず揺れている。
普通なら、それだけで身体を支えることすら難しい。
だがローレンは迷いなく重心を移した。長年の護衛や緊急時対応で身についた身体感覚が、車の揺れへ即座に合わせていく。
点火した発炎筒を、追ってくる黒い塊へ投げつけた。
赤い火が夜の道路を横切り、相手へぶつかる。
表面が焼け、黒い部分が局所的に歪んだ。
だが――止まらない。
怯みもしない。
二本目は路面へ転がし、相手の下部へ潜り込ませた。
赤い炎を踏み越えるように、黒い下半分が路面を掴む。
やはり止まらない。
熱には反応する。
燃えもする。
しかし、それだけで追跡をやめるほどではない。
ローレンは車内へ戻りながら、余計な期待を捨てた。
火が弱点とは限らない。
三角表示板や牽引ロープを使っても、相手が交通上の意味を理解する様子はなかった。
故障車を装っていたようには見えても、少なくとも道路標識や人間の決まりを理解しているわけではない。
「黒田さん。この先に、舗装されてないところで車が入れそうな場所ってあります?」
問いかけに、車内の一人――道路舗装会社で働いている佐伯が反応した。
旧採石場へ下りる管理道があり、入口から少し行けば深い砂利になるという。
ローレンは後方をもう一度見る。
相手は砂利の路肩へ膨らみそうになるたび、不自然なほど舗装の内側へ戻っていた。
道路。
あれは車に似ている。
けれど、車よりも道路そのものへ依存している。
「……なるほど」
第三章 カーブとトンネル
杉ノ尾の連続カーブへ入る。
ローレンは相手の曲がり方を観察しながら、黒田へ安全な範囲で速度の使い方を伝えた。
黒田は負傷していても無茶をする運転手ではない。
車体を乱暴に振り回さず、それでも追ってくるものが最も苦手とするところで確実に差を作る。
黒い車体はカーブへ入るたび、下半分を路面へ押し付け、掴み、引く。
そのたびに身体が外側へ大きく膨らみ、車の形そのものが歪む。
青葉ライナーとの距離が少し開いた。
しかし雁見トンネルへ入ると、状況は逆転した。
ほぼ直線の暗い空間。
壁面へ反響する走行音の向こうから、黒いものが勢いを増して迫ってくる。
ローレンは余計な指示を挟まず、黒田の運転を見守った。
肩を痛めている。
それでも、今ここで焦らせる方が危険だ。
トンネルを抜けた先には白樺展望退避所があった。
背後に土の斜面と遊歩道があり、人間だけなら道路から離れられる。
ローレンはシャトルそのものが土側へ入れるか確かめたが、車で走るには不向きだった。
電波が弱く戻ったのを見て、ローレンはスマートフォンを操作する。
短い時間で旧道に関する過去の事故や工事記録を拾い上げていく。
黒っぽい車を見たという曖昧な話。
後に相手車両が確認されなかった事故。
古い工事資料に残る、一九八七年の掘削記録。
だが、それだけで正体を決めつけるつもりはなかった。
今、目の前で確認できていることの方が重要だ。
あれは砂利へ入りたがらない。
道路から離れない。
なら――試す価値がある。
第四章 砂利の上で
旧採石場の分岐が見えた。
黒田が右へハンドルを切る。
管理道へ入り、三十五メートルほど進んだところで舗装が終わった。
タイヤの下から音が変わる。
深い砂利が車体を細かく揺らした。
黒いものも追ってきた。
舗装端を越える。
さらに砂利へ。
その瞬間、変化ははっきり現れた。
黒い「車輪」が砂利へ食いつこうとして沈む。
押しても、掴めない。
何度路面へ伸びても、砂利が逃げる。
支点を作れない。
下部の形が崩れた。
そこから連鎖するように、車体全体が折れ、潰れ、ほどけていく。
金属に見えた部分も、ゴムに見えた部分も、黒い粘り気のあるものも、車という一つの形を維持できなくなる。
黒いセダンだった輪郭が、砂利の上で崩れ落ちていった。
最後に残ったのは、中央にある硬そうな塊だった。
青葉ライナーはさらに奥へ進み、広い砂利の平場で止まった。
八人とも生きている。
怪物は追ってこない。
ローレンはまず黒田の肩を診た。
救急箱を使って状態を確認し、動かしすぎないよう処置する。
看護師の前田も横から見て、長時間の運転を続けるべきではないと判断した。
「ありがとうございます」
黒田がそう言うと、ローレンは軽く笑った。
「とりあえず、今は休んでてください」
第五章 中央の塊
ローレンは一人でシャトルを降りた。
乗客たちは車内に残す。
まずは距離を取ったまま、スマートフォンで何枚も写真を撮った。
落ち着いた撮影ではない。
もしまた動き出せば、すぐ離れなければならない。
連写した写真の多くはぶれ、構図もずれていたが、その中には崩れた外殻と中央の塊を確認できるものも残った。
四十メートルほど離れたところから見ると、中央の塊は直径三十数センチほど。
周囲には黒い粘性物、細かな石のような粒、歪んだ金属やゴムに似たものが入り混じっている。
黒い部分の一部は、今も舗装の方角へ伸びようとしていた。
しかし砂利を掴めず、それ以上進めない。
ローレンは石を拾った。
投げる。
当たる。
反応がある。
別の石。
もっと尖ったものを選ぶ。
強く投げつける。
硬い音が返ってくるだけで、思うようには傷つかない。
さらに一投。
今度は表面へ小さな傷が残った。
「……再生はしてないですね」
少しずつ距離を詰める。
十メートルほどまで近づいても、傷は消えなかった。
血も出ない。
肉のようなものも見えない。
黒い細い繋がりが周囲の殻へ伸びているだけだった。
「私の言葉、分かりますか?」
返事はない。
「もしもーし」
やはり反応はない。
人間に怒って追っていたというより、もっと単純な行動に見える。
大きく動くもの。
車体。
道路を伝わる振動。
そうしたものへ反応していたのかもしれない。
第六章 ホイールレンチ
周囲を見回しても、都合よく使えそうな大型工具や重機はなかった。
そこでローレンは青葉ライナーから牽引ロープとホイールレンチを持ってきた。
ロープを確実に結び、レンチを先端へ固定する。
距離を取る。
振り上げる。
そして――叩きつけた。
硬い衝撃が腕へ返る。
もう一度。
さらに、もう一度。
ローレンの腕力で振り下ろされたホイールレンチが中央の硬質部へ食い込み、少しずつその表面を砕いていく。
周囲の外殻は再び形を作らない。
舗装上で見せていた、損傷を埋めるような再構築も起こらない。
何度目かの一撃のあと、動きは完全に止まった。
それでもローレンは観察した。
目で見る。
耳を澄ます。
石を軽く投げる。
反応はない。
慎重に近づき、手で触れる。
皮膚の感触ではなかった。
硬く、密度があり、場所によってざらつき、別の場所はやや滑らかだ。
鉱物と金属を混ぜて固めたような、奇妙な硬質材だった。
中央部を掴む。
力を込めて引く。
周囲へ繋がっていた黒い筋が一本、また一本と千切れていく。
塊はかなり重い。
それでもローレンは外殻から引き離し、両手で引きずってシャトルの通り道から外していった。
額の汗を拭い、小さく息を吐く。
「ふぅ……。とりあえず、これで道の方は戻れるようになりましたね」
独り言だった。
離れたシャトルの中までは届かない。
ただ――一つだけ気になる。
動かない。
呼びかけても、触れても、石を当てても反応しない。
それでも、これが本当に二度と動かない保証はない。
ならば。
残さない方がいい。
ローレンはホイールレンチを拾い直した。
再び振り上げる。
そして今度は、完全に壊れるまで叩いた。
一撃ごとに亀裂が走る。
硬質部が欠ける。
内部が露出する。
それでも手を止めない。
中央の構造が原形を失い、再び一つの塊として機能できないほど細かく破砕されるまで。
やがて砂利の上には、もはや「中央の塊」と呼べる形そのものが残っていなかった。
第七章 旅の記念品
すべて終わってから、ローレンは初めて近距離で落ち着いて写真を撮った。
砕けた全体。
断面。
鈍く金属のように反射する部分。
細かな鉱物粒。
黒い結合材。
外殻へ繋がっていた残骸。
内部に血はなかった。
骨も、肉も、臓器らしいものもない。
単一の鉱石でもない。
いくつもの材質を混ぜ、強く圧縮したような構造だった。
マルチツールの刃を当てる。
硬い中心部は肉やゴムのようには切れない。
表面を削るような感触がある。
一方、黒い結合部分の一部には刃が食い込んだ。
ローレンは地面へ散らばった破片の中から、特徴の違うものをいくつか拾った。
警察や専門家へ渡すなら、その方が役に立つだろう。
どの破片が元のどの部位だったかまでは分からない。
破砕したあとに散らばった中から、目につくものを選んだだけだ。
その途中で、一つだけ少し見た目の面白い硬質片が目に留まった。
黒を基調に、角度によって鈍い金属光沢と細かな粒が見える。
小さく、形も悪くない。
「……これ、加工できたらネックレスにしてもいいですね」
怪物の研究を続ける気はない。
けれど、旅の記念品くらいなら悪くない。
第八章 今度は私が運転します
ローレンがシャトルへ戻ると、乗客たちの視線が集まった。
何だったのか。
もう動かないのか。
ローレンは軽く肩をすくめた。
「さあ? 初めて見た生き物なんで、分かんないですね。とりあえず今は動いてないんで、さっさと行っちゃいましょう」
問題は運転だった。
黒田の右肩では、この先の山道を長く走るべきではない。
黒田は車内を見回し、運転に慣れている人はいないか尋ねた。
ローレンは手を上げる。
「運転してもいいですよ。ただ、雇うんでしたら高いですよ?」
黒田が苦笑する。
「今回はご厚意ということでお願いできませんか」
「……仕方ないですね。旅館に着いたら、美味しいお料理を期待して――今回は働きますか」
運転席へ座る。
初めて触る十人乗りの四輪駆動ワゴンだったが、発進して少し動かすだけで、車幅、後輪の位置、ブレーキの癖、ステアリングの反応が頭へ入っていく。
砂利道を戻り、もう動かない黒い残骸のそばを通過した。
旧道へ戻っても、何も追ってこない。
車内の緊張が少しずつほどけていく。
ローレンは乗客たちへ、今からは本来の旅行へ戻ろうという趣旨を冗談交じりに話した。
誰かが「そんなこと言われると余計思い出しますよ」と返し、車内に笑いが起きる。
「忘れなくていいんですよ。怖かったのは怖かったで。でも、ちょっと笑って思い出せるようになったら、それで少し楽になりますから」
黒田が後ろから言った。
「忘れさせるんじゃなくて、思い出し方を変える、ですか」
「そういうことです」
その後はローレンも会話へ割り込まず、道路と後方へ目を配りながら静かに運転した。
第九章 温泉旅行
旅館へ着いたとき、八人全員が無事だった。
ローレンは車を停め、最後に後方を確認する。
何もいない。
黒田へ、現場から持ってきた代表的な破片を渡す。
「はい、これ。さっきの気持ち悪いやつの一部です」
黒田には運行会社、旅館、警察への説明を任せた。
「ブルックスさんは、このあとどうされます?」
ローレンは一瞬きょとんとしてから笑った。
「黒田さん、忘れてるかもしれませんけど――私、普通に今日は温泉旅行に来てるだけですよ?」
それから付け加える。
もし警察がどうしても本人に話を聞きたいなら協力はする。
ただし旅行時間を取られるなら、旅館から何かサービスくらい欲しい。
半分冗談だった。
浴衣へ着替えたローレンは、ようやく夕食へ向かった。
料理を食べ、日本酒を飲む。
暇になればスマートフォンで株価を確認する。
ハンドグリップを握る代わりに、今日は指先だけが画面を忙しく動く。
肉料理が気に入った。
「すみません。こちらのお肉料理、追加でお願いできますか?」
追加の肉。
日本酒。
さらに肉。
ローレンはずいぶん機嫌よく食事を楽しんだ。
第十章 警察と、もう一皿
食事の途中、旅館の従業員がローレンへ声をかけた。
警察から、本人にもいくつか確認したいことがあるという。
「私、お酒だいぶ飲んでますけど……そんな状態で警察の方に会っても大丈夫なんですかね?」
警察側も飲酒中であることは承知しており、今夜は状況確認だけで構わないという。
食事が終わるまで待つとも言われたが、ローレンは少し考えた。
「それはそれで、警察の方をお待たせしちゃうんで……こっちはこっちで気が引けますけど」
小さく息を吐く。
「……仕方ないですね。せっかくの美味しいお料理ですし、さっさとやるだけやっちゃって、また戻りますか」
従業員二人のうち一人が先に警察へ、ローレンが食事中で酒も飲んでいることを伝えに行き、もう一人が案内した。
浴衣にも草履にも、まだ完全には慣れていない。
ローレンは少し小さな歩幅で応接室へ向かった。
「お待たせしてしまって、こちらこそごめんなさい」
軽く笑って椅子へ座る。
「それで――何が聞きたいんです?」
黒田から大筋は聞いているため、質問は車外へ出た後のことに限られた。
現場から渡したサンプルがどこ由来か問われても、ローレンには細かい部位など分からない。
「その周辺の地面に散らばっていた破片の中から、特徴的なものをいくつか拾ってお渡ししただけですよ。なので、元々どの部分についていたものなのかまでは、私にも分からないですね」
警察がすでに現場を調べ始めていると聞くと、ローレンは少し目を細めた。
「ということは、警察としましては、もうあれについてお調べし始めてるってことですね?」
現場の手触りや血液の有無、現在の状態などは、今そこで調べている警察の方が正確だろう。
ローレンはその点を率直に尋ねた。
警察も認める。
彼女に求めているのは、警察が到着する前にしか見られなかった状態の補助情報だった。
ローレンはスマートフォンの写真を見せた。
動いていたころに遠くから連写した写真は、ほとんどがぶれている。
それでも何枚かは、砂利で形を崩した黒い外殻を確認できた。
破壊後の接写は鮮明だ。
しかし、その中間――まだ中央部が原形を保った状態を近距離から撮った写真はない。
警察官が、もし偶然もっと近い写真があれば、と口にしたとき、ローレンは表面上は普通に応じた。
「そうですね。動いていた頃に撮れたのは、この辺りくらいですね」
ただ、胸の内では少しだけ思う。
――いやいや。
私たちがこれを撮っていたとき、あれは普通に動いていたんですけど。
警察の人たちは今、完全に動かなくなった残骸を調べているからいい。
こちらは、また襲われるかもしれないものの近くで必死に動いていたのだ。
そんな鑑識写真のようなものを期待されても困る。
もちろん、そんなことを警察官へぶつけたりはしない。
警察官にも責める意図はなく、動いていた時点の記録が残っているだけで助かると礼を言った。
現場では、その後残骸が再び動き出したり、形を戻したりした報告はないという。
必要な写真を提供し、話は終わった。
席を立ったローレンは、出口でふと振り返る。
「日本も大変ですね。わけの分からない生き物がいっぱいいますし。まあ、母国のアメリカほどではないですけど。なかなか刺激的ですよ」
コロコロと笑って応接室を出た。
食事処へ戻る前、案内してくれた従業員へ少し上目遣いに頼んでみる。
「私、せっかくの旅行中に警察への対応までさせていただいたので……ちょっとぐらい、何かサービスしていただいてもいいです? サービス、お願いしたいんですけど」
もともと旅館側もお詫びを考えていた。
支配人へ確認した結果、追加の肉料理と日本酒は旅館側で負担し、甘味も一品サービスしてくれることになった。
ローレンの顔がぱっと明るくなる。
「そうなんですか? じゃあ、追加でもう一品お肉料理と、お酒いただいてもいいです? 追加注文していいです?」
嬉しそうに席へ戻り、肉を頬張る。
日本酒を飲む。
スマートフォンで株価をちらりと見る。
また肉を食べる。
ようやく、完全に旅行へ戻った。
第十一章 朝食
翌朝。
旅館の朝食会場はバイキング形式だった。
昨夜あれだけ肉を食べ、日本酒も楽しんだというのに、ローレンの食欲はほとんど落ちていなかった。
浴衣姿でトレーを持ち、ご飯をしっかりよそい、肉料理を何種類も取り、魚や卵料理も追加する。
一皿目を食べ終える。
「これ、美味しいですね」
また取りに行く。
二回目。
三回目。
肉料理だけでも六人前を軽く超え、ご飯も何度もおかわりした。
周囲の宿泊客がちらちら見るほどの量だったが、本人はまったく気にしていない。
昔は貧しく、食べたいときに十分食べられない時期が長かった。
今は、美味しいものを好きなだけ食べられる。
ローレンにとって、それはかなり分かりやすい幸せだった。
「もう一回取ってきます」
そう言って、また肉料理の並ぶ方へ歩いていった。
終章 なかなかいい旅行でしたね
東京へ戻って数日後。
ローレンは自宅でワインを飲み、チーズと薄く切ったベーコンをつまみながら、スマートフォンで株の値動きを見ていた。
そこへ、先日の件で話をした警察関係の番号から着信が入った。
電話の向こうから、現場の残骸はその後再び動いていないこと、道路管理側と協議して旧道の該当区間を当面通行制限にしたこと、採取物や過去記録の確認は続いているものの、正体そのものはまだ断定できないことを伝えられる。
警察官は、ローレンが一番気にしているかもしれない「あれの正体」について、と前置きした。
ローレンはワイングラスを持ったまま、ほんの一瞬だけ考えた。
――そういえば、あれのこと忘れてましたね。
口には出さない。
今の興味としては、持ち帰った黒い硬質片を何に加工するかの方がよほど近かった。
ネックレスにするか。
別のアクセサリーにするか。
そもそも加工できる材質なのか。
「そうなんですね。分かりました」
普通に礼を言い、通話を終える。
そのまま株価の画面へ戻したところで、ローレンの指が止まった。
「…………おや?」
旅行前から調整していた銘柄のいくつかが、かなり良い方向へ動いている。
全部が上がったわけではない。
外したものもある。
それでも全体では明確なプラスだった。
財務を見て選んだ企業。
市場の流れを読んで動かした資金。
そして、少しの運。
それらが綺麗に噛み合っている。
ローレンの資産規模では、割合以上に実額が大きい。
宿泊費も、追加した肉料理も、日本酒も、旅行中に使った金額も、ほとんど誤差に見える。
「温泉旅行のお金、余裕で戻ってきましたね」
口元が緩む。
チーズを一つ摘まみ、ワインをゆっくり飲む。
全員無事に旅館へ着いた。
料理も食べた。
日本酒も飲んだ。
温泉にも入った。
警察に付き合ったおかげで、追加の肉と酒までご馳走になった。
テーブルのどこかには、あの夜に持ち帰った黒い硬質片がある。
正体はまだ分からない。
それでも今となっては、少し変わった旅行の記念品だった。
ローレンはスマートフォンの数字を眺めながら、コロコロと笑った。
「……なかなかいい旅行でしたね」
こうして、ローレン・ブルックスの少々予定外に刺激的な温泉旅行は終わった。
――TRUE END「路肩の向こうへ」




