56:ヌアコット:中央街区 自室:街娘リタ(4)
リタは今朝も朝日が昇る前に起き出した。
リタに自室としてあてがわれた部屋は狭い、窓も小さな空気抜きのための小窓しかない。もともとが道具部屋だったこの部屋は、寝台を1つ置いたらそれでいっぱいだ。だがリタは知っている、雑用係の小娘に自室が与えられるという事がどれほど幸福な事かを。少なくとも眠る際、同室の年長者からお小言をもらうことも、私物を勝手に使われることも、寝ぼけたお仲間に踏みつけられることもなく翌朝までぐっすり眠れるのだから。だからいつだってリタは宿屋の誰よりも早く起き、水汲みの仕事から始めるのだった。
だが、ここしばらく前からリタはそれ以上の早起きになった。どんな働き者だって、いくら何でもまだ空に星が輝いている時間から起き出すのは「御山」のお僧さんぐらいなものだ。そしてリタは、そのお坊さんたちが起き出す時間に起床するようになった。起床したら寝台の前で跪いて「お祈り」をするためだ。前にお店に来ていた、お爺さんのお坊さんが言っていた「神さまに声を届けるなら、やっぱり早朝だよ。だから儂ら坊さんは早起きなのさ」あの真っ白なお髭をした、赤ら顔のお坊さんから教わった正しいお祈りをする。そのためにリタは朝日より早く起きるのだ。
リタだって生粋のヌアコットっ子だからお祈りは欠かさない。ただ、忙しい下町の人たちはなんだって「略式」で済ます習慣がある。済まさざる得ない。のんびりと式典様式に沿った「正しいお祈り」が出来るのは、お貴族さまやお金持ちだけだ。下町育ちにはそんな手暇も時間も無い。あったとして、年に2~3回、新年や収穫祭などのお祭りの時だけだ。かくいうリタに至っては、下働きに出てからは略式どころか「祈りの言葉」だって早口になる。だって仕方がない、それくらい下働きは忙しいのだ。
だがリタはその正式な時間を取った。取るようになった。リタにできることは少ない。リタの手の届かない場所で、リタの手に負えない問題があるなら、リタにはもうお祈りをすることぐらいしかできはしない。そしてお祈りをするのならやっぱり「正式」だ。ただ本当の正式なお祈りならば、きちんと経典を開いて、その記された文字に指を添わせながら祈るものらしい。お香も焚くらしい。リタにはそんなものはない、持っていない、買うことも出来ない。だからせめて祈りの時間だけはしっかりと。真剣に。はっきりと。
『ヌアコット宮殿におわす女王さま、真っ白なコングール山に住む山神さま、どうかどうか、あたしの大切な人が、今日も一日、安全でありますように』
そう祈るのだ。
きっちりお山の方を向いて、跪いて、正しく手を握って同じ文句を3度、その祈りが住んだら、いつもの上着を着て水汲みだ。そして掃除。室内から掃き清めて外玄関へ。水拭きは厨房の中から食堂全体。そして階段に2階も拭いてゆく。そのあたりになれば皆も起き出してくる。厨房には小さな種火だって用意してある。事前に必要な薪を運んでおくのだってリタの仕事だ。ゾーリャ姐さんに女将さんが厨房を確認して、旦那さんや調理人が包丁を取り出して、そして1日が始まる。そうまずはお客さんの朝食作りから。
お祈りは1日5回する。早朝・朝食前・お昼・夕食前・就寝前。でもリタがお祈りをする時間が取れるのは早朝と就寝前の2回だけ。あとはやっぱり略式。だって仕方がない、お仕事があるのだ。だけど不安になる。略式のお祈りしかしない、そんなあたしの願いはきちんと神さまに届いているのだろうか。きちんと聞いてもらえるのだろうか。だから祈る。ごめんなさい。お願いします。どうかどうか。
あの日――あの白い靄ばかりの早朝、カルマがヌアコットを出て行ってからもリタの毎日は変わらない。だだちょっとだけ早起きをして、ちょっとだけ眠る前に時間を作る、リタの変化はそれだけだ。
あの白い服のおじさんは言っていた『大事な人たちを守りたい』と『大事な者たちが夕餉のスープに感謝を述べ、夜に安心して眠り、朝陽の暖かさと共に目覚めることが出来る日々のため』に戦うと。そしてカルマはそれを手伝いに行った――つまり、いまリタがこうして変わらずにご飯を食べていられるのはカルマのおかげということになる――リタは祈る、略式であったとしても真摯に、神とカルマに感謝する。今日もあたしはご飯を食べることが出来ているよ。カルマに感謝を伝えるために、神さまに大事な人への加護を授けてくれるように。どうかどうか。
☆☆☆☆☆
リタが好きなものはたくさんある。暖かな食事、美味しいスープ、ふかふかな寝床に真っ白な毛並みの山羊。ぽかぽかした陽気ときれいな水、祭りの喧騒に彩り豊かな飾り布。
もちろんヌアコットの住人だから、瑠璃色の大鎧だって好きだ。立派なものだと思う。頼もしくてちょっと誇らしい。だって瑠璃色はヌワコットにしかないものらしい、他の土地には無いらしい。だから皆がヌアコットのアレを欲しがっているのだと、そう、ゾーリャ姐さんに女将さんは教えてくれた。
旦那さんや料理人そして出入りの材料屋など、つまりは男の人はもっといろいろと詳しく――あれとは違うが大鎧はほかの国にもあって、生み出されている。南の大きな帝国は大きな鬼がいて、西の大きな国では黒色傭兵団が名を馳せていて、東でもやはり独自の材料と形状をした機体があって、ここよりもっと北の、寒い寒い場所には、これら大鎧すべての祖となるそれは立派な機体が氷漬けになって眠っている――いろいろ教えてくれた。けれどリタは覚えきれなかった。
何しろ男の人たちは、大鎧の事になるとなんだか難しい言葉と共に勢いよくまくし立てる。とてもリタの頭は追いつかない。やれ、とっちがより大きいとか、持久力があるとか、瞬発力とか、安定性とか、まあそういったもの。そこはカルマも一緒だった。いつもの、リタが理解できるようにかみ砕いて、リタの理解に合わせてくれる会話と打って変わって、カルマは大鎧の事になると熱を帯びた声で語る。カルマはそれ以外に修復性とか回復性とか再現性とかも言っていた。やはりよく分からない。
リタが印象に残って覚えているのはひとつだけ。ヌアコットの瑠璃は小食らしい。「少なく質素な食べ物で、長く辛抱強く動ける働き者なんだ」とカルマは教えてくれた。そう教えてくれた時「まるでリタみたいだね」カルマはそう言って笑った。その時リタは「なにそれ、まるで私はご馳走を食べちゃいけないみたい」と怒って見せたけれど、カルマは「ごめんよ」と謝ってくれたけれど、本当はリタは恥ずかしくなってそう言っただけだ。顔が赤くなったのは怒ったからじゃない、そう――リタは嬉しかったのだ。働き者だと褒めてくれたこと、認めてくれたことが、嬉しくて嬉しくて、だから顔を真っ赤にして誤魔化したのだ。
だって前に、ゾーリャ姐さんに女将さんが言っていた。「きれいだ美人だと言われるよりも、もっと価値ある評価がある。それは働き者だと言われることだよ」と。
そして前に、カルマは言っていた「いつか僕もあの綺麗な瑠璃色に乗ってみたい」と「もしその機会があったなら、大事に大事に扱う」とカルマはそう言っていた。だからリタは恥ずかしくなったのだ。リタが覚えているのはそれだけだ。ヌワコットにある瑠璃はカルマが大好きな大鎧で、リタはその瑠璃に負けないよう、働くのだ。




