第5話:真紅と黄金の反逆〜薄焼きか、半熟か〜
嵐のような夜の営業が終わり、表の硝子戸に『準備中』の木札が掲げられたのは、午後九時を回った頃だった。
換気扇のスイッチを切ると、ゴーッという重低音が消え、代わりに初音銀座商店街の夜の静けさが、ひたひたと店内に満ちていく。
客席には、誰一人として残っていない。
だが、空気中にはまだ、芳ばしいラードの焦げた匂いと、本田鉄工所の男たちが呑んだビールのホップの香り、そして何十杯もの湯気が残していった湿り気が、確かな熱量となって漂っていた。
木製のレジ引き出しを開けると、そこには昼間の閑古鳥が嘘のように、何枚もの百円札と、ずっしりとした重みの小銭が積み重なっていた。
売上、四千八百円。
昭和四十五年の下町の小さな大衆食堂における一晩の稼ぎとしては、紛れもない大勝利だった。
結衣はパイプ椅子に腰を下ろし、深く息を吐き出した。
両足のふくらはぎが、鉛を詰め込まれたように重い。令和のデザイナー時代、一日中オフィスチェアに座りっぱなしで画面を睨んでいた生活から一転、立ちっぱなしで皿を運び、客席を駆け回り、大声を出したのだ。全身の筋肉が軋むように悲鳴を上げている。
だが――不思議と、あの冷たいオフィスで味わっていたような、魂を削られるような疲労感はなかった。
「……おい」
厨房の奥から、低くだみ声がかけられた。
源三だった。
白髪混じりの頭に巻いていた手ぬぐいを外し、首の汗を拭いながら、カウンターの端に腰を下ろしている。その手元には、冷えた麦茶の入ったコップが二つ置かれていた。
「突っ立ってねえで、これでも飲め。……今日は、まあ、骨を折ったな」
「あ……ありがとうございます」
結衣は立ち上がり、カウンターへ歩み寄ってコップを受け取った。
井戸水で冷やされた麦茶を一気に煽る。香ばしい麦の苦味と冷たさが、カラカラに乾いていた喉を潤し、五臓六腑に染み渡っていく。
「ふう……生き返る……」
結衣が小さく息を漏らすと、源三は煙草を取り出し、マッチを擦った。
シュッと小さな火が立ち、紫色の煙が立ち上る。
「……辰夫のやつ、えらい上機嫌でカツレツを平らげていきやがった。『銀座の一流店みてえだ』なんぞとほざきやがって。あいつは昔から大げさなんだよ」
口調は相変わらずぶっきらぼうだったが、煙草をくわえる源三の口元は、隠しきれない満足感でわずかに緩んでいた。何ヶ月も客足が途絶え、錆びつきかけていた料理人の腕が、今夜は見事に唸りを上げたのだ。その高揚が、老職人の背中にまだ宿っている。
だが――。
結衣の頭の中では、すでに別の思考回路がフル回転を始めていた。
冷たい麦茶を飲み干し、結衣はカウンターの天板に両手を置いた。
「源さん。今夜は大成功でした。でも……これだけで終わらせちゃダメです」
「あァ?」
源三が煙草を挟んだ指を止め、怪訝そうに眉根を寄せた。
「何がダメなんだよ。客は入ったし、売上だってこれだけ出たじゃねえか。ガラスを磨いて、表で玉ねぎを炒めるなんざいう奇策が当たったんだ、文句ねえだろ」
「今夜のお客さんは、いわば『ファーストコンタクト(初見)』です」
結衣は、令和のマーケティング用語を頭の中で噛み砕きながら、真剣な眼差しで源三を見据えた。
「ガラスを磨いて中を見えるようにしたのも、炒めた玉ねぎの匂いを外に流したのも、通りかかった人たちの足を止めるための『フック(引っ掛かり)』に過ぎません。要するに、無料の試食販売や、ド派手な街頭広告で目を引いたのと同じです。本田社長や工場の皆さんは、物珍しさと勢いで入ってきてくれました。でも、明日も明後日も、同じ手で驚いて入ってきてくれるでしょうか?」
「それは……」
源三の言葉が詰まった。
「来ません。珍しさは三日で飽きられます」
結衣は容赦なく、かつ論理的に現実を突きつけた。
「この街には、安くて早い蕎麦屋もあります。ボリューム満点の大衆中華もあります。男工さんたちの財布の紐は固いんです。一度入って満足したとしても、『またキリシマ食堂に行こう』『あそこに行かなきゃ絶対に食べられないものがある』という強烈な動機がなければ、彼らはあっという間にいつもの八十円の蕎麦に戻ってしまいます」
「……」
源三は煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
反論したそうな顔をしていたが、長年この街で商売を続けてきた経験が、結衣の言葉の正しさを認めていた。初音銀座商店街は狭い。移り気な下町の人々の胃袋を繋ぎ止めるのがどれほど困難か、源三自身が一番よく知っていた。
「……じゃあ、どうしろってんだ。安売りしろってのか? カツレツを蕎麦並みの百円にしろって言うなら、俺は首を括った方がマシだぞ」
「値下げなんて絶対にしません。職人の技術を安売りするのは悪手です」
結衣はきっぱりと言い切った。
「必要なのは、他店を圧倒する圧倒的な『看板メニュー(キラーコンテンツ)』です。誰が見ても一目で心を奪われて、一口食べれば忘れられず、誰かに話さずにはいられなくなるような……キリシマ食堂の顔になる、象徴的な一皿を作らなきゃいけないんです」
「看板メニューだァ?」
源三は鼻を鳴らし、壁に貼られた短冊メニューを指差した。
「看板なら、ウチには『特製ビフテキ』がある。浅草仕込みのデミグラスをたっぷりかけた、極上の肉だ。これ以上の看板がどこにある」
「高すぎます」
結衣は即座に切り捨てた。
「四百五十円ですよ? 大卒初任給が四万円のこの時代に、誰が普段の昼飯や晩飯に四百五十円も出せますか。それは年に一度の記念日に食べるご馳走です。私たちが狙うべきなのは、普段使いできる価格帯――二百円前後で、原価率を抑えつつ、最高のご馳走感を演出できる料理です」
「二百円前後で、ご馳走感だと……? そんな都合のいい料理があるかよ。ポークカツレツだって、豚肉の仕入れを考えりゃギリギリの値段だぞ」
「あります」
結衣は、トン、とカウンターを人差し指で叩いた。
「卵です」
「……卵?」
「そうです。八百杉さんから毎日安く仕入れられて、誰もが大好きな完全栄養食。原価を抑えられ、見た目も華やかで、老若男女を問わず愛される料理――『オムライス』です」
源三は一瞬、呆気に取られたように目を見張り、次の瞬間、盛大に吹き出した。
「ぶはっ……! オムライスだと!? おいおい小娘、寝言は寝てから言え!」
源三は太ももを叩いて笑い飛ばした。
「オムライスなんざ、どこの大衆食堂や喫茶店にだって置いてあるありふれた飯だ! 現にウチの品書きにも昔から入ってるじゃねえか。チキンライスを薄焼き卵で包んで、上にケチャップをピピッとかける。ただの子供騙しの洋食だ! そんなもんが、どうして他所を圧倒する看板になるってんだよ!」
「源さんが作っている従来のオムライスじゃダメなんです」
結衣の声は、笑い声に掻き消されることなく、冷静に響いた。
「薄焼き卵でチキンライスをきっちり巻くのが、今の昭和の常識ですよね。でも、私が作りたいのは、そんなオムライスじゃありません」
「……あ?」
源三の笑いが止まった。
結衣は一歩、身を乗り出した。
「チキンライスを皿の上にラグビーボール型に盛り付けるところまでは同じです。でも、その上に乗せるのは、薄焼き卵じゃない。極限まで柔らかく仕上げた、ぷるぷるに震えるプレーンオムレツです」
「プレーンオムレツを……乗せる?」
「そうです。チキンライスを包むんじゃなくて、上にぽってりと鎮座させるんです。そして、お客さんの目の前で、そのオムレツの真ん中にナイフを一本、スーッと入れます」
結衣は手振りで、空中にナイフを滑らせる仕草をした。
「すると――外側の薄い膜がパカッと割れて、中からトロットロの、黄金色の半熟卵が雪崩のように溢れ出して、チキンライスの赤い山全体をとろりと包み込むんです。そこへ、源さんが一週間かけて煮込んだ、漆黒の秘伝デミグラスソースをたっぷりと回しかける……!」
結衣は熱弁を振るいながら、自らの脳裏に浮かんだそのビジュアルに、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
令和の時代、洋食店やカフェで行列を作り、SNSで数万件の「いいね」を叩き出す伝説のメニュー。
映画『タンポポ』で一世を風靡し、のちに日本橋の老舗洋食店をはじめ全国へと広まった、あの「たんぽぽオムライス」――半熟とろとろオムライス。
だが、今は昭和四十五年。
その映画が公開されるまで、まだ十五年近くの歳月がある。
日本中の誰も、まだその「奇跡の光景」を目にしたことがない時代なのだ。
もし、この昭和四十五年の下町に、あの視覚と味覚の爆弾を投下したらどうなるか。
バズらないはずがない。
口コミが爆発しないはずがない。
町工場の男たちも、近所の主婦も、ハイカラなものに飢えている若者たちも、全員がその黄金のスペクタクルに狂喜乱舞するはずだった。
だが――。
結衣の熱狂とは裏腹に、源三の顔からは一切の表情が消え失せていた。
その瞳に宿ったのは、先ほどまでの笑いではなく、氷のように冷たく、そして激しい怒りの炎だった。
「……おい」
ドスの利いた、低い唸り声。
源三は煙草を灰皿に力任せに押し潰すと、立ち上がった。
「小娘。テメエ……職人を舐めてんのか」
「え……?」
「オムレツをナイフで割って、中からトロトロの半熟が溢れるだと……? そんなもん、ただの『生焼け』じゃねえか!!」
怒号が、深夜の客席をビリビリと震わせた。
源三の顔は怒りで真っ赤に染まり、額に青筋が浮き上がっていた。
「オムライスってのはな! 強火で手早く焼いた極薄の卵焼きで、チキンライスを一粒もこぼさず、破かずに美しく包み込むのが料理人の腕の見せ所なんだよ! フライパンをトントンと叩いて、卵の端を巻き込み、継ぎ目を下にして皿に滑り込ませる! どれだけ修行を積まなきゃその技が身につかないと思ってやがる!」
「源さん、それは分かってます! 職人の技術として素晴らしいのは知ってます!」
「分かってねえからそんな寝言が言えるんだ!」
源三はカウンターから身を乗り出し、結衣の鼻先を指差した。
「中がドロドロの半熟なんざ、火の通し方が足りねえ未熟者の失敗作だ! 生焼けのドロドロした卵なんざ客に出せるか! 第一、腹を壊したらどうすんだ! 食中毒でも出してみろ、この店は一発でお取り潰しだぞ! テメエの言う『看板』ってのは、客にゲテモノを食わせて食あたりを起こさせることなのかよ!?」
激しい剣幕だった。
結衣は思わず息を呑んだ。
(そうか……! 昭和四十五年の常識じゃ、そうなるんだ……!)
結衣は自分の認識の甘さを痛感した。
令和の感覚では「半熟=ふわとろで贅沢」だが、昭和の料理人、特に衛生管理や職人の技術体系が厳格に完成されていた時代の人間からすれば、「中がドロドロの卵料理」は「技術不足の生焼け」であり、「不衛生な手抜き」と見なされて当然なのだ。
卵をしっかり加熱して包み込むことこそが、客に対する誠意であり、職人の誇りだった。
だが――だからといって、ここで引くわけにはいかなかった。
結衣は逃げ腰になりかけた足をぐっと踏み締め、源三の激怒の視線を正面から受け止めた。
「生焼けじゃありません!」
「なにが違うってんだ!」
「生焼けっていうのは、火が通っていない冷たい卵のことです! 私が言っているのは、極限の火加減で卵液を細かく撹拌して、スクランブルエッグのように熱を均一に通しながら、外側だけをごく薄い膜で包み込んだオムレツのことです!」
結衣の声もまた、熱を帯びて高くなった。
「中は生じゃないんです! バターと空気を含んで、六十度以上の熱でしっかりと乳化して、余熱でクリーミーにとろけている状態なんです! 八百杉さんの卵は毎朝仕入れている新鮮な卵ですよね!? 衛生面だって、源さんの徹底した仕込みと清潔なフライパンなら、食中毒なんて起きるはずがありません!」
「能書きはいいんだよ! 見た目がドロドロしてりゃ、客は生焼けだと思うに決まってんだろ!」
「思いません! だって、絶対に美味しいから!」
結衣はカウンターに身を乗り出し、源三に詰め寄った。
「チキンライスのしっかりしたケチャップ味と、源さんの濃厚でビターなデミグラスソース。そこに合わさる卵が、もしパサパサの薄焼き卵だったらどうですか!? 口の中でモソモソして、せっかくのソースとライスがバラバラになっちゃうじゃないですか! でも、もし卵が半熟のクリーム状になっていたら……濃厚なデミグラスとチキンライスを、まろやかな卵が優しく包み込んで、一口食べた瞬間に口の中で全部が一つに溶け合うんです! これ以上の組み合わせが、この世にありますか!?」
「ぐ……っ」
源三の喉が詰まった。
料理人として、味の構成を突かれたのだ。
酸味の効いたチキンライスと、苦味とコクのあるデミグラス。そこに「濃厚で温かい半熟卵液」がソースのように絡み合う情景――それを想像できないほど、源三は無能な料理人ではなかった。むしろ、一流の味覚を持っているからこそ、結衣の言っている味の調和が、恐ろしいほど完璧な計算に基づいていることに気づいてしまったのだ。
「それに……」
結衣のトーンが、少しだけ落ちた。
だが、その言葉には、誰にも揺るがせない絶対の確信が宿っていた。
「源さんの腕だから、頼んでるんです」
「……なんだと?」
「薄焼き卵で包むだけなら、そこらの食堂のオヤジにだってできます。でも……外側は破れないギリギリの薄さで焼き固め、内側だけを完璧な半熟に保ったまま、美しい紡錘形(ラグビーボール型)にまとめ上げるオムレツなんて……並大抵の料理人に作れるわけがありません」
結衣は、厨房に美しく並べられた銅のフライパンを見つめた。
「秒単位の火加減。フライパンを叩く絶妙なスナップ。卵の固まり具合を見極める確かな目。……浅草の一流店で何十年も修羅場をくぐってきた、大山源三という本物の職人じゃなきゃ、絶対に作れないんです。他の店が真似しようとしても絶対に真似できない、キリシマ食堂だけの『絶対の技術』になるんです!」
「…………」
静まり返る店内。
換気扇の止まった空間で、源三の荒い呼吸の音だけが聞こえていた。
源三は、拳を握りしめたまま、微動だにしなかった。
怒りと、プライドと、そして料理人としての抗いがたい好奇心が、その胸の中で激しく渦を巻いているのが見て取れた。
やがて、源三は深く息を吐き出すと、低く呟いた。
「……一回だけだ」
「え……?」
「一回だけ、作ってやる。……テメエの言うそのふざけたオムレツが、本当に食い物になるのかどうか、俺がこの舌で確かめてやる」
源三の瞳の奥で、職人の獰猛な火がメラメラと燃え上がっていた。
「エプロン締めろ、小娘。……今夜は寝かせねえぞ」
◆
深夜十一時。
下町の長屋が寝静まり、初音銀座商店街が深い闇に包まれる中、キリシマ食堂の厨房だけが、煌々と電灯に照らされていた。
「卵は三個だ。溶き方はどうすんだ」
源三がボウルを前にして訊ねた。
「白身のコシを完全に切ってください!」
結衣は厨房の脇に立ち、指示を飛ばす。
「白身と黄身が中途半端に混ざっていると、火の通りにムラができて舌触りが悪くなります。菜箸で泡立てないように、白身を切るようにしてしっかり混ぜて、できれば一度、万能こし器で裏漉ししてください!」
「裏漉しだと……? オムレツ一個にそこまで手間をかけるかよ」
文句を言いながらも、源三の手は淀みなく動いた。
箸先が高速でボウルの底を叩き、卵液があっという間に滑らかな黄金の液体へと変わる。目の細かい漉し器を通すと、ダマのない、絹のように艶やかな卵液が滴り落ちた。
「フライパンは一番小さい銅のやつだ。火は……強火か?」
「最初は強火です! しっかり熱して、バターを落としたら一瞬でジュワッと泡立つ温度にしてください。でも、焦がしちゃダメです!」
源三がコンロのツマミを回す。
カチリ、ボッ。
青い炎が銅鍋の底を舐める。
源三はバターを一欠片放り込んだ。
パチパチパチッ!
澄んだ黄色いバターが激しく泡立ち、甘く香ばしい香りが厨房を満たす。
「行くぞ!」
源三がボウルの卵液を一気に流し込んだ。
ジュワアアアッ――!!
フライパンいっぱいに広がる黄金の泡。
「菜箸で素早くかき混ぜてください! 外側から固まってくる卵を中心へ巻き込むように、ぐるぐると!」
「言われなくても分かってらァ!」
源三の左手がフライパンを小刻みに揺すり、右手の菜箸が目にも留まらぬ速さで円を描く。
卵液が熱を吸い込み、急速にとろみを帯びていく。
だが――。
「固まるのが早すぎる……!」
源三が舌打ちした。
長年の身体の癖だった。オムレツを作る際、火を通しすぎてはならないと頭では分かっていても、職人としての数十年の経験が「しっかり火を入れろ」と無意識に手にブレーキをかけさせるのだ。
源三がフライパンの端をトントンと叩いて卵を返した時には、すでに表面はしっかりと焼き固まり、美しいが、何の変哲もない「いつもの硬いプレーンオムレツ」が出来上がっていた。
皿に落とされたオムレツを、源三が無言で菜箸で割る。
中はしっとりとしていたが、トロリと流れ出すような流動性は微塵もなかった。
「……チッ。火が入りすぎた」
「惜しいです! でも方向性は合ってます!」
「もう一回だ!」
二回目。
今度は火から下ろすタイミングを早めすぎた。
フライパンを叩いて返そうとした瞬間、外側の膜が破れ、ただのドロドロのスクランブルエッグとなって崩れ落ちた。
「クソッ……! 膜が薄すぎて形にならねえ!」
「火加減です! フライパンの余熱を計算に入れてください! 半熟の状態で形を整えて、最後にコンロの強火で一瞬だけ表面を焼き固めるんです!」
三回目、失敗。
四回目、バターが焦げて卵に茶色い焼き色がついてしまい、ボツ。
五回目、形は整ったが、皿に移す衝撃で破裂してボツ。
「チクショウ……! 卵を何個無駄にすりゃ気が済むんだ!」
源三の額から、大粒の汗が滝のように流れ落ちていた。
息が荒い。
厨房のゴミ箱には、破れたり固まりすぎたりしたオムレツの残骸が、山のように積み上がっていく。
八百杉から仕入れたばかりの新鮮な卵が、すでに三十個以上消えていた。
昭和四十五年において、卵は決して安い食材ではない。赤字続きの食堂にとって、この試作の連続は狂気の沙汰だった。
「源さん、もうやめますか……?」
結衣は申し訳なさと罪悪感で、思わず声を震わせた。
「私の我儘で、こんなに卵を無駄にして……」
「黙ってろッ!!」
源三が怒鳴りつけた。
その顔は、鬼の形相だった。
「誰がやめるつった! 俺が……浅草の大山源三が、たかが卵料理一つに手こずって逃げ出したなんて言われてたまるかよ!」
源三は新しい卵を三つ、乱暴に割り落とした。
その手つきに、迷いはなかった。
プライドが傷つけられたのではない。
職人の魂が、見たこともない高い壁を前にして、狂喜乱舞していたのだ。
自分の持てるすべての技術、指先の感覚、反射神経、熱の伝導に対する知識――そのすべてを総動員しなければ越えられない壁が、目の前にある。
こんなに熱くなったのは、何年ぶりだろうか。
赤字に喘ぎ、客の来ない店で惰性でフライパンを振っていた日々の澱が、火の粉となって焼き尽くされていくようだった。
「濡れ布巾を用意しろ、結衣!」
「は、はいっ!」
「フライパンの温度が上がりすぎたら、底を布巾に当てて一瞬で温度を下げる! 熱を完全に支配するぞ!」
午前二時十五分。
厨房の時計の針が、深夜の静寂を刻み続けていた。
消費された卵は、五十個を超えていた。
源三の呼吸は浅く、作務衣は汗でびっしょりと濡れそぼっていた。
だが、その双眸だけは、獲物を狙う鷹のように研ぎ澄まされていた。
「……チキンライスを盛れ」
源三が、低く言った。
結衣は息を呑み、あらかじめ保温ジャーからよそって楕円形に整えておいた、真っ赤なチキンライスの皿をカウンターの中央へ差し出した。
準備は、整った。
源三は深く息を吸い込み、吐き出した。
カチリ、ボッ。
火が入る。
澄んだバターが溶け、泡立つ。
裏漉しされた完璧な卵液が、一滴の淀みもなくフライパンへ滑り込む。
ジュワッ!
源三の腕が動いた。
菜箸が、まるで精密機械のように正確に、かつ優しく卵液を撹拌する。
外側から内側へ。内側から外側へ。
卵が均一な微細なスクランブル状になり、全体がぷるぷるとしたムースのような質感へと変化していく。
その瞬間――!
源三はフライパンをコンロから離し、濡れ布巾の上にジュッと当てた。
温度の上昇をピタリと止める。
そして、フライパンの柄を左手で持ち上げ、右手の拳で柄の付け根をリズミカルに叩いた。
トントン、トントン、トントン。
小気味よい衝撃がフライパンに伝わるたび、中の卵が生き物のようにくるり、くるりと前転を始める。
外側の薄い膜が、内側のとろとろの半熟を完璧に包み込んでいく。
美しい、一点の焦げ目もない、完璧な黄金の紡錘形。
最後に一瞬だけ強火にかざし、表面の膜の強度を上げる。
そして――。
「おりゃあッ!」
源三の掛け声とともに、フライパンが傾けられた。
ぽすん。
チキンライスの赤い丘の上に、生まれたての赤ん坊の肌のように滑らかな、黄金のオムレツが着地した。
揺れていた。
皿を置いた振動だけで、オムレツ全体がぷるぷると、まるで水風船のように頼りなげに揺れている。
焦げ目は一つもない。
破れも一つもない。
絹のドレスをまとったような、神々しいまでの黄金の塊。
「……できたぞ」
源三が、フライパンをコンロに置き、掠れた声で言った。
肩で息をしている。その顔には、極度の疲労と、そして信じがたい奇跡を成し遂げた職人の恍惚が浮かんでいた。
「ナイフを入れろ、結衣」
「はい……!」
結衣は震える手で、研ぎ澄まされたペティナイフを取り上げた。
唾を飲み込む。
心臓の音が、耳元で激しく打ち鳴らされていた。
チキンライスの上に鎮座する、震える黄金のオムレツ。
結衣はナイフの切っ先を、オムレツの中央、縦の稜線にそっと当てた。
抵抗は、ゼロだった。
ただ刃の重みだけで、薄い卵の皮膜がすっと裂けた。
刃を、手前から奥へと滑らせる。
その瞬間――。
パカッ、と音が聞こえたような気がした。
皮膜が左右に割れ、内側から溢れ出したのは――湯気を湛えた、極上のクリームのような黄金の半熟卵だった。
どろり、と。
重力に従い、なだれ落ちるようにして、半熟の奔流がチキンライスの斜面を滑り降りていく。
あっという間に、真っ赤だったチキンライスの山全体が、ふんわりとした黄金の絨毯で覆い尽くされた。
立ち上る、甘やかなバターと卵の芳醇な香り。
赤と、黄色。
コントラストの美しさは、まるで夜明けの太陽のようだった。
「…………っ!!」
源三が、息を呑んだ。
目を限界まで見開き、カウンターに両手をついて、その光景を凝視している。
「……なんだ、これは……」
老職人の口から、掠れた呟きが漏れた。
「卵が……開いた……? 花が、咲いたみてえに……」
生焼けではない。
流れ出た半熟卵からは、しっかりと温かい湯気が立ち上り、バターのコクと合わさって艶やかに光り輝いている。
それは、源三が五十年の料理人人生で一度も見たことのない、しかし誰が見ても一瞬で「美味い」と確信できる、奇跡の一皿だった。
「源さん」
結衣は涙ぐみながら、源三の顔を見上げた。
「ソースを……デミグラスを、かけてください」
「……あ、ああ」
源三は憑かれたように小鍋を火にかけ、弱火で温めていた秘伝のデミグラスソースをお玉ですくい上げた。
震える手で、黄金の絨毯の上から、一気に回しかける。
ツヤツヤとした漆黒のソースが、半熟卵の襞に沿って流れ落ち、白磁の皿の縁へと広がる。
赤、黄、黒。
三色の色彩が完璧な調和を描き、湯気とともに立ち上る香りは、もはや暴力的なまでの食欲を刺激していた。
「これが……」
結衣は胸に手を当て、誇らしげに告げた。
「これが、キリシマ食堂の新しい顔……『特製・開花オムライス』です!」
深夜の厨房。
奇跡の一皿を挟んで、未来から来た社畜女子と、昭和の頑固親父の視線が交錯した。
新時代の幕開けを告げる鐘の音が、二人の耳に、確かに聞こえたような気がした。




