↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/28

第4話:五感を掴む硝子戸(ファサード)の魔術

啖呵を切ったあとの静寂ほど、胃に悪いものはない。

キリシマ食堂の煤けた客席に、換気扇のブーンという低い唸り声と、柱時計の規則正しい針の音だけが響いていた。

結衣は背筋をぴんと伸ばしたまま、カウンターの向こうで煙草を指に挟んでいる大山源三を、瞬きもせずに見据えていた。額にはじっとりと冷や汗が滲んでいる。

(言っちゃった……完全に言っちゃったわよ、私……!)

内心では心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ねていた。相手は浅草の老舗で修羅場をくぐってきた、頑固一徹の職人だ。拾ってもらい、美味い飯を食わせてもらい、雨風をしのぐ屋根まであてがわれた身空で、「見せ方が全滅している」などとどの口が言えたのか。追い出されて路頭に迷っても文句は言えない暴挙だった。

だが、源三は怒鳴り散らすことも、包丁を振り回すこともなかった。

深く煙を吸い込み、天井へ向けて細く吐き出す。紫煙の向こうで、彫りの深い老いた双眸が、値踏みするように結衣の全身を射抜いていた。

「……金は一銭も出さねえぞ」

低く、地を這うようなだみ声が落ちてきた。

「え……?」

「耳が腐ってんのか。金は出さねえつったんだ。ウチの金庫にゃ、テメエの道楽に付き合うような余分な札は一枚も入っちゃいねえ。それから、俺の仕込みの邪魔もすんな。夕方の営業は五時半からだ。それまでにその『入り口の改善』とやらが終わらなかったら、その時点でテメエの荷物をまとめて叩き出す。……いいな」

条件は極めて冷酷だった。

けれど、それは明確な「ゴーサイン」だった。

結衣の胸の奥で、カチリとスイッチが入る。デザイナーとして、数々の理不尽なデッドラインと予算ゼロの縛りを乗り越えてきた社畜の血が、急速に全身を駆け巡った。

「了解しました。五時十五分までに、すべての作業を完了させます」

「……フン。減らず口だけは一人前だ」

源三は立ち上がり、煙草をもみ消すと、勝手口の奥へと消えていった。夕方の仕込みに必要な乾物や肉の確認へ向かったのだ。


時計の針は、午後一時半を指していた。

残された時間は、およそ三時間半。

「よし……! やるわよ、桐島結衣!」

結衣はトミから借りた割烹着の袖を肩までたくし上げ、腰紐をきつく締め直した。

まずは現状の把握と、リソースの棚卸しだ。

金はない。現代のようなカッティングシートも、インクジェットプリンターも、LEDライトも、お洒落な木製什器もない。

だが、手足はある。水はある。そして、この街にはゴミ同然に扱われているが、磨けば光る素材がいくらでも転がっているはずだった。

結衣は土間と厨房の隅にある物置に駆け込んだ。

「失礼します……道具をお借りします!」

埃まみれの物置の棚を漁る。

見つけたのは、使い古されてボロボロになった木柄の箒、金属の毛先が擦り減ったデッキブラシ、ブリキのバケツが二つ。そして棚の奥から、使いかけのクレンザー(磨き粉)の缶と、大量に束ねられた古新聞が出てきた。

「新聞紙……! 最高じゃない!」

インクの油分を含んだ昭和の新聞紙は、ガラスを磨き上げるのにこれ以上ない極上の道具だ。現代でも窓掃除の裏ワザとして重宝される知恵である。

結衣はバケツに井戸水を汲み、道具を一式抱えて表の通りへと飛び出した。


初夏の昼下がり。

照りつける陽射しが、路地の土埃を白く照らし出している。

結衣は腕組みをして、通りを数歩後退り、客の視点(アイレベル)から改めて「キリシマ食堂」の店構えを凝視した。

(問題点は三つ。第一に『認識性』の欠如。すだれとすりガラスのせいで、店がやっているのか潰れているのか判別できない。第二に『清潔感』の欠如。ショーケースが汚すぎて、飲食店として致命的な不信感を与えている。第三に『安心感』の欠如。店内の様子や料理の価格が外から見えないため、初めての客が心理的ハードルを感じて素通りしてしまう……)

WEBサイトに置き換えれば、ファーストビューのヘッダー画像がリンク切れで真っ黒になり、サイト名すら読めない状態だ。どんなに優れたコンテンツ(料理)があっても、訪問者(通行人)は一秒で離脱する。

「まずは、情報(ノイズ)の遮断を全部取っ払う!」

結衣は木箱を踏み台にして、軒先にぶら下がっていた巨大なすだれに手をかけた。

長年の油煙と雨風に晒され、油でギトギトになり、あちこちが千切れかけていたすだれの紐を、ハサミで断ち切る。

バサリ、と重い音を立ててすだれが落ちた。

それだけで、昼下がりの日光が、これまで拒絶されていた硝子戸へと一気に降り注いだ。

「次は、このショーケース……!」

入り口の脇に鎮座する、木枠とガラスでできた陳列棚。

結衣はガラス戸をスライドさせ、鼻をつまみながら中のものを取り出し始めた。

太陽の熱と油煙でドロドロに溶け崩れ、埃の毛布を被った蝋細工のオムライス。黒く変色してただの肉塊にしか見えないビフテキ。丸まって黄ばみ、インクが滲んで読めなくなった手書きの値札。

「ごめんなさい、お役御免です……!」

すべてゴミ箱用のペール缶へと放り込む。

中身を空っぽにしたあと、バケツから水を汲み、クレンザーを木枠と底板に直接振りかけた。

タワシで力任せに擦り上げる。

ゴシゴシ、ゴシゴシと激しい音を立てると、何年分もの黒い油汚れが、茶色い泡となって浮き上がってきた。

「ふーっ、重労働……! 令和のデスクワークじゃ使わない筋肉が悲鳴を上げてるわ……!」

額から汗が滴り落ち、目に入ってしみる。それを割烹着の肩口で無造作に拭いながら、結衣は一心不乱に手を動かした。

汚れを水で流し、雑巾で固く拭き上げる。

木枠の黒ずみが落ち、下から顔を出したのは、飴色に美しく経年変化した欅(けやき)の無垢材だった。

「いい木使ってるじゃないの……。磨けばこんなに上品なのに!」

そして、最大にして最難関の工程――ガラス磨きだ。

結衣は古新聞を両手でくしゃくしゃに丸め、水に浸して固く絞った。

ショーケースの四面のガラス、そして店舗正面の大きな引き戸のガラスに、円を描くようにして新聞紙を擦り付けていく。

キュッ、キュッ、キュッ。

最初は油膜が伸びて白く濁るが、新聞紙のインクが油分を吸着し、汚れをみるみる分解していく。そこへ、すかさず乾いた新聞紙を丸めて投入し、全体を力強く乾拭きする。

キュッ! キュキッ!

摩擦音が、曇った音から澄んだ高音へと変わっていく。

曇りガラスのようだった表面から白いモヤが消え去り、向こう側の景色が、まるで水を通したように鮮明に透けて見え始めた。

「すごい……! 本当に綺麗になる……!」

結衣は勢いに乗り、店舗正面のガラス戸にも取り掛かった。

腰を落とし、背伸びをし、腕を振り子のように動かしてガラスを磨き上げる。

通りを歩く人々が、何事かと足を止めて結衣の姿を眺めていた。

「なんだい、源さんとこの新しい娘かい?」

「えらい勢いで掃除してるねえ。あんなに磨いて、ガラスが割れちまうんじゃないかい」

好奇の視線が突き刺さるが、今の結衣にはそんな雑音を気にする余裕はなかった。

ただひたすらに、透明度を上げること。

この店と、外の世界を隔てている「見えない壁」を打ち破ること。

それだけに全神経を集中させていた。


「おい、小娘」

背後から、呆れたような声が飛んできた。

振り返ると、買い出しから戻ってきた源三が、大根と豚肉の塊を抱えたまま、目を丸くして立ち尽くしていた。

「……てめえ、何やってんだ」

「見ての通り、お掃除です!」

結衣は息を切らし、泥とクレンザーで白くなった手を掲げてみせた。

「すだれを外して、ショーケースのゴミを捨てて、ガラスを全部磨きました。見てください、源さん!」

源三は、無言で店舗の正面を見上げた。

そこにあったのは、今朝までの薄暗く、おどろおどろしい廃屋のような店構えではなかった。

すだれが消えたことで、店舗の奥まで初夏の柔らかい自然光が真っ直ぐに差し込んでいる。

そして、磨き上げられたガラス戸の向こうには――客席の清潔なテーブルと、その奥にある厨房のピカピカに光る真鍮の寸胴鍋、整然と並んだ銅のフライパンが、まるで額縁に入った絵画のようにくっきりと浮かび上がっていた。

「…………」

源三の喉仏が、小さく上下した。

自分が毎日、誰に見せるでもなく意地だけで磨き続けてきた厨房が、外の通りから誇らしげに顔を覗かせている。

「……すりガラスじゃなかったのかよ」

「違いますよ。ただの油煙と埃で曇ってただけです」

結衣はふきんを絞りながら、誇らしげに胸を張った。

「これで第一段階(フェーズワン)はクリアです。外から中の様子が見えるようになりました。『何屋かわからない怪しい店』から、『清潔で、腕のいい職人がいる洋食屋』へ、ユーザーの認識を書き換えたんです」

「ゆーざーだか何だか知らねえが……」

源三はバツが悪そうに視線を逸らし、鼻を鳴らした。

「……中が丸見えじゃ、落ち着いて飯も食えねえだろうが」

「逆ですよ。外から中が見えない店に入る方が、何倍も勇気がいるんです。中でお客さんが美味しそうに食べている姿こそが、最大の広告になるんですから!」

結衣は時計を見上げた。

午後四時十五分。

「源さん、仕込みの時間ですよね。五時半の開店に向けて、最後の仕上げをお願いしたいんです」

「あァ? まだ何かあんのか」

「はい。この店を、外を通る人たちの胃袋に直接訴えかける『劇場』にします」


◆


結衣の提案に、源三は当初「正気の沙汰じゃねえ」と唾を吐きかけた。

「玉ねぎを炒める位置を変えろだと!?」

「そうです! いつもは奥の壁際のコンロでやってますよね? それを、表のガラス戸から一番よく見える、手前のコンロでやってほしいんです!」

「手前は狭いし、熱が客席に逃げるだろうが! それに、仕込みなんざ裏で黙って終わらせるもんだ!」

「見せるんです! 職人の仕事は、それ自体が最高のエンターテインメントなんです!」

結衣は引き下がらなかった。

令和のオープンキッチンやライブキッチンの思想だ。シェフが目の前で食材をフランベし、音を立て、香りを立ち上らせる。それだけで料理の知覚価値(パーシーブド・バリュー)は跳ね上がる。

「五時を過ぎたら、近所の町工場から仕事終わりの男工さんたちが一斉に出てきますよね。一日中体を動かして、お腹をペコペコに減らした人たちです。その人たちに、視覚と嗅覚でダイレクトアタックを仕掛けるんです!」

「だいれくと……なんだと?」

「いいから! 五時二十分になったら、手前のフライパンに火を入れてください! ラードとバターをたっぷり落として、刻んだ玉ねぎを一気に炒めるんです! 換気扇の排気口は、ちょうど通りの人の鼻の高さにありますよね? 店の前を通るすべての人に、源さんの美味しい匂いを嗅がせるんです!」

結衣のあまりの気迫と、理路整然とした(しかし昭和の人間には理解不能な横文字混じりの)熱弁に、源三は完全に圧されていた。

「……チッ。一回だけだぞ。客が来なかったら、明日からテメエに一日中ドブさらいをさせてやるからな」

ぶつぶつと文句を言いながらも、源三は手前のコンロに巨大な鉄のフライパンをセットし、山盛りの刻み玉ねぎのボウルを運んできた。

結衣は客席のテーブルと椅子を微調整した。

外から視線を投げたとき、厨房のコンロの炎と、フライパンを振る源三の横顔が、一番美しく見える角度(アングル)。

テーブルの上には一切の私物を置かず、空っぽになったショーケースの中には、トミの店から分けてもらったばかりの瑞々しい真っ赤なトマトと、泥つきの玉ねぎを、あえて無造作にカゴに入れて飾った。

『新鮮な食材を、ここで手作りしています』という無言のメッセージ(シグナル)を発信するためだ。


午後五時十五分。

夕暮れの茜色が、初音銀座商店街の空を赤紫に染め上げ始めていた。

キリシマ食堂の電灯に、パッと明かりが灯る。

磨き上げられたガラス戸が、夕闇の中で行灯のように温かく発光した。店内が明るくなったことで、黒ずんでいた木の柱や床が、まるで老舗の風格を湛えた重厚な空間に見えるから不思議だった。

遠くで、工場の終業を告げるサイレンが、ウーと長く鳴り響いた。

「……来たわ」

結衣は硝子戸の脇に立ち、息を殺した。

ドヤドヤと、長屋の間の路地から作業着姿の男たちが現れ始める。

額に汗を光らせ、首に巻いたタオルで顔を拭いながら、家路を急ぐ男たち。皆、肩を落とし、疲弊しきった顔をしている。

「源さん、今です! 火を入れて!」

結衣が鋭く声を飛ばした。

厨房の源三が、目つきを変えた。文句ばかり言っていた頑固親父が、フライパンの前に立った瞬間、歴戦の料理人の顔へと切り替わる。

カチリ、ボッ!

手前のコンロから、青い炎が力強く噴き上がった。

源三はヘラでラードの塊をすくい、熱せられた鉄板へと落とす。

ジュウウウウウ――ッ!

澄んだ脂が溶け広がり、そこへさらに、上質な黄色い有塩バターが一欠片投入された。

パチパチパチと激しい音が爆ぜ、バターの濃厚で甘やかな香りが、猛烈な勢いで立ち上る。

そこへ――ドサリ!

山盛りの微塵切り玉ねぎが、一気にフライパンへ放り込まれた。

ジャアアアアアアアアッ――!!

耳を劈くような激しい炒め音。

源三が太い腕を振るい、重い鉄鍋を軽々とあおる。

舞い上がる玉ねぎ。コンロの炎が油分に引火し、ボワッ、と一瞬だけオレンジ色の炎が立ち上がった。

硝子戸越しに見える、職人の背中と、踊る炎。

そして――換気扇のファンがフル回転し、炒められた玉ねぎの甘みと、焦げたバターとラードの混ざり合った、暴力的とも言える芳醇な匂いが、通りへと一気に押し流されていった。


その瞬間だった。


通りを歩いていた作業着の集団の先頭にいた大柄な男が、ピタリと足を止めた。

「……んあ?」

男は首に巻いたタオルを握りしめたまま、鼻をヒクヒクと動かした。

年齢は五十代前半。筋骨隆々とした体躯に、油の染み付いた灰色の作業着。顔中には鉄粉が薄くこびりつき、眉間には深い皺が刻まれている。

隣接する「本田鉄工所」の社長、本田辰夫だった。

「おい、誠二……。なんか、えらく美味そうな匂いがしねえか?」

後ろを歩いていた若い工員――まだ十代後半とおぼしき痩せた少年、水野誠二が、ぽかんと口を開けて頷いた。

「は、はい……。バター……ですかね? すっげえいい匂いです……」

本田は吸い寄せられるように、匂いの発生源へと視線を向けた。

そして、目を丸くした。

「……あん? あそこ、源さんの店か……? いや、待て、あんなに明るかったか……?」

本田の足が、自然とキリシマ食堂の方へと向きを変えた。

いつもなら、煤けたガラスと薄汚れたすだれに阻まれ、何をやっているのかすら見えなかった場所。

だが今、本田の目の前にあるのは――ピカピカに磨き抜かれた大きな硝子の向こうで、真っ赤な炎をあおりながら、見事な手さばきでフライパンを振るう源三の姿だった。

ジュウジュウと響く軽快な音。

透き通るようなガラスの奥で、炎に照らされる老職人の真剣な横顔。

そして、換気扇から容赦なく叩きつけられる、胃袋を直接鷲掴みにするような香ばしい匂い。

「おいおいおい……なんだありゃ。源のオヤジ、あんなハイカラな腕前だったのかよ……」

本田の喉が、ゴクリと大きな音を立てて鳴った。

一日中、重い鉄骨を運び、旋盤を回し、汗を流し尽くした身体が、猛烈な勢いでカロリーと旨味を要求していた。

すかさず、結衣が動いた。

ガラリ、と磨き上げられた引き戸を、外の空気を迎え入れるように大きく開け放ったのだ。

「いらっしゃいませ!」

夕暮れの通りに、結衣の澄み切った、明るく通る声が響き渡った。

「キリシマ食堂、夜の営業始まりました! 今夜のおすすめは、じっくり煮込んだ特製デミグラスのポークカツレツと、炒めたて玉ねぎのハヤシライスです! どうぞ、出来立ての熱々を召し上がっていってください!」

満面の笑み。

そして、開け放たれた戸口から、遮るもののなくなった料理の熱気と匂いが、津波のように本田たちの全身を包み込んだ。

視覚、聴覚、嗅覚。

人間の本能を刺激する三位一体のトラフィック誘導。

本田の理性は、もはや完全に崩壊していた。

「……おい誠二!」

「は、はいっ!」

「今夜の飯はここだ! 入るぞ!」

「えっ、でも社長、いつも行く蕎麦屋は……」

「うるせえ! こんな美味そうな匂い嗅がされて、蕎麦なんか啜ってられるか! 行くぞ!」

本田は誠二の首根っこを引っ掴むと、大股でキリシマ食堂の敷居を跨いだ。


ガラガラ、ピシャリ。

「へい、いらっしゃい!」

カウンターの中で、フライパンを置いてタオルで額の汗を拭った源三が、驚きを押し殺した太い声を張り上げた。

「おう、源さん! やってるじゃねえか!」

本田は一番手前のテーブル席にドカッと腰を下ろすと、作業着の胸元をバサバサと煽った。

「なんだい、急に店がピカピカになりやがって! 表から見てたら、銀座の一流ホテルの厨房かと思ったぜ!」

「……からかうな、辰夫。掃除しただけだ」

源三はぶっきらぼうに返したが、その口元は微かに引き攣っていた。本当に客が入ってきたことに、誰よりも驚いているのは源三自身だった。

「お冷どうぞ! 本田さん、お仕事お疲れ様でした!」

結衣がすかさず、冷えた井戸水と清潔なおしぼりを運んでくる。

「おう、ねえちゃん。見かけない顔だな。源さんのとこの新しい子かい?」

「はい! 姪の結衣と申します。どうぞよろしくお願いします!」

「いいねえ、愛想が良くて! あの不愛想な源さんの店とは思えねえや!」

本田はガハハと豪快に笑うと、壁のお品書きを見上げた。

「よし、俺は『ポークカツレツ』だ! 飯は大盛りでな! おい誠二、お前は何にする!?」

「あ、あの……僕、オムライスを……」

縮こまっていた誠二が、おずおずと手を挙げた。

「へい、カツレツ一丁、オムライス一丁!」

源三の声が厨房に響く。

結衣は厨房の奥へ伝票を通しながら、そっと表の硝子戸の外へ目を向けた。


奇跡は、本田たち二人だけで終わらなかった。

店先に本田という「最初の客」が座り、店内が明るく見通せるようになったことで、通りを歩く他の工員や会社員たちが、次々と足を止め始めていたのだ。

「あれ、キリシマ食堂、人入ってるぞ」

「本田のオヤジがいるじゃねえか。美味いのかあそこ?」

「なんか、表から見てたらすげえ綺麗になってるな……」

「入ってみるか? たまには洋食もいいだろ」

一人が入れば、二人目が入る。

人が人を呼ぶ「社会的証明の原理(バンドワゴン効果)」。

ガラガラ、と再び引き戸が開いた。

「ごめんよ、二人入れるかい?」

「はいっ! いらっしゃいませ、カウンターへどうぞ!」

結衣の弾んだ声が、店内に木霊する。

続いて、作業着の三人組。

「三人だけど、奥のテーブル空いてる?」

「はい! すぐ片付けます、どうぞお掛けください!」

わずか十五分の間に、二十一席あった客席のうち、十四席が瞬く間に埋まった。

昼間の閑古鳥が嘘のような、熱気と活気。

厨房では、源三がまるで千手観音のように手を動かしていた。

カツにパン粉をまぶし、ラードの鍋へ投入する音。

チキンライスを煽るフライパンの甲高い打撃音。

立ち上る湯気と、満ちていくデミグラスソースの香り。

「……すげえな」

カツレツを待つ本田が、嬉しそうに店内を見渡しながら呟いた。

「やっぱり、店はこうでなくっちゃな。美味い飯屋の活気ってのは、見てるだけで疲れが吹き飛ぶぜ」


注文の品が次々と運ばれ、客たちの「うめえ!」「なんだこのカツ、柔らかいぞ!」「卵がふわふわだ!」という歓声が客席を満たしていく。

空になった皿を下げ、お冷を注ぎに回りながら、結衣は厨房の源三と一瞬だけ視線を交わした。

源三は額に汗を光らせ、忙しなく鍋を振りながら、結衣の顔を一瞥した。

言葉はなかった。

だが、その鋭い眼光の奥にあったのは、明らかな「驚愕」と、そして――結衣という存在を、対等な相棒として認めた男の、熱い光だった。


(勝った……!)

結衣は客席の隅で、エプロンの下で小さくガッツポーズを作った。

お金なんて使わなくても。

最新のテクノロジーなんてなくても。

本質を見抜き、情報を整理し、五感に訴えかける「正しいデザイン」を施せば、人の心は必ず動かせる。

令和で培った自分の技術が、この昭和四十五年の下町で、確かに通用したのだ。

冷え切っていたはずの胸の奥が、熱い誇りと喜びに満たされていく。


だが――結衣はまだ知らなかった。

この「最初の小さな勝利」が、初音銀座商店街を揺るがす、次なる巨大な挑戦へのプロローグに過ぎないということを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。