第32話:かわら版を握りしめた小さな常連たち
カリカリ、カリカリ……。
金属の鋭い切っ先が、蝋引きの薄い原紙を削り取る微かな摩擦音が、夜の更けた文房具店「寺岡堂」の奥部屋に心地よいリズムを刻んでいた。
机の上に置かれた卓上スタンドが、黄色い白熱光の円を緑色のフェルトマットの上に落としている。
その光の輪の中心で、桐島結衣は息を詰め、細身の鉄筆を握りしめていた。
指先の下にあるのは、細かな格子状の溝が刻まれた鋼鉄製のヤスリ板。その上に重ねられた、半透明の謄写版用原紙。鉄筆を走らせるたびに、表面のパラフィン蝋が削り落とされ、下地の雁皮紙の微細な繊維が、まるでレース編みのように規則正しい穴となって光に透けていく。
「……すごいわね、結衣さん。まるで印刷機みたいに綺麗な文字と絵が並んでいくわ」
隣の丸椅子に座った竹中さゆりが、緋色のビロードのクッションに胸を乗せるようにして、感嘆の息を漏らした。
夜の純喫茶カトレアを閉めたあと、エプロンを外して手伝いに駆けつけてくれたのだ。膝の上には、刷り上がったばかりの紙を乾かすための吸い取り紙の束が抱えられている。
「ふふ、昔……ううん、以前のデザインの仕事で、文字のバランス(タイポグラフィ)だけは散々叩き込まれたからね」
結衣は鉄筆を止めずに微笑んだ。
いま制作しているのは、一枚の紙片――手書きのかわら版『キリシマ通信・創刊号』だった。
先週の日曜日、国道沿いにオープンした大手ファミリーレストラン「サンライズ」によって、キリシマ食堂の客席から家族連れの姿が完全に消え去った。ピカピカのガラス張りの店内、冷房、ふかふかのソファー席、そして新幹線のプラスチック皿とおもちゃ付きのお子様ランチ。巨大資本が繰り出す「工業化された近代のエンターテインメント」の前に、下町の木造食堂は一瞬にして取り残されたのだ。
だが、結衣と大山源三は諦めなかった。
昨夜、本田鉄工所の本田辰夫社長と若い旋盤工の水野誠二が、自らの睡眠時間を削って十六ミリの極厚黒皮鉄板から削り出してくれた、二十枚の「初音銀座モデル・黒鉄の皿」。
そして、車麩を隠し味に使い、肉汁の保持力を極限まで高めた「手ごね極上煮込みハンバーグ」。
武器は揃った。
だが、どれほど凄まじい武器を作ったところで、それを必要としている人々の手元に届かなければ、戦いは始まらない。
大手のサンライズのように、新聞折り込みで何十万枚ものカラーチラシをばら撒く莫大な広告宣伝費など、キリシマ食堂には一円もない。
だからこそ、結衣が選んだのが――昭和のアナログな印刷技術の最高峰、「ガリ版(謄写版)」による、心の通った手作りかわら版のゲリラ配布だった。
「はい、原紙の彫り上がりです」
結衣が鉄筆を置き、指の関節をポキリと鳴らした。
机の向かいで、そろばんを片手に紙の裁断をしていた寺岡雅之が、銀縁の丸眼鏡を押し上げながら立ち上がった。
「拝見しましょう。……素晴らしい。鉄筆の加圧が均一で、破れや掠れが一切ありませんね。これなら五百枚の連続印刷にも十分に耐えられます」
寺岡は手際よく木製の謄写印刷器の枠(木枠スクリーン)を持ち上げ、絹の紗が張られたスクリーンの下に、結衣の彫り上げた原紙をピシリとセットした。
ローラーに黒い油性インクをチューブから絞り出し、平らなガラス板の上で均一に伸ばしていく。
ネチャッ、ネチャッという、粘り気のある重厚なインクの音が部屋に満ちる。石油と松煙の混ざり合った、昭和の印刷所特有の懐かしい匂い。
「さゆりちゃん、紙のセットをお願いします」
「はいっ!」
さゆりが寺岡堂特注の、温かみのある生成りの上質紙を一枚、印刷台のガイド線に合わせて差し入れる。
寺岡が木枠を静かに下ろす。
インクをたっぷり含んだゴムローラーを両手で握り、上から下へと、一定の体重をかけて滑らせた。
――スルスルスルッ。
木枠を持ち上げると、そこには、息を呑むほどに美しい墨黒の文字とイラストが、刷り立ての艶を放ちながら鮮やかに浮かび上がっていた。
「わあ……っ!」
さゆりが黄色い歓声を上げ、両手でその紙を持ち上げた。
「すごい、すごいわ結衣さん! 新聞の活字よりもずっと温かくて……なんだか、お友達から届いた絵手紙みたい!」
「ありがとうございます。……寺岡さん、印刷の掠れもありませんね」
「完璧です」
寺岡は眼鏡の奥の目を細め、仕上がった紙面をしみじみと眺めた。
「単なる安売りのチラシとは、根本的に思想が違う。『情報』を一方的に押し付けるのではなく、読む者の心に語りかけるような手紙になっている。……桐島さん、この紙面の構成、実に見事ですよ」
結衣がガリ版の紙面に注ぎ込んだのは、令和のWEBマーケティングで培われた「コンテンツマーケティング」の神髄だった。
紙面の最上段には、愛らしい手書きのフォントで屋号が躍る。
『初音銀座の路地裏より キリシマ通信・創刊号』
【特集:お母さん、今週もお疲れ様でした】
大見出しの下に描かれていたのは、エプロン姿の母親が子供の手を優しく握っている、温かなペン画のイラスト。
そして、それに続く文章は、サンライズへの敵意や批判など一言も書かれていなかった。
語られていたのは――下町で子育てに奮闘する母親たちの心に寄り添う、切実な「安心と共感」の言葉だった。
『日曜日のお昼、家族の外食は楽しいはずなのに……
「本当にこのご飯、子供の身体にいいのかしら」と、
胸のどこかで少しだけ不安になっていませんか?
キリシマ食堂のハンバーグには、保存料も、化学調味料も、
冷凍の輸入肉も、一切使われていません。
毎朝、向かいの「八百杉」さんが市場から届けてくれる泥つきの玉ねぎ。
近所の「肉の丸長」さんが手切りしてくれた、新鮮な国産の牛肉と豚肉。
そして、新潟の伝統保存食である「車麩」を練り込んだ、完全手作りのパティ。
大山源三が、朝の五時から仕込む秘伝のデミグラスソースは、
牛骨と香味野菜を丸ごと一週間煮込み、
余分な脂と灰汁を何十回もすくい取った、コラーゲンと野菜の命の塊です。
小さなお子様が最後の一滴まで飲み干しても、
お腹にもたれることは絶対にありません。』
ただ「美味しい」「安い」と叫ぶのではない。
子供に外食を食べさせる母親が抱える、見えない「罪悪感」を解きほぐし、「ここなら安心して子供に食べさせられる」という絶対の信頼を提示するロジック。
さらに、紙面の下半分には、子供たちの好奇心を狂わせるような、躍動感あふれるイラストが描かれていた。
『今週の日曜日、下町の職人たちが起こす小さな奇跡!
【週末限定・お子様特製洋食プレート】
(本田鉄工所特注・黒鉄のミニ鉄板仕立て)
・箸を入れた瞬間に肉汁が溢れる! 極上ミニ手ごねハンバーグ
・羽釜で炊いた銀シャリで作る、香ばしいチキンライス(お船の旗つき!)
・八百杉野菜のあま〜い琥珀ポタージュスープ付き
目の前でソースをかけた瞬間、ジュウウウッ!と火山のように煙が立ち上る!
プラスチックのおもちゃは付いていません。
その代わり、目の前で本物の炎と鉄が歌い出す、
世界でここだけの「ジュウジュウ体験」をお届けします!』
「……おもちゃは付いていない、と堂々と言い切ったのが痛快ですね」
寺岡が思わず笑みをこぼした。
「普通なら弱みとして隠したがるところを、あえて『本物の料理の迫力』という強烈な付加価値の裏付けに転換している。これなら、親御さんも誇りを持って子供を連れて来られますよ」
「はい!」
結衣は力強く頷いた。
「親の安心と、子供のワクワク。その二つが揃って初めて、家族の外食は本物の思い出になるんです。……さゆりちゃん、刷りましょう! 明日の朝までに、五百枚刷り上げますよ!」
「オッケー、任せてお姉ちゃん! 手首が腱鞘炎になるまで紙を送り込んであげるわ!」
秋の深夜、寺岡堂の奥部屋に、スルスルとローラーが滑る音と、二人の少女の快活な笑い声が途切れることなく響き続けた。
◆
土曜日の午前十時。
からりと晴れ上がった初音銀座商店街には、週末の買い出しに訪れた長屋の主婦たちや、手をつないで歩く親子の姿が目立ち始めていた。
「お母さん、こんにちは! キリシマ食堂から、明日のお知らせです!」
八百杉の店先の前で、結衣は清潔な白いブラウスの袖をまくり、刷り上がったばかりの『キリシマ通信』を道行く女性たちへ、両手で丁寧に手渡していた。
隣では、さゆりが真っ赤なベレー帽をかぶり、お得意の満面の笑顔を振りまいている。
「奥さん、読んでみて! うちのカトレアのお父さんも太鼓判を押す、ものすっごいハンバーグが明日から出るのよ! 読まなきゃ絶対に損するわよ!」
「あら、さゆりちゃん。……キリシマ通信?」
買い物籠を腕に提げた長屋の主婦が、足を止めて足を止めた。
普段なら、駅前で配られる安っぽいビラなど受け取らない主婦たちも、商店街の馴染みであるさゆりと結衣が、一人一人に「今週もお疲れ様です」と声をかけながら手渡す姿に、思わず足を止めて紙面へと視線を落とす。
「……あらまあ」
主婦の一人が、紙面を覗き込んで小さく声を漏らした。
「手書きじゃないの、これ。……可愛い絵ねえ」
「ええ、全部手作業で刷ったんですよ」
結衣が柔らかく微笑みかける。
「奥さん、先週できた国道沿いのファミレス、もう行かれましたか?」
「あ……ええ、実は先週の日曜日、子供がどうしても行きたいって泣き叫ぶものだから、お父さんと一緒に行ってきたのよ」
主婦は少しだけ気まずそうに目を伏せた。下町の個人商店街を裏切って大手のチェーンへ行ってしまったという、小さな後ろめたさがあるのだ。
「でもね……確かに綺麗でソファーは楽だったんだけど、出てきたハンバーグがねえ……なんだか、工場で作った冷凍食品をチンしたみたいな味でね。子供はおもちゃを貰って喜んでたけど、主人は『こんなの飯じゃねえ』って途中で箸を置いちゃって……。私も、あんな添加物だらけのものを毎週食べさせるのは、ちょっと心配だったのよ」
「分かります」
結衣はその主婦の手元にある『キリシマ通信』を優しく指差した。
「キリシマ食堂のハンバーグは、冷凍のお肉は一切使っていません。向かいの丸長さんのお肉と、八百杉さんの玉ねぎだけで、大山源三が一から手捏ねで作っています。……明日の日曜日、子供たちのためだけに、目の前でジュウジュウ音を立てて焼く特別な鉄板ハンバーグをご用意しました。おもちゃはありませんが……お子さんが『美味しかった!』と目を輝かせる瞬間を、お父さんとお母さんに見ていただきたいんです」
「目の前で……ジュウジュウ……?」
主婦の胸に抱かれていた四歳くらいの男の子が、紙面の「お船の旗が立ったハンバーグ」のイラストに目を釘付けにしていた。
「ママ、これ……お肉から煙が出るの?」
「ええ、出るわよ、坊や」
結衣が男の子の目線に合わせてしゃがみ込み、ニッコリと笑いかけた。
「火山の噴火みたいに、ジュウウウッ!って凄い音がしてね、いい匂いの湯気がモクモクってお空まで昇っていくの。お船の旗も立ってるのよ」
「わあ……! ママ、僕、これ見たい! これ食べたい!」
男の子が母親のスカートの裾を力一杯引っ張った。
「まあまあ……ふふっ、分かったわよ」
母親は『キリシマ通信』を丁寧に折りたたみ、買い物籠の中へと大切そうにしまった。
「結衣さん、明日、家族三人で伺うわね。楽しみにしているわ」
「ありがとうございます! お待ちしておりますね!」
向かいの八百杉の店先から、その様子をずっと見守っていた杉本トミが、メガホンのような大声を張り上げた。
「おい、奥さんたち! キリシマの通信はもう読んだかい!? アタシのところの最高の玉ねぎと人参が、明日は奇跡のハンバーグになるんだよ! 家族の健康を考えるなら、安物の工場飯なんざ食わせてる場合じゃないよ! 明日の昼はキリシマ食堂へ集合だよォッ!!」
トミの強力な後押しと、結衣とさゆりの丁寧な手渡し。
五百枚刷られた『キリシマ通信』は、正午を過ぎる頃には最後の一枚まで配り尽くされ、初音銀座商店街を取り巻く長屋や住宅街の茶の間へと、確実にその温かな言葉を届けていた。
◆
そして――運命の日曜日がやってきた。
十月半ばの澄み切った秋晴れ。
午前十一時、キリシマ食堂の厨房には、張り詰めた緊張感と、暴力的なまでに芳しい仕込みの匂いが充満していた。
奥の真鍮の寸胴鍋では、一週間煮込まれた漆黒のデミグラスソースが、八十度の微沸騰を保ちながら静かに呼吸している。
手前の作業台の上には、成形されたばかりのパティが三十個、清潔なバットの上に並べられていた。
牛七・豚三の極粗挽き肉。飴色玉ねぎと生の刻み玉ねぎ。そして、すり潰した車麩をたっぷりと抱き込んだ、ふっくらとした肉の山。
さらにその隣には――。
「……おい、結衣。これでいいのか」
大山源三が、指先に一本の細い爪楊枝を持ち、少し照れくさそうに差し出してきた。
爪楊枝の先端には、寺岡堂から分けてもらった色上質紙で作られた、小さな四角い手作りの旗が貼り付けられていた。
青い紙には、手書きで描かれた『キリシマ食堂』の文字と、愛らしい船のイカリのマーク。
「完璧です、源さん!」
結衣が満面の笑みで頷く。
「サンライズの安っぽいプラスチックの旗とは違います。寺岡堂の紙と、源さんが一本一本手作業で糊付けしてくれた、世界に一つだけの『キリシマの航海旗』ですよ」
「へっ、柄にもねえ細工させやがって……」
源三は前掛けで鼻の頭を擦り、ぶっきらぼうに悪態をついたが、その目元は誇らしげに緩んでいた。
視線を下に向けると、コンロ台の下段には、昨夜のうちに油焼き(シーズニング)を完璧に終え、青黒い黒漆の艶を放つ二十枚の「黒鉄の皿」と、樫の木の敷板が、出撃の時を待つ軍艦のように整然と積み上げられていた。
午前十一時三十分。
柱時計がボーンと鈍い鐘の音を鳴らした。
「……時間だ」
源三が息を整え、フライパンを力強く握りしめた。
「結衣、暖簾を出せ」
「はい!」
結衣は正面の硝子戸を開け放ち、紺色の暖簾を秋風の中へと掲げた。
木札を『営業中』へと裏返す。
その瞬間だった。
「――あ、開いたわよ! 一番乗りよ、たかし!」
「わーい! 一番だ、一番だ!」
暖簾のすぐ外で、弾むような子供の歓声が上がった。
結衣がハッと顔を上げると、そこには――昨日、『キリシマ通信』を大切そうに買い物籠へしまっていった、あの母親と男の子の姿があった。
その後ろには、少し照れくさそうに頭を掻く父親の姿。
男の子の手には、四つ折りにされ、端が擦り切れるほど何度も読み返されたのであろう『キリシマ通信』が、ぎゅっと握りしめられていた。
「いらっしゃいませ!」
結衣の喉から、喜びが溢れ出すような声が飛び出た。
「お待ちしておりました! どうぞ、中へお入りください!」
「ごめんください! あの通信を読んでね、主人が『俺もそのジュウジュウってやつが見たい』って言い出して……三人で来ちゃいました」
「ありがとうございます! 一番奥のテーブル席へどうぞ!」
だが、奇跡はそれだけでは終わらなかった。
最初の一家族が席に着くか着かないかのうちに、路地の向こうから、次々と足音が近づいてきたのだ。
「お父さん、早く! もう暖簾が出てるわよ!」
「ママ、僕、お船の旗のハンバーグ食べる!」
「お祖父ちゃんも一緒においでよ、ここは昔から源さんの洋食が一番美味いんだから!」
ガラガラガラッ!
ガラガラガラッ!
途切れることなく開け放たれる硝子戸。
入ってきたのは、手をつないだ若い夫婦、ワンピースを着飾った幼い姉妹、孫を連れた初老の夫婦……。
そのすべての家族の手やポケットに、生成りの紙に黒いガリ版刷りの文字が躍る『キリシマ通信』が握りしめられていた。
瞬く間だった。
先週の日曜日、あれほど空っぽのまま冷え切っていた客席二十一席が、開店からわずか十分で、満席の熱狂に包まれたのだ。
店内には、子供たちの黄色い笑い声と、お父さんたちのビールを注文する野太い声、そしてお母さんたちの弾んだお喋りが満ちあふれ、まるで春の陽光が一瞬にして降り注いだかのように、明るい生命力で満たされていく。
「……おい、結衣」
厨房の奥で、源三が掠れた声で呼んだ。
老職人の喉仏が、激しく上下している。
「注文は……なんだ」
結衣は伝票を握りしめ、カウンター越しに満面の笑顔で叫んだ。
「子供たち全員から、指名が入りました! 『特製お子様洋食プレート』、一気に八丁です!! お父さんたちからは、極上煮込みハンバーグと生ビールが六丁入りました!!」
「――へいッ!! 腕によりをかけて、焼いてやろうじゃねえかァッ!!」
源三の魂の咆哮が、厨房に木霊した。
カチリ、ボッ! ボッ! ボッ!
三台のコンロの炎が、一斉に青い咆哮を上げて噴き上がった。
戦いが始まった。
だが、それは苦しい防衛戦などではない。
待っていてくれた人々のために、持てる技のすべてを解き放つ、歓喜の祝祭だった。
◆
コンロの強火の直火の上に、本田鉄工所の十六ミリ極厚「黒鉄の皿」が、六枚同時に並べられた。
ボオオオオッ!
吹き上がる炎に炙られ、青黒い鋼鉄の肌が熱を呑み込んでいく。
隣の巨大な鉄フライパンでは、八個のパティがジュワアアアッ!と激しい音を立てて表面を焼き固められていた。
ラードの香ばしい匂いと、車麩が肉汁をガッチリとロックしたままふっくらと膨らんでいく肉の甘美なアロマ。
さらに隣の中華鍋では、羽釜からよそわれた炊きたての白飯が、自家製ケチャップとウスターソースの焦がしダレをまとって宙を舞っていた。
パラリと炒め上がったチキンライスが、小さな円錐形の型で抜かれ、白磁のオーバル皿の左半分へと盛り付けられる。
その頂点に――源三の手によって、あの手作りの『キリシマの航海旗』が、誇らしげにピシリと突き刺された。
「黒鉄の皿、達温しました!」
結衣が水滴を落として確認する。二百五十度。
源三がトングを握り、フライパンから引き上げた熱々のハンバーグを、白熱する黒鉄の皿の中央へと滑り込ませた。
ジューーーーーッッッ!!
やっとこで鉄板の両耳を挟み、樫の木の敷板へとカチリとセットする。
「運べ、結衣ッ! 舞台の始まりだ!」
「はいっ!!」
結衣は両手で熱々の敷板を抱え、最初に入店してきた三人家族のテーブルへと運んだ。
テーブルの上には、男の子のための『旗の立ったチキンライスと琥珀ポタージュ』のプレートがすでに置かれている。
そこへ、ジュウジュウと身悶える黒鉄の皿が、ドスンと置かれた。
「わあ……! パパ、見て! お肉がフライパンのまんま乗っかってるよ!」
男の子の目が、皿のように見開かれる。
「皆さん、ナプキンをお持ちくださいね!」
結衣は笑顔で声をかけると、手にした真鍮の小鍋を傾けた。
沸き立つ漆黒の秘伝デミグラスソースが、白熱する黒鉄の皿、そしてふっくらと膨らんだハンバーグの頂点から、一気に回しかけられた!
――その瞬間。
ドバシャアアアアアアアッッッ!!
「うわあああああああああっ!?」
男の子が椅子の上で飛び跳ねるように叫んだ。
客席全体を呑み込んだのは、凄まじい「蒸気と煙のスペクタクル」だった。
バチバチバチバチッ! ジュワワワワワワワワッ!
二百五十度の黒鉄の上で、デミグラスソースが一瞬にして沸騰し、大きな泡を立てて弾け飛ぶ。
耳を劈くような激しい重低音のジュウジュウ音。
そして――立ち上った純白の濃密な煙が、天井の照明をかすませ、焦がしバターと赤ワイン、そして牛肉の焼ける暴力的なまでの芳香となって、店内の隅々へと吹き荒れた。
「す、すごい……! パパ、すごいよ! 火山の噴火だ!」
男の子が両手を叩いて歓声を上げる。
母親も父親も、ナプキンを胸に当てたまま、目を見張ってその光景に釘付けになっていた。
「まあ……! なんていい匂いなの……!」
「おいおい、すごい迫力だな! こんなの、銀座の高級ステーキ屋でも見たことないぞ!」
結衣が銀のフォークを手渡し、微笑みかけた。
「坊や、フォークでハンバーグの真ん中を、スーッと割ってみて」
「うん!」
男の子は唾を飲み込み、フォークの先を分厚いハンバーグへと突き立てた。
プシュッ!!
その瞬間――。
割れ目から、黄金色に透き通った熱々の肉汁が、まるで泉のようにドバドバと溢れ出し、鉄板の上の沸騰するデミグラスソースの中へと雪崩れ込んでいった。
「わあっ……! 肉汁だ! スープが溢れてきたよ!」
男の子はフォークで肉の塊をすくい上げ、ハフハフと息を吹きかけながら、大口を開けて頬張った。
モグッ……ジュワアアアッ!
「っ……………………!!」
男の子の小さな身体が、ピンと跳ね上がった。
咀嚼する顎が止まらない。
噛むたびに、極粗挽きの牛肉の粒が弾け、車麩が抱え込んでいた極上のスープが口いっぱいに広がる。
熱い、甘い、香ばしい!
冷食パティのケチャップ味しか知らなかった子供の舌に、本物の肉の命と、本物の職人の出汁の深みが、雷撃のように突き刺さる。
「……おいしいっ!!」
男の子の顔が、満開の向日葵のように破顔した。
「ママ! これ、すっごくおいしいよ!! お口の中で溶けちゃうのに、お肉の味がすっごくするの! ファミレスのより、百倍おいしいよ!!」
男の子はスプーンを持ち替え、旗の立ったチキンライスを山盛りにすくって口へ放り込んだ。
羽釜で炊かれた銀シャリのパラリとした粒立ちと、酸味を飛ばした優しい甘辛さ。
続いて、琥珀ポタージュスープを両手で持ち上げ、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干す。
「ぷはーっ! あま〜い!」
その隣で、同じ黒鉄の皿のハンバーグを口に運んだ父親が、絶句していた。
「……う、うまい……! なんだこの肉の深みは……! デミグラスソースが、鉄板で少し焦げて……香ばしさが段違いだ! ビールにも最高に合うぞ!」
母親もまた、子供の取り皿から一口もらい、両手を頬に当てて息を呑んだ。
「本当……! 脂っこくないのに、こんなに濃厚で……お野菜の甘みがしっかり染み込んでるわ。これなら、子供に安心して食べさせられる……!」
歓声は、一つのテーブルにとどまらなかった。
次々と運ばれていく、黒鉄の皿。
ジュウウウウウッ! という激しい音と煙が上がるたび、客席のあちこちから「おおっ!」「すごい!」と拍手が沸き起こる。
子供たちは目を輝かせ、お船の旗を大切そうにナプキンの上に並べ、無我夢中でスプーンを動かした。
誰一人として、オモチャのことなど口にしなかった。
目の前で炎のように歌い、音を立て、舌の上でとろける本物の料理のエンターテインメントの前に、プラスチックのオマケなど、最初から何の力も持たなかったのだ。
わずか三十分足らず。
子供たちの皿の上からは、ハンバーグも、チキンライスも、スープの一滴すら残さず、綺麗さっぱりと平らげられていた。
「ごちそうさまでしたーっ!」
男の子が空っぽになった皿を両手で掲げ、満面の笑顔で厨房へ向かって叫んだ。
「おじちゃん、おいしかったよ! 僕、また絶対に来るね!」
「…………」
厨房の奥で、フライパンを握ったままの源三が、その姿をじっと見つめていた。
前掛けの端で、老職人は目元を強く拭った。
煙が目に染みたわけではなかった。
五十年間、自分が信じ、守り抜いてきた浅草の洋食の技が、いま、新しい時代の子供たちの心と胃袋を、完全に掴み取ったのだ。
源三はフライパンを置き、客席に向かって深々と頭を下げた。
「……へい、毎度! 残さず食ってくれて、ありがとうよ、坊主!」
その声は、震えていた。
けれど、その顔には、料理人としての人生で最も誇らしく、最も温かい「職人冥利」の笑みが、涙とともに溢れ出していた。
◆
午後二時。
昼の営業を終え、表の引き戸を閉めたキリシマ食堂の店内には、心地よい疲労感と、達成感の熱気が漂っていた。
仕込んでいた三十食の手ごねハンバーグは、最後の一皿まで完全に完売。
売上は、先週の空席の日曜日を遥かに飛び越え、キリシマ食堂の日曜昼の過去最高記録を更新していた。
テーブルの上には、子供たちが大切そうに眺め、そして記念に持ち帰っていった『キリシマの航海旗』の、折れ曲がった爪楊枝の袋だけが、誇らしげに残されていた。
「……勝ったな、結衣」
源三が、冷たい麦茶を一気に飲み干し、ドンとコップを置いた。
「ああ。完勝だ。……あいつらの百二十円のパティなんざ、子供たちの笑顔の前には足元にも及ばなかったぜ」
「はい!」
結衣はエプロンを外し、初秋の柔らかな光が差し込む客席を見渡した。
「プラスチックのおもちゃなんかなくても、子供たちはちゃんと分かってくれました。本物の手作りの温もりと、目の前で命を吹き込む鉄板の迫力を……心で受け止めてくれたんです」
ガラガラ、と勝手口が開き、配達帰りの杉本勇が顔を覗かせた。
「おーい、源の親父、結衣さん! 聞いたぜ! 今日の昼、キリシマの前に長蛇の列ができてたってな! 八百杉の玉ねぎが役に立って、俺も鼻が高いぜ!」
「勇さん!」
結衣が駆け寄ると、勇は照れくさそうに頭を掻きながら、一本のサイダーの瓶を差し出してきた。
「これ、お祝いだ。……あんたたち、本当にすげえよ。商店街の連中もみんな、キリシマの煙と音を見て『俺たちも大手に負けてられねえ』って、息を吹き返してるぜ」
取り戻したのだ。
巨大な外食産業の黒船がもたらした恐怖の影を、手作りの知恵と情熱によって完全に打ち払い、日曜日のかけがえのない賑わいを、この下町の路地裏へと力づくで引き戻した。
だが――結衣の戦いは、まだ終わってはいなかった。
この勝利は、やがてサンライズの開発課長・坂上浩二のプライドを激しく刺激し、さらなる強大な時代の濁流となってキリシマ食堂へと押し寄せてくることになる。
けれど、今の結衣の胸には、一片の迷いもなかった。
守るべき仲間がいる。
信じてくれる街がある。
そして、何よりも強い、手作りの本物の味がある。
下町の女帝・桐島結衣の瞳は、秋の青空のように澄み渡り、次なる時代の挑戦を真っ向から見据えていた。




