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第26話:冷徹なるスーツの男、買収の宣告

正午のけたたましい喧騒が嘘のように引き、初音銀座商店街には、午後二時を過ぎた頃特有の、油膜の張ったような重苦しい静寂が淀んでいた。

八月の盛り。頭上の太陽は容赦なく照りつけ、赤錆びたトタン屋根の隙間から熱せられた波板のきしむ音が、ピキ、ピキと小さく路地に響いている。打ち水など焼石に水で、ドブ板の隙間からは生温かいヘドロと鉄錆の匂いが混ざり合い、逃げ場のない湿気となって路地裏に立ちこめていた。

キリシマ食堂の客席では、昼の営業を終えた大山源三が、調理服の胸元をはだけ、古びた扇風機の首振りに向かって腕組みをしたまま微動だにしていなかった。

その眉間には、深い、深い苦渋の溝が刻まれている。

午前中、吉村健一が持ち込んできた新聞記事。そして、車で視察してきたあの国道沿いの光景――「ファミリーレストラン・サンライズ」の純白の巨躯と、百二十円のハンバーグの文字が、老職人の網膜に焼き付いて離れないのだ。

「……おい、結衣」

源三が、低くだみ声で呼んだ。

「はい、源さん」

テーブルの上で、夕方の仕込みメモを挟んだ大学ノートを整理していた桐島結衣が顔を上げる。

「……百二十円のハンバーグなんざ、本当に人間が食える代物なのかよ。……牛と豚の挽き肉を合わせて、玉ねぎを炒めて、パン粉と卵を繋いで……どう計算したって、一皿百二十円で出しゃ、肉代だけで赤字だ。……あいつら、何を練り込んでやがるんだ。まさか、オガクズでも混ぜて増量してんじゃねえだろうな」

源三の言葉は、昭和の個人商店主が抱く、巨大資本に対する典型的な猜疑心だった。

だが、結衣は首を静かに横に振った。

「オガクズなんて混ぜていません。……本物の、立派な牛肉と豚肉です」

「じゃあ、なんでそんな値段で出せるってんだ!」

「オーストラリアの広大な牧場から、何万頭もの牛を丸ごと一頭買いし、何百トンという単位で冷凍船を使って運んでいるからです。船一隻、コンテナ数百個のスケールで調達すれば、一キロあたりの輸送費も仕入れ値も、街の肉屋さんが仕入れる価格の三分の一以下に圧縮できます。……これを『規模の経済(スケールメリット)』と呼びます」

「すけーる……」

「それに、彼らが作っているのは、ただの料理じゃありません」

結衣は窓の外、国道の方角を憂いを含んだ眼差しで見つめた。

「工場で徹底的に規格化された『工業製品』なんです。機械が自動で玉ねぎを微塵切りにし、巨大なミキサーが肉を練り、ベルトコンベアの上で一時間に何万個ものハンバーグが狂いなく同じ重さ、同じ形で成形されて、冷凍されていく。……職人の勘も、包丁の技も、そこには必要ありません。だからこそ、人件費も食材ロスも極限まで削ぎ落として、あの狂気のような安さを実現できるんです」

「…………」

源三は奥歯をギリと噛み締め、膝の上の拳を震わせた。

反論したかった。そんなものは料理ではないと、職人の魂を侮辱するなと怒鳴り散らしたかった。

だが、結衣の口から語られるロジックは、あまりにも冷徹で、あまりにも整然としていて、老職人の胸に重い鉛のように沈み込んでいく。


その時だった。


――カツ、カツ、カツ。


初音銀座の未舗装の砂利道には、絶対にそぐわない乾いた硬質な靴音が、静まり返った路地裏に響き渡った。

下町の人間が履くゴム長靴でも、工員の安全靴でも、商社の吉村が引きずっていた擦り切れた革靴でもない。

手入れの行き届いた、最高級のイタリア製カーフスキンの靴底が、砂利を踏みしめる冷ややかな足音。

足音は、キリシマ食堂の正面引き戸の真ん前で、ピタリと止まった。


スッ――。

音もなく、引き戸が水平に滑るように開かれた。

まだ『準備中』の木札が掲げられている時間帯だ。

「……すまないが、もう昼の暖簾は仕舞った後かな」

店内に滑り込んできたのは、低く、驚くほど澄み渡った、金属のような響きを持つバリトンの声だった。


結衣と源三の視線が、入り口へと吸い寄せられた。

そこに立っていた男の姿を目にした瞬間、結衣の心臓が、トクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。


年齢は四十四、五といったところか。

この猛暑の最中だというのに、汗一つ滲ませていないその体躯は、仕立ての良いチャコールグレーのモヘア混紡スーツに完璧に包まれていた。仕立ての良さは一目で分かる。銀座の並木通りにある一流のテーラーで誂えたであろうそのスーツには、一筋のシワすら存在しない。

襟元には、落ち着いた濃紺のシルクタイが寸分の狂いもなくディンプルを作って結ばれ、胸ポケットには純白のリネンのチーフが覗いている。

短く整えられた黒髪にはポマードの艶。

そして――何よりも結衣を気圧したのは、その「眼」だった。

細身のシルバーフレームの眼鏡の奥にある細い瞳。

知性と冷徹さ、そしてあらゆる感情を計算式へと還元してしまうような絶対的な客観性を宿したその眼差しは、昭和の下町のどんな荒くれ男たちとも違う、巨大な組織の頂点に立つエリートビジネスマン特有の「捕食者の光」を放っていた。


「……表の札が見えねえのか」

源三が、警戒心を剥き出しにして低く唸った。

「準備中だ。昼の飯時はとっくに終わった。食いたいなら、夕方五時半に出直してきな」

無骨な門前払い。

だが、男は眉一つ動かさず、薄い唇の端をわずかに持ち上げた。

「看板は拝見した。勝手を言っているのは承知の上だ。……だが、どうしても、ここのオムライスを一度口にしておきたくてね。大山源三さん」

「……なに?」

源三の目が細められた。初対面の男が、なぜ自分の名前を知っているのか。

男は店内へ一歩足を踏み入れ、客席を見渡した。

油煙の拭い去られた清潔な三和土、チリ一つないテーブル、壁に掲げられた結衣の手書きの短冊メニュー。

男の視線が、カウンターの上の『Zの法則』を用いた黒板POPと、厨房のコンロ下に整然と並べられた平皿の配置に触れた瞬間、眼鏡の奥の光がわずかに揺れた。

「……なるほど。噂通りの、実に見事な機能美だ。大衆食堂の皮を被ってはいるが、隅々まで『計算』が行き届いている」

男はカウンターの端の席へと静かに歩み寄り、椅子を引くこともなく、立ったまま結衣へと視線を向けた。

「桐島結衣さん、だったかな。……手間は取らせない。正規の料金に、時間外の手間賃として倍額を払ってもいい。……あの『特製・開花オムライス』を一皿、作っていただけないだろうか」


結衣は息を呑んだ。

男は、自分の名前まで正確に把握していた。

単なる通りすがりの客ではない。この店を、そして自分たちのことを完全に調べ上げた上で、明確な意図を持って踏み込んできたのだ。

「……源さん」

結衣が厨房を振り返ると、源三は煙草の火を灰皿に押し潰し、ゆっくりと立ち上がった。

「倍額なんざ、いらねえよ」

源三は前掛けの紐を力任せに締め直した。

「ウチは定価商売だ。二百三十円……一銭たりとも多くも少なくも受け取らねえ。……座りな、背広の旦那。浅草仕込みの洋食がどんなもんか、テメエの舌に教えてやるよ」

職人の意地が、相手の異様なオーラに反応していた。

男は静かに会釈をし、丸椅子へと腰を下ろした。


◆


厨房の空気が、一瞬にして極限の戦闘態勢へと切り替わった。

カチリ、ボッ!

手前のコンロから、青い鋭いガス火が噴き上がる。

源三の動きには、一切の迷いがなかった。

中華鍋を熱し、ラードを落とし、角切りの若鶏モモ肉と八百杉の飴色玉ねぎを一気に炒める。

ケチャップとウスターソースが鍋肌でジュッと焦げ、甘酸っぱい湯気が立ち上る。羽釜の白飯が投入され、平杓子と鍋振りの連動によって、一粒一粒が真紅にコーティングされていく。

所要時間、一分。

コンロの下段から左手で平皿を引き上げ、チキンライスを美しい紡錘形に盛り付ける。

続いて、銅製のフライパン。

八百杉の最高鮮度卵三個分の溶き卵が、泡立つ黄色い有塩バターの中へ一気に流し込まれた。

ジュワアッ!

左手で鍋を前後に小刻みに揺すり、右手の菜箸を電光石火の速さで回転させる。

トントン、トントン、トントン!

柄の根元を拳で叩くたび、半熟卵が生き物のように回転し、表面に極薄の皮膜を形成していく。

ぽすん。

チキンライスの赤い丘の上に、生まれたての赤ん坊の頬のように滑らかなプレーンオムレツが着地した。

源三は休むことなく、右奥の小鍋から熱々の漆黒のデミグラスソースをすくい上げ、黄金の絨毯の上から一気に回しかけた。


「お待ち遠さま」

源三がカウンター越しに、白磁の皿をトンと置いた。

ペティナイフを添えて、結衣が男の前に差し出す。

「……開花、させますか?」

結衣が問うと、男は眼鏡を指先で押し上げ、静かに言った。

「いや、自分でやらせてもらおう」

男はナイフを手に取ると、迷いのない所作で、オムレツの頂点に刃先を当てた。

スーッ。

パカッ!

鮮やかな破裂とともに、白い湯気を噴き上げながら、黄金色のトロトロの半熟卵がチキンライスの斜面をなだれ落ちていく。

漆黒のデミグラスソースと混ざり合い、赤、黄、黒の完璧なコントラストが描かれた。


「…………」

男の瞳が、わずかに細められた。

ナイフを置き、銀のスプーンを手に取る。

半熟卵、デミグラスソース、チキンライス。その三層を寸分の狂いもなくすくい上げ、口の中へと運んだ。


スッと、男の喉仏が動いた。

一秒。二秒。五秒――。

男は咀嚼し、目を閉じ、鼻腔から抜けるアロマを確かめるように静かに息を吐き出した。

その表情からは、美味いとも不味いとも判別のつかない、絶対的な静寂が漂っていた。

やがて、男はスプーンを置いた。

胸ポケットから純白のナプキンを取り出し、唇の端を丁寧に、優雅に拭う。

そして――カウンターの奥の源三へと、視線を真っ直ぐに向けた。


「……素晴らしい」

低く、抑揚のない賛辞だった。

「牛骨と香味野菜を極限までローストし、一週間以上かけて灰汁を取り除きながら煮詰めたクラシカルなフォンドヴォー。赤ワインの酸味と、焦がしカラメルの苦味のバランスが完璧だ。……何より、この卵の火入れ。タンパク質の熱凝固の境界線――六十八度前後を、わずか数秒の鍋振りの技術だけで正確に捉えている。乳化の破綻もない」

男は皿を見下ろし、小さく息を漏らした。

「……正直、驚いたよ。下町の、この埃っぽい路地裏の個人食堂で……銀座の『煉瓦亭』やホテルのメインダイニングに匹敵する、これほど純度の高いクラシック・フレンチの技術に出会えるとは思っていなかった」


「……フン」

源三は鼻を鳴らし、腕組みをした。

「美味いと思ってくれたなら結構だ。だがよ、旦那。テメエ、ただメシを食いに来た客じゃねえな。……何の用だ」

老職人の鋭い眼光。

男は微かに口元を緩めると、仕立ての良いスーツの内ポケットへと手を差し入れた。

取り出されたのは、革張りの名刺入れ。

中から滑り出た純白の上質紙の名刺が、カウンターの天板の上に、滑るようにして置かれた。


そこには、鮮やかな朝日のシンボルマークとともに、力強い活字が刻まれていた。


『株式会社サンライズ 取締役関東開発課長 坂上 浩二』


「……っ!!」

結衣の喉が引き攣った。

坂上浩二。

あの国道沿いに建設中の巨大ファミリーレストラン「サンライズ」の、開発の最高責任者。

外食産業の夜明けを告げる黒船の、まさに指揮官その人だった。


◆


「サンライズの……開発課長……」

源三の眉がピクリと跳ね上がった。

「あのアメリカかぶれの、バカでかい工場の親玉か。……大手チェーンの偉い役員様が、ウチみたいな小さな下町の店に何の用だ。偵察なら、もう済んだろうが」

源三の敵意に満ちた言葉に対しても、坂上は眉一つ動かさなかった。

坂上は名刺の横に、さらに鞄から取り出した一冊の分厚い革張りのファイルと、数枚の契約書類を静かに広げた。

書類の最上段には、太い文字でこう記されていた。


『初音銀座地区商業用地買収に関する基本合意書』


「単刀直入に本題に入ろう、大山さん」

坂上は眼鏡の位置を直しながら、冷徹なビジネスマンの声を響かせた。

「このキリシマ食堂の土地、および建物……そして、あなたが浅草時代から培ってきたデミグラスソースの完全なレシピを、我が社に売却していただきたい」


「――はァ!?」

源三の怒号が、静かな店内に木霊した。

「店を……売れだと!? 何を寝言言ってやがる!!」

「寝言ではない。極めて合理的で、あなた方にとっても最善の提案だ」

坂上はペンを取り出し、書類の金額欄を指先でトンと叩いた。

「買い取り金額は、現在のこの土地の路線価の二・五倍――千五百万円を一括で現金支給する」


千五百万円。

昭和四十五年における千五百万円。

大卒初任給が四万円の時代において、それは一般のサラリーマンが生涯をかけて稼ぎ出す生涯賃金に匹敵する、途方もない大金だった。

「さらに」

坂上は流れるように条件を付け加えた。

「大山源三さん。あなたには、我が社が埼玉県に新設した巨大集中調理工場(セントラルキッチン)の『最高技術顧問』のポストを用意する。月額給与は十五万円。毎日の重労働からは完全に解放され、週に二日、工場のライン長たちにソースの味付けの監修と火加減の指導をしていただくだけでいい。生涯の身分と年金は、我が社が完全に保証する」

「…………!」

源三の呼吸が止まった。

六十五歳になる老職人にとって、それは夢のような、いや、毒入りの林檎のような甘美な条件だった。重いフライパンを振ることも、夏の熱気に耐えることもなく、破格の報酬と安泰な老後が約束される。


だが、坂上の視線は、源三から――その隣に立つ桐島結衣へと、ゆっくりとスライドした。

「そして……桐島結衣さん」

「……私、ですか?」

結衣が身構えると、坂上の細い瞳の奥に、本物のビジネスパーソンだけが放つ、ギラリとした貪欲な光が灯った。

「私が今日ここへ足を運んだ最大の目的は、実は大山さんのレシピではない。……あなただ、桐島さん」

「なっ……!?」

「調べさせてもらったよ」

坂上は手元のファイルをめくった。

「先月からこの店で起きている、不可解なまでの急成長。メニューのABC分析による食材ロスの削減、動線最適化による提供スピードの倍増、近隣の喫茶店との回遊動線構築、そして、保健所の抜き打ち検査を完璧に返り討ちにしたというHACCPに類似した高度な衛生管理基準……」

坂上の口から、昭和四十五年の人間が決して知り得ないはずの現代の概念が、次々と紡ぎ出されていく。

「これらを設計したのが、田舎から出てきたばかりの大山さんの姪――あなただと聞いた時、私は耳を疑った。……だが、今日この店の動線と、店頭の黒板POPの視線誘導の計算を見て確信した。あなたには、我が社のチェーンストア理論を遥かに先取りした、恐るべきマーケティングとデザインの才能がある」

坂上は一枚の辞令書のような書類を、結衣の前へと差し出した。

「我が社はこれから、関東一円に五十店舗、五年以内に全国三百店舗のファミリーレストランを展開する。その全店舗の店舗デザイン、販促企画、および動線設計を一括して統括する『チェーン開発本部・企画デザイン室チーフ』の席を用意した。初任給は月給十万円。社宅も、専用の秘書も提供する。……君のその才能を、こんな下町の薄暗い吹き溜まりで腐らせておくのは、国家的な損失だ」


月給十万円。

大卒男子の二・五倍。若い女性の給与としては、当時の日本において異例中の異例、破格のエリート待遇だった。

源三が息を呑み、呆然と結衣の横顔を見つめた。


「どうかな、桐島さん」

坂上は背もたれにゆったりと身体を預け、冷徹な笑みを浮かべた。

「悪い話ではないはずだ。大山さんは名誉ある引退と莫大な資産を手に入れ、君は日本の最先端の外食産業の頂点で、その才能を存分に発揮できる。……この初音銀座の土地は、我が社の従業員寮およびサテライト配送拠点として有効に活用させてもらう」

「……断ったら、どうなりますか」

結衣が静かに問いかけると、坂上の眼鏡の奥の光が、スッと冷え切った。


「断る理由が、どこにあるかね?」

坂上の声は、氷のように冷たく、客観的な事実だけを淡々と紡ぎ出した。

「君なら、私の持っている数字の意味が分かるはずだ。……我が社がオープンさせるサンライズ一号店は、客席数百二十席、駐車場五十台。セントラルキッチンによるバイイングパワーで、ハンバーグをライス付き百二十円、エビフライを百五十円で提供する」

坂上は手帳を開き、数値を読み上げた。

「現在、この初音銀座商店街の一日あたりの総歩行者数は約三千人。そのうち、飲食店を利用する胃袋のパイは、昼と夜を合わせても千食に満たない。……我が社の一店舗だけで、一日平均千五百食を捌く計画だ。初音銀座のパイを、一店舗で丸ごと呑み込んでお釣りが来る」

「…………っ!」

「車社会(モータリゼーション)の波は、誰にも止められない。家族連れは週末、冷房の効いた清潔なソファー席で、子供におもちゃを与えながら、百二十円のハンバーグを食べるようになる。……わざわざ舗装もされていないドブ臭い路地裏を歩き、油煙の立ち込める丸椅子に座って、二百三十円のオムライスを食べる客が、一体何人残ると思うかね?」

坂上の言葉は、刃物のように鋭く、残酷だった。

「一年だ。我が社がオープンしてから一年以内に、初音銀座商店街の飲食店の売上は最低でも四十パーセント落ち込む。二年で半分、五年で後継者のいない店から順番に潰れていく。……これは競争ではない。『淘汰』だ。個人商店の情緒や人情などという生ぬるい感傷は、巨大な産業資本の効率の前に、ただ押し流される運命にあるのだよ」


静まり返る店内。

古びた扇風機のカタカタというプラスチックの軋み音だけが、虚しく響いていた。

坂上の言っていることは、脅しではなかった。

令和の未来からやってきた結衣は、知っているのだ。

これから日本が辿る歴史を。

ファミリーレストランと大型スーパーマーケットが地方や郊外を席巻し、かつて人情で結ばれていた駅前商店街が、次々とシャッター通りへと衰退していった、あの抗いがたい産業革命の必然を。

坂上浩二という男は、悪人ではない。

彼は彼自身の信じる「正義」――すなわち、安くて、清潔で、均一な豊かな食事を、日本中の大衆にあまねく届けるという「近代化の使命」に殉じている、極めて有能なビジネスマンなのだ。

だからこそ――その言葉には、一切の迷いも、揺らぎもなかった。


「……下町の店は、いずれ時代の波に淘汰される」

坂上は書類を指先でトントンと叩いた。

「賢い選択をしなさい、大山さん、桐島さん。……時代の敗者として路頭に迷うか、それとも勝者の船に乗り、豊かさを手に入れるか。答えは明白なはずだ」


沈黙が、重く、重く店内に垂れ込めた。

源三は、拳をテーブルについたまま、震えていた。

千五百万円の現金。月給十五万円の顧問料。

そして、結衣への輝かしい未来のポスト。

自分が意地を張り続ければ、結衣の才能を潰し、やがて来る大手の波に呑まれて店を潰してしまうのではないか。

浅草の悪夢が、老職人の背中を冷たく締め上げていた。

「……俺は……」

源三の唇から、掠れた声が漏れかけた、その刹那――。


スッ――。


結衣の華奢な手が、テーブルの上の契約書類の上に重なった。

そして。

迷いのない、力強い動きで――その書類を、坂上の胸元へと真っ直ぐに押し返した。


「……桐島さん?」

坂上が眉をひそめる。

結衣はゆっくりと、背筋を伸ばして立ち上がった。

割烹着の上に重ねた純白のエプロン。

その佇まいは、下町の食堂の娘でありながら、大企業の重役と対峙しても一歩も引かない、気高き「女帝」の威厳に満ちていた。


「坂上さん」

結衣の声は、驚くほど静かで、そして凛として澄み切っていた。

「素晴らしいご提案を、ありがとうございます。……おっしゃる通り、あなたの描くチェーンストアの論理は完璧です。数字にも、市場予測にも、何一つ狂いはありません」

「ならば――」

「ですが、お断りいたします」

キッパリとした、拒絶の宣告。

坂上の眼鏡の奥の瞳が、ピクリと険しさを帯びた。

「……なぜだ。私の提示した金額が不服かね? それとも、自分の才能を過大評価しているのか」

「いいえ」

結衣は首を横に振った。

「あなたの言う『効率と豊かさ』の正体を、私は知っているからです」

「何……?」

「安くて、清潔で、どこへ行っても同じ味のする料理。冷暖房の効いた空間で、ベルトコンベアのように客を入れ替えていく仕組み。……確かにそれは、貧しかった日本を豊かにする一つの正解かもしれません」

結衣はカウンターの奥、大山源三の節くれだった手を見つめた。

「でもね、坂上さん。……工場で機械が作った百二十円のハンバーグは、腹を満たすことはできても、人の『孤独』を救うことはできません」

「感傷だな」

坂上が冷たく切り捨てる。

「ビジネスに情緒を持ち込むのは、敗者の言い訳だ」

「感傷ではありません。本質です」

結衣は一歩、坂上へと踏み出した。その瞳に、青い炎のような強い光が宿る。

「この店に来るお客さんはね、ただ栄養を補給しに来ているんじゃないんです。

大口の契約を落として泣きそうになっていた商社マンが、一口のカツサンドで生きる気力を取り戻す。

集団就職で上京して、機械の刃を折って震えていた秋田の少年が、故郷の味噌の味で涙を流して親方と絆を結び直す。

雨の中、泥だらけになってやってきた主婦たちが、揚げたてのコロッケ一個で顔を見合わせて笑い合う……。

ここにあるのは、ただの食事じゃありません。『人間の命の交差点』です」

「…………!」

「源さんが何十年もかけて、汗を流し、骨を焼き、手を真っ黒にして守り抜いてきたこの味は……工場で大量生産するための『部品』なんかじゃない! この街の人たちの、明日の命を支えるための、かけがえのない魂そのものなんです!」

結衣の声が、店内に雷鳴のように響き渡った。

源三がハッと顔を上げ、目を見開いて結衣の背中を見つめた。

結衣は坂上の名刺を指先で弾き、冷徹な開発課長の目を真正面から見据えた。


「私たちの店は、あなた方の部品にはなりません。

千五百万円も、企画室チーフの椅子も、すべてお持ち帰りください。

私たちは――この初音銀座の路地裏で、自分たちの足で立ち、自分たちの腕と知恵で、あなた方巨大チェーンを迎え撃ちます」


静寂が、店内の空気をピンと張り詰めた。

坂上浩二は、微動だにせずに結衣を見つめていた。

一秒、二秒、十秒――。

やがて、坂上はゆっくりと息を吐き出し、眼鏡を指先で直した。

その顔から、先ほどの冷笑は消え失せていた。

代わりに浮かんでいたのは、自らの論理を真っ向から否定されたことに対する、深い、底知れない敵意の眼差しだった。


「……愚かな選択だ、桐島結衣」

坂上は立ち上がり、書類を鞄の中へと乱暴に収めた。

「手作業の情緒など、巨大資本の歯車の前には砂粒同然だということを、君は身をもって知ることになる。……我がサンライズのオープンは、十月一日だ」

坂上は鞄を手に取り、冷たく言い放った。

「せいぜい、手作業の限界に足掻くがいい。……時代の濁流に呑まれて溺れる時、今日の選択を骨の髄まで後悔させてあげるよ」


坂上は踵を返すと、一度も振り返ることなく、硬質な靴音を響かせて店を出ていった。

ガラガラ、ピシャリ。

引き戸が閉まり、再び訪れた真夏の静寂。


厨房の中に、激しいセミの声だけが戻ってきた。

結衣は肩で大きく息を吐き、テーブルに両手をついた。

指先が、微かに震えていた。

勝てる保証など、どこにもない。

相手は、時代そのものを味方につけた巨大な怪物なのだ。

その時――。


ドン。

重い、節くれだった大きな手が、結衣の震える肩の上に、力強く置かれた。

「……源さん」

振り返ると、大山源三が立っていた。

その顔には、先ほどまでの迷いも、怯えも、影すら残っていなかった。

浅草の栄光と挫折をくぐり抜け、何万回と火の粉を浴びてきた本物の料理人の、猛々しいまでの闘志が、老職人の双眸に燃え盛っていた。

「……よく言った、結衣」

源三の声は、地鳴りのように低く、太かった。

「ウチの味は、誰の部品にもなりゃしねえ。……資本が何だ、ファミレスが何だ。俺たちの五十年の腕を、舐めんじゃねえぞ」

源三はコンロへ向き直り、フライパンを力強く握りしめた。

「受けて立つぞ、結衣。……あいつらの百二十円のハンバーグなんざ、束になってかかってきても叩き潰してやる。……下町の意地ってもんを、見せてやろうじゃねえかァッ!!」


「……はいっ!!」

結衣は力強く頷いた。

外食産業の夜明け。

昭和四十五年の下町を舞台にした、手作業の職人と巨大資本の全面戦争が、いま、この瞬間から正式に幕を開けたのだ。

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