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第25話:国道沿いのネオンサインと、押し寄せる近代

八月の上旬。

東京の空は、抜けるようなコバルトブルーに染まり、頭上からは容赦のない真夏の陽光が照りつけていた。

千里丘陵で開催されている日本万国博覧会――大阪万博は連日数十万人もの来場者を呑み込み、日本中が「人類の進歩と調和」という熱狂の頂点に酔いしれていた。東京の街もまた、歩行者天国が銀座で初めて実施されて大群衆がアスファルトを闊歩し、街頭のカラーテレビにはアポロ十一号の月面着陸から一年を迎えた特集番組が華々しく映し出されていた。

すべてが新しくなり、すべてが前へ進んでいく、熱に浮かされた昭和四十五年の夏。

墨田区・京成線沿線の初音銀座商店街もまた、前月末にキリシマ食堂が達成した創業以来の最高益と、商店街を巻き込んだ回遊動線の成功によって、かつてないほどの活気を取り戻していた。

八百杉の店先には青々としたスイカやトマトが山積みにされ、純喫茶カトレアの窓からはサイフォン珈琲とデミグラスピザトーストの香ばしい匂いが漂う。町工場の男たちは昼にキリシマのA・Bランチをかき込み、夜には経木に包まれた夜食弁当を片手に納期へ向けて汗を流していた。

結衣の持ち込んだ近代的なマーケティングと、大山源三の浅草仕込みの職人技、そして下町の人情ががっちりと噛み合い、小さな奇跡の城郭が完成したかに見えていた。


――しかし。

時代の巨大な地殻変動は、下町の路地裏の片隅で手に入れたささやかな勝利を、あざ笑うかのように静かに、だが確実にその足元へと迫っていた。


「……はぁっ、はぁっ、結衣さん! 結衣さんはいらっしゃいますか!?」


午後二時過ぎ。

ランチタイムの嵐のような喧騒が去り、客席のテーブルを片付けていたキリシマ食堂の正面引き戸が、激しい音を立てて開け放たれた。

飛び込んできたのは、中堅繊維商社「帝都物産」の営業マン――吉村健一だった。

いつもなら仕立ての良いスーツをきっちりと着こなしているはずの吉村が、今日は上着を腕に抱え、ネクタイを乱暴に緩め、白いワイシャツの胸元を汗でぐっしょりと濡らしていた。

息を激しく切らし、額には髪が張り付き、手には朝刊の日本経済新聞と、見慣れない流通業界の専門紙がぐしゃぐしゃに握りしめられている。

「吉村さん!?」

結衣は布巾を置き、駆け寄った。

「どうしたんですか、そんなに慌てて! お水、すぐにお持ちします!」

「い、いえ、水は後でいいんです!」

吉村は息を整える間も惜しむように、握りしめていた新聞をカウンターの上にバッと広げた。

その指先は、微かに震えていた。

「これ……これを見てください! 今日、本社の経営企画室から回ってきた資料と、今朝の経済新聞の三面記事です!」


結衣の視線が、新聞の紙面へと吸い寄せられた。

そこには、太いゴシック体の見出しが躍っていた。


『外食産業の夜明け――巨大流通資本、郊外型ファミリーレストラン1号店を墨田区郊外に今秋開業』

『米国式セントラルキッチンシステムを初導入 安価と清潔を両立した新時代の大衆食堂「サンライズ」』


「サンライズ……」

結衣の喉から、掠れた呟きが漏れた。

吉村が、脂汗を垂らしながら身を乗り出してくる。

「うちの商社の繊維資材部でも、先週からこの話で持ちきりだったんです。サンライズチェーンのユニフォームを一括受注できないかと営業が動いていて……そこで計画の全貌を知ったのですが、場所が……場所が、ここから目と鼻の先なんです!」

「目と鼻の先……?」

「初音銀座から歩いて十分、あの国道六号線沿いの、広大な製麻工場の跡地です! 今朝から突如として巨大な仮囲いフェンスが張り巡らされ、大規模な突貫工事が始まっています! すでに建屋の鉄骨は組み上がり、内装工事の最終段階に入っているとのことです!」

吉村の言葉に、厨房の奥で寸胴鍋を磨いていた大山源三が、ぴくりと手を止めた。

老職人は眉をひそめ、濡れた手を前掛けで拭いながら、カウンター越しに新聞を覗き込んだ。

「……なんだい、そりゃあ。ふぁみりー……れすとらん? アメリカの食堂か何かか。国道沿いに飯屋ができるのが、そんなに大騒ぎするようなことなのかよ、吉村の兄ちゃん」

「源さん、そんな生易しいものじゃないんです……!」

吉村は苦悶に満ちた表情で首を振った。

「記事を読んでください。『客席数・百二十席』『駐車場・五十台完備』……従業員は四十名体制です! 個人経営の洋食屋とは、規模の桁が二つも三つも違うんです!」

「ひゃ……百二十席だと!?」

源三の目が丸くなった。

キリシマ食堂の客席は、カウンターとテーブルを合わせて二十一席。

その六倍近い巨艦店舗が、目と鼻の先の国道沿いに突如として出現するというのだ。

だが、源三以上にそのニュースの持つ「真の破壊力」を肌で理解していたのは、他ならぬ桐島結衣だった。


(……来たんだ)

結衣の背筋を、冷たい悪寒が駆け抜けた。

昭和四十五年(一九七〇年)。

日本の外食史において、この年はまさに「外食産業元年」と呼ばれる決定的な分岐点だった。

東京・府中市に「すかいらーく」の第一号店が産声を上げ、大阪万博のアメリカ館にはケンタッキーフライドチキンが初上陸し、翌年には銀座の三越一階にマクドナルドの一号店がオープンする。

それまで「外食」といえば、デパートの大食堂で食べるハレの日の贅沢か、近所の蕎麦屋や中華屋で済ませる日常の腹塞ぎしかなかった日本人の生活様式を、根底から覆した巨大な黒船。

マイカーブーム(モータリゼーション)の波に乗り、広大な駐車場を抱え、明るく清潔なガラス張りの店内で、安価で均一な洋食を家族全員に提供する「ファミリーレストラン」。

令和の時代には街の風景として当たり前に溶け込んでいたそのシステムが、いま、この昭和四十五年の下町を最初の標的として、巨大な牙を剥こうとしていた。


「結衣さん……顔色が青いですよ」

吉村が心配そうに覗き込んでくる。

「……吉村さん。その現場、いま見に行くことはできますか?」

「ええ、もちろん案内します。社用車をすぐ近くに停めてありますから」

「私も行きます!」

突然、店の入り口から甲高い声が割り込んできた。

純喫茶カトレアの看板娘、竹中さゆりだった。

赤いミニスカートに大きなサングラスを頭に乗せたさゆりは、アイスコーヒーの伝票を手にキリシマ食堂へ飛び込んできたところだったらしい。

「表で吉村さんの大声が聞こえたわよ! なになに、国道沿いに新しいハイカラなお店ができるの!? 私、すっごく気になる! 結衣さん、連れてって!」

「さゆりちゃん……遊びに行くんじゃないのよ?」

「分かってるわよ! でも、敵を知らなきゃ戦えないんでしょ? 結衣さんがいつも言ってるじゃない!」

さゆりの物怖じしない勢いに押され、結衣はふっと息を吐き出した。

「分かりました。……源さん、少しの間、店を空けます」

「……おう。行ってきな」

源三は煙草をくわえ、新聞の紙面を睨みつけたまま、低く答えた。

「どんなバケモノか知らねえが……しっかりその目で確かめてこい」


◆


吉村の運転する会社のトヨペット・コロナに揺られ、初音銀座の狭い木造長屋の路地を抜ける。

未舗装の砂利道から、片側二車線の巨大な幹線道路――国道六号線へと車輪が乗り入れた瞬間、車窓の風景は劇的に変貌した。

アスファルトから立ち上る猛烈な陽炎の中を、真新しいトヨタ・カローラや日産・サニーといった大衆車が、けたたましい排気音を響かせて疾走している。頭上には巨大な道路標識が掲げられ、下町の古い木造建築の情緒など欠片もない、冷徹なモータリゼーションの動脈がそこにあった。

「……あそこです」

吉村がハンドルを握りながら、前方を指差した。


「うわあ……っ!!」

助手席のさゆりが、思わず身を乗り出して叫んだ。

結衣もまた、フロントガラス越しに広がる光景に息を呑んだ。


広大だった製麻工場の跡地。

その四方を囲んでいた工事用の白い万能鋼板フェンスが、正面入り口の部分だけ大胆に取り払われていた。

敷地面積は、優に千坪を超えているだろう。

まず目に飛び込んできたのは、見渡す限り一面に敷き詰められた、漆黒のアスファルト舗装の駐車場だった。

白ペンキで引かれた駐車枠は、五十台分以上。

下町の路地裏では、車一台が通るのすら困難で、自転車やリヤカーが生活の足だった。その世界からわずか数百メートル離れた場所に、何十台もの自家用車をそのまま迎え入れるための、巨大な「車社会の受け皿」が完成していたのだ。


そして――その広大な黒いアスファルトの海の奥に、燦然とそびえ立っていたもの。


「な……なに、あの建物……!?」

さゆりの声が、驚嘆で裏返っていた。

「まるで……アメリカの映画に出てくる、宇宙基地みたい……!」


それは、昭和四十五年の下町の人間が、それまでの生涯で一度も目にしたことのない「異次元の建築」だった。

木造の柱も、煤けたトタン屋根も、引き戸も、暖簾もそこにはない。

低く横に広がるモダンな平屋建てのシルエット。

外壁は、太陽の光を眩しく跳ね返す純白のサイディングボードと、暖かみのあるオレンジ色のレンガ調タイルで美しく貼り分けられている。

店舗の正面全体は、継ぎ目のほとんど見えない巨大な一枚ガラスが連続する「全面ガラス張り」。

屋根の上には、天を衝くように巨大なポールサインが立ち上がり、その頂点には、朝日を象った鮮烈なシンボルマークとともに、巨大な英文字のネオンサインが誇らしげに掲げられていた。


『Family Restaurant SUNRISE』


「車を停めます」

吉村は駐車場の隅に車を滑り込ませた。

三人は車を降り、アスファルトの照り返しに目を細めながら、吸い寄せられるようにその巨大な店舗へと歩み寄った。


まだ正式なオープン前だというのに、エントランスの自動ドア(当時はまだ極めて珍しかったマットを踏むと開く自動扉)の脇には、すでに完成した店舗の設備が、ガラス越しに余すところなく露出していた。

「……涼しい」

さゆりが自動ドアの隙間から漏れ出てくる空気に触れ、ぽかんと口を開けた。

外は三十三度を超える猛暑。

だというのに、店内の巨大なダクトからは、最新のセントラル空調(冷暖房完備)による、キンキンに冷えた快適な冷気が絶え間なく吐き出されていた。団扇や扇風機で汗を拭いながら熱い飯をすする下町の食堂とは、空気の温度そのものが違っていた。


ガラス越しに覗き込む店内の光景は、さらに圧倒的だった。

天井からは、眩いばかりの蛍光灯の光束と、シャンデリアを模したモダンなペンダントライトが幾重にも吊り下げられ、店内の隅々まで「影」というものが存在しない。薄暗い下町の長屋の空間に慣れた目には、まるで真昼の太陽を室内に閉じ込めたかのように明るかった。

通路は、大人が三人すれ違えるほどに広大で、床には滑りにくい最新のリノリウムタイルがピカピカに磨き上げられている。

そして――客席。

「見て、結衣さん……!」

さゆりがガラスに両手をへばりつけ、震える指で指差した。

「椅子が……全部、ソファーになってるわ! 丸椅子じゃないのよ!?」

店内に整然と並んでいたのは、鮮やかなマスタードイエローとダークブラウンのビニールレザーで作られた、フカフカの「ボックス席(ブースシート)」だった。

高い背もたれが隣の席との視線を適度に遮り、家族四人がゆったりと座れる広々としたテーブル。

木製の丸椅子にぎゅうぎゅう詰めで座り、肘をぶつけ合いながら早飯をかき込む下町の食堂とは根本的に異なる、「プライベートな団らんの空間」が、そこには百二十席分も用意されていたのだ。


さらに、店内ではオープンに向けた従業員の最終研修が行われていた。

通路を小走りに、だが姿勢正しく行き交う十数名の若い女性たち。

彼女たちが身にまとっていたのは、下町の割烹着でも、油染みのついた前掛けでもなかった。

清潔な純白のブラウスに、小さな蝶ネクタイ。

腰には鮮やかなオレンジ色のショートエプロンをきりりと巻き、頭にはお揃いの小さなナースキャップ風のヘッドドレス。

「いらっしゃいませ、サンライズへようこそ!」

「ご注文を繰り返させていただきます!」

マニュアル通りに美しく揃えられたお辞儀と、統一されたワントーン高い明るい声。

下町の店主たちの「へい毎度!」「何にするんだい!」という泥臭いべらんめえ口調とは対極にある、徹底的に訓練された「システマチックな歓待(サービス)」。


「すごい……」

さゆりの口から、ため息が漏れた。

「可愛い……あのお洋服、すっごく可愛いわ! それに、あのソファー席……私だって、あそこに座ってのんびりパフェでも食べたいって思っちゃう……」

流行に敏感な十九歳の少女の瞳に宿ったのは、恐怖ではなく、純粋な「憧れ」だった。

それこそが、ファミレスという怪物が持つ、もっとも恐ろしい魔力だった。

古びた下町の因習や、油煙の立ち込める薄暗い長屋の生活に息苦しさを感じていた若い世代にとって、この明るく、清潔で、アメリカの豊かな消費文化をそのまま切り取ってきたような空間は、抗うことのできない「未来そのもの」に見えてしまうのだ。


「……吉村さん」

結衣は押し殺した声で呼んだ。

「メニュー表は……どこですか」

「あちらです。エントランスの風除室のガラスに、巨大な予告ポスターが貼り出されています」


三人はエントランスの正面へと回り込んだ。

そこに掲示されていたのは、縦一メートル、横二メートルを超える、巨大なカラー印刷のメニュー表だった。

昭和四十五年の当時、カラー写真印刷をこれほど巨大に、しかも美しく発色させたメニューなど、銀座の一流デパートの特設会場でも滅多にお目にかかれない代物だった。

艶やかな光沢紙の上で、湯気を立ち上らせる料理の数々が、鮮烈な色彩で微笑みかけていた。


その文字と数字を目にした瞬間。

結衣の心臓が、ドクンと冷たい音を立てて跳ねた。


『サンライズ名物・手ごね風デミグラスハンバーグステーキ(ライス付き)――百二十円』

『洋食の王道・大海老フライ盛り合わせ(タルタルソース添え)――百五十円』

『クリーミー・チキンマカロニグラタン――百円』

『特製ビーフカレー――九十円』

『アメリカン・ポークチョップステーキ――百六十円』

『サンライズ特製・おもちゃ付きお子様ランチ(新幹線プレート)――百円』


「なっ…………!?」

吉村が絶句した。

「ひゃ……百二十円……!? ハンバーグが、ライス付きで百二十円だと……!?」

さゆりも目を丸くし、ポスターと自分の財布を交互に見つめた。

「嘘でしょ……!? うちのカトレアの珈琲が一杯八十円よ!? 珈琲に四十円足すだけで、あんな大きなハンバーグとご飯が食べられちゃうの!?」


価格の破壊。

それは、結衣の想像すら超える、凶悪なまでの安さだった。

昭和四十五年の東京下町における物価感覚。

ラーメンや立ち食い蕎麦が一杯百円。

大衆食堂の定食が百五十円から百八十円。

そして、キリシマ食堂のような本格的な洋食屋で出すハンバーグやカツレツ、オムライスは、手間暇をかけた「ご馳走価格」として、二百円から二百五十円が妥当な相場だった。

それを――。

この清潔で、冷房が効いていて、ソファー席に座れるピカピカのアメリカンレストランが、街の蕎麦屋とほとんど変わらない「百二十円」という破壊的な価格で叩きつけてきたのだ。

しかも、写真に写るハンバーグは、ふっくらと厚みがあり、艶やかなデミグラスソースがたっぷりとかけられている。

海老フライに至っては、大きなエビが三本も皿に乗り、自家製風のタルタルソースまで添えられて百五十円。キリシマ食堂で同じものを手作りしようとすれば、海老の仕入れ原価だけで百二十円は吹き飛ぶ。


「ど、どうやって……」

吉村が蒼白な顔で呟いた。

「どうやってこんな価格を実現しているんだ……!? 個人店がこんな値段で肉やエビを出したら、一週間で倒産するぞ……!」

「……セントラルキッチンよ」

結衣の声は、氷のように冷たく引き締まっていた。

「セントラルキッチン……?」

「そう。記事に書いてあったでしょう」

結衣はポスターの下部に小さく印刷された誇らしげな解説文を指差した。


『埼玉県内に敷地五千坪の最新集中調理工場(セントラルキッチン)を新設。

一日あたり十万食のハンバーグとソースを一括生産し、専用の保冷トラックで各店舗へ毎日チルド配送』


「……大量生産と、大量購買(バイイングパワー)の暴力よ」

結衣は唇を強く噛み締めた。

「個人店が牛肉や豚肉を仕入れる時は、キロ単位……せいぜい数十キロ単位で肉屋と交渉するわ。でも、彼らは違う。オーストラリアやアメリカの広大な牧場から、コンテナ単位、船一隻単位で肉を一括買い付けしているのよ。仕入れ単価は、個人店の三分の一……下手をすれば四分の一以下に抑え込める」

「そ、そんな規模で……!?」

吉村が息を呑む。

「それだけじゃないわ」

結衣の脳裏には、令和の外食チェーンのオペレーションシステムが鮮明に蘇っていた。

「野菜を刻むのも、肉を捏ねるのも、ソースを何十時間も煮込むのも……すべて郊外の巨大な集中工場で、大型の機械が自動で行うの。店舗の厨房には、源さんのような熟練の職人は一人も必要ない。届いたパティとソースを、アルバイトの高校生がタイマー付きの鉄板で時間通りに焼き、温めて皿に乗せるだけ。……仕込みの手間も、人件費も、調理の失敗によるロスも、極限までゼロに削ぎ落とされているのよ」

「そんなの……」

さゆりが怯えたように結衣の袖を掴んだ。

「そんなの、絶対に勝てないじゃない……! こんなに綺麗で、涼しくて、ソファーに座れて、しかもキリシマ食堂の半値でハンバーグが食べられるなんて……! 誰だって、こっちに来ちゃうわよ……!」


さゆりの悲痛な叫びは、残酷なまでの真実を突いていた。

昭和四十五年の生活者にとって、「安さ」と「清潔」と「豊かさの象徴」が同時に手に入る空間。

それが、どれほどの抗いがたい引力を持つか。

車を持った若い父親が、日曜日の昼に子供の手を引いて向かう場所は、煙草の煙が立ち込め、頑固親父が腕組みをして睨みを利かせる下町の路地裏食堂か。

それとも、広い駐車場に車を滑り込ませ、冷房の効いたソファー席で、おもちゃ付きの新幹線プレートに子供が歓声を上げる、ピカピカのファミリーレストランか。

答えるまでもなかった。

歴史は、すでにその結末を知っている。

この後、一九七〇年代から八〇年代にかけて、日本の津々浦々の駅前商店街や下町の個人飲食店は、国道沿いに雨後の筍のように乱立した大手ファミレスチェーンの圧倒的な資本力と利便性の前に、なす術もなく客を奪われ、次々とシャッターを下ろしていくことになるのだ。


(これが……外食産業の夜明け……)

結衣の全身を、冷たい戦慄が支配していた。

自分が令和で培ったマーケティングの知恵。

動線の最適化、手書きPOP、規格外野菜の活用、テイクアウト弁当……。

それらは確かに、下町の個人店の経営を救うための強力な武器だった。

だが――いま目の前に立ちはだかっているのは、個人の努力や工夫の次元を遥かに超越した、「産業構造の革命」そのものだった。

蒸気機関車がディーゼル車に取って代わられたように。

手織りの機織り機が自動織機に駆逐されたように。

巨大な近代化の濁流が、昭和の下町コミュニティを、キリシマ食堂を、丸ごと呑み込もうと口を開けていた。


「……帰りましょう」

結衣は静かに言った。

「商店街へ……キリシマ食堂へ戻りましょう」


◆


車が初音銀座商店街の入り口へと滑り込んだ瞬間、結衣たちは異様な空気に包まれた。

普段なら、午後三時のこの時間帯は、長屋の軒先で主婦たちが井戸端会議をし、子どもたちが路地を駆け回る穏やかな時間が流れているはずだった。

だが――いま、商店街の中央、八百杉の店先から集会所にかけての通りには、数十人もの商店主たちが集まり、騒然とした人だかりを作っていた。


「おい、本当なのかよ! 国道沿いにできるあのデカい店、ハンバーグを百二十円で出すってのは!」

「百二十円だァ!? うちのラーメンが百円だぞ! 二十円足しただけでアメリカの洋食が食えるってのか!?」

「それだけじゃねえ! 席が百席以上あって、車が五十台も停められるらしいぞ!」

「車で行って飯食うだと!? そんなことされたら、わざわざうちの商店街まで歩いて買い物に来る客なんて、一人もいなくなっちまうじゃねえか!!」


怒号と、悲鳴と、底知れない恐怖。

中華料理「宝来軒」の金造が脂ぎった顔を青ざめさせて喚き散らし、蕎麦屋「やぶ忠」の忠吉が震える手で煙草をくわえ損ねていた。

先日までキリシマ食堂を「余所者の小細工」と見下し、陰湿な嫌がらせを仕掛けていた古参の店主たちが、いまや自分たちの存在そのものを根底から消し去りかねない巨大な怪物の出現に、完全に恐慌(パニック)状態に陥っていた。

「みんな、落ち着いてくれ!」

人垣の中央で、八百杉の杉本勇が声を張り上げていた。

藍色の前掛けを締め、太い腕を広げて店主たちを押し留めようとしているが、その勇の顔にも隠しきれない焦燥が滲んでいた。

「まだオープンしたわけじゃねえ! 大手のチェーンが何をやってこようと、俺たちがしっかり結束して、安くて美味いもんを届け続ければ負けはしねえはずだ!」

「何が結束だ、勇ちゃん!」

金造が唾を飛ばして食ってかかった。

「相手は資本金何億の大会社だぞ! テレビで宣伝して、ピカピカの看板出して、駐車場まで作られてみろ! 若い家族連れや工場の若い衆が、あんな泥臭い路地裏の店になんか残ってくれるわけがねえだろうが! おしまいだ……この商店街は、あの大手に丸ごと呑み込まれて全滅するんだよ!!」

「金造ッ、てめえ縁起でもねえこと言ってんじゃねえ!!」

怒号が飛び交い、今にも殴り合いが始まりそうな険悪な空気。

トミが割烹着の胸元をぎゅっと握りしめて立ち尽くし、寺岡堂の寺岡雅之が、銀縁眼鏡を曇らせながら重い表情で帳簿を抱え込んでいた。


その混乱の渦から、十間ほど離れた場所。

キリシマ食堂の軒下。

大山源三が、一人きりで立ち尽くしていた。

藍色の暖簾の脇に寄りかかり、腕組みをしたまま、くわえ煙草の先から細く立ち上る紫煙を目で追っている。

その視線は、騒ぎ立てる商店街の仲間たちを見ているのではなかった。

遥か西――国道六号線の方角。

夕暮れの空に白く浮かび上がる、あの巨大なアメリカンレストランの看板がそびえる空を、じっと、微動だにせずに見据えていた。


「……源さん」

結衣が駆け寄り、そっと声をかけた。

源三は煙草をもみ消さず、ゆっくりと視線を結衣へと落とした。

その双眸には、いつもの頑固親父の怒気はなかった。

深く、暗く、底知れない痛みを湛えた、老いた料理人の瞳。

「……見てきたか、結衣」

低く、地を這うような掠れた声。

「……はい」

「どうだった」

「……広くて、明るくて、清潔で……冷房が効いていて。そして、信じられないくらい……安かったです」

結衣は嘘をつかなかった。誤魔化すことなど、何の意味もないことを知っていたからだ。

「ハンバーグが、ライス付きで百二十円。……エビフライが、百五十円でした」


「…………」

源三の奥歯が、ギリリと音を立てて噛み合わされた。

老職人の太い肩が、一瞬だけ、小さく揺れた。

「百二十円、か」

源三は空を見上げ、自嘲するように乾いた笑いを漏らした。

「……浅草の時と、同じだな」

「え……?」

「戦後すぐ、浅草で大きな洋食店をやろうとした時もよ……焼け野原に突如として進駐軍のジープが走り回って、キャバレーや大資本のビルのネオンが灯って……俺たちみたいな手作業の職人は、あっという間に時代の波に押し流されちまった」

源三の指先が、微かに震えていた。

煙草の火が、夕暮れの影の中で赤く小さく明滅する。

「時代ってのは……いつだって残酷だな。いくら丁寧に肉を叩いたって、いくら骨を焼いてソースを煮詰めたって……資本の力でベルトコンベアに乗っけられたら、ひとたまりもねえ」

「源さん……!」

「俺たちみたいな古い人間は……また、押し流されるのかねえ、結衣」


老職人の背中に漂う、深い諦念と過去の傷。

浅草で一度敗れ、逃げるようにこの下町へ流れ着いてきた男が、再び目の前に現れた「近代という名の巨大な怪物」に、心を折られかけていた。

だが――。

その丸まった背中を見つめた瞬間、桐島結衣の胸の奥底で、何かが激しい音を立てて弾け飛んだ。


(押し流されてたまるか……!)

結衣の両手が、爪が食い込むほどに固く握りしめられた。

令和の冷え切ったオフィスで、替えの利く部品として使い捨てられ、一度は死にかけた自分。

その自分を拾い、温かい白飯と豚汁で命を繋ぎ止め、「お前はウチの本当の孫だ」と涙を流して認めてくれた、この頑固親父の誇りを。

泥臭く、不器用で、けれど誰よりも温かいこの下町の居場所を。

資本の論理なんかに、効率化の波なんかに、易々と踏み荒らされてたまるものか。


「押し流させません」

結衣の声は、夕暮れの商店街の喧騒を切り裂くように、凛として、鋭く響き渡った。

源三が驚いたように振り返る。

結衣は一歩、前に踏み出した。

夕焼けの残光を全身に浴びて立つその姿は、もはや迷い子の娘ではなかった。

下町の胃袋を守り、時代そのものと対峙することを誓った、真の「女帝」の瞳が、青い炎を宿して燃え上がっていた。


「源さん。あなたの守ってきた味は、時代遅れなんかじゃありません」

結衣は夕闇の迫る国道の方角を、真っ直ぐに見据えた。

「安さと効率だけで、人の心は買えません。……未来の知恵を使って、今度こそこの店を……あなたの誇りを、絶対に守ってみせます」


遠く、国道沿いの空に、巨大なネオンサインの明かりがバチバチと音を立てて点灯した。

オレンジと白の冷徹な光が、昭和の夕空を侵食していく。

外食産業の夜明け。

下町の小さな洋食屋「キリシマ食堂」と、巨大チェーンストア「サンライズ」の、生き残りを賭けた壮絶な戦争の幕が、いま切って落とされようとしていた。

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