そのニ
「エルファーナ様! 糖蜜をいれた紅茶をご用意いたしましたの。きっと、お疲れがでたのですわ。どうぞお飲みください」
急いだのだろうか、頬を上気させ、部屋に入ってきたハティスは、リゼとエルファーナの間に無理矢理体をねじ込ませた。
「ハティー、ありがとう」
「いいえ! もったいないお言葉ですわ。わたくし、そのお言葉だけで十分ですの」
両手で陶器を持って、ふぅふぅと息を吹きかけ、こくりと飲んだエルファーナの顔が綻んだ。
「おいしぃ……」
「まあ、それはようございましたわ」
嬉しそうに笑むハティスの横で、苦笑いを浮かべたリゼは、同じく苦い顔をしているエルファーナ付きの女官に気づいて歩み寄った。
「どうしました?」
「どうもこうもありませんわ」
リゼと気安い仲でもあるリーシアは、日頃たまっていた鬱憤をぶつけるかのように口を開いた。
「瑠璃の騎士様におかれましては、わたくしたちのまねごとだけでは飽きたらず、仕事まで奪うなんて!
まるで、自分こそがエルファーナ様の女官のように接せられ、わたくしたちが近寄るのをよしとされないのですわ」
「あの子は、そのために生きてきましたからね」
女王のために男を捨て、女として生きるために血の滲むような努力をしてきたハティスの姿をリゼは知っていた。
だからこそ、呆れはしても度が過ぎた振る舞いを咎めることはできなかった。
「まあ、藍玉の騎士様、なんと暢気な。わたくしたちがお止めしなければ、エルファーナ様の身の回りのお世話までするつもりですのよ。それがどういうことか、おわかりですか? いくら女性になりきっているとはいえ、本来は男性。エルファーナ様の寝所に気軽に出入りするだけでなく、着脱のお手伝いもなさるなんて、言語道断です!」
鼻息も荒くそう言いきった直後、耳をそばだてていたカナリスの顔から薄ら笑いが消えた。
「リゼ、アタシは間違っていたようだ。貴族の馬鹿どもよりも、身近な馬鹿を教育し直さないといけないようだねぇ」
無表情のままハティスに近づいたカナリスは、幸せそうに笑っていた彼の首根っこを掴むと、エルファーナを見下ろした。
「エル、瑠璃の騎士殿を借りていくよ」
「カナリス、乱暴な振る舞いはやめてちょうだい」
「はいはい、批判はほかの部屋できいてあげるよ」
「ちょ、」
エルファーナさまぁと情けなくすがる声が消えていった。
「カナリス……?」
カナリスの豹変ぶりに驚いているエルファーナに近づいたリゼは、空になったカップを取り上げると、リーシアに渡した。
「きっと、虫の居所が悪かったんでしょう。さ、エルファーナ。執務の時間はおしまいです。貴女は、横になって休みなさい」
「でも、リゼ……」
休んでいる暇などないのだと言おうとしたエルファーナの唇に、リゼのほっそりとした指先が落ちた。
「頑張るのはいいことですが、それで体を壊してしまったら元も子もないでしょう。あのときのように寝込む貴女をただ見守るだけの日々は、二度とごめんです」
端麗な顔を苦しげに歪ませたリゼは、しゅんと項垂れたエルファーナの髪を優しく撫でた。
「急がなくていいんですよ」
文字の読み書きすらできなかったエルファーナが、一年も経たずに政務ができているのは本人の努力の証だ。
即位して間もないエルファーナを慮って、重大な案件は今まで通り八聖騎士が処理し、大臣たちに指示を出している。
エルファーナの役割といえば、ただ促されるまま署名をするだけだ。
すべてを周囲に任せている状況をエルファーナが歯がゆく思っていることを八聖騎士は知っていた。
けれど、エルファーナを政務に関わらせるわけにはいかなかった。
たとえ、今生の女王が、八聖騎士の傀儡と嘲られようが……。
しんっと静まりかえったそこは、小さな鼓動も反響してしまうかのようだった。
緑青の淡い輝きが満ちる中、世の平穏のために力を注いだエルファーナは、よろけそうになってたたらを踏んだ。
「……ぁっ」
いつもだったら素早く手を差し伸べてくれる女官や八聖騎士の姿はない。
踏ん張ることができず、磨かれた石床に倒れ込んだエルファーナは、痛みに顔をしかめた。
「…ぃたっ」
痣になっているだろうか。
きっと、リーリアたちが青痣を見つけたら、大騒ぎになる。
彼女たちは、エルファーナの体に、傷一つつくことを良しとしないのだ。
それは、愛されている証拠のようで、とても嬉しかった。
けれど、彼女たちに心配をかけるのは、本意ではない。
身を起こしたエルファーナは、証拠隠滅とばかりに、ずきりと痛む膝に手を当て癒そうとしたが、ふと手を止めた。
これは、自分に使うものではない。
もっと、苦しんでいる者たちに使うべきではないだろうか?
そのとき、ふわりとエルファーナの体が温かいものに包まれた。
「愛しい子」
驚いて固まるエルファーナの耳朶に、心地よい美声が入り込む。
「なにを惑う?」
「…神…さま……」
「そなたは信ずる道を進めばよい。その道が平坦でも、険しくとも、常に私はそなたを見守っています」
「……でも、道を間違えてしまったら?」
声が震えた。
みんなは優しくて、エルファーナをゆっくりと成長させようとしてくれている。
けれど、エルファーナの自身はいつも焦るばかりだ。
しっかりしなければ、もっと勉強しなければ、そう思うほど、空回りしてしまう。
「人は過ちを経て成長するもの。私はね、人間の持つ、怒りや憎しみ、喜び……すべて愛おしく感じるのですよ。逆境の中でこそ光り輝く魂のなんと美しいことか。中でもそなたには、過酷な宿命を背負わせてしまいました」
「過酷じゃないわ。とても、とても、恵まれているもの」
「ふふ。そうだね。そなたならそう言うと思いました。でも、よくお聞き。これはまだ始まりに過ぎません。私がそなたに与えた定めを覚えていますか?」
「全くの愛を手に入れる……?」
「ええ、そうです」
正解とばかりに、神のほっそりとした手が、エルファーナの頭を優しく撫でた。
「それを手に入れたとき、そなたが欲する世界が広がるでしょう」
「……すべての人達が幸せな世界?」
「……そなたの成長を私は待っていますよ」
そっとエルファーナのつむじに口づけを落とした神は、すぅっと溶けるように消えていった。
つかの間、神と過ごした幸福感に酔いしれていたエルファーナは、まだドキドキしている胸にそっと手を当てた。
神様のことを想うだけで、涙が溢れそうになる。
こうして、自分の目の前に現れたということ自体、奇跡なのだ。
エルファーナは、言葉をかわすだけでなく、触れ合う許可までいただいている。
「……神様のために……」
失望させない道を進まないといけない。
今のエルファーナには、なにが正しいのか、なにが正しくないのかまだわからない。
ただ勉強するだけの日々で、この城の中では、まだ赤子のようなものだ。
大事に、大事に真綿に包まれる生活はとても居心地がよくて、きっと抜け出せなくなってしまう。
だから…と、決意を秘めた顔で、エルファーナは脚を扉に向かって踏み出した。
前回からかなり時間が空きまして申し訳ありません。




