第57話:透ける掌(てのひら)と、戻りゆく砂時計
空前絶後の祝祭が去ったあとの街は、まるで潮が引いたあとの砂浜のように、冷え切った静寂に包まれていた。
昭和四十五年、十一月下旬。
前夜、初音銀座商店街を赤提灯の光で染め上げ、大山源三が泥酔して泣き崩れ、本田辰夫社長の号令で万歳三唱が夜空に轟いたあの大祝勝会から、半日。
東の空から昇った太陽は、冬の気配を色濃く含んだ白っぽい光を放ち、長屋の屋根瓦に薄く降りた霜を、音もなく溶かしていた。
路地を吹き抜ける風は、昨日までの熱狂を吹き飛ばすかのように冷徹で、乾いた未舗装路の土埃を巻き上げては、軒先の雨樋をカタカタと軋ませている。
昨夜、通りいっぱいに並べられていた木箱や足場板のテーブルはすでに片付けられ、路地には再び、いつもの静けさが戻っていた。
だが――キリシマ食堂の裏手、路地と長屋の隙間に設けられたコンクリート造りの小さな洗い場に立つ桐島結衣の全身は、秋の風とは比較にならない、凍りつくような悪寒に貫かれていた。
「……っ……あ……」
結衣の喉から、声にならない細い息が漏れた。
早朝。
二階の物置部屋で目を覚ました瞬間から、異変は始まっていた。
身体が、異常なほど重かった。
布団から起き上がろうとした瞬間、視界がぐるりと激しく旋回し、頭蓋骨の芯を太い釘で貫かれたような、鋭い痛みが走った。
呼吸がうまく噛み合わず、肺に吸い込んだ空気が、まるで自分の身体を素通りして抜けていくような、奇妙な浮遊感。
昨夜の宴会の疲れだろうと自分に言い聞かせ、ふらつく足取りで階下へ降り、冷たい水で顔を洗おうと、裏手の洗い場へ出た時のことだった。
井戸水を引き込んだ真鍮の蛇口を捻る。
ジャ、ジャッ、と音を立てて吐き出された冷水が、苔むした研ぎ出しの人造石のシンクに張られた丸いトタンのタライを満たしていく。
結衣は両手を伸ばし、タライの水をすくおうと、水面へと顔を近づけた。
――その時だった。
「……え……?」
結衣の指先が、空中で凍りついた。
タライに張られた、波紋ひとつない冷たい水。
鏡のように周囲の朝空を映し出しているその水面に――映っていたのは、いつもの自分の顔ではなかった。
ゆらり……。
まるで、真夏の炎天下のアスファルトの上に立ち上る陽炎のように。
水面に映る桐島結衣の輪郭が、激しく歪み、細かく明滅を繰り返していた。
目、鼻、唇、黒髪。
それらが、水が揺れてもいないのに、微細な砂嵐のようにチリチリと崩れては、再び元の形へと結び直される。
まるで、令和のオフィスのパソコン画面で、グラフィックボードの接続が断たれかけた瞬間に走る、ノイズのような乱れ。
タライの中の水が狂っているのではない。
自分自身が、狂っているのだ。
戦慄が、結衣の背筋を氷の刃のように駆け上がった。
結衣はおずおずと、自らの両の手のひらを目の前に持ち上げた。
朝の冷たい光にかざす。
「う……嘘……でしょ……」
結衣の唇が、恐怖に激しく引き攣った。
両の手のひら。
指先から、爪の先、そして手の甲にかけて。
皮膚の境界線が、青白い光の微粒子となってぼやけ、透けていた。
指の腹の向こう側に――シンクの底の古い灰色のセメント、タライのトタンの波模様、そして足元に転がる黒い砂利の粒が、まるで薄いガラス越しのように、くっきりと透けて見えていた。
触れようと、左手で右手の甲を掴む。
ギュッ……。
掴めないわけではない。肉の感触はある。
けれど、その感触は、水の中に浸けた手を外から触っているかのように、鈍く、遠い。
力いっぱい握りしめると、指先がパチリと小さな静電気のような淡い光を放ち、一瞬だけ、右手の輪郭が空間から完全に掻き消えかけた。
「あ……っ!」
結衣は恐怖のあまり手を引き離し、自分の胸元を掻き抱いた。
ドクン、ドクン、ドクン……!
心臓は、激しく脈打っている。
血は流れている。
けれど、その肉体をこの世界に繋ぎ止めている「錨」のようなものが、いま、音を立てて引き抜かれようとしていた。
◆
逃げるようにして店の中へ戻った結衣は、引き戸に鍵を下ろし、薄暗い厨房の壁に背中を預けて座り込んだ。
ハァッ、ハァッ、と荒い呼吸が、冷え切った厨房の空気を白く濁らせる。
二階からは、昨夜しこたま酒を呑んだ大山源三が、まだ深い眠りについている寝息が、微かに響いていた。
誰もいない、静まり返った客席。
四十ワットの裸電球を点けることすら恐ろしく、結衣は暗がりの中、柱に掛けられた一枚の紙へと視線を這わせた。
初音神社の神紋が刷り込まれた、商店街振興会の日めくりカレンダー。
太い毛筆体で印刷された、その数字。
『昭和四十五年 十一月二十七日 金曜日』
「十一月……二十七日……」
結衣の指先が、ガタガタと震え出した。
脳裏に、記憶の蓋が乱暴に引き剥がされるような衝撃が走った。
(……あの日だわ)
結衣は自らの頭を両手で抱え込んだ。
令和のあの日。
自分が、あの冷え切ったデザイン事務所の机に突っ伏し、激しい胃痛と偏頭痛の中で、クライアントからの無情な修正指示チャットを見つめていた、あの金曜日。
終電を逃し、這うようにして始発前の駅へ向かい、凍えるガード下の泥水の上に倒れ込んだ――まさに、その「日付」だった。
(十一月二十七日、金曜日の未明……。
私が、令和の世界で意識を失った、あの日、あの時間……!)
結衣の胸の奥底で、巨大な砂時計が音を立てて回転する幻影が見えた。
サラサラと、落ちていく砂粒。
タイムスリップ。
自分がなぜ、半世紀前のこの昭和四十五年に迷い込んだのか、その科学的な理由は最後まで分からなかった。
けれど、時代の狭間に生じた奇跡のような裂け目は、無限に開いているわけではなかったのだ。
昭和四十五年の初夏から始まった、この街での日々。
商店街の危機を救い、大手のファミレスを押し返し、道路計画を書き換え、初音銀座の未来を切り拓いた、半年間の激闘。
その時間が満ち、自分が倒れた「あの日、あの瞬間」の天体の配置、時代の引力が、五十年という時の隔たりを越えて、いま、ピタリと一致しようとしていた。
(戻されるんだ……)
結衣は床を見つめ、唇を血が滲むほど強く噛み締めた。
(私が倒れた、あの令和の病院のベッドへ……。
あの、誰も私の名前を呼んでくれなかった、冷たい世界へ……!)
嫌だ。
帰りたくない。
結衣の胸の奥から、激しい慟哭がせり上がってきた。
この店がある。
源さんがいる。
毎朝、不器用に怒鳴りながら、誰よりも美味いデミグラスソースを煮詰めてくれる、あの頑固な老職人がいる。
八百杉の勇がいる。トミがいる。
さゆりがいて、本田社長がいて、誠二がいて、寺岡さんがいて……。
そして――。
『僕が……あなたを守るんだ!!』
雨の夜、泥だらけになって自分の手を握りしめ、魂の底から叫んでくれた、吉村健一のあの強い瞳。
あの人たちと、ここで生きていきたい。
下町の女帝として、キリシマ食堂の若女将として、この昭和の土の匂いの中で、人々の体温に抱かれながら、一生を終えたい。
五十年後の乾いた未来に、自分の居場所なんて、最初からどこにもなかったのだから。
――ズキリッ!
結衣の心臓が、激しく軋んだ。
抗おうとすればするほど、身体の奥深くで「時間の奔流」が渦を巻き、足元をすくい取ろうとする。
再び手のひらを見下ろすと、今度は手首から先全体が、まるで水面に落としたインクのように輪郭を失い、背後の木目の床が、ありありと透けて見えていた。
「だめ……」
結衣は涙をこぼしながら立ち上がった。
「見られちゃ……だめよ。源さんに見られたら……みんなに見られたら……!」
こんな化物のような姿を、家族に見せるわけにはいかない。
心配をかけたくない。
せっかく立ち退きを免れ、希望に満ちて笑い合っているこの街の人たちに、最後の最後に、耐え難い絶望を突きつけることなんて、絶対にできない。
結衣はトレンチコートを羽織ると、ポケットの奥深くに両手を押し込み、勝手口の板戸をそっと開けた。
誰にも気づかれないように。
冷たい朝の風の中へ、足早に滑り出していった。
◆
行き場のない足が向かったのは、初音銀座の裏手に広がる、あの小さな鎮守の杜――「初音神社」だった。
真夏のサマーフェスの夕暮れ、吉村と冷たいサイダーを飲み干し、届かなかった言葉の行方を花火が見送った、あの境内。
晩秋の初音神社は、すっかり冬の装いへと変わっていた。
銀杏の大木はすべての葉を落とし、本殿へと続く苔むした石段は、まるで黄金の絨毯を敷き詰めたかのように、無数の落ち葉で埋め尽くされていた。
参道を吹き抜ける木枯らしが、カサカサと乾いた葉を擦り合わせ、遠く京成線のガード下を走る電車の重いジョイント音が、寒々しく響いてくる。
結衣は、本殿の脇、古びた手水舎の石段の影に、身を潜めるようにして腰を下ろした。
コートの襟を立て、膝を抱え込む。
ポケットから出した右手は、もう、指の関節の骨すらおぼろげに霞み、向こう側の黄金色の銀杏の葉が、完全に透けて見えていた。
感覚が、麻痺していく。
寒さすら感じない。
風が自分の皮膚を通り抜けていくような、恐ろしい虚無感。
「……ここまで、なのかな」
結衣の瞳から、大粒の雫がポロリとこぼれ落ち、石段の落ち葉を濡らした。
「私の役目は……これで、終わりなの……?」
街は救った。
道路は迂回し、アーケードの建設が決まり、サンライズとの共創の道も開けた。
キリシマ食堂の暖簾は、百年先まで守られた。
けれど――その未来の中に、自分自身の居場所は、最初から用意されていなかったのだ。
自分は、ただ歴史の結び目を解きほぐすためだけに、未来から送り込まれた、一時的な「異物」に過ぎなかったのか。
――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ!!
その時。
神社の参道の砂利を、狂ったように蹴立てて走ってくる、激しい足音が静寂を切り裂いた。
結衣が息を呑んで顔を上げる。
赤い鳥居をくぐり、息を乱して境内に飛び込んできたのは――。
帝都物産の営業マン、吉村健一だった。
スーツの上着も着ず、糊のきいた白いワイシャツの腕をまくり、ネクタイは風に乱れ、肩で激しく息を切らしている。
今朝、アーケードの資材調達の打ち合わせでキリシマ食堂を訪れ、結衣の姿が見当たらないことに気づき、街中を血眼になって探し回っていたのだ。
「……結衣さんッ!!」
手水舎の陰に座り込む結衣の姿を捉えた瞬間、吉村の瞳に、激しい安堵の光が走った。
吉村は弾かれたように砂利を蹴り、石段へと駆け寄ってきた。
「よかった……! 探したんですよ、結衣さん! 朝一番で店に行ったら、源さんが『結衣の姿が見えねえ、書き置きもねえ』って血相を変えていて……八百杉の勇さんも、本田社長も、みんなで手分けして探して――」
「――来ないでッ!!」
結衣の悲痛な叫びが、境内に響き渡った。
吉村の足が、ピタリと止まる。
石段の三段下。
結衣は顔を伏せ、両手をコートのポケットの奥深くに隠したまま、身体を硬く強張らせていた。
「結衣……さん……?」
吉村が戸惑い、眉をひそめる。
「どうしたんですか……? 何かあったんですか? 身体の具合でも悪いんじゃ……」
「来ないで、吉村さん!」
結衣の声は、激しく震えていた。
「見ないで……! お願いだから、あっちへ行って……! 今の私を、見ないで……!!」
「何言ってるんですか!」
吉村は躊躇うことなく、石段を一段、二段と駆け上がった。
「あなたが苦しんでいるのに、あっちへ行けるわけがないでしょう! 結衣さん、顔を見せてください!」
「だめッ! 触っちゃだめなのよ!!」
結衣が拒絶するように、とっさにポケットから右手を突き出した――その瞬間だった。
◆
「っ…………!?」
吉村健一の動きが、完全に凍結した。
見開かれた黒い瞳が、信じがたい光景を前にして、激しく痙攣する。
晩秋の朝の光の下。
結衣が突き出した、その右手。
手首から指先にかけて――皮膚の輪郭が陽炎のように淡く揺らぎ、青白い微粒子となって明滅していた。
そして、その手のひらの向こう側に。
石段に敷き詰められた、黄金色の銀杏の葉が。
結衣の肉体を完全に透過して、くっきりと、鮮明に見えていたのだ。
「な……」
吉村の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
顔面から、サーッと血の気が引いていく。
「な……なんですか……それ……。結衣さんの、手……透けて……向こう側が……」
「だから……言ったでしょう……」
結衣は涙をボロボロとこぼしながら、その透けゆく右手を自らの胸に抱き寄せてうずくまった。
「私を……探したりしちゃ、いけなかったのよ……」
結衣の唇から、これまで誰にも明かすことのできなかった、世界の真実が零れ落ちていく。
「私ね、吉村さん……。この時代の人間じゃ、ないの」
「……え……?」
「五十年後の……未来から来たのよ。
令和という、遠い、遠い未来の東京で……過労で倒れて、死にかけて……気がついたら、昭和四十五年のあのガード下に倒れていたの」
結衣は泣き笑いのような表情で、吉村を見上げた。
「お伽噺みたいでしょう? 信じられないでしょう?
でも、これが本当の私なの。
私は……ただの亡霊よ。時代の狭間に落ちてきた、実体のない影法師……。
街の危機が去って、私の役目が終わったから……。
私が倒れた『あの日』の時間が近づいてきたから……。
時間は、私を元の世界へ引き戻そうとしているのよ……!」
静まり返る境内。
風が吹き抜け、無数の銀杏の葉が、二人の頭上を舞い散っていく。
突拍子もない告白。
普通の人間なら、狂気の戯言として笑い飛ばすか、気味悪がって逃げ出すはずの言葉。
だが――。
吉村健一は、逃げ出さなかった。
目を逸らすこともしなかった。
その双眸に宿っていたのは、恐怖でも、疑念でもなかった。
ただ――目の前の愛する人が、自らの手の届かない場所へ消え去ろうとしていることに対する、張り裂けんばかりの絶望と、激しい激情だった。
「……そんなこと」
吉村の唇が、震えながら言葉を紡ぎ出した。
「そんなこと……知ったことかッ!!」
「……え……?」
「未来から来た!? 亡霊!? だから何だって言うんだ!!」
吉村は叫んだ。
境内の静寂を木霊させる、魂の咆哮。
吉村は最後の一段を踏み越え、結衣の目の前へと膝をついた。
そして――。
迷うことなく。
一切の躊躇いもなく。
青白く透けかけている結衣の右手を、自らの熱い両手で、力任せに鷲掴みにしたのだ。
バチチッ!
微かな光の飛沫が散る。
吉村の指先が、わずかに結衣の皮膚をすり抜けそうになる。
だが、吉村は奥歯をギリリと噛み締め、爪が白くなるほどの力で、その半透明の手を握りしめ続けた。
「吉村さん……!? 消えちゃうのよ!? 触っちゃだめ……!」
「離すもんかッ!!」
吉村の目から、大粒の涙がボロボロと溢れ落ち、結衣の透ける手の甲へと叩きつけられた。
「未来から来ただろうと、過去から来ただろうと、そんなことは関係ない!
僕の目の前にいるのは、桐島結衣さんだ!
僕が胃を壊して倒れそうだった時、温かいコンソメスープをくれた、あなただ!
雨の夜、泥だらけになって僕の頬に触れてくれた、あなたなんだ!!」
吉村は結衣の手を引っ張り、その身体を、自らの胸の中へと力一杯抱きしめた。
ドスンッ!
激しい衝撃。
吉村の白いワイシャツの胸元に、結衣の顔が埋まる。
熱い。
焼けるような、激しい体温。
ドクドクと、狂ったように早鐘を打つ吉村の心臓の鼓動。
男の汗の匂い。
そして、結衣の髪に落ちる、吉村の熱い涙の雫。
「消えないでくれ……!」
吉村の声は、子供のようにしゃくりあげ、激しく震えていた。
「お願いだから……消えないでくれ、結衣さん!
僕を……僕を置いていかないでくれ!!」
吉村の両腕が、結衣の背中を、肩を、折れんばかりの力で締め上げる。
「あなたがいない世界なんて、僕には何の意味もない!
出世も、商社も、東京の繁栄も、そんなもの全部要らない!
あなたが未来へ帰るなら、僕も連れていってくれ!
それができないなら……ここにいてくれ!
僕と……僕と一緒に、この時代で生きてくれよォッッッ!!」
「吉村……さん……っ」
結衣の胸が、激痛に引き裂かれた。
涙が、止まらなかった。
吉村の腕の力。
その熱さ。
その痛々しいほどの愛の深さ。
こんなにも愛されている。
こんなにも求められている。
この昭和四十五年の下町で、一人の男が、自らの命のすべてを懸けて、自分という存在を抱きしめ、引き止めようとしてくれている。
結衣は、透けゆく左手を伸ばした。
そして、吉村の背中に回し、そのワイシャツを、力いっぱい握りしめた。
抱きしめ返したい。
この胸板の中に埋もれて、この人の妻として、この街の女として、年老いていくまでずっと一緒に笑い合っていたい――。
――だが。
ゴオオオオオオオ……ッ!
二人の耳の奥で、現実の風の音とは違う、途方もない「時の奔流」の轟音が鳴り響いた。
触れ合っている吉村の胸板の温もりの、さらにその奥深くから。
宇宙の底が抜けたかのような、冷酷で、圧倒的な重力が、結衣の魂の襟首を掴み、後方へと猛烈な力で引きずり戻そうとしていた。
チリ、チリ、チリ……!
結衣の背中から、淡い青白い光の粉が、無数に立ち上り始める。
吉村の指先が、結衣の背中の皮膚を、少しずつ、少しずつすり抜けていく。
どれほど吉村が力を込めようとも、どれほど結衣がしがみつこうとも。
五十年という時間の断層が放つ絶対的な復元力は、二人の人間の意志などあざ笑うかのように、無慈悲にその境界線を押し広げていく。
「あ……っ、結衣さん……!? 結衣さんッ!!」
吉村が悲鳴を上げた。
腕の中にあったはずの結衣の身体が、まるで水煙のように軽くなり、その輪郭が透けて、向こう側の銀杏の木肌が見え始めていた。
「吉村……さん……」
結衣の瞳から、最後の一筋の涙がこぼれ落ちた。
もう、誤魔化すことはできなかった。
時間の砂時計の最後の砂粒が、いま、落ちきろうとしていた。
結衣は、透けゆく右手で、吉村の濡れた頬を、そっと撫でた。
皮膚の感覚は、もうほとんど残っていなかった。
けれど、吉村の流す涙の熱さだけは、確かに結衣の魂の芯へと染み渡っていた。
「……ごめんなさい、吉村さん」
結衣は、世界で一番優しく、そして世界で一番切ない微笑みを浮かべた。
「私には……残された時間が、もうないみたい……」
「結衣さんッ……!!」
吉村が叫び、その手を掴もうとする。
だが、その指先は、結衣の手のひらを抵抗なくすり抜け、空を切った。
吹き抜ける木枯らし。
黄金色の銀杏の葉が、嵐のように二人の周囲を舞い踊る。
光の微粒子が、結衣の身体を包み込み、初音神社の境内を、淡い白銀の輝きで満たしていった。
逃れられない運命の秒読み。
愛する人々を残し、下町の女帝・桐島結衣が向かうべき「最後の時間」が、いま、無慈悲な足音とともに、その幕を開けようとしていた。




