第42話:ビジネス街を走る自転車と、一万枚のチラシ
真夏の熱気がコンクリートの隙間に澱のように沈殿し、風さえも息を潜めた午後九時過ぎ。
初音銀座商店街を覆う夜の帳は、明後日に迫った「サマーフェスティバル」の開幕を前に、張り詰めた弓の弦のような緊張感を孕んでいた。
本田鉄工所の若手工員・水野誠二が作り上げた二十台の頑強な単管パイプの櫓は、すでに路地の両脇に整然と据え付けられ、銀灰色の骨組みが街灯の淡い光を鈍く跳ね返している。キリシマ食堂の厨房では、大山源三が仕込んだ牛骨と香味野菜のブイヨンが微かな湯気を立て、八百杉の作業場には氷塊と完熟トマトの香りがまだ色濃く残っていた。
舞台装置は整った。
役者たちの武器も、寸分の狂いもなく研ぎ澄まされた。
――だが。
キリシマ食堂の客席の片隅、四十ワットの裸電球の下で大判の墨田区全図を広げていた桐島結衣は、手にした赤鉛筆を止めたまま、重苦しい沈黙のなかに沈んでいた。
「……集客の、壁ね」
結衣の唇から漏れた呟きは、換気扇の低い回転音にかき消されそうになるほど微かだった。
向かいの席で、黒塗りのそろばんを前に帳簿を精査していた文房具店「寺岡堂」の店主・寺岡雅之が、銀縁の丸眼鏡を指先で押し上げ、静かに頷いた。
「ええ、桐島さん。懸念されている通りです。……本田社長の屋台フレーム、各店舗の百円ワンコイン商品、そして私が刷り上げた二千冊の地域通貨チケット。受け皿の準備は奇跡的な完成度を見せています。しかし……」
寺岡は地図の上、初音銀座商店街を示す赤い丸印の周囲を、万年筆の先でトントンとなぞった。
「この街の人口動態です。初音銀座商店街の内部、および隣接する長屋街に住む古くからの馴染み客は、全世帯を合わせてもせいぜい四百世帯、千二百人程度。彼らが全員フェスに足を運んでくれたとしても、目標とする来場者数二千人、総売上百万円の半分にも届きません」
「そうよね。……内部の循環だけじゃ、絶対に届かない」
結衣は地図の上に引かれた、太い二本の幹線道路と鉄道の線路を見つめた。
令和のWEBマーケティングにおいて、どれほど優れたランディングページ(受け皿)を作り、どれほど魅力的なキラーコンテンツ(商品)を揃えても、そこへ顧客を誘導する「トラフィック(流入経路)」が遮断されていれば、売上は文字通りゼロのままだ。
知られなければ、存在しないのと同じなのだ。
「ターゲットは、この外側にいるわ」
結衣の赤鉛筆が、商店街から北へ一キロほど離れた、広大な敷地を示す区画を丸く囲んだ。
「京成線の曳舟駅周辺、そして隅田川沿いに建設された巨大な公団マンモス団地――白鬚団地。さらに、駅前を行き交う何万人もの通勤サラリーマンたち。……彼らは、先月オープンした国道沿いの『サンライズ』のピカピカの看板とチラシに目を奪われ、休日はこぞってあっちへ流れている。彼らの足を、この煤けた路地裏へと引き戻さなければ、私たちの反撃はただの内輪揉めで終わってしまうわ」
「しかし、どうやって呼び込むのですか?」
寺岡が困惑の色を隠さずに問いかける。
「サンライズは、電通や大手印刷会社を使い、カラー写真入りの大判チラシを何十万枚も新聞に折り込んでいます。対して、私たち振興会には、新聞折り込みを打つ広告宣伝費など一銭も残っていません。ガリ版で刷ったかわら版を、明日の昼間に商店街の入口で手渡ししたところで、せいぜい数百人に届くのが関の山です……」
資金の限界。
情報の拡散速度の限界。
令和の時代なら、SNSに一本の投稿を流し、位置情報を指定したネット広告を数万円分打つだけで、半径二キロ以内のスマートフォンの画面を一瞬で埋め尽くすことができた。
だが、ここは昭和四十五年。
テレビCMも、新聞広告も、大資本だけが独占する特権の時代。
情報発信の手段を持たない下町の路地裏食堂が、街の外に眠る何千人、何万人という見知らぬ大衆へ「想い」を届ける術など、どこを探しても見当たらなかった。
――その時だった。
キィィィィィィィッ……バタンッ!
キリシマ食堂の表の通りで、悲鳴のようなブレーキ音とともに、重い金属の車体が転倒するようなけたたましい音が響いた。
「……ん? なんだい、事故か!?」
厨房の奥で仕込みをしていた源三が包丁を止め、顔を上げる。
結衣と寺岡が慌てて立ち上がり、正面の硝子戸を開け放とうとした――まさにその瞬間。
ガラガラガラッッッ!!
引き戸が、乱暴極まりない勢いで開け放たれた。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……! ま、間に……合いました……っ!」
敷居を跨いで倒れ込むように飛び込んできたのは、中堅繊維商社「帝都物産」の営業マン――吉村健一だった。
だが、その姿は、いつも仕立ての良いスーツを端正に着こなしているエリート商社マンの面影など、欠片も残っていなかった。
上着は脱ぎ捨てられ、白いワイシャツは滝のような汗で肌に張り付き、胸元まで透けている。
ネクタイはほどかれ、首筋からは湯気のように熱気が立ち上り、顔面は赤黒く上気して、呼吸をするたびに肩が激しく波打っていた。
そして――何よりも異様だったのは、その両手だった。
十本の指先から掌、手首に至るまで、まるで炭鉱から上がってきた作業員のように、真っ黒な油性印刷インクで染め上げられていたのだ。
「吉村さん……!?」
結衣が息を呑んで駆け寄る。
「どうしたんですか、その手は!? 怪我でもされたんですか!?」
「違います……怪我じゃ……ありません……っ!」
吉村は荒い息を吐きながら、店の外の暗がりを震える指先で指差した。
「表を……見てください……! 持って、きました……結衣さんの……初音銀座の……武器を……っ!」
◆
結衣と寺岡、そして奥から出てきた源三が表の通りへと飛び出した。
街灯の薄暗い光の下。
路地の真ん中に横倒しになっていたのは、頑丈な鉄パイプで作られた、黒塗りの古い「実用自転車(運搬用自転車)」だった。
太いタイヤ、重厚な革サドル、大型の荷台。
その巨大な荷台の両脇、そして前カゴに、ロープで幾重にも厳重に縛り付けられていたのは――茶色いクラフト紙で包装された、直方体の分厚い紙の包み、十数個だった。
一つ一つの包みが、米俵のようにずっしりとした質量を放っている。
自転車のスタンドを立て直そうとした源三が、その重みに思わず目を剥いた。
「うおっ……重ッ! なんだこりゃあ、鉄のインゴットでも積んできたのか!? 吉村の兄ちゃん、これ全部紙なのかよ!?」
「……はい」
吉村は膝に手をつき、肩で息をしながら、結衣を見上げて力強く頷いた。
「一万枚です」
「い……一万枚……!?」
結衣の喉が、引き攣るように鳴った。
吉村は震える指先で、荷台の一番上の包みのクラフト紙を力任せに引き破った。
夜風に乗って、周囲へ一気に広がったのは――ツンと鼻を突くような、揮発性の石油と松煙が混ざり合った、強烈な「刷り立ての油性インクの匂い」だった。
現れたのは、B4判の厚手の用紙。
そこには、結衣が三日前、寺岡堂の原紙に鉄筆で命を削るようにして彫り上げたあのデザインが、寸分の狂いもなく、漆黒の鮮烈な文字とイラストとなって、紙面いっぱいに刷り上げられていた。
『初音銀座サマーフェスティバル・大反撃絵図面(かわら版特大号)』
紙面の中央には、初音銀座の路地をひとつの巨大な船に見立てた、躍動感あふれるイラストマップ。
左上には、本田鉄工所の黒鉄の皿でジュウジュウと音を立てるキリシマ食堂の極上ハンバーグと一口カツサンド。
右上には、八百杉の若旦那が氷塊を叩き割って作る、ルビー色に輝く完熟トマトの極冷塩セーキ。
下部には、やぶ忠の出汁巻き玉子串、宝来軒の手包み肉ちまき、カトレアの純白生クリームが乗ったレトロボトルプリン。
そして、それらを結ぶように配置された、結衣の計算し尽くされたキャッチコピー。
『百円玉ひとつで、職人の魂を喰らえ!
大手ファミレスには絶対に真似できない、
下町の炎と氷が織りなす、奇跡の路地裏バイキング!』
「……すごい」
寺岡雅之が、その一枚を手に取り、街灯の光に透かして息を呑んだ。
「印刷の圧力が均一で、細かな網掛けのグラデーションまで鮮明に出ている。手動の謄写版(ガリ版)の仕上がりではありません。……吉村さん、これは一体……?」
「会社の……本社総務部の地下印刷室です」
吉村は手ぬぐいで顔の汗を拭いながら、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。
「帝都物産が、株主総会の招集通知や社内報を印刷するために先月導入したばかりの最新鋭機……『高速電動謄写輪転機(ゲテットナー印刷機)』です。ドラムをモーターで高速回転させ、一分間に百枚以上の速度で刷り上げる怪物マシンです」
「会社の……最新印刷機を……?」
結衣が目を丸くする。
吉村は苦笑いを浮かべ、自らの真っ黒に汚れた両手を見つめた。
「もちろん、正規の業務では使えません。総務部長に頭を下げ、始末書覚悟で頼み込みました。『会社の印刷用紙の端材と、インクの損料、そして機械の電気代は、すべて僕の今月の給料から私費で天引きしてください』と……!」
「吉村さん……そこまで……!」
「昨日の定時後、社員が全員退社した午後六時から、地下の印刷室に一人で立て籠もりました。インクをドラムに流し込み、版をセットし、一枚一枚紙詰まりを目視でチェックしながら……三時間、ドラムを回し続けました」
吉村のワイシャツの胸元には、高速回転する印刷機から飛び散った黒いインクの飛沫が、無数の星のように散っていた。
「十箱、一万枚。……刷り上がったのは、夜の九時でした。会社の社用車を使うわけにはいかないから、本社の裏にあった運搬用の実用自転車を借りて、荷台に百キロの紙を括り付けて……日本橋の本社から、この初音銀座まで、一時間半ペダルを漕ぎ続けて運びました」
吉村は顔を上げ、結衣の目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、過労で今にも倒れそうだったかつての気弱な営業マンの影など、微塵もなかった。
自分の信じた女性のために、下町の仲間たちのために、組織の枠を飛び越えてすべてを投げ打った、一人の強い男の炎が燃え盛っていた。
「結衣さん」
吉村の声が、夜の路地に響いた。
「あなたが、この街を救うためにどれほど命を削っているか、僕は見てきました。源さんも、本田社長も、誠二君も、勇さんも、寺岡さんも……全員が、自分の持っている最高の技術を差し出して戦っている。……商社マンの僕にできることなんて、知れています。料理も作れない、鉄も削れない、帳簿も引けない。……だけど、紙を確保し、情報を形にして、それを人の手元へ届けることなら……僕の足を使って、できるはずだ!」
吉村は拳を握りしめた。
「一万枚のチラシがあれば、街の外へ届きます。白鬚団地の四千世帯にも、駅前のサラリーマンにも、サンライズに奪われた人たちの手元へ、初音銀座の魂を叩き込むことができます!!」
「…………っ」
結衣の胸の奥底が、激しい熱情に貫かれた。
言葉が出なかった。
手足を泥だらけにし、インクにまみれ、息を切らして立っているこの男。
令和のあのオフィスでは、誰もが「費用対効果(ROI)」を計算し、予算がなければ「無理です」と切り捨て、誰かが困っていても見て見ぬ振りをして終電で逃げ出していった。
それが、いま。
この昭和四十五年の男は、自らのポケットマネーを叩き、会社の罰則に怯えることもなく、百キロもの紙を自転車に積んで、夜の東京を激走して届けてくれたのだ。
ただ、「一緒に戦いたい」という、その一心だけで。
「……吉村の兄ちゃん」
源三が、煙草をもみ消し、ゆっくりと歩み寄ってきた。
老職人は、自転車の荷台に積まれた一万枚のチラシを大きな掌で撫でると、吉村の肩をドンと力強く叩いた。
「立派だ。……お前は、立派な下町の男だよ」
「大山さん……」
「結衣」
源三が振り返り、結衣を呼んだ。
「武器は揃ったぞ。……この一万枚の弾丸、どうやって撃ち込むんだ」
◆
結衣はバインダーを抱え直し、顔を上げた。
迷いは、完全に消え去っていた。
これほどの情熱を受け取って、マーケターとして結果を出せないはずがなかった。
「吉村さん、寺岡さん、源さん。聞いてください」
結衣は荷台のチラシを指差し、淀みなく指示を飛ばし始めた。
「一万枚のチラシを、ただ駅前で不特定多数に配っても、半分以上はゴミ箱行きです。紙の無駄遣いになるだけです。……私たちがやるべきは、徹底的にターゲットを絞り込んだ『ダイレクト・ポスティング(個別直接投函)』です!」
「ポスティング……?」
吉村が聞き返す。
「そうです。郵便受けへの直接投函です。狙うべきエリアは三つ」
結衣は指を三本立てた。
「第一のエリアは、北側にある『白鬚団地』のマンモス公団住宅群。全三十二棟、約四千二百世帯。ここには、サンライズの『清潔さ』と『安さ』に惹かれて流出した、もっとも奪還すべき若いファミリー層が集まっています。明日が土曜日であることを考えれば、今夜のうちに全戸の郵便受けにこのチラシを差し込んでおけば、明日の朝、新聞を取りに出たお母さんたちが真っ先に目にします!」
「なるほど……! 朝一番の視覚ジャックか!」
寺岡が膝を打つ。
「第二のエリアは、京成線の曳舟駅と押上駅の周辺にある、大規模な『自転車駐輪場』と『タクシー乗り場』です」
結衣は地図を指差した。
「深夜、終電で帰ってきたサラリーマンたちが、自転車の鍵を開ける瞬間。前カゴやハンドルに、このチラシが挟まれていれば、疲れた頭で必ず目を通します。『明日の昼、美味いハンバーグと冷たいビールが百円で飲めるのか』と刷り込むのです」
「そして第三のエリアは……町工場地帯の『夜勤シフトの通用門』ですね」
吉村が先回りして答えた。
「向島から鐘ヶ淵にかけてひしめく、夜通し稼働している町工場群。夜勤明けの男たちが、朝六時に工場を出てくるタイミングで通用門にチラシを置けば、彼らがそのまま朝帰りの足でフェスに雪崩れ込んできます!」
「その通りです、吉村さん!」
結衣は力強く頷いた。
「四千枚を白鬚団地へ。三千枚を駅周辺の駐輪場へ。残る三千枚を町工場と商店街周辺の木造長屋へ。……今夜、この街が寝静まっている深夜の五時間を使って、初音銀座を取り巻くすべての生活動線へ、この一万枚を絨毯爆撃のように敷き詰めるんです!」
「よし、やるぞ!」
源三が前掛けを締め直した。
「俺も自転車を出してくる! 団地の階段くらい、五十年の足腰がありゃあ駆け上がってやるぜ!」
「寺岡さんも、僕と一緒に駅前を回りましょう!」
吉村が息を吹き返して叫ぶ。
だが――結衣は、首を横に振った。
「ダメです。源さんは明日の朝四時から、ハンバーグ用の牛肉の最終仕込みと、デミグラスの火入れがあるでしょう。源さんが倒れたら、フェスそのものが破綻します。源さんは今すぐ寝てください!」
「だがよ、結衣……!」
「私も行きます!」
結衣はエプロンを脱ぎ捨て、腕まくりをした。
「私も自転車に乗れます。吉村さんと手分けして、白鬚団地を回ります!」
その瞬間――。
「――いけません、結衣さん」
遮ったのは、吉村健一だった。
吉村は結衣の前に立ちはだかり、その華奢な肩を、インクで汚れた両手で、そっと押し留めた。
「吉村さん……?」
「結衣さんは、行ってはいけません」
吉村の声は、驚くほど静かで、そして頑固だった。
「結衣さんは、このフェスの最高指揮官です。明日の朝から、二十台の屋台の配置、寺岡さんのチケット本部の設営、各店舗の仕込みの進捗確認……すべてを結衣さんが差配しなければならない。……あなたが徹夜で階段を上り下りして、倒れてしまったら、誰がこの街を率いるんですか」
「でも……一万枚ですよ!? 吉村さん一人で配り切れる数じゃありません!」
「配り切ります」
吉村は、ふっと優しく微笑んだ。
その笑顔には、死線を越えた営業マンだけが持つ、絶対の覚悟が宿っていた。
「忘れないでください、結衣さん。僕は、帝都物産の営業マンです。雨の日も風の日も、重い見本帳を抱えて、一日四十軒の問屋を足で回ってきた男ですよ。……階段を駆け上がるなんて、僕にとっては日常茶飯事です」
吉村は自転車のハンドルを握り直した。
「結衣さんが命を削って作っている街の夢を……僕も一緒に背負いたいんです。知恵を出すのがあなたなら、泥を被って足を使うのは、僕の仕事です。……僕に、任せてください」
「吉村さん……」
結衣の喉が詰まった。
引き止める言葉は、もうどこにも見つからなかった。
吉村は寺岡に向かって頭を下げた。
「寺岡さん。駅周辺の駐輪場千五百枚だけ、手伝っていただけますか? 残りの八千五百枚――団地と町工場は、すべて僕が配り切ります」
「……分かりました、吉村さん」
寺岡は深く頭を下げた。
「あなたのその誇り、無駄にはしません。駅前の要所は、私が完璧に押さえてみせましょう」
午前十一時。
初音銀座の路地裏から、二台の自転車が、夜の闇へと滑り出していった。
荷台に山積みにされた一万枚のチラシ。
吉村健一の背中は、夜風を切り裂き、ペダルを踏み込むたびに力強く遠ざかっていく。
結衣は、その背中が見えなくなるまで、ずっと、ずっと店先で見送り続けていた。
◆
深夜一時。
墨田区・白鬚団地。
隅田川沿いに整然と立ち並ぶ、白亜の鉄筋コンクリート造マンモス公団住宅群。
見上げるような五階建て、八階建ての巨大な住居棟が、夜の静寂のなかで巨大な城壁のようにそびえ立っていた。
エレベーターのない五階建ての棟が、十数棟。
その暗闇のなかを、一台の実用自転車が疾走していた。
――キィィィィッ。
自転車を階段の下に滑り込ませた吉村は、荷台から厚さ三十センチものチラシの束を両腕に抱え上げた。
重さは、一束で十キロ以上。
それを抱えたまま、吉村は一段、二段と、コンクリートの階段を駆け上がり始めた。
タッ、タッ、タッ、タッ、タッ!
静まり返った階段室に、革靴の足音が木霊する。
一階、二階、三階――。
各戸のドアの脇にある、銀色の郵便受けの投函口。
吉村の指先が、機械のような正確さでチラシを一枚抜き取り、滑り込ませる。
パタン。
パタン。
パタン。
金属の蓋が落ちる小さな音が、リズミカルに続く。
四階、五階。
最上階まで配り終えると、踊り場の窓から夜風を肺いっぱいに吸い込み、息を整える間もなく、階段を一気に駆け下りる。
そして、隣の棟へ。
再び、チラシの束を抱え、一階から五階まで駆け上がる。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」
午前二時を回った頃、吉村の呼吸は、喉の奥が引き裂かれるような喘鳴へと変わっていた。
太ももの大腿四頭筋が、乳酸で鉛のように重く軋む。
階段を三段登るごとに、膝がガクガクと震え、手すりにすがりつかなければ身体が崩れ落ちそうになる。
汗が目に入り、視界が白く霞む。
ワイシャツのボタンはすべて千切れ飛び、胸元は泥と汗でドロドロに汚れ、革靴の靴底は、すり減って爪先から冷たい夜風が入り込んできていた。
右手の指先は、硬い上質紙の角で何度も皮膚を切り刻まれ、赤い血が滲んでいた。
だが――痛む指先でチラシを掴むたび、吉村の脳裏に浮かぶのは、ただ一つの光景だった。
『疲れたら、いつでも食べに来てください。ここは逃げ込める場所ですから』
夕暮れの路地裏で、温かいビフカツサンドを手渡し、微笑んでくれた結衣の瞳。
『吉村さん、お客様が買いたいのは「素材」ではなく「家族の安心」です』
深夜の店内で、徹夜で机を並べ、自分の拙い企画書を魔法のように生まれ変わらせてくれた、あの真剣な横顔。
そして――今夜、屋根の上で見上げたという、あの寂しげな星空の瞳。
「……あんな人を」
吉村は歯を食いしばり、震える足でコンクリートの段を踏み締めた。
「あんなに美しくて……あんなに真っ直ぐな人を……誰が負けさせてたまるか……ッ!!」
パタン。
パタン。
パタン。
深夜の団地に響き続ける、小さな投函の音。
それは、巨大な近代化の濁流に対して、昭和の一人のサラリーマンが、己の身体ひとつ、足の一歩一歩を弾丸に変えて撃ち込み続ける、泥臭くも崇高な戦いの銃声だった。
白鬚団地を配り終えた午前三時。
吉村は再び自転車に跨がり、今度は隅田川沿いの町工場地帯へとペダルを踏み込んだ。
夜勤の鉄工所。
機械油の煙が立ち込める通用門の守衛室。
工員たちの自転車の前カゴ。
路地裏の木造長屋の、一軒一軒の郵便受け。
東の空が、夜の深い藍色から、薄紫へと溶け始めていく。
自転車の荷台を覆っていたクラフト紙の包みが、五つ、三つ、一つと減っていく。
最後の一束を抱え、押上駅前の巨大な駐輪場へ駆け込んだ時、吉村の全身からは、湯気のように白い蒸気が立ち上っていた。
◆
午前四時五十分。
キリシマ食堂の客席。
結衣は、テーブルの上に突っ伏すこともせず、椅子に浅く腰掛けたまま、じっと正面の硝子戸を見つめ続けていた。
手元には、冷めきった麦茶のコップ。
柱時計の振り子が、コチ、コチと冷徹に時を刻む。
何度も立ち上がり、自転車を追って飛び出そうとした。
だが、そのたびに「僕に任せてください」と言い残した吉村の、あの強い瞳が脳裏をよぎり、結衣はその場に踏み止まり続けていた。
(……令和の広告は、クリックひとつで何万人に届いた)
結衣は自らの胸元をぎゅっと握りしめた。
(インプレッション数。クリック率。コンバージョン率……。
画面の向こうにいる人間を、ただの「数字の塊」としてしか見ていなかった。
誰がどんな顔をしてそれを受け取り、どんな靴を履いて歩き、どんな汗を流しているのか……私は何一つ知ろうとしなかった)
窓の外、白み始めた初音銀座の路地。
(でも、吉村さんは……足で届けている。
一歩、一歩、階段を登り、ペダルを漕ぎ、自分の命の時間を削りながら……一枚の紙に魂を込めて、見知らぬ誰かの家のポストへ差し込んでいる……)
これが、昭和という時代の力なのだ。
便利さのなかに置き去りにされてしまった、人間の「熱量」そのもの。
胸の奥が、痛いほど熱かった。
目頭から、止めどなく涙が溢れ出そうになるのを、結衣は懸命に奥歯を噛み締めて堪えていた。
――ガタ、ガタ……。
静まり返った路地の向こうから、軋んだ自転車のチェーンの音が聞こえてきた。
不揃いな、今にも止まりそうな、重い車輪の回転音。
結衣は弾かれたように立ち上がり、引き戸へと駆け寄った。
ガラガラガラッ!
戸を開け放った瞬間、朝靄の立ち込める路地から、一台の自転車が倒れ込むように滑り込んできた。
「……よ、吉村さん……ッ!!」
自転車のスタンドがガシャンと落ち、吉村健一の身体が、土間へと崩れ落ちかけた。
結衣は躊躇うことなく飛び出し、その泥だらけの身体を、両腕で正面から抱き止めた。
ドスン、と重い衝撃。
ワイシャツから立ち上る、強烈な汗の熱気と、油性インクの匂い。
吉村の身体は、まるで真冬の海から引き揚げられたかのように激しく震え、息は絶え絶えだった。
スラックスの裾はチェーンの油と泥で真っ黒に汚れ、革靴の底は完全に穴が開き、親指が擦り剥けて血が滲んでいた。
十本の指先は、インクと紙の粉で黒く染まり、無数の切り傷が痛々しく刻まれていた。
だが――。
結衣の肩に顔を埋めた吉村は、掠れた、今にも消え入りそうな声で、誇らしげに笑ったのだ。
「……結衣さん」
吉村の指先が、空っぽになった自転車の荷台を、力なく指差した。
「……ぜんぶ……配り、終えました……」
「吉村さん……っ!」
「一万枚……一枚も……捨てていません……。団地も……駅前も……工場も……ぜんぶ、届けてきました……!」
「もう……もういいです! 喋らないで……!」
結衣の瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、吉村の汚れたワイシャツの背中を濡らしていった。
胸の奥が、張り裂けそうだった。
こんなにも泥だらけになって。
こんなにも傷だらけになって。
自分のために、この街のために、一晩で一万回もの階段を駆け上がってくれた男。
令和のあの冷え切った世界で、誰からも愛されず、誰の役にも立てずに凍え死にそうになっていた自分の心の中に、かつて一度も灯ったことのない、甘やかで、切なくて、狂おしいほどの「温かな感情」が、奔流となって満ちあふれていくのを感じていた。
「……ありがとう、吉村さん」
結衣は吉村の震える身体を、強く、強く抱きしめ返した。
「本当に……本当に、ありがとう……!」
厨房の奥から、大山源三が湯気を立てる熱いタオルと、熱い豚汁の入った大椀を盆に乗せて駆け寄ってきた。
「おい、吉村! よくやった! さあ、これ飲め! 顔を拭け!」
源三の目にも、熱い涙が光っていた。
東の地平線から、真夏の太陽が、目も眩むような黄金の光を放って昇り始めた。
初音銀座商店街を照らし出す、決戦の朝の光。
自転車の荷台から解き放たれた一万枚の紙片は、いま、目覚め始めた東京の下町の隅々で、何千人もの家族の指先に触れ、街の運命を揺るがす巨大な奇跡の導火線に、火を点けようとしていた。




