第56話:赤提灯の涙雨、万歳三唱の夜
十一月の澄み渡る秋空から、乾いた北風が東京の下町へと吹き降ろしていた。
墨田区役所本庁舎の第四特別会議室で行われた、あの息詰まる最終説明会から三日後の、金曜日の午後。
初音銀座商店街の目抜き通りには、いつものように夕餉の買い出しに訪れた近隣の主婦たちの下駄の音が響き、どこかの町工場から排出される油煙が、黄金色の夕暮れの中に溶け込んでいた。
だが、通りを行き交う店主たちの足取りは、どこか浮き足立ち、誰もが時折、駅の方角へと落ち着かない視線を投げかけていた。
区役所の説明会で、桐島結衣が叩きつけた『初音銀座再生マスタープラン』。
都市計画課長・小早川を沈黙させ、サンライズの坂上浩二を唸らせたあの奇跡の代替案は、果たして行政の分厚い官僚主義の壁を突き破り、正式な決裁として下りるのか。
それとも、やはり国家の定めた原案通り、商店街を真っ二つに引き裂くブルドーザーが押し寄せてくるのか。
固唾を呑んで待つ下町に、運命の風が吹き抜けたのは、午後三時を回った直後のことだった。
「――出たぞォッ!! 正式決定だァッッッ!!」
京成線の高架下をくぐり、割れ鐘を叩くような絶叫を上げながら走ってきた影があった。
寺岡堂の店主・寺岡雅之だった。
普段は銀縁の丸眼鏡を掛け、帳簿を几帳面にめくる物静かなインテリ青年が、いまやネクタイを風になびかせ、手にした公文書の束を頭上に高々と掲げながら、未舗装の砂利道を全速力で疾走していた。
「決まった! 東京都首都整備局、ならびに墨田区都市計画課より、正式な計画変更の告示が出されたぞォッ!!」
ガラガラガラッ!
通りの両脇から、一斉に戸が開いた。
八百杉の杉本勇が前掛けを揺らして飛び出し、やぶ忠の忠吉が片手に麺棒を持ったまま転がり出る。宝来軒の金造、カトレアのマスターとさゆり、そして本田鉄工所の本田辰夫社長と水野誠二が、油まみれの作業着のまま路地へと雪崩れ込んできた。
「寺岡の若旦那! 本当なのか!? 本当に通ったのかよ!?」
勇が寺岡の肩を掴み、揺さぶった。
寺岡は肩で激しく息を切り、眼鏡をずり落ちそうにさせながら、朱塗りの公印が鮮烈に押された一枚の厚手の公文書を広げて見せた。
『東京都市計画道路放射第二十七号線・線形変更に関する告示』
――初音銀座地区における旧水路都有地への迂回バイパスルートの採用。
――現道部の歩行者専用道路指定。
――初音銀座アーケード協同組合設立に伴う、東京都防災街区整備助成の適用、ならびに民間共同出資者(株式会社サンライズ/新星流通グループ)の参画決定。
――当初予定されていた密集市街地二十八棟に対する【強制収用計画の全面白紙撤回】。
「……撤回……全面白紙撤回……!」
忠吉の掠れた声が、静まり返った通りにポツリと落ちた。
七十近い老いた蕎麦屋の主人は、寺岡の手にある公文書を震える指先でなぞり、そこに刻まれた自らの店の番地が「収用対象除外」となっているのを確認した瞬間――。
ドサリ。
その場に両膝を突き、泥の浮いた未舗装路の上に、両手をついた。
「残った……! アタシの……アタシの蕎麦屋が……暖簾が、残ったんだよ……!!」
忠吉の額が地面に擦り付けられ、大粒の涙が乾いた土を黒く濡らしていった。
金造が駆け寄り、忠吉の背中に覆いかぶさって号泣する。
「残ったぞ、忠吉! 俺たちの街が……俺たちの店が、勝ったんだよォッ!!」
「うおおおおおおおおおおっッッ!!」
本田辰夫社長が、天を仰いで咆哮した。
誠二を太い腕で抱き締め、その頭をぐしゃぐしゃに撫で回す。
「見たかコラァッ! 工場も旋盤も、一ミリも動かさなくていいんだ! 俺たちの鉄骨が、この街の屋根になるんだぞォッ!!」
「がははは! 万歳だ! 初音銀座の万歳だァッ!!」
歓喜の地鳴りが、路地裏を揺るがした。
長屋の窓から主婦たちが身を乗り出して手ぬぐいを振り、工員たちが飛び跳ね、トミが八百杉の店先で腰を抜かして座り込みながら泣き笑いの声を上げる。
立ち退きという名の巨大な黒雲は、完全に、跡形もなく吹き飛んだのだ。
◆
午後五時。
秋の釣瓶落としの夕暮れが、路地を茜色から濃紺へと瞬く間に染め上げていく。
だが、今夜の初音銀座商店街には、夜の帳など訪れようはずがなかった。
「おい、野郎ども! 引き戸を外せェッ!!」
大山源三の雷鳴のような号令が飛んだ。
キリシマ食堂の正面、長年油煙を吸い込んできた木製の引き戸が、勇と本田社長の手によってガタリと外され、壁際へと立てかけられた。
土間の客席と、表の路地を隔てる境界線が、完全に消滅する。
それだけではなかった。
キリシマ食堂の丸テーブルや四人掛けの木製机が、次々と表の通りへと引きずり出された。
八百杉からは頑丈なリンゴ木箱が何十個も運び出され、その上に本田鉄工所から持参した足場板が渡されて、即席の巨大な宴会テーブルが路地の真ん中に一直線に築き上げられていく。
頭上には、サマーフェスの時に使ったあの紅白の提灯が、青年部の手によって再び電線から吊るされ、一斉に灯を点された。
パッ……と灯る、数十個の赤提灯の柔らかな橙色の光。
初音銀座商店街のメインストリート全体が、前代未聞の「青空の大祝勝会場」へと姿を変えたのだ。
「さあさあ、ドンドン食いな! 今日は全部、街のおごりだよッ!!」
八百杉のトミが、割烹着を揺らしながら大皿をテーブルへ並べていく。
八百杉が提供したのは、神田市場から仕入れてきたばかりの、秋の恵みのオンパレードだった。
七輪の炭火で香ばしく炙られた、傘の開いた立派な松茸。
甘辛い醤油と出汁でじっくりと煮含められた、ねっとりとした新里芋の煮転がし。
八百杉の糠床で漬け込まれた、歯切れのいい大根と胡瓜の古漬け。
そして、子供たちのために蒸籠で蒸し上げられた、黄金色に輝く鳴門金時の焼き芋の山。
「勇ちゃん、手ぇ休めんじゃないよ! 松茸をどんどん焼きな!」
「分かってるよお袋! 今日は市場の在庫が空になるまで振る舞ってやるぜ!」
勇が団扇を激しく煽り、立ち上る松茸と醤油の香ばしい煙が、秋風に乗って通りいっぱいに広がっていく。
その隣、本田鉄工所の男たちが陣取ったブースからは、別の暴力的なまでの美味そうな匂いが立ち込めていた。
ドガガガガッ!
誠二が工場のスクラップ置き場から引っ張り出してきたドラム缶を、本田社長が酸素バーナーで真っ二つに割り、底に耐火煉瓦を敷き詰めた特製の「超大型BBQコンロ」。
赤々と熾された備長炭の上で、丸長精肉店から丸ごと仕入れた牛モモ肉の塊と、分厚い豚バラ肉のブロックが、ジュウジュウと凄まじい音を立てて身悶えしていた。
「誠二、塩胡椒だ! ケチケチすんじゃねえ、親の仇みたいにぶっ掛けろ!」
「はいッ、親方!」
誠二が手首を返し、粗塩と黒胡椒を豪快に振りかける。
肉汁が炭火に滴り落ちるたび、ボッと青白い炎が上がり、燻製のような芳醇なアロマが群衆の鼻腔を直撃する。
焼き上がった肉を、本田が牛刀で無造作に分厚く切り分ける。
断面から溢れ出す、透き通ったロゼ色の肉汁。
「ほらよ忠吉、食え! 蕎麦ばかり食ってっから腰が曲がるんだ! 肉を食って精をつけろィ!」
「ひゃあ、こりゃ豪快だねえ! 顎が落ちちまうよ!」
忠吉が焼きたての牛肉を口いっぱいに放り込み、ハフハフと白い息を吐きながら破顔する。
純喫茶カトレアのマスターとさゆりも、負けてはいなかった。
「大人の皆さんには、カトレア特製の『珈琲酒』ですよーっ!」
さゆりが、緋色のビロードのようなミニスカートを揺らし、硝子のピッチャーを掲げて注ぎ回る。
純喫茶の誇る極上の水出しアイスコーヒーに、ホワイトリカーと粗ザラ糖を絶妙な比率でブレンドし、冷たい井戸水で割った特製のカクテル。
深煎り豆の芳醇な苦味と甘美なアルコールが喉を滑り落ち、男たちの乾いた喉を心地よく潤していく。
子供たちや下戸の女衆には、あの牛乳瓶に入った「レトロボトルプリン」が何十本も振る舞われ、瓶の底をスプーンで擦る甲高い金属音が、あちこちで心地よいリズムを奏でていた。
そして――キリシマ食堂の店先。
大山源三が、直径六十センチを超える巨大な真鍮の寸胴鍋を、外の特設コンロの上に据え付け、太い木べらで力強く掻き回していた。
ボワッッッッッッ!!
木蓋を開けた瞬間、初音銀座の通り全体が、息を呑むような深い琥珀色の芳香に包み込まれた。
一週間煮込み続け、牛骨と香味野菜の旨味を極限まで凝縮させた、キリシマ食堂秘伝の漆黒のデミグラスソース。
その中で、トロトロになるまで煮込まれた牛スネ肉と、丸ごと放り込まれた小玉ねぎ、人参が、褐色のスープの波間で艶やかに踊っていた。
『キリシマ特製・大鍋煮込みビーフシチュー』。
「源さん、オムレツの卵、割れました!」
桐島結衣が、エプロン姿で厨房から飛び出してきた。
手にしたボウルには、八百杉から届いたばかりの新鮮な赤玉卵が、三十個分、完璧に溶きほぐされている。
「よし、結衣! 皿を並べろ! 次から次へと巻いていくぞ!」
「はいッ!」
カチリ、ボッ!
源三のフライパンに、強火の炎が吸い込まれる。
バターが一瞬にして泡立ち、黄金色の卵液が注ぎ込まれる。
ジュワワワッ!
源三の手首が、電光石火の速さで前後に揺れる。菜箸が円を描き、わずか八秒で外側は絹のように滑らか、中は極上の半熟を保った紡錘形のオムレツが、皿の上のチキンライスの上へと滑り落ちる。
そこへ、結衣が長柄のナイフをスッと一筋走らせる。
パカッ……!
黄金の花びらが開くように、トロトロの半熟卵がライス全体をふんわりと包み込む。
仕上げに、源三が大鍋からすくい上げた熱々のビーフシチューを、惜しげもなく、ドバッ!と回しかけた。
「お待ちどう! キリシマ名物、ビーフシチュー開花オムライスだ!」
「うわあぁぁぁっ!」「源さん、あたしにも頂戴!」「俺もだ、大盛りでくれ!」
押し寄せる手、手、手。
結衣が次々と皿を手渡し、受け取った人々が、テーブルに腰掛けてスプーンを突き立てる。
「……んん〜っ! 肉がとろける! 卵が甘い! ソースのコクが身体中に染み渡るよ……!」
「世界一だ! やっぱり、このキリシマの味がなきゃ、初音銀座の夜は始まらねえや!」
笑い声。
肉の焼ける音。
氷の弾ける音。
そして、盃を打ち鳴らし合う無数の乾杯の音。
冷たい秋の夜風など、誰一人として感じていなかった。
初音銀座商店街を埋め尽くしたのは、数百人の人間が放つ、抗いがたい生の熱量と、生き残った喜びの咆哮だった。
◆
「結衣さん!」
人混みをかき分け、息を切らせて駆け寄ってきたのは、吉村健一だった。
仕立てのいい濃紺のスーツに、真新しいネクタイ。
手には、帝都物産の黒革のブリーフケースを提げ、その表情は、夜空の月よりも明るく輝いていた。
「吉村さん! 会社の査問委員会は……大丈夫だったんですか!?」
結衣が心配そうに駆け寄ると、吉村は満面の笑みを浮かべ、力強く親指を立ててみせた。
「完全な、無罪放免です!」
吉村の声は、誇らしさに満ちあふれていた。
「新星流通グループの坂上課長が、直々に我が社帝都物産の専務の元へ乗り込んでくださったんです。『吉村君の情報提供があったからこそ、我が社は下町を敵に回すという経営判断の誤りを回避できた。彼は両社を結ぶ最大の功労者だ』と……!」
「まあ……! 坂上さんが……!」
「それだけじゃありません。帝都物産は、初音銀座アーケード建設プロジェクトの、資材調達特命代理店として正式に参画することが役員会で決議されました! ……僕が、その主任担当官に任命されたんです!!」
「吉村さん……!!」
結衣の目頭が、熱くなった。
自分のキャリアを捨ててまで泥水に飛び込んでくれた誠実な青年が、その行動によって自らの手で未来を掴み取ったのだ。
「おめでとう、吉村さん! 本当に……本当によかった……!」
「ありがとうございます、結衣さん。……僕をここまで走らせてくれたのは、あなたです」
吉村の瞳が、熱い光を湛えて結衣を見つめた。
あの初音神社の石段で、花火の爆音にかき消された言葉。
届かなかった想いの残滓が、二人の視線の交錯のなかに、甘く切ない微熱となって揺らめいていた。
その時だった。
「――おい! 野郎ども、酒だ! 酒を持ってこいィッ!!」
通りの中央で、ひときわ大きく、ひときわ嗄れた怒号のような声が轟いた。
大山源三だった。
コックコートの襟元を大きくはだけ、顔を真っ赤に紅潮させた老職人が、右手には本田社長から奪い取った特級清酒の一升瓶をぶら下げ、左手には大きな湯呑みを握りしめて、千鳥足でテーブルの真ん中へと躍り出ていた。
「源さん、もう呑みすぎだよ!」
トミが呆れ顔で止めようとするが、源三は「うるせえババア!」と手を払いのけた。
「呑まずにいられるかってんだ! 今日はな……浅草で店を畳んでから十五年、俺の人生で、一番美味い酒なんだよ!!」
源三はドスン!と忠吉の座るテーブルの前に腰を下ろすと、忠吉の湯呑みに、一升瓶から酒をドバドバと溢れるまで注ぎ込んだ。
「おい、忠吉! 飲め!」
「源さん……」
「てめえがな、『潮時だ』なんて泣き言ぬかしやがった時は、あの美濃焼の湯呑みごとてめえの頭をカチ割ってやろうかと思ったぜ!」
「す、すまなかったよ、源さん……」
忠吉が縮こまる。
だが、源三はニヤリと唇を吊り上げると、自らの湯呑みになみなみと酒を注ぎ、忠吉の湯呑みへと力任せにカチン!とぶち当てた。
「だがよ……お前が逃げ出さなかったから、今夜のこの酒があるんだ! 水に流してやるよ! その代わり、死ぬまで毎朝、築地の鰹節を削り続けろ! 分かったか、このクソジジイ!!」
「当たり前だ! 源さんのデミグラスに負けねえ出汁を、死ぬまで引いてやるよォッ!!」
老職人二人が、湯呑みを一気に干し、抱き合って背中を叩き合う。
そして――。
源三の視線が、料理を配り終えて佇んでいた桐島結衣へと向いた。
「……結衣」
源三の声が、ふっと掠れた。
一升瓶をテーブルの上にドンと置くと、千鳥足のまま、真っ直ぐに結衣の前へと歩み寄ってきた。
「源さん、もうお酒は……」
結衣が心配そうに手を伸ばしかけた、その瞬間。
ガシッッッ!!
「っ…………!?」
結衣の華奢な身体が、強い衝撃とともに、分厚い胸板の中へと引き寄せられた。
大山源三の両腕だった。
長年の油と炎に炙られ、無数の傷が刻まれた太い腕が、折れんばかりの力で、結衣の背中を、頭を、力一杯に抱きしめ込んでいたのだ。
「源……さん……?」
結衣が息を呑む。
源三の身体から立ち上る、濃密な清酒の匂い。
ラードの匂い。焦がし醤油の匂い。
そして――熱い、熱い、脈打つ体温。
次の瞬間、結衣の耳元に、老職人の崩れ落ちるような嗚咽が響き渡った。
「う……っ、うわあああああああん……っ!!」
静まり返る通り。
あの頑固で、偏屈で、誰の前でも決して涙を見せなかった浅草の老職人が。
トミの前で、本田の前で、忠吉の前で、子供のようにしゃくりあげ、顔をクシャクシャにして大泣きしていた。
源三の大粒の涙が、滝のように結衣のブラウスの肩を濡らしていく。
「結衣……っ! 結衣……ッ!!」
源三は結衣を抱きしめたまま、通りを埋め尽くす下町の人々に向かって、腹の底から、魂を絞り出すように叫んだ。
「てめえら、よぉく見ろッ!! この娘を……俺の結衣を、よぉく見ろォッ!!」
源三の叫びが、夜空へと木霊した。
「この娘はな……余所者なんかじゃねえ! ただの看板娘なんかじゃねえぞ!!
天国の静江が……俺の不甲斐なさを叱り飛ばすために、泥水の中に遣わしてくれた……俺の、本当の孫だ!!
神様が、この初音銀座の街を救うために遣わしてくれた……最高の、俺のたった一人の自慢の娘なんだよォッッッ!!」
「源さん……っ!」
結衣の胸が、激しく締め付けられた。
涙が、視界を塞いだ。
トミが割烹着で顔を覆って号泣し、さゆりが手ぬぐいで目を押さえ、本田社長が男泣きに鼻をすする。
誰もが、知っていた。
妻に先立たれ、浅草を追われ、心を閉ざして死んだように生きていたこの老人が、この少女と出会ってから、どれほどの光を取り戻したかを。
そして、この少女が、どれほどの汗と血を流して、この街の命を繋ぎ止めてくれたかを。
「結衣……ありがとな」
源三は結衣の頭を、大きな手で何度も、何度も撫で回した。
「俺の店に来てくれて……俺の飯を美味いって言ってくれて……この街を、守ってくれて……本当に、本当にありがとな……!!」
「私の方こそ……私の方こそ、ありがとうございます、源さん……っ!」
結衣は源三の背中に手を回し、その温かな半纏にしがみついて泣いた。
許されたのだ。
愛されたのだ。
令和のあの冷え切った世界で、誰からも必要とされずに捨てられた自分が、いま、半世紀前の下町のど真ん中で、一人の誇り高き職人に、魂の底から「本当の孫だ」と抱きしめられている。
その時――。
ドスンッ!!
本田辰夫社長が、座卓の上に仁王立ちになり、新しい一升瓶を天へと突き上げた。
「野郎どもッ!! 突っ立ってんじゃねえぞ!!」
本田の雷鳴のような咆哮が、涙に暮れる通りを震わせた。
「俺たちの街を救ってくれたのは誰だ! 俺たちの魂を束ねてくれたのは誰だ!!
初音銀座の若女将! 俺たちの誇り!
下町の女帝――桐島結衣に、万歳三唱だァッッッ!!」
本田が息を吸い込み、腹の底から叫んだ。
「初音銀座の女帝――万歳ッッッ!!」
「「「万歳ッッッッッッ!!!!」」」
数百人の咆哮が、地鳴りとなって夜空を揺るがした。
「万歳ッ!!」
「「「万歳ッッッッッッ!!!!」」」
「結衣ちゃん、万歳ッ!!」
「「「万歳ィィィィィィッッッッッッ!!!!」」」
ドォォォォォォォォンッッッ!!
割れんばかりの拍手と歓声の嵐。
赤提灯が激しく揺れ、男たちが拳を突き上げ、女たちが手を取り合って飛び跳ねる。
初音銀座商店街の空を埋め尽くしたのは、一人の少女への、混じり気のない愛と敬愛の絶叫だった。
◆
宴は、夜更けを過ぎても衰える気配を見せなかった。
源三は本田や忠吉に担ぎ込まれ、キリシマ食堂の小上がりで幸せそうに高いイビキをかいて眠りこけていた。
通りでは、まだ若者たちが車座になって酒を酌み交わしている。
「……おい」
結衣が少し息を整えようと、キリシマ食堂の前の縁側に腰掛けていると、無骨な足音が近づいてきた。
八百杉の勇だった。
手には、栓の抜かれた三ツ矢サイダーの瓶が一本。
「勇さん……」
「……ほらよ」
勇は結衣の顔を見ようともせず、そっぽを向いたまま、冷えたサイダーの瓶を差し出してきた。
その耳の付け根は、酒のせいか、それとも照れ隠しのせいか、林檎のように真っ赤に染まっていた。
「一日中、オムレツ焼いて声張り上げてただろ。……喉、渇いてんだろ」
「……ふふっ。ありがとうございます、勇さん」
結衣が受け取ると、勇は前掛けに手を突っ込み、ぶっきらぼうに言った。
「……へっ。万歳三唱なんざ、大袈裟なんだよ、本田のオヤジは」
勇は足元の小石を爪先で軽く蹴った。
「だが……まあ。……お前がいなきゃ、八百杉も今頃は立ち退き料の計算でバラバラになってたのは、確かだ。……ありがとな、結衣さん」
その一言を残すと、勇は「あっちの肉を片付けてくる!」と大股で背中を向け、そそくさと歩み去っていった。
無言の背中。
どんな甘い言葉よりも重く、温かい、下町の若旦那の不器用な感謝の形。
「結衣お姉ちゃーん!」
続いて駆け寄ってきたのは、竹中さゆりだった。
さゆりは飛びつくようにして結衣の首に抱きつき、その柔らかい頬を結衣の肩へとすり寄せた。
「お姉ちゃん、本当にすごい! 私、一生お姉ちゃんについていくわ! アーケードができたらね、カトレアの二階をお姉ちゃんのデザイン事務所にするの! 毎日、私が特製のアイスコーヒーを運んであげるんだから!」
「ふふっ、ありがとう、さゆりちゃん。楽しみにしてるわね」
結衣が優しく背中を撫でると、さゆりは満面の笑みで「マスター、おかわり持ってきて!」と走っていった。
そして――少し離れた街灯の柱の陰から。
吉村健一が、静かに、けれど万感の想いを込めて結衣を見つめていた。
目が合うと、吉村は小さく、誇らしげに頷いてみせた。
言葉は交わさなくても、二人の間には、命を賭けて戦い抜いた者同士だけの、強固で美しい絆が結ばれていた。
「…………」
結衣はサイダーに口をつけ、冷たい甘みを喉へと滑り込ませた。
胸の奥が、温かかった。
これ以上ないほどの幸福感。
令和の冷え切ったオフィス街で、心臓を凍りつかせていたあの孤独な自分が。
いま、この昭和四十五年の下町の真ん中で、家族に愛され、仲間に支えられ、ひとつの街の未来を切り拓いた「女帝」として、ここに生きている。
(私……生きていてよかった)
結衣は夜空を見上げた。
澄み切った秋の星座が、赤提灯の光の向こうで、優しく瞬いている。
(ここで生きてきて、本当によかった……)
――その時だった。
ヒヤリ……。
まるで、真冬の氷水を一滴、首筋の裏に垂らされたかのような、異様な冷気が結衣の身体を突き抜けた。
「……え?」
結衣は、ふと自らの手元へと視線を落とした。
サイダーの瓶を握りしめている、右手の指先。
その輪郭が――。
――チリ、チリ……。
チリ、チリ、チリ……。
呼吸が、止まった。
鼓動が、早鐘のように跳ね上がる。
見間違いではなかった。
赤提灯の橙色の光を浴びていたはずの、自分の右手。
人差し指と中指の爪の先。
皮膚の境目。
その輪郭が――淡い、青白い燐光を帯びて、まるで夏の夜の草むらで明滅する蛍のように、儚く、微かに、点滅を繰り返していた。
「な……に……?」
結衣は震える左手で、その右手を掴もうとした。
だが――掴もうとした左手の指先が、右手の皮膚を、まるで薄い煙の膜を撫でるかのように、かすかな抵抗感だけで通り抜けかけた。
半透明。
透けていた。
自らの指先の向こう側に広がる、キリシマ食堂の煤けた板壁の木目と、足元の砂利が、皮膚を透過して、くっきりと見えていたのだ。
ドクンッ!!
耳の奥で、砂時計の最後の砂粒が落ちるような、冷酷な乾いた音が響いた。
(……時間の、波……?)
全身から、血の気が一瞬にして引き去っていく。
十一月。
万博が終わり、街の危機を救い、すべてが報われた、この幸福の絶頂の夜。
自分が令和の駅のガード下で倒れ、意識を失った――あの金曜日の未明の「時間」が。
半世紀の時空の断層を越えて、いま、狂おしい引力をもって、結衣の魂を引き戻そうと、確実に口を開き始めていたのだ。
チリ、チリ……と二度、三度と青白く明滅し――。
やがて、指先は何事もなかったかのように、元の白くカサついた皮膚へと戻った。
「…………っ」
結衣は、その右手を自らの胸元へと固く、強く押し当てた。
掌に伝わる、激しい心臓の鼓動。
遠くからは、まだ仲間たちの笑い声と、肉の焼ける匂い、そして「初音銀座、万歳!」という歓声が響き続けている。
幸福の絶頂に、冷酷に差し込まれた「別れの足音」。
残された時間は、もうない。
見上げる秋の夜空に、一筋の流れ星が、一条の銀色の光の尾を引いて、静かに消え去っていった。




