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第43話:にわか雨の急襲と、土間の仕込み部屋

昭和四十五年の夏は、まるで沸騰した大鍋の底のように、息の詰まる湿気と熱気を東京の空の下に閉じ込め続けていた。

大阪万博の「太陽の塔」が未来の光を放ち、銀座の目抜き通りが日本初の歩行者天国となって群衆の笑い声で満たされたあの日曜日から数週間。高度経済成長の熱狂は、下町の隅々まで行き渡り、路地の未舗装路からは昼間の太陽に焼かれた泥の匂いが陽炎となって立ち上っていた。

初音銀座商店街を揺るがす一大決戦――「初音銀座サマーフェスティバル」の開幕を、いよいよ翌日に控えた金曜日の夕暮れ。

午後五時半を回った商店街のメインストリートは、かつてないほどの慌ただしさと、張り詰めた高揚感に包まれていた。

前夜、帝都物産の若き営業マン・吉村健一が、自らの足と自転車で夜を徹して配り切った一万枚の特大かわら版。その効果は絶大で、早くも近隣の白鬚団地や駅周辺では「明日の土曜日、初音銀座で何やらとんでもない祭りが始まるらしい」という噂が、主婦たちの井戸端会議や町工場の休憩室を駆け巡っていた。

路地の両脇には、本田鉄工所の本田辰夫社長と若き旋盤工・水野誠二が端材の単管パイプから削り出し、組み上げた二十台の銀灰色の鉄骨屋台が、寸分の狂いもなく一直線に並んでいた。

その鉄骨の櫓(やぐら)には、青果店「八百杉」の杉本勇をはじめとする商店街青年部の男たちが脚立に登り、色鮮やかな紅白の横幕と、初音神社の紋が入った提灯を飾り付けている。

通りには、各店舗が翌日の本番に向けて仕入れた、途方もない量の物資が運び込まれていた。

八百杉の店先には、勇が神田市場からトラックで運んできたばかりの完熟トマト、巨大なスイカ、山のようなキャベツや人参の木箱が、大人の背丈を超える高さまで積み上げられている。

肉の丸長からは、キリシマ食堂のハンバーグ用と一口ビフカツサンド用、そして宝来軒のちまき用の豚バラ肉と牛肉の塊が、大きな経木に包まれて次々と運び込まれ、乾物屋の前には出汁取り用の利尻昆布と鰹節の麻袋がうずたかく積まれていた。

明日、この狭い路地を「青空の大食堂」に変え、国道沿いの巨大ファミレス「サンライズ」に奪われた街の胃袋を奪還する。

店主たちの顔には、疲労の色など微塵もなく、決戦前夜の荒々しい闘志がみなぎっていた。


「おい、勇! 提灯の配線、引っ張りすぎてねえか!? 風で切れたら元も子もねえぞ!」

「大丈夫だ、本田のオヤジ! 誠二が鉄パイプの内側にビニールテープでしっかり固定してくれた! 大型トラックが引っ掛かりでもしなきゃ、ビクともしねえよ!」

脚立の上から勇が声を張り上げ、下で単管を支えていた誠二が、照れくさそうに白い歯を見せる。

キリシマ食堂の店先では、大山源三が前掛けを締め、研ぎ澄まされた牛刀の刃先を砥石で滑らせながら、満足そうに通りの熱気を見つめていた。

その隣で、バインダーを抱えて進行表をチェックしていた桐島結衣もまた、胸のすくような充実感に包まれていた。

寺岡雅之が刷り上げた二千冊の百円地域通貨チケットは、すでに本部の金庫に収められ、各店舗の仕込みのスケジュールも完璧に分刻みで組まれている。

すべてが、完璧だった。

下町の知恵と、令和のマーケティングロジックががっちりと噛み合い、あとは明日の開幕を待つばかり――。


――だが。

自然の猛威は、人間の描いた完全無欠の青写真をあざ笑うかのように、唐突に、そして凶暴に牙を剥いた。


「……ん?」

ふと、結衣の額に、生ぬるい風が吹き抜けた。

先ほどまで肌を焼き焦がしていた真夏の熱気が、わずか数秒のうちに、ぞっとするほど冷ややかな、湿った空気へと一変したのだ。

同時に、大気圧が急速に抜け落ちていくような、耳の奥がキーンと痛む奇妙な閉塞感。

結衣がハッと顔を上げ、西の空を見上げた瞬間、息が止まった。


「な……に、あれ……!?」

西の空――荒川と隅田川の向こう側から、巨大な漆黒の塊が、まるで生き物のように猛烈な速度で東京の空を呑み込みながら迫ってきていた。

夕焼けの残光を背負った入道雲などという生易しいものではない。

底が不気味な赤銅色に濁り、天地を真っ黒に塗り潰す、圧倒的な積乱雲の巨壁。

風が、急速に勢いを増していく。

ゴオオオオオオオ……ッ!

地鳴りのような重低音が、遠くのビルの谷間から響き渡った。

路地の埃と乾いた落ち葉が一瞬にして巻き上げられ、軒先に吊るされたばかりの紅白の横幕が、バタバタバタッ!と狂ったように暴れ始める。


「おい……なんだい、この風は!?」

「空を見ろ! 真っ黒だぞ!」

脚立の上の勇たちが叫ぶ。

その直後だった。


――ピカッッッッッッッ!!!!


目も眩むような青白い閃光が、夕暮れの街を真昼の白銀へと引き裂いた。

一秒。二秒。

ドガァァァァァァァァンッッッ!!

鼓膜を破らんばかりの凄まじい落雷の轟音が、初音銀座の長屋の屋根を激しく揺るがした。

地面がビリビリと震え、近所の子供たちの悲鳴が上がる。

そして――。


ザザザザザザザザザッッッ!!

ドバババババババババッッッ!!


雨などという生易しいものではなかった。

それは、天の底が完全に抜け落ち、巨大な滝をそのまま街の上にひっくり返したかのような、暴力的なまでの「ゲリラ豪雨」だった。

視界が、一瞬にして真っ白に閉ざされる。

大粒の雨礫が、トタン屋根を機関銃のように乱打し、未舗装の砂利道は、わずか三十秒の間に濁流の川へと姿を変えていった。

突風が吹き荒れ、設営途中だった店舗の軒先テントが「ギギギッ!」と骨組みを軋ませ、屋根のない木箱の上に積み上げられていた八百杉の野菜や、丸長の肉の包みに、無慈悲な泥水混じりの水煙が叩きつけられる。


「うわあああっ! トマトが! トマトの箱が流されるぞ!!」

「天幕を押さえろ! ロープが千切れる!!」

「肉だ! 肉を店の中へ入れろ! 水がついたら全部おシャカになっちまう!!」

怒号と悲鳴が、雨音にかき消されながら飛び交った。

店主たちが泥水に足を取られながら右往左往し、パニックに陥る。

明日のフェスのために、全財産を注ぎ込んで仕入れた膨大な食材。

それが、いま、この猛烈な夕立の濁流の前に、丸ごと押し流され、水浸しになって全滅しようとしていたのだ。


「ダメだ、前が見えねえ! 店の中へ避難しろ!!」

「天幕を捨てろ! 怪我人が出るぞ!!」

恐怖に駆られた古参の店主たちが、我先にと自店の引き戸へ逃げ込もうとする。

せっかく一つに束ねられた商店街のスクラムが、自然の猛威の前に、再びバラバラに崩壊しかけた――。


その時だった。


「――逃げちゃダメですッッッ!!」


雷鳴を切り裂くように、雷光よりも鋭く、凛とした声が、豪雨の吹き荒れる路地裏に轟き渡った。

桐島結衣だった。

結衣は、ずぶ濡れになることも厭わず、キリシマ食堂の軒下から、激しい濁流が渦巻く路地の中央へと飛び出していた。

木綿のブラウスは一瞬にして肌に張り付き、黒髪からは滝のように水滴が滴り落ちていたが、その両足は、泥水の中に深く、力強く踏み留まっていた。

両手を口元に当て、メガホンのようにして叫ぶ。


「落ち着いてください! 慌てたら、荷物を落として全部ダメになります!」

結衣の凛とした姿に、逃げ出しかけていた店主たちがハッと足を止めた。

結衣の瞳には、パニックの色など微塵もなかった。

令和のオフィスで、突発的なシステムダウンやクライアントからの致命的な炎上案件を何度も最前線で鎮火してきた、危機管理(クライシスマネジメント)の鬼神のような冷徹な知性が、青い炎となって燃え盛っていた。


「優先順位を決めます! 濡れてもいいものと、絶対に濡らしてはいけないものを完全に仕分けます!」

結衣は腕を振り、淀みなく指示を飛ばし始めた。

「勇さん! 本田社長! 八百杉の野菜と果物の木箱は、皮があるから多少の水なら耐えられます! 一番奥にある、軒が高くて広い『本田鉄工所の作業場の屋根下』へ、若い衆総出でバケツリレーで運び込んでください!!」

「本田鉄工所……! おうよッ!!」

勇が叫び、泥を跳ね上げながらトマトの木箱を抱え上げた。

「誠二、工場のシャッターを全開にしろ! 旋盤の上にブルーシートを被せて、床を全部空けろォッ!!」

「はいッ!!」

誠二が雨の中を矢のように駆け出していく。


「そして――丸長さんの肉、やぶ忠さんの粉と鰹節、宝来軒さんの餅米と乾物調味料!」

結衣はキリシマ食堂の正面を指差した。

「水気に弱く、傷みやすい食材は、すべてキリシマ食堂へ! 客席のテーブルを全部壁際に寄せてあります! 土間と小上がりに、すべての肉と調味料を集結させてください!!」

「忠吉、金造! ぼさっとしてんじゃねえ、ウチへ担ぎ込めェッ!!」

厨房から飛び出してきた大山源三が、大音声で怒鳴りつけた。

「雨なんぞに負けて、明日の仕込みをフイにされてたまるか! 男手は全員、荷物を運べ! 女衆はキリシマの土間に集まれェッ!!」


「「「おおおおおおおおっッッ!!」」」


結衣の的確な指示と、源三の一喝。

混乱していた下町の商人たちが、一瞬にしてひとつの統率された救助隊へと変貌した。

下町特有の、圧倒的な「助け合いの瞬発力」。

本田社長が、大雨のなかで吹き飛びそうになっていた単管パイプの屋台から紅白幕を素早く引き剥がし、風の抵抗を逃がす。

工員たちと青年部の若者たちが、土砂降りの濁流のなかに足を取られながらも、二人がかりで重い野菜の木箱を次々と担ぎ上げ、本田鉄工所の中へとリレーしていく。

忠吉と金造は、雨合羽代わりに肥料袋を頭から被り、肉の丸長の親父と一緒に、何十キロもある肉の塊と鰹節の麻袋を抱え、泥だらけになりながらキリシマ食堂の引き戸へと雪崩れ込んでいった。


「結衣ちゃん、風邪引くよ! これ被りな!」

八百杉のトミが、大きな麻袋を裂いた油紙を結衣の頭の上に広げ、抱きしめるようにして店の中へと引き戻した。

「トミさん、ありがとうございます! 女将さんたちは全員揃っていますか!?」

「ああ! カトレアのマスターの奥さんも、乾物屋の婆さんも、長屋のお内儀たちも、みんな割烹着持って駆けつけてくれたよ!」


午後六時過ぎ。

外では、なおも雷鳴が轟き、滝のような豪雨がトタン屋根を打ちのめしていた。

だが――初音銀座のすべての食材は、一欠片の損失も、泥水の一滴の付着もなく、本田鉄工所とキリシマ食堂の二つの砦の中へと、完全に避難を完了していたのだ。


◆


ガラガラガラ、ピシャリ!

キリシマ食堂の正面引き戸が固く閉ざされ、外の濁流の轟音が、幾分遠のいた。

店内に満ちていたのは、熱気だった。

客席の木製テーブルはすべて壁際に押しやられ、中央の三和土(たたき)の土間と、奥の小上がりの畳敷きの上には、運び込まれたばかりの食材の山が整然と並べられていた。

丸長の新鮮な牛肉と豚肉の塊。

八百杉から運ばれてきた、土の匂いの残る大量の玉ねぎと人参。

やぶ忠の特級鰹節。

宝来軒の餅米と干し椎茸、竹皮の束。

そして――四十ワットの裸電球の下に集まっていたのは、びしょ濡れのタオルを首に巻いた、総勢二十名を超える商店街の女衆だった。


「ふう……危ないところだったねえ。一時はどうなることかと思ったよ」

トミが前掛けを絞りながら息を吐く。

「本当にねえ。でも、食材は無事だけど……こんなにずぶ濡れになっちゃ、今夜の各店の仕込みはどうするんだい? 表の通りは川みたいになってるし、自分の店へ戻って一人で仕込みなんて、とてもできやしないよ」

宝来軒の金造の女房が、困り果てたように呟いた。

各店舗の厨房は狭く、この豪雨で湿気が充満し、買い出しの荷物で足の踏み場もない。

外の雨足は衰える気配を見せず、時間は刻一刻と、明日の開幕に向けて削られていく。


「――ここで、やります」

結衣が、タオルで濡れた髪を拭きながら、きっぱりと言い放った。

「え……? ここで?」

「はい!」

結衣は客席の中央に立ち、全員を見渡した。

「各店に戻って一人で仕込みをするから、時間が足りなくなるんです。不安になるんです。……今夜は、このキリシマ食堂の土間を、初音銀座商店街の『合同仕込み部屋』にします!」

結衣は厨房の源三を振り返った。

「源さん、厨房のまな板と包丁、鍋のすべてを開放してください!」

「おうよ!」

源三は不敵に笑い、調理台の上に何十本もの包丁と、大きな金ダライ、木製のまな板をズラリと並べた。

「好きなだけ使いな! 浅草仕込みの刃物は、どんな肉だろうが野菜だろうが、触れただけでスパスパ切れやがるぞ!」


結衣の目が、指揮官の光を宿して冴え渡る。

「作業を完全に分業化(ライン化)します!

第一班――玉ねぎと人参の皮むき、微塵切り! 八百杉のトミさんを中心に、キリシマのハンバーグ用と、宝来軒さんのちまき用の野菜を一括で刻んでください!

第二班――豚肉と牛肉の切り分けと筋引き! 丸長の女将さんとやぶ忠のお内儀さん、一口カツサンド用とちまき用の角煮肉を、同じ規格のサイズで賽の目に切り落とします!

第三班――ちまき用の竹皮の戻しと、出汁巻き玉子用の鰹節の削り出し! 小上がりの畳の上で、座ってできる作業を一気に進めてください!」


淀みのない、完璧なワークフローの設計。

令和の工場管理やオペレーション設計の手法が、昭和の長屋の女衆の井戸端ネットワークと、奇跡的な調和で噛み合わさっていく。

「さあ、腕まくりをしな、あんたたち!」

トミが割烹着の袖をタスキ掛けにして叫んだ。

「結衣ちゃんの指図通りに動くよ! 男たちが泥だらけになって守ってくれた食材だよ! 明日の朝までに、全部最高の仕込みに仕上げてやろうじゃないかい!!」

「「「おーっッ!!」」」


トントントントントントンッ!

トトトトトトトトトトンッ!

静まり返っていたキリシマ食堂の店内に、無数の包丁がまな板を叩く、小気味よいリズムが一斉に鳴り響いた。

それは、外の凄まじい雷鳴と豪雨の轟音を、完全に呑み込み、かき消してしまうほどの、生命力あふれる合奏だった。


土間の真ん中に据えられた大樽の中で、トミたちが玉ねぎの皮をつるりと剥き、まな板の上で目にも留まらぬ速さで刻んでいく。

目に染みる玉ねぎの刺激に「痛い痛い!」と涙を流しながらも、誰からともなく笑い声が上がる。

「ちょっとトミさん、あんたの包丁さばき、八百屋にしとくには惜しいねえ!」

「当たり前だよ! 伊達に三十年、勇の親父の飯を作ってきたわけじゃないよ!」

厨房では、源三の指導のもと、丸長の女将が鮮やかな手つきで豚バラ肉を均一な角切りに落とし、巨大な中華鍋でラードを熱した金造が、生姜と醤油の香ばしい匂いを立ち上らせて肉を炒め始める。

ジュウウウウウッ!

小上がりでは、やぶ忠の忠吉が、長屋の婆さんたちと一緒に、鰹節削り器のカンナをリズミカルに引いていた。

シュッ、シュッ、シュッ……。

削り立ての鰹節の、血を沸き立たせるような芳醇な海の香りが、肉と玉ねぎの甘い匂いと混ざり合い、店内を温かい幸福感で満たしていく。


そこには――もはや、「キリシマ食堂」も「やぶ忠」も「宝来軒」もなかった。

ひとつの屋根の下で、お互いの仕込みを手伝い、お互いの味見をし、冗談を言い合い、肩を寄せ合う、ひとつの巨大な「家族」の姿がそこにあった。

外の災難は、彼らを分断するどころか、その絆を何倍にも強固に結びつけるための、天の計らいでしかなかったのだ。


◆


深夜零時半。

あれほど狂ったようにトタン屋根を叩き続けていた雨音が、潮が引くように小さくなっていった。

ピチャ、ピチャ……と、軒先から滴り落ちる雨垂れの音。

遠くで、ゴロゴロと小さく鳴っていた雷鳴も、完全に東の海上へと去っていった。

キリシマ食堂の土間には、仕込みを終えた数十個の清潔なバットが、整然と積み上げられていた。


飴色に炒め上げられた、キリシマ食堂の特製ハンバーグ用の玉ねぎ、三十キロ。

一口サイズに切り分けられ、特製パン粉をまとったビフカツ、四百枚。

竹皮に包まれ、あとは蒸籠に入れるだけになった宝来軒の肉ちまき、五百個。

濃厚な鰹出汁をたっぷりと含んだ、やぶ忠の出汁巻き玉子の芯、四百本分。

すべての仕込みが、予定よりも二時間も早く、完璧な状態で完了していた。


「……終わったねえ」

トミが手ぬぐいを外し、長屋の女衆と一緒に畳の上にへたり込んだ。

誰もが汗と油にまみれ、指先はふやけていたが、その顔には、嵐を乗り越えた者だけが持つ、誇らしげな笑顔が満ちあふれていた。

ガラリ、と勝手口が開いた。

入ってきたのは、本田鉄工所で野菜の避難と屋台の補修を終えてきた、男たちだった。

杉本勇、本田辰夫、水野誠二、吉村健一、そして寺岡雅之。

全員が頭から泥水を被り、作業着はドロドロだったが、その瞳はギラギラと明るく輝いていた。


「結衣さん、源の親父!」

勇が土間に上がり込み、泥だらけの長靴を脱ぎ捨てた。

「工場の野菜、一つも傷んでねえぞ! 表の屋台も、誠二がワイヤーで補強してくれたおかげで、一本のパイプも曲がっちゃいねえ! 路地の水も、ドブ板の泥を掻き出したから、綺麗に引いたぜ!」

「がはは! 鉄パイプの櫓を舐めんなよ!」

本田社長が豪快に笑い、誠二の頭をくしゃくしゃに撫で回す。

「天幕を張り直すのは、明日の朝の三十分で十分だ! フェスの舞台は、何一つ壊れちゃいねえぞ!」


「皆さん……本当に、ありがとうございました!」

結衣が深く、深々と頭を下げた。

その時――。

ぐううううううう……ッ。

静まり返った店内に、誰かの腹の虫が、情けないほど大きな音を立てて鳴り響いた。

「あ……悪りい、俺だ」

勇が照れくさそうに腹を押さえると、ドッと全員の笑い声が弾けた。

夕方から泥水と格闘し、休む間もなく包丁を振るい続けたのだ。

全員の腹の底は、とっくに空っぽだった。


「……おい、野郎ども」

厨房の奥から、太くだみ声が響いた。

大山源三が、調理台の上から、直径五十センチを超える巨大な真鍮の大鍋を、両手で抱え上げて運んできたのだ。

ドスン!

土間の中央のコンロ台の上に置かれた大鍋。

源三がその木蓋を、無造作に跳ね上げた。


――ボワッッッッッッ!!


立ち上ったのは、息を呑むような、暴力的なまでの湯気と芳香だった。

店内を埋め尽くしたのは、三十種類を超えるスパイスの鮮烈な刺激と、牛骨と香味野菜の濃厚なアロマ。

大鍋の中でグツグツと煮えたぎっていたのは、漆黒に近い、深い琥珀色のルウだった。

具材には、今日の仕込みで切り落とされた牛スネ肉や豚バラ肉の端材がゴロゴロと惜しげもなく放り込まれ、八百杉の規格外の人参や玉ねぎが、形を失うほどにトロトロに煮溶けている。

そして――何よりもその香りの奥底から主張していたのは、源三が一週間煮込み続けたあの秘伝のデミグラスソースの、深いコクとほろ苦さだった。


「……源さん、これ……!?」

結衣が目を見張る。

「賄い(まかない)だ」

源三はニヤリと唇を吊り上げ、棚から丼鉢を重ねて引きずり下ろした。

「今日の仕込みで出た肉の端切れと、屑野菜を全部ぶち込んでよ……。俺のデミグラスの元ダレと、S&Bの赤缶カレー粉を一缶丸ごとブチ込んで煮詰めた、キリシマ特製の『下町大鍋カレー』だ。……羽釜の飯なら、三升炊き上がってらあ。腹が減ってちゃ、明日の戦はできねえぞ! てめえら、残さず食い尽くせェッ!!」


「「「うおおおおおおおおっッッ!!」」」


歓声が爆発した。

丼鉢に、羽釜からよそわれた炊きたての銀シャリが山盛りに盛られる。

そこへ、源三の太い柄杓から、熱々の黒褐色のカレーが、ドバッ!と豪快に回しかけられていく。

肉が崩れ、野菜が溶け合い、湯気とともに立ち上るスパイスの熱風。


「いただきまーすッ!!」

勇が、本田社長が、忠吉が、金造が、トミが、吉村が、誠二が、スプーンを握りしめて一斉にカレーを口の中へと放り込んだ。


ハフッ、ハフッ、モグッ……ジュワッ!


「っ………………………………!!」

全員の動きが、一瞬にして止まった。

目を見張り、咀嚼し、そして次の瞬間――絶叫のような歓喜の声が上がった。


「う、うめええええええええええええええっッッ!!」

勇が丼を抱えたまま叫んだ。

「なんだこのコクは!? ただの黄色い蕎麦屋のカレーじゃねえぞ! 肉の脂の甘みと、デミグラスの苦味が溶け合って……スパイスがガツンと効いて、全身の毛穴から汗が噴き出してきやがる!!」

「肉が……肉が噛まなくても溶けちまうぞ!」

本田社長が大口を開けて飯をかき込む。

「泥水啜って冷え切った身体に、内側から火が点くようだ! おい源のオヤジ、おかわりだ! 飯をもう一杯くれェッ!!」

「あたしにも頂戴!」

「あたいも!」

泥だらけの男たちも、割烹着の女衆も、全員が土間に車座になり、肩を寄せ合いながら、熱々のカレーを一心不乱に頬張った。

ハフハフと白い息を吐き、額に新しい汗を滲ませ、顔を見合わせては「うめえな」「美味いねえ」と破顔する。

疲労も、泥の汚れも、明日の不安も、すべてがこの一杯の温かいカレーの熱量の中に溶けて消え去っていった。


「……結衣ちゃん」

源三が、大盛りのカレー丼を結衣の前に差し出した。

「お前も食え。……お前が一番、腹を空かせてんだからよ」

「源さん……」

結衣は両手で丼を受け取った。

ずっしりとした重み。手のひらに伝わってくる、熱い陶器の温度。

スプーンを差し入れ、熱々のルウとご飯をすくい、口へ運ぶ。


ハフッ……。

その瞬間、結衣の瞳から、ポロリと一筋の雫がこぼれ落ちた。

美味しい。

信じられないほど、奥深く、温かい。

牛骨の深い出汁、飴色玉ねぎの極限の糖度、そして舌を心地よく刺激するスパイスの切れ味。

だが、何よりも結衣の胸を震わせたのは――このカレーに溶け込んでいる「人々の体温」そのものだった。

泥だらけになって運ばれた野菜の命。

女衆が笑いながら刻んだ肉の切れ端。

そして、嵐のなかで全員を生き返らせるために、老職人が魂を込めて火を入れた、手作業の祈り。


「美味しい……っ。源さん……すっごく、美味しいです……!」

「へっ、当たり前だろ」

源三は手ぬぐいで目元を乱暴に擦り、豪快に笑った。

「キリシマの飯はな、どんな嵐が来たって消えやしねえんだよ」


◆


深夜二時。

満腹になった店主たちが、それぞれの仕込みの成果を抱え、「また明日の朝な!」「絶対に大成功させようぜ!」と言い合いながら、笑顔で家路へと引き揚げていった。

静まり返ったキリシマ食堂の店先。

結衣は表の土間に立ち、大きく引き戸を開け放った。


外に出て、夜空を見上げる。

そこには――。


「……わあ」

結衣の唇から、感嘆の息が漏れた。

先ほどまでの暗黒の雷雲など、跡形もなく吹き飛んでいた。

雨に洗われ、チリひとつなくなった真夏の夜空。

その果てしない群青の天蓋の真ん中に、息を呑むような満天の星々が、ダイヤモンドの粉を散りばめたように煌々と輝いていた。

澄み渡る涼風が、濡れたアスファルトと砂利道を撫でて吹き抜けていく。

路地には、水たまりが星明かりを映してキラキラと銀色に瞬き、二十台の鉄パイプの櫓が、まるで夜明けを待つ誇り高き騎士たちのように、凛として立ち並んでいた。


災難は去った。

泥水にまみれ、恐怖を共有し、ひとつの鍋の飯を食い尽くしたことで、初音銀座商店街の絆は、誰にも引き裂くことのできない鋼鉄の結束へと昇華していた。


「……勝てるわ」

結衣は夜空を見上げ、自らの胸元をぎゅっと握りしめた。

「どんな巨大なチェーン店が来ようと……この街の人たちは、絶対に負けない」


東の地平線の彼方が、微かに、淡い茜色へと色づき始めていた。

初音銀座サマーフェスティバル。

下町の商人たちが魂をひとつに束ねて挑む、運命の決戦の朝が、いま、眩いばかりの光とともに、静かに明行こうとしていた。

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