第31話:旋盤の火花が削り出す黒鉄(くろがね)の皿
秋の乾いた風が、初音銀座商店街の赤錆びたトタン屋根をガタガタと揺らしていた。
キリシマ食堂の裏口を出て、長屋の狭い路地を駆け抜ける。未舗装の砂利道を蹴立てて急ぐ桐島結衣、大山源三、そして吉村健一の三人の足取りには、先ほどまでの絶望的な重苦しさは微塵もなかった。
目指すのは、路地の突き当たりにそびえ立つ、波打つスレート葺きの高い建屋。
キリシマ食堂の背中合わせに位置する、初音銀座の心臓部――「本田鉄工所」だった。
――ガシャン! ガシャン! ガシャン!
――キィィィィィィン、ギャリギャリギャリッ!
近寄るにつれて、全身の皮膚を震わせるような重厚な機械の地鳴りが鼓膜を叩く。
開け放たれた大扉から吹き出してくるのは、強烈な切削油の青臭い匂いと、真っ赤に熱せられた鉄が削られる際のツンとしたオゾンの臭気。
中では、何十本もの太いベルトが天井のシャフトから吊り下げられて唸りを上げ、大型の旋盤やフライス盤、油圧プレス機が、まるで生き物のように油まみれの金属粉を撒き散らしながら稼働していた。
「本田社長! 本田社長はいらっしゃいますか!?」
結衣が大扉の枠に手をかけ、騒音を突き破るように声を張り上げた。
工場の奥、油煙の立ち込める水銀灯の真下で、灰色の作業着を腕まくりした巨漢の男が、巨大なスパナを握り直して振り返った。
本田鉄工所の社長、本田辰夫だった。
首に巻いたタオルは真っ黒に汚れ、日焼けした赤ら顔には鉄粉が煤のようにへばりついている。
「あァ……? なんだい、結衣ちゃんに源のオヤジじゃねえか。吉村の兄ちゃんまで揃って、昼下がりにぞろぞろと何の用だ? うちは今、来週納期の大型トラックのデフケース(差動装置ケース)の切削で手一杯なんだよ」
「辰夫、頼みがあるんだ!」
源三が前掛けを翻し、油まみれのコンクリート土間へと踏み込んだ。
「お前の工場の腕を……鉄を削る技術を、ウチに貸してほしいんだ!」
「腕を貸せだァ?」
本田は怪訝そうに眉を吊り上げ、スパナを機械の台の上にカチャンと置いた。
結衣は抱えていた大学ノートを開き、寺岡堂から借りてきた大判の方眼紙に鉛筆で描いたばかりの「設計図」を、本田の目の前の作業台の上にバッと広げた。
「本田社長、これを見てください!」
方眼紙の上に描かれていたのは、上から見た楕円形の輪郭と、横から見た断面図。
長さ二十四センチ、幅十六センチ。
中央部には深さ八ミリの窪みがあり、外周にはソースや肉汁が激しく沸騰しても外へ溢れ出さないよう、高さ十五ミリの分厚い縁が立ち上がっている。両端には、やっとこ(専用の鉄製ハンドル)でガッチリと挟み込んで運ぶための、頑丈な持ち手用の「耳」が削り出されていた。
図面の余白には、結衣の几帳面な文字で『板厚・十二ミリ以上 超重量級・蓄熱優先構造』と殴り書きされている。
「……あァ?」
本田は図面を覗き込み、極太の指先で鼻の頭を擦りながら、露骨に顔をしかめた。
「なんだいこりゃあ。……皿か? 楕円形の、鉄の皿……ステーキ皿じゃねえか」
「はい!」
結衣は身を乗り出し、熱っぽく語りかけた。
「キリシマ食堂の新しい看板メニュー……『手ごね極上煮込みハンバーグ』を、お客さんの目の前でジュウジュウと音を立てて仕上げるための、特注の鉄板皿です! 合羽橋の既製品じゃ高すぎて手が出ないんです。本田社長、この皿を、お宅の機械で二十枚……削り出していただけないでしょうか!」
しかし――。
本田の太い眉が、ピクリと不快そうに跳ね上がった。
本田は図面の上に両手を突くと、腕組みをして深く首を横に振った。
「断る」
地を這うような、にべもない拒絶の一言だった。
「なっ……辰夫!?」
源三が声を荒げる。
本田は鋭い眼光で、源三と結衣を睨みつけた。
「源のオヤジ、結衣ちゃん。……買い被ってもらっちゃ困るぜ。うちの工場にある旋盤やフライス盤はな、自動車や建設機械の、コンマ何ミリの狂いも許されねえ精密な鋼鉄部品を削り出すための機械だ。命を乗せて走る車の部品を作ってんだよ。……料理の皿だァ? 飯を乗っけるためのドンガラを削るために、うちの職人の時間と機械を回せるかってんだ! 町工場の技術を、ままごとの道具扱いすんじゃねえよ!」
職人の誇りだった。
日本の高度経済成長を、見えないところで支えているという自負。
いくら近所の馴染みの洋食屋の頼みとはいえ、命がけで削っている工作機械を「食器作り」という畑違いの用途に安売りすることはできないという、親方としての頑固な意地。
「本田社長、決してままごとなんかじゃありません!」
吉村健一が一歩前に出た。
「キリシマ食堂は今、国道沿いにできる巨大チェーンの『サンライズ』に、街の胃袋を丸ごと奪われかけているんです! この鉄板皿がなければ、下町の洋食屋が巨大資本に淘汰されてしまうんです!」
「だからって、うちが畑違いの皿屋になれるわけがねえだろうが!」
本田が一喝した。
張り詰める空気。
機械油の匂いの中で、三人が言葉を失いかけた――まさにその瞬間だった。
「――社長ッ!!」
工場の最奥、火花が激しく散っていた大型旋盤の影から、甲高い叫び声が響いた。
油まみれのウエスを放り投げ、転げるようにして駆け寄ってきた人影。
秋田出身の若い旋盤工――水野誠二だった。
作業帽を脱ぎ捨て、額に黒い鉄粉を擦り付けた誠二は、息を激しく切らしながら本田の前に滑り込むと、コンクリートの床の上に両膝を突いた。
「せ、誠二……? 何やってんだ、お前」
本田が目を丸くする。
誠二は作業着の胸元を握りしめ、顔を跳ね上げた。
その瞳には、かつて工場を飛び出して泣いていた時の怯えは微塵もなかった。
燃えるような、必死の覚悟の光が宿っていた。
「社長……! 俺に……俺にやらせてください!!」
誠二の喉から、魂を絞り出すような声が放たれた。
「お前が……この皿を削るだと!?」
「はい!!」
誠二は床に両手をつき、本田に向かって深々と額を擦り付けた。
「俺の……定時あがりの後の時間を使って構いません! 飯を食う時間を削っても、夜中まで残業しても構いません! 電気代も、旋盤の刃の損料も、俺の今月の給料から天引きしてください! だから……俺に、この鉄板皿を削らせてください!!」
「誠二君……!」
結衣の胸が、激しく締め付けられた。
本田が太い眉を吊り上げ、ドスを利かせた声で問い詰める。
「……おい、誠二。てめえ、何のためにそこまでするんだ。自分の手当てにもならねえ余計な仕事を背負い込んで、何になるってんだ」
「恩返しです!!」
誠二は顔を上げた。
その目から、大粒の涙が溢れ出していた。
「先週……俺が大事な超硬バイトを折って、逃げ出して、死にそうになってた時……。結衣さんと源さんは、俺を怒鳴りもせず、温かい飯を食わせてくれました……っ! 秋田の味噌の味がする、あの分厚いポークジンジャーを食わせてくれて……『食べないと戦えないよ』って、優しく背中を押してくれました……!」
誠二の拳が、油まみれの床をドンと叩いた。
「あの飯がなかったら……俺は、今頃東京を逃げ出して、野垂れ死んでました! 俺の命を救ってくれたのは、キリシマ食堂なんです! そのキリシマ食堂が困ってるのに……俺の持ってるこの手と、工場の機械を使って恩返しができねえなら、俺は何のために旋盤の前に立ってんだか分からねえです!!」
少年の魂の叫び。
機械の轟音が鳴り響く作業場の中で、誠二の言葉だけが、真っ直ぐに本田の胸板を貫いていた。
「…………」
本田辰夫は、腕組みをしたまま、動かなかった。
厳しい親方の眼光。
だが、その喉仏が、ゴクリと一度、大きく上下したのを結衣は見逃さなかった。
本田は首のタオルを引き抜き、乱暴に自分の顔の汗を拭った。
そして――ふっと、肩の力を抜いた。
「……へっ」
本田の口元が、豪快に歪んだ。
「小僧が生意気な口ききやがって。……自分の給料から引けだァ? 旋盤工が一端の職人気取りで、親方に指図するなんざ、十年早えんだよ」
「社長……」
誠二が息を呑む。
本田は足先で、方眼紙の図面をトントンと指差した。
「……おい、誠二。この図面をよく見てみろ。外周の楕円形は旋盤のチャックで偏心させて回すか、フライスで倣い加工しなきゃ削れねえぞ。深さ八ミリの窪みも、エンドミルで均一に掘り下げなきゃ底が歪む。……てめえみてえな半人前の腕で、図面通りの寸法が出せると思ってんのか」
「え……?」
本田はニヤリと笑い、誠二の後頭部を手のひらでパシンとはたいた。
「俺が横について手取り足取り叩き込んでやるって言ってんだよ、バカ野郎!!」
「しゃ、社長……!!」
「職人がな、受けた恩を技術で返すって言ってんのを、親方が止められるわけがねえだろうが! キリシマの飯にはな、俺だって毎日のように胃袋を助けられてんだ! サンライズの成金野郎に下町の店が潰されてたまるか!」
本田は作業場の奥に向かって、雷鳴のような大声を張り上げた。
「おい、誠二! 裏の資材置き場の奥へ行け! 先月、自動車のシャーシフレームの試作で切り落とした、あの『十六ミリの極厚黒皮鉄板』の端材を、フォークリフトで全部引っ張り出してこい!!」
「はいッ!! ただいまッ!!」
誠二は涙を腕で拭うと、弾かれたように工場の奥へと駆け出していった。
◆
午後五時。
工場の定時を告げるサイレンが鳴り響き、他の工員たちが「お疲れさんでした!」と三々五々引き揚げていく中、本田鉄工所の第二作業場には、再び猛烈な火花と切削音が満ちていた。
作業場の中央に運び込まれたのは、厚さ十六ミリ、幅三十センチ、長さ一メートルを超える、分厚い鋼鉄の板材が五本。
表面には、製鉄所で圧延された際に生じる、青黒く鈍い光沢を放つ「黒皮」と呼ばれる強靭な酸化被膜がびっしりと覆っていた。
手で持ち上げようとしても、一枚で数十キロ。持ち上がらないほどの圧倒的な重量感。
「見ろよ、結衣ちゃん」
本田が鉄板を足先で叩いた。
ドスン、と骨に響くような重低音が返ってくる。
「これが、本物の高張力圧延鋼板だ。合羽橋で売ってるような、鉄を溶かして型に流し込んだだけのスが入った『鋳物』とは密度の桁が違う。分子の隙間がねえくらいギュウギュウに圧縮されてんだ。一度熱を食わせたらな、火から下ろしたって三十分は冷めやしねえぞ」
「すごい……! これこそ、私が求めていた理想の黒鉄です!」
結衣の瞳が輝いた。
「よし、誠二! まずはガス切断だ! 図面の寸法通りに外形を荒割りするぞ!」
「はい!」
誠二が保護メガネを装着し、酸素アセチレンバーナーに火をつけた。
ボッ! という鋭い破裂音とともに、青白く尖った高熱の炎が噴き上がる。
鉄板の端に炎を当てると、鋼鉄が瞬く間にオレンジ色から白熱色へと変わり、融解を始める。
バシュウウウウウッ――!!
酸素のレバーを握り込んだ瞬間、けたたましい轟音とともに、目も眩むような火花の滝が床へと叩きつけられた。
誠二の腕は、微動だにしなかった。
引かれたチョークの線に沿って、一定の速度でバーナーの切っ先を滑らせていく。
十六ミリもの鋼鉄が、まるで熱したナイフで切るバターのように、真っ赤なドロスを吐き出しながら正確な楕円形のブロックへと切り落とされていく。
切り出された二十枚の鉄の塊。
それだけで、作業場の室温が一気に五度跳ね上がるほどの猛烈な熱気を放っていた。
「次はフライス盤だ! 窪みを削り出すぞ!」
本田が大型の縦型フライス盤の主軸を回した。
グオオオオオオオオオン――!
高速回転する超硬エンドミル(回転刃)。
誠二が万力に鉄板を固定し、切削油のノズルを開く。白濁した冷却油がドバドバと注ぎ込まれる中、ハンドルを両手で握り、コンマ一ミリ単位で刃を鋼鉄へと送り込んでいく。
ギャリギャリギャリギャリッ――!!
耳を劈くような激しい金属の悲鳴。
青紫色のカールした鉄屑が、焼けるような熱を帯びて雨のように飛び散る。
誠二の額から、大粒の汗がボタボタと鉄板の上に滴り落ち、切削油と混ざり合って蒸発していく。
「ビビるな、誠二! 送り速度を緩めるな! 刃先の熱を油で奪いながら、一気に押し切れ!」
「うおおおおおおおおっ!!」
誠二が叫びながらハンドルを回す。
平らだった鋼鉄の板の中央が、深さ八ミリの滑らかな楕円形の窪みへと彫り抜かれていく。
外周には、ソースが跳ねても絶対に外へ逃げないよう、計算し尽くされた角度で立ち上がる重厚な土手。
両端には、やっとこがガッチリと食い込むための、厚さ十ミリの頑丈な持ち手用の「耳」。
一枚、また一枚。
夜が更けていく中、誠二と本田の二人は、油煙と火花にまみれながら、無心で鉄を削り続けた。
結衣と源三、そして吉村は、固唾を呑んでその光景を見守っていた。
工場の壁に掛けられた時計の針が、夜の九時、十時、十一時を回っていく。
誠二の二の腕の筋肉は疲労で小刻みに痙攣し、作業着は汗と油で肌に張り付いていた。
けれど、その瞳の光だけは、一枚削り終えるごとに、鋭く、誇らしげに輝きを増していった。
ただの工員ではない。
自分の削った道具が、愛する人々の城を守る武器になるのだという、本物の「職人の魂」が、少年の全身に宿っていた。
◆
深夜零時。
最後の二十枚目の切削が完了した。
機械の回転が止まり、作業場に静寂が戻る。
作業台の上には、削り立ての銀色に光る二十枚の楕円形の鉄板皿が、整然と積み上げられていた。
だが――これで終わりではなかった。
「……仕上げだ」
本田社長が、腕組みをして低く言った。
「このままじゃあ、切削油を吸っちまってるし、鉄の生肌のままだからすぐに赤錆が出ちまう。……洋食の油を吸い込ませて、一生モノの『黒鉄の皮膚』を作ってやる」
「油焼き(シーズニング)ですね」
結衣が頷いた。
本田は大型のプロパンバーナーを手に取ると、二十枚の鉄板皿を、一本ずつ真っ赤になるまで強火で炙り始めた。
ボオオオオオッ!
青い炎に包まれた鉄板が、銀色から黒へ、そして五百度を超えた瞬間、幻想的な「白熱の玉虫色」へと変色していく。
鋼鉄の組織の中に残っていた油分や不純物が、完全に焼き切られて白い煙となって蒸発する。
そこへ――源三が、キリシマ食堂の厨房から持参した、自家製の「純豚ラード」の塊を差し出した。
「辰夫、これを使え! 俺が毎日仕込んでる、一番上等のラードだ!」
「おう、最高だぜ!」
本田がトングでラードの塊を掴み、白熱する鉄板の表面へと力任せに塗りたくった。
ジューーーーーーーーッッッ!!
猛烈な煙が立ち上った。
動物性の脂が鋼鉄の微細なピンホールへと吸い込まれ、高熱によって重合し、漆黒のツヤツヤとした天然の油膜コーティング――「重合酸化被膜」が形成されていく。
粗熱が取れた鉄板を、誠二がタワシと熱湯で擦り洗いし、再び空焼きして油を馴染ませる。
その作業を、三回。
完成した鉄板皿の肌は――。
もはや、ただの鉄の塊ではなかった。
まるで、名刀の刃先のように青黒く、濡れた黒漆のように妖しく光を跳ね返す、完璧なる「黒鉄の皿」へと生まれ変わっていたのだ。
「できたぞ……!」
本田が、軍手をはめた両手で、最後の一枚を掲げた。
ずっしりとした、重厚な質量。
重さ、一枚あたり約一・八キロ。合羽橋の鋳物皿の三倍近い重み。
だが、その重みこそが、熱を蓄え、冷めない魔法を生み出す絶対の証拠だった。
誠二が、肩で息をしながら、結衣の前にその鉄板皿を両手で差し出した。
「結衣さん……! 削り出しました……! 寸法も、溝の深さも、図面通り……コンマ二ミリの狂いもねえです!」
「誠二君……」
結衣は両手で、その熱の残る黒鉄の皿を受け取った。
ずしり、と両腕に食い込む重み。
表面を指先で撫でると、機械で削られた微細なツールマーク(削り目)が、職人の手の温もりとなって伝わってくる。
「素晴らしいわ……! こんなに美しい鉄板皿、世界中どこを探したって絶対に手に入らない!」
結衣の瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
「本田社長、誠二君……本当に、本当にありがとう……!」
「へっ、まだ礼を言うのは早えぜ」
作業場の入り口から、カタカタと木製の荷車を引く音が響いた。
入ってきたのは、向かいの建具屋の木工所の親父だった。
「結衣ちゃん! 寺岡の若旦那から頼まれたブツ、夜なべして仕上げてきたぞ!」
荷車から降ろされたのは、二十枚の分厚い「木製の敷板」だった。
建築用の高級柱材として使われる、極厚の「樫の木」の端材。
中央には、誠二が削った鉄板皿の底面がカチリと寸分の狂いもなく沈み込むよう、深さ一センチの座ぐり加工が施されている。
底面には空気の断熱層を作るための溝が掘られ、テーブルの木を焦がさない設計。
両脇には、ウェイトレスが指を引っ掛けて安全に運べるよう、絶妙なカーブの持ち手溝が削り込まれていた。
「廃材だからタダでいいよ! キリシマ食堂が勝つためなら、木工所だってひと肌脱ぐに決まってんだろ!」
木工所の親父が豪快に笑う。
黒鉄の皿と、樫の木の敷板。
下町の町工場の魂と技術が結集して誕生した、最強の武器――『初音銀座モデル特注鉄板皿』が、いま、完全に揃い踏みした瞬間だった。
◆
深夜二時。
キリシマ食堂の厨房。
正面の硝子戸には内側から鍵がかけられていたが、店内の換気扇はフル回転し、客席のテーブルには、本田社長、誠二、吉村健一、そして寺岡雅之が固唾を呑んで並んで座っていた。
「……火を入れるぞ」
大山源三が、前掛けを締め直し、コンロの強火のレバーを限界まで捻った。
ボオオオオオッ!
吹き上がる青い業火。
その炎の真上に、完成したばかりの黒鉄の皿が置かれた。
一分、二分、三分――。
十六ミリの極厚鋼鉄が、炎の熱を貪欲に胃袋へと飲み込んでいく。
鉄肌が微かに熱膨張し、黒漆の油膜がキラリと光を放つ。
源三が水滴を一滴、鉄板の表面に落とした。
ジュッ――パァン!
水滴が一瞬にして水蒸気爆発を起こし、玉となって宙を舞って消え去った。
二百五十度。
限界まで熱を蓄え込んだ、黒鉄の咆哮の準備が整った。
「パティを乗せるぞ!」
源三が、仕込み小鍋の中でデミグラスソースとともに煮込まれていた、あの車麩入りの極厚手ごねハンバーグを、大きなトングでガッチリと挟み上げた。
そして――白熱する黒鉄の皿の中央へと、一気に鎮座させた!
ジューーーーーーーーーーッッッ!!
耳を劈くような激しい焼き音が、厨房を揺るがした。
パティの底面が鉄板に触れた瞬間、肉の表面の糖分とアミノ酸が一瞬にしてキャラメリゼされ、濃密な白い煙が立ち上る。
源三は素早くやっとこで鉄板皿の両耳を挟み上げ、樫の木の敷板へとカチリと嵌め込んだ。
「運べ、結衣ッ!」
「はいっ!!」
結衣は両手で厚手の敷板を抱え、客席の中央のテーブルへと運んだ。
ドスン!
テーブルの上に置かれた瞬間、本田社長と誠二が、思わず身を乗り出した。
「お、おおっ……!」
鉄板の上で、ハンバーグがチリチリと音を立てて身悶えしている。
だが、本番はここからだった。
「皆さん、ペーパーナプキンを胸元まで広げてください!」
結衣の凛とした声。
四人が慌ててナプキンの端を持ち上げ、胸元をガードする。
結衣の右手には、小さな真鍮の手鍋。
中には、一週間煮込まれた、熱々の漆黒のデミグラスソース。
「いきます……!」
結衣は手鍋を傾け、白熱する黒鉄の皿の上、ハンバーグの頂点から、ソースを一気に回しかけた!
――その瞬間だった。
ドバシャアアアアアアアアアッッッ!!
「うわああああああああっ!?」
誠二が叫び声を上げてのけぞった。
客席を満たしたのは、湯気などという生易しいものではなかった。
それは――まるで火山の噴火口から噴き出したかのような、圧倒的な「蒸気と煙の白銀の嵐」だった!
ジュワワワワワワワワワッ! バチバチバチバチッ!
二百五十度の黒鉄の上で、デミグラスソースが爆発するように沸騰し、大きな泡を立てて激しく弾け飛ぶ。
耳の奥をくすぐる、重低音のオーケストラのような激しいジュウジュウ音。
そして――立ち上った濃密な煙が、客席の男たちの顔面を直撃した。
焦がしバターの濃厚な芳香。
赤ワインが熱せられて放つ、気品ある酸味と甘やかなアルコールの香り。
ローストされた牛骨の深い苦味。
そして、鉄板の上で焼かれた牛肉と豚肉の脂が、香ばしいカラメルとなって放つ、暴力的なまでの肉の匂い!
「な……なんだこれぇぇぇっ!?」
本田社長が、目を見開き、鼻の穴を全開にして叫んだ。
「すげえ……! 匂いで……匂いだけで、頭がおかしくなりそうだぞ!!」
煙が、ゆっくりと晴れていく。
現れたのは――息を呑むようなスペクタクルだった。
黒光りする鉄板の上で、漆黒のデミグラスソースがグツグツと沸騰し、ハンバーグの足元を煮えたぎるマグマのように包み込んでいる。
十六ミリの極厚鉄板が放つ強烈な蓄熱性により、冷たいソースをかけた後でも、温度が一ミリも下がっていないのだ。
ジュウジュウという激しい音は、消えるどころか、むしろ勢いを増して店内に響き渡り続けている。
添えられた八百杉のインゲンとグラッセ人参が、ソースの海の中で色鮮やかに踊る。
「……誠二君」
結衣が、銀のナイフとフォークを誠二に手渡した。
「あなたが削ってくれた、あなたの皿です。……一番最初に、ナイフを入れてください」
「お、俺が……?」
誠二は震える手でナイフとフォークを握りしめた。
唾をゴクリと飲み込む。
湯気をもうもうと噴き上げるハンバーグの中央に、ナイフの刃先をそっと当てた。
スーッ。
前歯もいらないほどの柔らかな感触。
そして――左右に開いた、その刹那。
プシュウウウウッ!!
「っ…………!?」
割れ目から上がったのは、蒸気の悲鳴だった。
断面から――まるで水門を決壊させたかのように、黄金色の熱々の肉汁が、ドバドバと、津波のように溢れ出してきたのだ。
溢れ出た肉汁が、鉄板の上の沸騰するデミグラスソースと合流する。
ジュワアアアッ! と音の音程が一オクターブ跳ね上がり、肉汁とソースが混ざり合って、鉄板の上で琥珀色の濃厚な泡となって弾け飛ぶ。
断面を見つめた本田社長が、椅子から転げ落ちそうになりながら叫んだ。
「肉汁が……肉汁が止まらねえぞおい!! なんだこのハンバーグは!? スープが入ってんのか!?」
「誠二君、食べて!」
結衣が促す。
誠二はフォークで、熱々のソースと肉汁をたっぷりと絡めた一口をすくい上げた。
ハフハフと息を吹きかけ、口の中へ放り込んだ。
ハフッ……ジュワアアアッ!
「っ……………………!!」
誠二の全身が、電流に打たれたように跳ね上がった。
目を見開き、咀嚼する顎が止まらない。
噛むたびに、粗挽きの牛肉の粒がプチプチと弾け、車麩が抱え込んでいた極上の肉汁スープが、口いっぱいに洪水のように広がっていく。
熱い。
舌が火傷しそうなほど熱いのに、美味さが脳天を突き抜けて、箸もフォークも止まらない。
鉄板で焦がされたデミグラスソースの香ばしい苦味が、肉の甘みを何倍にも引き立て、喉の奥へと滑り落ちていく。
「んんんんんっ……!!」
誠二の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「んまい……っ! 社長、んめええええええです!! 肉が……肉が溶けて消えちまうのに、噛むほどに旨味が溢れて止まらねえです!!」
「俺にも食わせろォッ!!」
本田社長がフォークを奪い取るようにして肉の塊を口へ放り込んだ。
「っ……う、うめえええええええええええっ!!」
本田がテーブルを力任せにドンと叩いた。
「なんだこれぇぇぇっ! 熱い! ずっと熱いぞ!! 皿の熱が全然逃げねえから、最後の一口まで出来立ての狂暴な美味さが続くじゃねえか!! おい源のオヤジ、お前、本当にこんなバケモノみてえな料理を作りやがったのかよ!!」
「がはははは!」
厨房の入り口で腕組みをしていた源三が、腹の底から大笑いした。
「辰夫! お前たちのおかげだ! お前たち町工場が削ってくれたこの鉄板皿がなけりゃあ、この味は絶対に完成しなかったんだよ!!」
吉村健一も、寺岡雅之も、夢中でフォークを動かしていた。
「素晴らしい……! 音、煙、香り、そしてこの持続する熱量……! こんな体験、銀座の最高級ステーキハウスでも味わえませんよ!」
「これなら勝てる……! サンライズの冷食パティなど、この熱風の前に跡形もなく吹き飛ぶ!」
男たちの歓声と絶賛が、深夜の客席を満たしていく。
鉄板皿の上では、最初の一滴から五分が経過してもなお、チリチリと心地よい音が鳴り続け、デミグラスソースの香ばしい湯気を立ち上らせていた。
「これだわ……」
結衣は両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、沸き立つ鉄板を見つめた。
五感を揺さぶるジュウジュウの魔法。
町工場の技術と、洋食屋の職人技が、一本の線で完全に結ばれた瞬間。
これこそが、大資本のベルトコンベアには逆立ちしても真似できない、初音銀座商店街というコミュニティだからこそ生み出せた「奇跡の武器」だった。
「本田社長、誠二君」
結衣は深く頭を下げた。
「この鉄板皿、名前をつけさせてください。……『初音銀座モデル・黒鉄の鉄板』です!」
「へっ、上等じゃねえか!」
本田が鼻を鳴らし、誠二の肩を力強く抱き寄せた。
「初音銀座の町工場の誇りを乗っけた鉄板だ! おい源のオヤジ、結衣ちゃん! この鉄板で、あの国道沿いの成金ファミレスの鼻っ柱を、叩き折ってやれェッ!!」
「おおおおおおおおっ!!」
深夜のキリシマ食堂に響き渡る、魂の雄叫び。
鉄を削る火花から生まれた黒鉄の皿が、いま、巨大チェーン「サンライズ」への大反撃の狼煙となって、下町の闇を紅蓮に照らし出していた。




